「あるあるネタ」という言葉が使われるようになったのはわりと最近のことのように思える。80年代の漫才ブームの頃にはまだこの言葉はなかったと思う。その頃の漫才ネタでも、いわゆる「あるあるネタ」というのはそんなになかったと思う。
1988年に嘉門達夫が出した「小市民」という曲は、明らかに今で言う「あるあるネタ」に属する。
テツandトモの「なんでだろ〜」のネタは2003年の流行語大賞にもなっている。レギュラーのあるある探検隊はその翌年にブレイク。いつもここからの「悲しい時ー」のネタはそれよりはかなり早い。「あるあるネタ」という言葉が一般に広く認知されるようになったのもこの頃だろう。
とはいえあるあるネタという名前こそないけど、この種のネタは日本のお笑いの伝統の中で様々な形であらわれてきた。
蕉門の俳書『去来抄』にはこうある。
牡年(ぼねん)曰、発句の善悪はいかに。去来曰、発句は人の尤(もっとも)と感ずるがよし。さも有るべしといふは其次也。さも有るべきやといふは又其次也。さはあらじといふは下也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,77)
これは蕉門の行き着いた笑いの世界が、今日で言う「あるあるネタ」に極めて近いことを示している。
応々(おうおう)といへどたたくや雪のかど 去来
の句なども、寒いときは「おうおう」と生返事するばかりでなかなか門を開けないという日常のありがちなことを句にしたもので、芭蕉の去った年の冬の句、門人の間で評価の分かれた句だという。
この種のあるあるネタは、蕉門が確立された頃からつけ句の方では普通に見られる。
『冬の日』の「狂句こがらしの巻」は虚栗調を脱して蕉風を確立した記念碑的な一巻とわれていて、そこでの芭蕉の最初のつけ句は、
わがいほは鷺にやどかすあたりにて
髪はやすまをしのぶ身のほど 芭蕉
だった。「鷺に宿貸す」はいかにも隠士の風情をわざとらしく大げさにいった感じがして、虚栗調の影響が見られるが、芭蕉はそれに髪が生えるまで坊主のふりをしている偽坊主を付ける。何か不始末でもしでかして、一時的に坊主になって反省した振りをしてるというわけだ。当時としては、「いるんだよなー、こういうの」といったところだっただろう。
抱き込んで松山広き有明に
あふ人ごとの魚くさきなり 芭蕉
の句なども、海辺の猟師町の明け方にはいかにもありそうなことだ。
あまのやハ小海老にまじるいとど哉 芭蕉
の発句は、今で言えば、♪海人の屋あるある言いたーい、海人の屋あるある言いたーい、‥‥‥小海老にいとどが混じってるー、といったところか。
「あるあるネタ」も実際にあったことを言っているから一種の写生なのだが、近代俳句や近代短歌の写生説がもっぱら作者個人の体験を伝えるのに対し、「あるあるネタ」は多くの人の共通体験であることを想定して提示する。そのため写生に比べて多くの人の共感を得やすくなるし、写生説で成功した句というのは少なからず「あるある」の要素があるのではないかと思う。
芭蕉の有名な、
古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
の句も、当時使われなくなった用水池や廃墟となった屋敷の池など、古池は珍しくなく、春になるとそこに飛び込む水の音を聞くことは珍しいことではなかったに違いない。この句は単なる「あるある」を越えて当時の多くの人の「原風景」の域にまで達していたのではないかと思う。
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