2016年9月17日土曜日

 昨日はあのあと10時ごろに空を見たら月が見えていた。雲間の月というのか、薄い雲がつきに照らし出され、月を隠すことなく流れていた。
 こういうときに思い浮かぶのは古典ではなく、中学の頃よく唄っていた井上揚水の「神無月にかこまれて」の「♪雲は月を隠さぬ様にやさしく流れ」のフレーズだったりする。古典では雲間の月を描写するのではなく、月を真如の月に見立て、雲を煩悩に例えることが多いように思える。
 それとは別に、中世のいわゆる幽玄の美というのは、物をあらわに描くのではなく、一部を提示して想像させるということを良しとする。水盤に散らした一枚の花びらに満開の花を想像させるようなのがそれで、月も雲の間からチラッと見えるのを良しとする。

 敷島の大和心はチラリズム   会田誠

ではないが、こういうものは日本人の今の美意識にも深く根ざしている。
 いわゆる「萌え」というのも、性的な魅力をあからさまに表現するのではなく、かすかな兆しに求める所から来るもので、満開の花よりも一、二輪咲き始めの花を良しとするように、幼い子どもにもその萌芽を見たり、豊かなボディーはスク水で隠し、美人にはあえてダサいメガネをかけさせたりする。
 『禅鳳雑談』の村田珠光の言葉、「月も雲間のなきは嫌にて候」というのも、そういうものなのかもしれない。ただ、絵に描くときは月だけボンと書くのは何か寂しいし、やはり空に雲をたなびかせたり、枝に一部を遮られたり、薄の合い間に見えたりするほうが絵になる。月を引き立てる「あしらい」が必要だ。
 『正徹物語』には、

 「花はさかりに月はくまなきをのみみるものかはと、兼好が書たるやるなるこころねをもちたるものは、世間にただ一人ならではなき也。此こころは生得にて有也。」

とあり、この種の美学は別に吉田兼好が考えただとか、日本独自の幽玄の美などではなく、人類普遍のものと見たほうがいいのかもしれない。正岡子規が古池の句を論じる時に引用したスペンサーのマイナーイメージというのも、これに類するものだろう。

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