昨日の日記は12時を過ぎてしまったために今日の日付になっている。
それはともかく、今日のテーマは、
名月をとってくれろと泣く子かな 一茶
子供の頃学校で習った記憶のある句で、一茶の句のいいところは子どもにもわかりやすいという所かもしれない。
ただ、実の所これまで一茶については何も調べてこなかったんで、この句がいつ頃どういう状況で読まれたかはまったく知らない。ウィキペディアでわかったことは、これが『おらが春』に収められたもので、
「『おらが春』(- はる)は、俳人小林一茶の俳諧俳文集で、彼が北信濃の柏原(長野県上水内郡信濃町柏原)で過ごした1819年(文政2年)、一茶57歳の一年間の折々の出来事に寄せて読んだ俳句・俳文を、没後25年になる1852年(嘉永5年)に白井一之(いっし)が、自家本として刊行したものである。」
とウィキペディアに書かれている。
この句と良く似ているものに、仙厓義梵の『指月布袋図』の賛で、
あの月が落ちたら誰にやろふかひ
という句がある。
絵は布袋さんが二人の子どもを引き連れて、斜め上の方を指差す構図で、同じような絵柄で「お月様幾つ、十三、七つ」という賛の書かれたものがあり、むしろこっちの方が有名だ。小林一茶は宝暦13年(1763年)生まれの文政10年(1828年)没。仙厓は寛延3年(1750年)4月生まれの天保8年(1837年)没。仙厓の方がやや先輩だが、仙厓の方が長生きしていて、ほぼ同時代を生きたといってもいい。相互に影響があったかどうかは不明。
果たして本当に名月を取ってくれといって泣いた子どもがどれだけいるのかは知らない。あまり聞いたことがないからいわゆる「あるあるネタ」ではなさそうだ。
赤ちゃんの距離の認識は10ヶ月から11ヶ月くらいでできるようになるらしいが、完成するのが6歳から9歳というから、ひょっとしたら月の距離感がわからずに手を伸ばせば届く所にあると思う時期もあるのかもしれないが、自分自身振り返ってもあまり記憶がない。
月は一般的にはむしろ手の届かないものの例えとされることが多い。東アジアの伝統絵画では『猿猴捉月』という画題があり、この題でたくさんの絵が描かれている。いわば定番ともいえる画題だ。多くは水面に手を伸ばし、水に映る月を捉えようとするものだ。日光東照宮の有名な三猿のところにも、月を見上げる猿と月を取ろうとする猿が彫られている。
この画題は一般的には身の程を知れという教訓の意味に解されているが、身の程というと古代ギリシャのデルポイのアポロン神殿の入口に刻まれた格言も思い起こされるが、この言葉は単なる処世訓を越えて、人間の能力の限界を知れという意味にもなる。
月は仏者の間ではしばしば真如の月として万物のあるがままの真理、古代ギリシャで言えばアレーテイアに近い永遠の真理の省庁として用いられる。
人間は永遠の真理に見せられ、様々な思索や修行や瞑想を行うが、それはいつでも見果てぬ夢に終わる。
また、人は様々な高遠な理想を語り、この世界を平和で豊かな理想郷にしようと試みるが、未だにそれは実現を見ない。(現代の先進諸国は昔に比べればかなりそれに近づいてはいるが。)
真理を体得したと思っても、それを言葉に表すと、言葉や論理は必ず矛盾に陥る。ある主張があれば必ず反対の主張も可能であるというのは、古代ギリシャの時代に既に知られていたことで、そこから今の原告被告それぞれの弁論を行うという裁判のスタイルが生まれたとも言われる。
理性が矛盾に陥ることは西洋哲学の歴史ではカントによって再発見され、それを弁証法によって乗り越えようとヘーゲルは試みるが、絶対知はあくまで沈黙を続ける。そしてフッサールが現象学によって再びこの問題に挑んだものの、「厳密な学としての哲学」は失敗に終わり、のちにデリダがそれを『幾何学の起源』の中で太陽に向かって飛び立ったイカロスに例えている。昔の日本人だったら月を捉えようとした猿に例えるだろう。
人間の永遠の理想、永遠の憧れは、東洋では月、西洋では太陽の違いはあるにしても、その満たされない思いは万国共通だ。韓国ではこれを「恨(ハン)」という言葉で表す。決して単なる恨みつらみのことではなく、永遠の夢への満たされなかった思いが心の底に雪のように積もっていくさまを表す。
そう考えてみると、
名月をとってくれろと泣く子かな 一茶
の句は意外と深い。多分これは一茶自身の泣き声だったのだろう。
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