2023年10月29日日曜日

  鈴呂屋書庫の方は「奥の細道─道祖神の旅─」に続いて、「笈の小文─風来の旅─」も少しづつ直している。それと、X奥の細道のほうも「呟き 奥の細道」というタイトルで手直ししてアップしている。
 また、「現代語訳奥の細道」の方は、前書きにも書いておいたが、ルビの方を読むと原文が読めるように作られている。
 しばらくは何か新しいものを読むというより、今まだ書いたもので古いものは二十年以上も経過していて、今読むと恥ずかしいし、間違ってたなと思う部分も多いので、書き直しの方に専念しようかと思う。
 今までは水戸偕楽園の好文亭の画像を特に意味もなく使ってたが、丹沢の麓に居を移したということで丹沢の写真に変えたのと、あとトップの画面の二匹の猫も、九月二十五日に鈴呂屋の名前のもとになったすずちゃんが亡くなり、その情報を記すとともに、最近庭に来る二匹の猫(ふさちゃんとまるちゃん)の画像も追加した。
 ゆきちゃんの治世が二十年続き、すずちゃんの代も十八年、今はふさまるの時代となった。鈴呂屋の名前は今のところ変える予定はない。

   すずちゃんは綱島で生れ、横浜で十七年、
   秦野で一年ともに暮らした猫で、令和五
   年の九月二十五日午前六時三十二分、眠
   りに落ちるが如く安らかに旅立っていっ
   た。
 目開けたまま猫の仕事をはじめけり

2023年10月19日木曜日

 芭蕉が大垣に帰ってしばらくすると、越人と曾良が同じ九月三日にやってくる。芭蕉はその時如行の家に滞在中で、路通も敦賀からずっと一緒にいる。その日は越人と曾良には会わず、その夜芭蕉は不知(俳号なのか、名前がわからなくこう記したかはよくわからない)の餞別興行に参加する。
 翌九月四日。この日も芭蕉と路通は大垣藩の家老次席の戸田権太夫(如水)に呼ばれて、

 こもり居て木の実草のみひろはゞや  芭蕉
   御影たづねん松の戸の月     如水
 思ひ立旅の衣をうちたてて      如行
   水さはさはと舟の行跡      伴柳
 ね所をさそふ烏はにくからず     路通
   峠の鐘をつたふこがらし     誾如

 それぞれにわけつくされし庭の秋   路通
   ために打たる水のひややか    如水
 池の蟹月待ッ岩にはい出て      芭蕉

の句を興行する。
 そしてその夜左柳亭での興行で曾良と越人は再会する。
 翌九月五日。如行の家に路通とともに戻った芭蕉は、六日に伊勢へ向かうということで如水から南蛮酒一樽と紙子を餞別に貰う。南蛮酒はおそらく焼酎に薬草を入れたあらき酒であろう。延宝の頃の興行の付け句にも詠まれている。
 おそらく、この時はたまたま如行の弟子の竹戸がいて、新しい紙子が来たので要らなくなった古い紙衾を処分しようと思い、竹戸が欲しがったので与えたのではないかと思う。
 芭蕉も機嫌よく、紙衾の記を書く。そのあと越人がやってきて、悔しがったのではないかと思う。竹戸もそれにこたえて、

   題衾四季   竹戸
 花の陰昼寐して見む敷衾
 むしぼしのはれにかざらむ衾かな
 ながき夜のねざめうれしや敷衾
 首出して初雪見ばや此ふすま

を書き記す。
 如行もまた、

 「はせを師翁回国恙もなく我郷大垣にむかへ、とりて枕瀬の水を汲みて草鞋を解かしむ。ある夜油単の内より紙の衾を取り出でて、我門人竹戸といふものに得させたるなり。沙門ならば是を禅定の衾とせん。勇士はこれを母衣ぎぬに替へん。敢汝そこなふ事なかれ。身を終るまて愛して棺の中に敷けとぞに云。
          如行
 ものうさよいづくの泥ぞ此ふすま」

と記す。
 ならばと、路通も、

 「いろ香を先とするものは見る事華やかにして、さめてのち愛をうしなふ。その匠の業こまやかなるものは用る事あやうく、破れて後憂れふ。皆路によるもののとらざる処なり。此紙の衾ひとつハみちのく蚶泻のあたりより、いぶせき草の枕にうちはへ、雪の高濱有磯海蔭の山秋篠の里までも、疲れたる肩にかけ細りたる腰につけて、はるばる美濃の国までのぼりつき給ふを、竹戸といふおのこへ譲りあたへける也。衾一身旧里をはなれ辺土穢れたる肉眼にらまれたまひ、うき寐の夢のはかなきたのちに、かかる衾のうへにこそ有しめと肝に染ておぼえ侍る。紙と糊とのさかひは日を追て離れやすかるべし。志しと情けとは年経るとも損なふ事なかるべし。
         路通
 露なみだつつみやぶるな此衾」

と記す。
 そのあと遅れて越人がやって来たのだろう。紙衾のことを悔しがり、かなり感情的に、

 「阿難は世尊入滅の後に来り。孔子は周の衰へにいて、實房ハ嵐や庭の松に答へんとある庵を見、こゝに芭蕉老人は霞とゝもに武蔵野を出、能因西行の跡を慕ひひだるき事寒き事を泣く日に、松嶋白川を眺め漸(やうやう)秋風立つ越路を経て、濃州の市隠如行のもとにものし給ふよし、
夕に聞て其朝走り着て、先達てめづらしなんと泣笑ふその道の程、
前に聞こえつる衾は竹戸にもらはれけむこそこはいかに。富貴官位ハは徳大寺の如くうらやまし。
此衾とられけむこそ本意なけれ。貴妃李夫人か後を泣つゝけたるはうつけたる話になりぬ。越人/\おそく来てくやしからん越人、と越人の云

 くやしさよ竹戸にとられたる衾」

と記す。
 そのあと曾良がやってきて、これまでの書かれたものを読んで、ならばと付け加える。

 「さきだつて殊おくれて来り。此衾の記を読てやまず。このふすまハ是果てしなきみちのくより、荒海の北の浜辺をめぐり、みのの国まで翁のもち給へり。我したがつて旦夕にこれを収む。いま竹戸にあたへられし事をそねんで、奪はんとすれば大石のごとくあがらず。おもふべし、衾のものたる薄うして其まことの厚き事を。

 たゝみのは我手のあとぞ其衾」

 越人が奪い取りそうなのを咎めて、自分の手の垢もついてるぞ、と付け加える。
 「左比志遠理」の収録されたなかなか面白いやり取りで、相変わらず古文書は苦手だが、「みを」という古文書読解のAIアプリの力を借りて読んでみた。間違ってるかもしれない。

2023年10月14日土曜日

 それではX奥の細道の続き。

八月十四日

今日は旧暦8月13日で、元禄2年は8月14四日。敦賀へ。

昨日の雨も止んで、今日はよく晴れた。敦賀までの距離も考え、久しぶりに夜明け前に出発した。洞哉も一緒で、今夜は敦賀で月見ができるかな。

福井の街を出ると、また広い湿地帯があった。ここが俊成卿の、

夏刈りの芦のかり寝もあはれなり
  玉江の月の明けがたの空

の歌に詠まれた玉江だという。
月はまだ沈んでなかったが、ただ今は夏刈りをしないのか、芦が茂ってて、水に映る月は見れなかった。

月見せよ玉江の芦を刈ぬ先 芭蕉

玉江から少し行くと催馬楽に

浅水の橋のとどろとどろと
降りし雨の古りにし我を
たれぞこのなか人立てて
みもとのかたち消息し
訪ひに来るや さきんだちや

と歌われ、枕草子にも「橋はあさむつの橋」と言われた浅水橋があった。小さな橋だった。

この辺りでちょうど日の昇る明け六つなので「あさむつ」

あさむつや月見の旅の明ばなれ 芭蕉

日永嶽は北陸道の武生宿を出ると左に見えてくる。
今のところ晴れててこの山がはっきり見えてるから、今夜も、明日の名月も晴れますように。
日永というから、日が長く出ていますように。

あすの月雨占なはんひなが嶽 芭蕉

武生宿と今庄宿の間に湯尾峠がある。分水嶺ではなく小さな峠だが、そこに茶店があって疱瘡除けのお札が売られてた。
名月は里芋をお供えするので芋名月とも言うが、疱瘡の方のイモは特に名月とは関係ない。

月に名を包みかねてやいもの神 芭蕉

今庄宿に着くと目の前に燧山があった。木曾義仲の燧ケ城のあった所だ。

義仲の寝覚の山か月かなし 芭蕉

今庄宿から敦賀へ行く途中に木ノ芽峠があり、越の中山と呼ばれているという。
この峠を越えて降りてきた頃には月が登ってた。
西行法師の、

年たけてまた越ゆべきと思ひきや
   命なりけり小夜の中山

の歌を思いおこした。

はるばる松島象潟を回ってきて、生きてここまで戻れたんだなと思う。

中山や越路も月はまた命 芭蕉

敦賀に着くと出雲屋に宿を取って、さっそく気比明神に参拝した。
参道に白い砂が敷き詰められてたが、その昔遊行二世の他阿が、参道が元々沼地でぬかるんでるのを見て、自ら白い砂を運んできて敷いたという。

秋の夜の月も澄み渡ってるが、この砂もそれに劣らず澄み切ってる。

月清し遊行のもてる砂の上 芭蕉

昨今はいろんな国でその土地の何々百景とか作るのが流行りのようで、敦賀にもあるらしい。
金崎夜雨、天筒秋月、気比晩鐘、野坂暮雪、櫛川落雁、常宮晴嵐、清水帰帆。

ただ、気比神宮は煙ることなく空は澄み切っていて、後ろの天筒山の上に十四夜の月が明るく光る。

国々の八景更に気比の月 芭蕉

良い月見ができた。明日も晴れますように。

八月十五日

今日は旧暦8月14日で、元禄2年は8月15日。敦賀。

今日は朝から曇ってる。昨日の疲れもあって、まずは一休みだ。
午後になって晴れそうだったら、西行法師ゆかりの色の浜に行ってみたいな。でも宿の主人はこういう雲行きだと雨になると言ってる。

宿の主人が言った通り、夕方から雨になった。

名月や北国日和定なき 芭蕉

まあ、定めないのは月だけでないな。曾良が病気になったりしたし。まあ、おしなべて人生は定めないものだが。

八月十六日

今日は旧暦8月15日で、元禄2年は8月16日。敦賀。

今朝は晴れた。
昨日はあれから、雨が止んで月が出ないかと遅くまで起きて、宿の主人といろいろ話をした。
主人が言うに、金ヶ崎の戦いの時に海に沈んだ鐘は、その後引き上げようとしたけど海底で逆さになってて、吊り上げる時の取手となる竜頭が埋もれていたので、引き上げることができなかったという。

月いづく鐘は沈める海の底 芭蕉

また、敦賀は元々角鹿(つぬが)で、なんでも昔イルカの群れが打ち上げられて、その血が臭かったから「ちうら」といい、「つぬが」になったらしい。

イルカの肉はクジラ同様美味しく、これをもたらした御食津大神が気比大神になったって、この辺は曾良の専門だから、いたらうるさかっただろうな。

ふるき名の鹿角や恋し秋の月 芭蕉

天屋五郎右衛門という人の案内で、船に酒と肴を積んで色の浜へ向かった。もちろん洞哉も一緒。
色の浜は船で北の方へ行った所にあった。
敦賀の北の方に開いた入江に逆向きの南に開いた入江と小さな小島が重なり合い、見事な景観を生み出している。

西行法師の、

汐染むるますほの小貝拾ふとて
   色の浜とは言ふにやあるらむ

の歌でも知られている。
砂浜に砕けた貝殻は小萩が散ったみたいで、壊れてない貝は盃のようだ。

小萩ちれますほの小貝小盃 芭蕉

ようやく色の浜に月が昇った。
「ますほ」は真蘇芳色をしてるところからその名があり、紅葉の色に見立てられるが、血の色だという人もいる。稀に月もこの色になる。

衣着て小貝拾はんいろの月 芭蕉

浜辺の月というと源氏物語の須磨巻も思い浮かぶ。この北の海の渺漠としたうら寂しさはそれにも勝る。

寂しさや須磨にかちたる浜の秋 芭蕉

八月十七日

今日は旧暦8月16日で、元禄2年は8月17日。敦賀。

今日も良い天気だ。
昨日はあれから近くの本隆寺に泊まった。9日には曾良も来てたようだ。手紙も置いてあった。
敦賀の出雲屋の手配も、天屋の船の手配もみんな曾良がやってくれたんだ。病人なのに律儀な奴だ。
洞哉が昨日の句を書いて寺に奉納した。

本隆寺の日蓮御影堂を拝んでから、船で出雲屋へ戻ると、路通がいた。昨日の夕方に到着して入れ違いになったようだ。
近江粟津の家にいたところ、13日に彦根から曾良の手紙を受け取って、急いで来てくれた。

八月十八日

今日は旧暦8月17日で、元禄2年は8月18日。敦賀。

今日は雨。もう1日ここで休んでいこう。
一昨日の路通の敦賀到着の時の句があった。

目にたつや海青々と北の秋 路通

八月十九日

今日は旧暦8月18日で、元禄2年は8月19日。敦賀を出る。

今朝は晴れた。1日遅れになったが洞哉は福井へ、自分たちは長浜へ向けて夜明け前に旅だった。
いずれにせよ長い馬旅だ。曾良が一両置いていってくれたので、路通と一緒に乞食行脚する必要はなさそうだ。

塩津で琵琶湖が見えた時は、帰ってきたというのを実感した。
路通が北へ山一つ隔てた所にある余呉の湖の話をしてくれた。沢山の鳥が集まるというので、結局寄り道して余呉の湖を見て、長浜まで行かずに、木之本宿に宿を取った。

路通「毎度。路通でやんす。
余呉の湖の鳥もまだ季節が早いのか、まだ眠ってるかのように静かでやんすね。

鳥どもも寝入てゐるか余呉の湖 路通

あれ、これは季語は?水鳥の句だから冬だって師匠は言ってたでやんす。」

八月二十日

今日は旧暦8月19日で、元禄2年は8月20日。木之本を出る。

今日も天気が良く、ここから大垣まで一気にに行けなくもないが、ゆっくり行くことにしよう。
それにしても路通は天然でよくわからないが、時々凄い句を作るからな。阿羅野の次の撰集のことも考えなくちゃ。

日が高くなってからゆっくり出発して、北国脇往還の方を通った。小谷城のあった小谷宿、伊吹山を真近に見る春照宿を経て、中山道の関ヶ原宿に着いた。
今日はここに宿を取って、大垣に手紙を書くことにしよう。
長い旅ももうすぐ終わりだ。

八月二十一日

今日は旧暦8月20日で、元禄2年は8月21日。大垣着。

今日も天気が良く、日も高くなってから関ヶ原を出て、昼には大垣に着いた。如行や宮崎家の人たちなど、大垣のすぐに集まれる人たちが宿場の入り口まで迎えに来ていた。

胡蝶の夢なんて言うが、死んで胡蝶になることもなく、元の青虫のまま帰って来れた。
ふと思ったんだが、荘周が胡蝶になったと言うけど、いきなり蝶になるんじゃなくて、まずは青虫に生まれて蛹になって蝶になるんだよな。

胡蝶にもならで秋ふる菜虫哉 芭蕉

如行「そうかそうか。青虫さんか。ここには貧しい秋茄子しかなくて残念ですが、くつろいでいってください。」

  胡蝶にもならで秋ふる菜虫哉
種は淋しき茄子一もと 如行

曾良も無事に伊勢長島に帰って、今も療養中だという。伊勢の式年遷宮には一緒に行けるかな

2023年10月13日金曜日

  日本の男性アイドルの文化は結局のところジャニー北川さんの恩恵によるところが大きいし、その影響は韓流アイドルにも引き継がれていると思う。ロシアで韓流アイドルがゲイだと言われて排除されてるのも、ジャニさんに始まる男性アイドル文化が少なからず同性愛的な要素を含んでいるからではないかと思う。
 男の視点だと、男性アイドルは背が高くてマッチョな、男らしい男という方向に行きやすいのではないかと思う。そうではなく背が低くて「可愛い」男が案外女性に需要があるというのを見出したのは、ジャニさんが女性的な視点を持っていたからではないかと思う。
 日本にはソドムの歴史はない。源氏物語にも光源氏と頭の中将が二人で舞うシーンが紅葉賀巻のメインになっているし、江戸時代初期には衆道の相手も兼ねた若衆歌舞伎があって、それが禁制になったために今の野郎歌舞伎に落ち着いたが、それでも女形(おやま)にその名残をとどめている。
 戦後の芸能界でも美輪明宏さん、ピーターさん、カルーセル麻紀さんなどがテレビに出てお茶の間を賑わしていた。そうした中にジャニさんの存在もあった。

 それではX奥の細道の続き。

八月六日

今日は旧暦8月5日で、元禄2年は8月6日。小松。

立松寺に戻ってきた。今日は雨で一休みかな。
曾良は全昌寺でどうしてるかな。雨だから無理せずに一休みかな。

八月七日

今日は旧暦8月6日で、元禄2年は8月7日。小松。

今日はいい天気だ。觀生から誘いがあって、今日は興行できるかな。

觀生の家で皷蟾を交えて三吟を巻いた。発句はこの前多田八幡に奉納した句で、実盛の兜からそれが野に落ちてた姿を想像して、地面に虫が鳴いてたかなと、それを季語にした。謡曲実盛の首検分の台詞を引用して、

あなむざんやな冑の下のきりぎりす 芭蕉

觀生「まさに虫の息というところか。霜枯れに草には鳴く虫の声も弱ってゆく。」

  あなむざんやな冑の下のきりぎりす
ちからも枯し霜の秋草 觀生

皷蟾「晩秋の草原は河原でしょうな。丘の麓の川縁で渡し守が月明かりで綱を撚っているといったところでしょうか。」

  ちからも枯し霜の秋草
渡し守綱よる丘の月かげに 皷蟾

芭蕉「なら、その渡し守の居所がそこにある。仮小屋だけど住めば屋敷のようなもの。」

  渡し守綱よる丘の月かげに
しばし住べき屋しき見立る 芭蕉

觀生「見立てというからね。そのしばしの屋敷は実は唐傘を屋敷に見立ててるだけだったりして。」

  しばし住べき屋しき見立る
酒肴片手に雪の傘さして 觀生

皷蟾「雪の笠というと、一輪開いた冬の梅のようでもありますな。ここは見立てではなく、雪の寒梅を見ながら酒を飲むとしましょう。」

  酒肴片手に雪の傘さして
ひそかにひらく大年の梅 皷蟾

芭蕉「梅というと立派な庭園で水が流れてて、大晦日に咲いた梅は2日になるともう散って流れて来て、薄墨を流したような色になる。」

  ひそかにひらく大年の梅
遣水や二日流るる煤の色 芭蕉

觀生「煤の色を文字通り煤が流れて来た色として、煤の出るような安い油を使ってるのが隣にばれて恥ずかしい。」

  遣水や二日流るる煤の色
音問る油隣はづかし 觀生

皷蟾「油売りはいろんな家を回ってはそこで噂話をして、油売ってたりするもんですな。そんな人に恋文なんぞ見られたら、そりゃあ恥ずかしい。」

  音問る油隣はづかし
初恋に文書すべもたどたどし 皷蟾

芭蕉「初恋でたどたどしい手紙を恥ずかしそうに届けてねなんて頼まれたりしたら、使いの僧の方が惚れちまうな。」

  初恋に文書すべもたどたどし
世につかはれて僧のなまめく 芭蕉

觀生「僧もひそかに湯女のいる風呂屋に提灯持って通ったりする。」

  世につかはれて僧のなまめく
提灯を湯女にあづけるむつましさ 觀生

皷蟾「湯女の所に風呂屋で使う提灯を納品しますと、お礼に温泉玉子なんか貰えると嬉しいですね。」

  提灯を湯女にあづけるむつましさ
玉子貰ふて戻る山もと 皷蟾

芭蕉「玉子というと煮て食うもので、納豆汁に玉子があれば言うことはない。納豆はお寺で冬に作って配るもので、それを叩いて細かくして納豆汁にする。これがまた旨い。」

  玉子貰ふて戻る山もと
柴の戸は納豆たたく頃静也 芭蕉

觀生「正月準備の頃かな。茅の輪にする竹を取りに行く。ただ季語は露にして秋に転じておこう。月の定座も近いし。」

  柴の戸は納豆たたく頃静也
朝露ながら竹輪きる薮 觀生

皷蟾「竹を取るところでは、同じ竹でモズを取る若者なんかもおりますな。捕まえたモズの目を縫い付けて竹の上に縛り付けて、その鳴き声に釣られて寄ってきたモズを獲るなんて、可哀想なことをするもんです。」

  朝露ながら竹輪きる薮
鵙落す人は二十にみたぬ顔 皷蟾

芭蕉「モズを獲るのは殺生人と呼ばれる人たちで、河原に縁のある者。真如の月のもとで成仏できると良いな。」

  鵙落す人は二十にみたぬ顔
よせて舟かす月の川端 芭蕉

觀生「月夜には釜を抜かれるというけど、河原の者は鍋も持ってなさそうだな。ここでは花もないということで花に持ってっていいかな。」

  よせて舟かす月の川端
鍋持ぬ芦屋は花もなかりけり 觀生

皷蟾「鍋もないほど貧しい芦葺きの家に住んでますのは、いくさが続いたせいでしょうな。そこら辺にはまだ野ざらしの白骨が残ってたりしましてな。」

  鍋持ぬ芦屋は花もなかりけり
去年の軍の骨は白暴 皷蟾

芭蕉「時は戦国時代ということで、この頃の薮入りは奉公人の帰省ではなく、嫁が実家に帰る日だったという。」

  去年の軍の骨は白暴
やぶ入の嫁や送らむけふの雨 芭蕉

觀生「帰省の日で久々に親に会うんだったら、特別に髪を洗ったりする。」

  やぶ入の嫁や送らむけふの雨
霞にほひの髪洗ふころ 觀生

皷蟾「思いがけぬ所で仏像が発見されたりしますと、吉祥だということで御所に献上されたりしますな。正月の髪を洗う頃、めでたいものです。」

  霞にほひの髪洗ふころ
美しき仏を御所に賜て 皷蟾

芭蕉「では御所を碁所に取り成して、仏像の御利益で連戦連勝。」

  美しき仏を御所に賜て
つづけてかちし囲碁の仕合 芭蕉
甘柿舎鈴呂屋こやん

觀生「碁の試合(しあはせ)を幸せに取り成して、勝利が続いて大金を手にした所で、正月には大勢の人に餅を振る舞う。」

  つづけてかちし囲碁の仕合
暮かけて年の餅搗いそがしき 觀生

皷蟾「正月といえばかぶら寿司ですな。能登の志賀の方の名物です。」

  暮かけて年の餅搗いそがしき
蕪ひくなる志賀の古里 皷蟾

芭蕉「古里といえば陶淵明の田園の居に帰る。狗吠深巷中 鶏鳴桑樹巓で、犬の声がする。」

  蕪ひくなる志賀の古里
しらじらと明る夜明の犬の声 芭蕉

觀生「犬というと墓場にいたりして不気味なものだ。ここは謡曲舎利のイメージで、舎利が盗まれたので僧が祈ると韋駄天が現れて取り返してくれる。」

  しらじらと明る夜明の犬の声
舎利を唱ふる陵の坊 觀生

皷蟾「舞台は都の泉湧寺ですな。名前の通り泉が湧く所ですので、筧を作ってそれを引いてきましょうか。」

  舎利を唱ふる陵の坊
竹ひねて割し筧の岩根水 皷蟾

芭蕉「苗代水かなと思ったけどここは夏にして田植えの頃の水にしておこう。水だけでなく早苗も貰う。」

  竹ひねて割し筧の岩根水
本家の早苗もらふ百姓 芭蕉

觀生「貰った早苗はねこに乗せて運ぶもので、ここでは乳母車にしておこう。子連れで苗を貰いに行って、苗を乗せたら赤子は本家に預けて行く。」

  本家の早苗もらふ百姓
朝の月囲車に赤子をゆすり捨 觀生

皷蟾「子を連れての仇討ちの旅ですな。かたきの人相書きを見ながらこの秋も本懐を遂げられず、悲しいもんです。」

  朝の月囲車に赤子をゆすり捨
討ぬ敵の絵図はうき秋 皷蟾


八月十一日

今日は旧暦8月10日で、元禄2年は8月11日。小松。

今日も良い天気だ。小松の滞在も長くなったが、今日の昼頃にはここを発って全昌寺に向かう。
一人でというわけにもいかないので、北枝が同行してくれる。福井からは洞哉という人が同行してくれるという。敦賀から先は曾良が手配してるらしい。

北枝と二人で今夜は全昌寺に泊まる。5日には曾良が泊まって、

終宵秋風聞や裏の山 曾良

の句を残して行った。西側が山に面している。
曾良は7日にここを発ったので、明日ここを経てば五日遅れということか。

八月十二日

今日は旧暦8月11日で、元禄2年は8月12日。全昌寺を出る。

朝、福井に向けて出発する時、若い僧が揮毫をせがんできた。只というわけにはいかない。
寺に泊まった時は出る時に掃除するのが慣わしだが、それを代わりにやってくれるなら考えてもいいぞ。

庭掃て出ばや寺に散柳 芭蕉

よし、取引成立だ。

吉崎の入江は大きな干潟で、ここを船で渡って海側の汐越しの松を見た。西行法師が、

よもすがら嵐に波をはこばせて
   月をたれたる汐越の松

と詠んだ所だ。今は昼だし、こういう干潟の風景は象潟以来何度も見てきたな。

象潟の楽しかった思い出が蘇ってきてしまって、なんか上手く句にならないな。名月だったらまた違ってたかもしれない。

松岡という所で洞哉と落ち合った。ここで北枝ともお別れだ。扇子に、

物書いて扇子へぎ分くる別れ哉 芭蕉

と書いて渡した。実際に引き裂いたりはしてない。

今日は洞哉の家に泊まる。昨日まで天気が良かったが、今日は曇ってて月が見えない。それにもっきり涼しくなった。

八月十三日

今日は旧暦8月12日で、元禄2年は8月13日。福井。

今日は雨。一日ここで休んでいこう。
明後日が十五夜だし、これから敦賀へ向かうが、どこでお月見すると良いか尋ねてみようと思った。
まあ、福井にももう通り過ぎたが汐越の松もあるし、福井に引き止められそうだな。

名月の見所問ん旅寝せむ 芭蕉

今日は一日雨で、月見もできそうになく、ただ洞哉といろいろ世間話をして過ごした。
洞哉という老人は寛文の頃に活躍した人で、そういえば伊賀にいた頃名前は耳にしていた。その後の俳諧の流れにはついてゆけず、静かに妻と二人で隠居暮らしをしてる。

小さな庭で夕顔やヘチマを育て、鶏頭の花が咲き、コキアは勝手に生えてきたものか。一見草に埋もれているようでも、しっかり手入れはされている。
昨日はたまたま松岡の知り合いのところに行ってて、そこで会うこととなった。

2023年10月12日木曜日

  ノーベル賞を受賞したゴールディンさんの「なぜ男女の賃金に格差があるのか」を途中まで読んだ。
 ゴールディンさんはピルの解禁を過大評価しすぎてるように思う。日本ではピルは解禁されなかったが、やはり七十年代の中頃から結婚年齢の上昇が見られ、今では男は三十、女は二十八くらいになっている。
 七十年代前半くらいは大体女は二十四が適齢期と言われ、二十六にもなると「売れ残り」と言われてた。日本では中ピ連が話題にはなってたが、日本の西洋かぶれの活動家にありがちな、スローガンばかりで現実から遊離してて、今でもそうだが笑い者になるだけだった。今でもフェミは嫌われてる。アメリカで流行ってることの鸚鵡返しで、現実的な提案を何一つしないからだ。アメリカのウーマンリブもそうだったのかもしれないけど。
 ピルが解禁されなくても、生涯のキャリアを持ちたいという欲求が女性に起これば、自然に結婚時期は遅れるものだと思う。
 子どもが出来ての予期せぬ結婚を防ぐには、必ずしもピルは必要としない。七十年代前半の、ヒッピー文化のフリーセックスは急速に廃れていったし、むしろ八十年代以降性的モラルが強化される傾向あったんではないかな。アメリカでも未成年のヌードが禁止されたし。
 日本では特にオタクの間での処女崇拝が強化されていって、日本のエンタメ・コンテンツにも影響を与えている。
 俺も早く結婚した第三グループの最後の世代だから、第四グループ以降の変化は正直ついていけないところがある。

 それではX奥の細道の続き。

八月一日

今日は旧暦7月30日で、元禄2年は8月1日。山中温泉。

天気の良い日が続くが、曾良は療養に専念し、温泉に入っている。
自分は北枝と久米之助に俳諧の指導をしたりしながら過ごした。
近くの黒谷橋の辺りを散歩した。

八月二日

今日は旧暦8月1日で、元禄2年は8月2日。山中温泉。

そういえば昨日は八朔だっけ。こういう浮世離れした温泉宿ではよくわからない。
街道から離れてるけど、朝早く旅立つ人の馬が出て行く。

  轡ならべて馬のひと連
日を経たる湯本の峰も幽なる 斧卜

ってこの前の興行の句があったな。

八月三日

今日は旧暦8月2日で、元禄2年は8月3日。山中温泉。

今日は久しぶりに雨が降った。降ったり止んだりの天気だ。
久米之助に俳号をつけてやろうと思った。今までも身内に桃隣、桃印がいて、黒羽では桃翠桃雪桃里がいるからな。やはり桃の一字で桃妖にしようかな。

詩経に桃夭という詩があったからな

桃之夭夭 灼灼其花
之子于帰 宜其室家

少年だけど婚期の少女のような美しさということで、まあそのまんまではなく妖の字に変えておくけどね。

桃妖も北枝も俳諧の筋がいいのは、この地に安原貞室がいたせいなんだろうな。貞室というと、

これはこれはとばかり花の吉野山

の句は知らない人がいないくらい有名だし、その人がこの地で点料を取らずに指導してたというからな。

貞門の指導を受けた人は古典の素養がしっかりしてる。桃妖の祖父もその教えを受けた一人で、それがある程度桃妖にも受け継がれてるのだろう。

昔貞室が少年の頃ここに来て、俳諧のことで難じられて、京で貞徳の門に入ったのが、貞室とこの土地の縁の元となったという。
小松でしつこく引き止められるくらい俳諧が盛んなのもそのせいだろう。

それも世吉や五十韻など、速吟ができるのが、これまで回ったみちのくとは違うなと思う。
貞室は寛永9年に亡母追悼百韻を重頼に難じられたが、この時は毅然とやり返して、その論戦は語り草になってる。
もっともその重頼さんにはお世話になってるから、そこはなんとも言えない。

昔お世話になった師匠さんでも、重頼さんや任口さんはすでに鬼籍で、季吟さんは存命とは聞くが、長いことご無沙汰している。俳諧より古典の注釈書に専念してるようだし。
まあ、俳諧という所もやたら絡んでくるやつっているからな。桃妖も負けるな、だな。

桃の木の其葉ちらすな秋の風 芭蕉

八月四日

今日は旧暦8月3日で元禄2年は8月4日。山中温泉。

あれから雨が降ったり止んだりが続いている。
ようやく伊勢長島から若い者がこちらに到着した。明日は曾良とお別れだ。
曾良は伊勢長島に向かい、自分は小松に戻ってもう少し俳諧を楽しもうと思う。

曾良が伊勢長島に行くことが決まったので、午後から北枝と三人で餞別興行をすることになった。
桃妖も執筆で参加できれば勉強になると思ったけど、宿の方が忙しいとのこと。とりあえず北枝がメモを取っておいてくれるこのになった。

北枝「では曾良さんが明日馬に乗って、故郷同然の伊勢長島に行ってしまうということで、そんな曾良さんのイメージに、秋に南に渡って行く燕のイメージを重ね合わせて、燕を追いかけるように、という意味で。」

馬かりて燕追行別れかな 北枝

曾良「これから幾つも山を越えての帰り道になります。山の峠の曲がり目にはきっと秋の草花も咲くことでしょう。」

  馬かりて燕追行別れかな
花野に高き山のまがりめ 曾良

芭蕉「花野を馬でゆくなら、『花野みだるる』の方がいいかな。咲き乱れるとも言うし。では、その花野を相撲で踏み荒らして乱すと言うことにして、月夜の相撲にしようか。」

  花野みだるる山のまがりめ
月はるる角力に袴踏ぬぎて 芭蕉

芭蕉「月はるるは景だが、月よしとだといかにも『さあやるぞ』って感じで良いかな。」
北枝「なら、相撲をしてて喧嘩になって、刀に手をかけるってあるよね。周囲に止められて、『なに、刀が勝手に滑っただけだ』ってことで収める。」

月よしと角力に袴踏ぬぎて
鞘ばしりしを友のとめけり 北枝

芭蕉「ここで人倫を出してしまうと次の次の句で制約がかかるし、鞘走りが複数の人間のいる場面に限定されて、展開が重くなる。『やがてとめけり』で良いんじゃないか?」

曾良「一人の場面でもいいなら、すわっ、曲者!って刀に手をかけたら、という展開にできますね。」

  鞘ばしりしをやがてとめけり
青淵に獺の飛こむ水の音 曾良

芭蕉「何だか古池に蛙が飛び込んだみたいだな。まあ、あの句も思わぬ音にハッとする場面ではあるが、それを『曲者!』に?青淵でなくても二、三匹でいいんじゃない?」
曾良「いや、これはパロディだから面白いんだし、二、三匹じゃ緊張感ないでしょう。」

芭蕉「まあ、そうだな。だったら青淵だと深山に限定されるし、山類で応じるか。」

  青淵に獺の飛こむ水の音
柴かりたどる峰のささ道 芭蕉

芭蕉「たどる、かよふ、何か盛り上がらないな。まあ、びっくりしてだと打越と被っちゃうけど、ここは俳諧らしく取り囃して、柴かりこかすにしておくか。」

北枝「なるほど、柴かりこかすだと、柴刈がコケるのではなく、柴を刈りこかすとも取りなせる。なら柴刈は山賤でなく、山奥の小さな寺に隠棲する僧にしよう。」

  柴かりこかす峰のささ道
松ふかきひだりの山は菅の寺 北枝

芭蕉「松深きだと松の下生えを刈り払って山が荒れないようにすれば、秋には松茸も取れると、それは理屈だが、ここは何かもっと厳しい所にしたいな。たとえば霰降るとか。」
曾良「なら山は遠くに見えてそっちには寺があるとできますね。平野の街道の風景に転じましょう。」

霰降るひだりの山は菅の寺
役者四五人田舎わたらひ 曾良

芭蕉「この前市振で遊女に会ったしな。ドサ回りの役者もいいけど、田舎わたらいの遊女にすれば花があるし、恋を仕掛けられる。遊女四五人。」

芭蕉「宿の部屋の腰張の部分なんかによく落書きがしてあって、結構伝言板代わりに利用している人もいるし、いろいろなローカルな情報があって面白い。田舎わたらいの遊女も、そこに愛しい人の名を見つけたりするのかな。」

  遊女四五人田舎わたらひ
こしはりに恋しき君が名もありて 芭蕉

芭蕉「腰張の伝言板は旅をしてる人はすぐわかるけど、知らない人は分らないかな。落書きの方がわかりやすいか。」
北枝「お寺にも落書きがあったりする。巡礼の記念みたいに名前を書いていったりして。愛しい人の名があると、別れた後順礼の旅に出たんだなと思って、女も出家はしなくても、肉食を断ったりする。」

  落書きに恋しき君が名もありて
髪はそらねど魚くはぬなり 北枝

曾良「魚は殺生だから可哀想だと言いますが、植物だって生きてるのに植物は何で良いのか、その辺はよくわかりませんね。蚕から絹を取るのは殺生だからと言って、当麻寺の中将姫は仏様の蓮台の蓮の茎を刈り取って、そこから糸を取って曼荼羅を折ったと言いますが。」

  髪はそらねど魚くはぬなり
蓮のいととるもなかなか罪ふかき 曾良

芭蕉「本説の句の後は中将姫から離れなくてはならないのが難しい。蓮の糸は何かその家の代々続く習慣として、贅沢を禁じて来たというのがいいかな。」

  蓮のいととるもなかなか罪ふかき
四五代貧をつたへたる門 芭蕉

芭蕉「おっと、四五代はさっきの遊女四五人と被ってた。先祖の貧にしよう。」

北枝「この辺で月を出した方が良いのかな。その門は祭りを執り行う上代で、頑固な人だったから代々の貧を改めることもない。」

  先祖の貧をつたへたる門
宵月に祭りの上代かたくなし 北枝

芭蕉「みんなが浮かれてる宵月に、頑として加わらないというと、普通に付き合いの悪い感じだね。有明に早起きして厳粛に祭りを執り行う、そういう人柄の方が良いかもしれない。有明にしよう。」
曾良「有明の祭の儀式といえばこれですな。」

  有明に祭の上代かたくなし
露まづはらふ猟の弓竹 曾良

芭蕉「狩といえば殺生だからね。露は涙に通じるし、露を散らすのは秋風。殺生の悲しさに狩に付き従った子供も無言で涙する。」

  露まづはらふ猟の弓竹
秋風はものいはぬ子もなみだにて 芭蕉

北枝「これは秀逸だな。」
芭蕉「いやいや君たちの句もこれに劣るものではない。」
北枝「涙だと、哀傷に展開するのが良いかな。」

  秋風はものいはぬ子もなみだにて
しろきたもとのつづく葬礼 北枝

曾良「花の定座ですね。白き袂に桜の花の白のイメージを重ねまして、『あおによし奈良の都は咲く花の』にしましょうか。」

  しろきたもとのつづく葬礼
花の香に奈良の都の町作り 曾良

「奈良の都だと、時代設定が古代になってしまうから、ここは『奈良はふるきの』にしておこうかな。
古今集の奈良伝授は饅頭屋伝授で、堺伝授は形だけ箱を渡す箱伝授になった。いにしえの和歌の道も箱に残ってるだけだし、紹巴の連歌の伝授にも架空の箱伝授があったことにしようか。」

  花の香に奈良はふるきの町作り
春をのこせる玄仍の箱 芭蕉

北枝「玄仍の箱は何か浦島の玉手箱みたいなものとして、水辺に転じようか。難波の浜で三月上巳の潮干狩りで貝を取る。」

  春をのこせる玄仍の箱
長閑さやしらら難波の貝多し 北枝

芭蕉「大阪だったらいろいろ手の込んだ料理をしそうだし、貝尽くしというのはどうだ。」
曾良「そうですね。大阪商人なら貝尽くしを食って、銀の小鍋で鴨と一緒に芹焼きにしたり、豪勢でしょうね。」

  長閑さやしらら難波の貝づくし
銀の小鍋にいだす芹焼 曾良

二十句目まで終わった所で夕食にして、そのあと曾良は疲れたと言って寝てしまったため、北枝とさしで続きをやった。
芭蕉「芹焼か。なら冬だな。囲炉裏端でのんびり芹焼を作って、煮えるのを手枕して待つ。」

  銀の小鍋にいだす芹焼
手枕におもふ事なき身なりけり

芭蕉「これじゃ普通過ぎて面白くないよな。何か良い取り囃しがあると良いが。」

手まくらに軒の玉水詠め侘

芭蕉「まあ、こいふに景色を一つ加える手もある。北枝だったらどうする?」
北枝「手枕の情景で面白くするんでしょ。」

手枕によだれつたふてめざめぬる

芭蕉「ははは、ありそうだな。まああまり綺麗でないし、それにキャラが馬鹿そうな奴に限定されて展開がしにくい。」
北枝「それなら。」

てまくらに竹吹わたる夕間暮

芭蕉「囲炉裏の火加減を竹で吹いて調整するのに手枕は無理がないか?ここはもっと何気ない軽いあるあるで。」

  銀の小鍋にいだす芹焼
手まくらにしとねのほこり打払ひ 芭蕉

北枝「なるほど手枕で居眠りしようと思って、手が痛くならないように座布団の埃を払って、そこに敷く。これなら女でも良いってことか。遊郭で客を待ってる遊女を覆面してやってきた客が品定めする。」

  手まくらにしとねのほこり打払ひ
うつくしかれと覗く覆面 北枝

芭蕉「男女ネタから衆道ネタにするのはお約束かな。寺に出入りする薫物売りは若衆で、編笠を覆面にして、男なのに振袖を着たりするが、ここでは古風に継ぎ小袖で。」

  うつくしかれと覗く覆面
つぎ小袖薫うりの古風也 芭蕉

芭蕉「両吟だからここは二句づつ行こう。古風な薫物売りに古風な別の職業を対比させてみようか。ぎりぎりで禁中に出入りできる非蔵人が重陽の菊を育てて売りに来る。」

  つぎ小袖薫うりの古風也
非蔵人なるひとのきく畠 芭蕉

北枝「これは前句の寺の場面から離れるために、あえて異なる職業を対句的に並べる、いわゆる迎え付けをしたわけだ。」
芭蕉「いかにも。」

北枝「重陽だったらご馳走にシギとかを食うけど、シギといえば西行法師の鴫立沢の秋の夕暮れを思い起こして、なんか寂しげだ。」

  非蔵人なるひとのきく畠
鴫ふたつ台にのせてもさびしさよ 北枝

芭蕉「なかなかいい展開だ。」
北枝「ここで台を題に取り成して、発句の題が鴫二羽で寂しげなので、脇は三日月をあしらう。」

  鴫ふたつ台にのせてもさびしさよ
あはれに作る三日月の脇 北枝

芭蕉「あっなるほど、その手で来たか。
そうだな、『三日月の脇』を三日月の見えるその脇でって感じで野宿にしようか。出家して最初の旅の草枕。」

  あはれに作る三日月の脇
初発心草のまくらに旅寝して 芭蕉

芭蕉「取り囃しもなくて凡庸な句になったが、一巻に一句くらいはこういう句もあるもんだな。
初発心といえば西行法師法師のように、京を出たら鈴鹿の山を越えて、まずは伊勢参りかな。」

  初発心草のまくらに旅寝して
小畑もちかし伊勢の神風 芭蕉

北枝「では伊勢の有り難さを引き立てるべく、疫病の流行も治ってと違え付けで。」

  小畑もちかし伊勢の神風
疱瘡は桑名日永もはやり過 北枝

芭蕉「違え付けの見本のようだな。」
北枝「疱瘡が流行ったけど、薬になる枇杷の葉がちょうど次々と芽吹いて、その葉を煎じて何とか凌いだ。」

  疱瘡は桑名日永もはやり過
雨はれくもる枇杷つはる也 北枝

芭蕉「一雨ごとに、でいいんじゃない。」

芭蕉「つはるは盛りになるという意味だったね。ここでは枇杷を琵琶に取り成して、雨の中、華やかに琵琶を掻き鳴らすということで、仙女の琵琶にしてみようか。琵琶の音に枇杷が育ってゆく。

  一雨ごとに枇杷つはる也
細ながき仙女の姿たをやかに 芭蕉

北枝「なるほど、一巻にもう一つ山場の欲しい所に仙女か。恋ではないし、神祇でも釈教でもない。」
芭蕉「仙女といえば機織りだね。ここは織るのではなく茜染めにしよう。」

  細ながき仙女の姿たをやかに
あかねをしぼる水のしら波 芭蕉

北枝「これは流血に取り成せと言ってるようなものだな。何か本説で、宇治川合戦じゃベタだから、その前の以仁王の挙兵で宇治川で押し返される場面にしようか。仲綱はここを逃れて平等院で死ぬんだっけ。」

  あかねをしぼる水のしら波
仲綱が宇治の網代とうち詠め 北枝

芭蕉「お見事。仙女から合戦への展開。この一巻の飾りとなったな。」
北枝「ここは逃げ句で、前句を仲綱で名高い宇治の網代ですねと使いの者の挨拶にする。」

  仲綱が宇治の網代とうち詠め
寺に使をたてる口上 北枝

芭蕉「花の定座だからな。寺に使いが来たというのは花見の誘いで間違いないな。朝の鐘を撞いたら、今日はもう何もせずに一日遊びましょう。早くしないと花は散っちゃいますよ、ってとこかな。」

  寺に使をたてる口上
鐘ついてあそばん花の散かかる 芭蕉

芭蕉「『散らば散れ』というのもありかな。いやそれじゃ禅問答だ。普通に花の散る前に花見ができたのを喜んで、北枝とこの一巻を満尾できたことにも感謝を込めて。」

  鐘ついてあそばん花の散かかる
酔狂人と弥生くれ行 芭蕉

八月五日

今日は旧暦8月4日で、元禄2年は8月5日。山中温泉。

夜中の雨は止んだが、朝から曇ってる。
昼頃ここを出て小松に向かうが、途中那谷までは曾良も一緒だ。そこから曾良は全昌寺に向かう。
あと、桃妖ともお別れだ。

湯の名残今宵は肌の寒からむ 芭蕉

温泉に入れないって意味だからね。

出発の時が来た。曾良もこの山中温泉に名残を惜しんで、

秋の哀入かはる湯や世の景色 曾良

とまるでこの世の名残の景色を惜しんでるかのようだ。
さすがにさっきの句を並べるのは恥ずかしので、作り直した。

湯の名残り幾度見るや霧のもと 芭蕉

霧のかかってるのを見ると、温泉の湯気の向こうに桃妖がいるようなイメージを、あくまで言葉の裏に隠しておいた。

那谷に着いた。ここで曾良ともお別れだ。
学者で顔も広く、その土地の有力者にも取り次いでくれたして、本当に有能な男だ。博識で古代の道にも詳しいし、朱子学も分かりやすく解説してくれた。おかげで蕉門の理論付けができそうだ。

でも、象潟でもっと北へ行きたいと言った時に止めたのは、きっと二十年に一度の伊勢神宮の式年遷宮に行きたかったからだな。
だからどのみち生きていれば伊勢で会うことになるんだろうな。あんなに遷宮祭を楽しみにしてたからな。まあ、とにかく死ぬなよ。

今日よりや書付消さん笠の露 芭蕉

曾良「まあ、途中で病で動けなくなったとしても、その時は師匠が後からどのみち通ると思うと心強いです。倒れても、そこが花野なら誰かが来てくれる。」

跡あらん倒れ臥すとも花野原 曾良

曾良と別れてから北枝と一緒に那谷寺を見て回った。奇岩が多く、それも透き通るように白かった。
折から秋風が吹いて、秋もまた五行説では白だが、目にはさやかに見えない秋風は完全に透き通っていた。

石山の石より白し秋の風 芭蕉

小松に着いた。かねてから呼ばれていた生駒万子のところに行った。加賀藩の武士で立派な屋敷に住んでた。

2023年10月11日水曜日

 鈴呂屋書庫の「奥の細道─道祖神の旅─」をプロローグとエピローグ以外の本文を大幅に書き改めたのと、現代語訳「奥の細道」をアップしたのでよろしく。現代語訳の方はルビの方を読むと原文が読めるようにしてある。

 それではX奥の細道の続き。

七月二十六日

今日は旧暦7月に25日で、元禄2年は7月26日。小松。

夜中に降り出した雨は朝には止んだ。昨日は四十四句の世(よ)吉(よし)を満尾(まんび)させるまでやったので、疲れた。夜に今度は觀生の家で興行するので、それまではゆっくり休もう。

朝は止んでた雨は一転して豪雨になり、風も酷かった。いわゆる野分(のわき)というやつだ。おかげで今日はゆっくり休むことができた。
夕方には晴れて、觀生の家での興行は夜からになった。

芭蕉「いやあ、見事な萩だが、今日の雨で露を乗せたままなので、通るとみんなびしょ濡れだ。まあ、昔から萩に露は付き物で、これも一興だ。あとは月があればいうことないが、26日じゃな。」

ぬれて行(ゆく)や人もおかしき雨の萩 芭蕉

曾良「下駄を履いてるからぬかるみは平気だが、萩の葉から落ちる露は気をつけよう。」

心せよ下駄のひびきも萩の露 曾良

北枝「人だけでなく、茂みのカマキリもびしょ濡れだ。」

かまきりや引こぼしたる萩の露 北枝

觀生「では芭蕉さんの発句で興行を始めましょう。萩といえばススキということで、ススキが生えてるだけじゃなく、屋根もススキで葺いて雨露をしのぐ。」

  ぬれて行や人もおかしき雨の萩
すすき隠(がくれ)に薄葺(すすきふく)家 觀生

曾良「ススキというと河原ですな。月の夜は猟師も猟を休んで、船遊びと洒落込む。」

  すすき隠に薄葺家
月見とて猟(れふ)にも出(いで)ず船あげて 曾良

北枝「船あげては船を陸にあげてにも取りなせる。船が沈んでびしょ濡れになって、船をやっとのこと引き上げると、帷子(かたびら)を干す。」

  月見とて猟にも出ず船あげて
干ぬかたびらを待(まち)かぬるなり 北枝

皷蟾「松風の寂しげな音に夢を破られて目を醒ますと、帷子もまだ乾いていない。まあ、人生というのはそんないっときの邯鄲(かんたん)の夢ですな。」

  干ぬかたびらを待かぬるなり
松の風昼寝の夢のかいさめぬ 皷蟾

志格「松並木ということにして街道の風景にしようか。物流を支える馬子たちが集まって昼寝してるというのもよく見る。」

  松の風昼寝の夢のかいさめぬ
轡(くつわ)ならべて馬のひと連(つれ) 志格

斧卜「馬が並んでるというと温泉かな。人が大勢来るし、療養で何日も滞在する。」

  轡ならべて馬のひと連
日を経たる湯本の峯も幽(かすか)なる 斧卜

塵生「温泉で酒飲んだやつはみんな出来あがっちゃって、飲めないやつが酒樽を運ばされる。」

  日を経たる湯本の峯も幽なる
下戸(げこ)にもたせておもき酒樽(さかだる) 塵生

李邑「いくさで敵が酒盛りやってるところを襲撃するって話、よくあるよね。やられた方は飲んでない奴に酒樽持たせて逃げて、そのまま落人(おちうど)になる。」

  下戸にもたせておもき酒樽
むらさめの古き錣(しころ)もちぎれたり 李邑

視三「落武者は道の辻堂で一夜を明かしたりする。ここでは地蔵堂にしておこう。」

  むらさめの古き錣もちぎれたり
道の地蔵に枕からばや 視三

夕市「地蔵堂で野宿しようとすれば日が暮れて、入相(いりあい)の鐘にカラスの声が混じる。」

  道の地蔵に枕からばや
入相の鴉の声も啼(なき)まじり 夕市

芭蕉「懐風(かいふう)藻(そう)に金烏望西舎、鼓声催短命ってあったな。大津の皇子(みこ)の処刑の詩だったか。罪人は船で運ばれて来て、辞世の歌を促される。」

  入相の鴉の声も啼まじり
歌をすすむる牢(らう)輿(ごし)の船 芭蕉


七月二十七日

今日は旧暦7月26日で、元禄2年は7月27日。小松。

今朝は晴れた。また暑くなるのかな。
ここのお諏訪(すわ)様が祭りだというから参拝して、それから山中温泉の方に行く。曾良の療養にもなるというので勧められた。
最悪の場合は曾良を先に返すことになるが、その時は曾良にも自分にも同行者が欲しい。

小松を出る時に、斧卜と志格がまた引き留めようとやって来たが、長居はできない。
多田八幡に寄って発句を奉納した。

あなむざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす 芭蕉

北枝も一緒に山中温泉に来てくれる。

まだ明るいうちに山中温泉に着いた。泉屋久米之助の宿に泊まる。主人の久米之助はまだ少年、それもとびきりの美少年でこれからの滞在が楽しみ、っとそれはともかく、久米之助の父は貞徳の門人で、俳諧の方も期待できそうだ。

山中温泉の湯に早速入った。白くて硫黄の匂いがして、不老長寿の薬効があるという。重陽(ちょうよう)の菊(きく)酒(ざけ)も用はないか。
加賀には加賀(かが)菊(きく)酒(ざけ)というのがあって、これは通常の菊の花の入った酒ではなく、諸白(もろはく)のような清酒だった。

精米歩合がやや低くて、江戸の酒ほど黒くないけど、ほんのり黄色い色がついて、それを重陽の菊酒になぞらえて、菊酒の名前があるという。
もちろん温泉に加えて菊酒もあれば言うことはない。

山中や菊はたおらぬ湯の匂(にほひ) 芭蕉


七月二十八日

今日は旧暦7月27日で、元禄2年は7月28日。山中温泉。

昨日も夕立があったが、今朝は晴れた。ここなら金沢の人たちも来ないし、ゆっくり休養しよう。
曾良も温泉に入れて取り敢えずは満足してるようだ。昨日の諏訪祭りは曾良が見に行きたがったし、神社のこととなると病気を忘れるようだ。

曾良は金沢にいる時にあちこちに手紙を書いてたから、そのうち迎えの者が来るのかもしれない。多分返事は小春(しょうしゅん)の方に届くのだろう。そこから使いが来るのか、それまではここで休養だ。

夕方曾良と一緒に街の辺りを散歩した。薬師堂があって、曾良は興味深そうにしてた。
夜になって雨が降り出した。


七月二十九日

今日は旧暦7月28日で、元禄2年は7月29日。山中温泉。

今日は一日ゆっくり休んで、夜になってから久米之助の道明が淵のカジカ漁を見に行かないかと誘われ、他の宿の人も一緒に見に行った。
町からちょっと川上に行った所で、そんなに遠くはなかった。
曾良はそれほど興味なさそうで、宿に残った。

道明が淵はというと、月のない夜で真っ暗な上、篝(かがり)火(び)の煙がひどくてよく見えなかった。これじゃカジカもさぞ煙たかろう。

漁り火に鰍(かじか)や浪の下むせび 芭蕉


七月三十日

今日は旧暦7月29日で、元禄2年は7月30日。山中温泉。

今日も晴れた。7月も今日で終わり。
昨日は真っ暗でよく見えなかった道明(どうみょう)が淵を、あらためて昼間見に行った。今日は曾良も同行で、そうそう北枝がいたのも忘れてはいけない。
北枝には暇な時に少しづつ俳諧の指導をしている。

2023年10月2日月曜日

 このままロシアの侵略が既成事実化されてゆくと、それは世界全土に武力による国境の変更は許されるというメッセージを与えることになる。
 そしてこうした行為に対して国連は無力だし、アメリカが世界の警察となることもなく、まして国際世論なんてのが糞の役にも立たないということが証明されてしまうと、第三次世界大戦は米露の戦争でもなければ米中の戦争でもなく、中東やアフリカを中心とした国境の再編ではないかと思う。
 戦後の国連体制では国境の変更を基本的に認めない立場で、局地的な紛争はあっても全面戦争は抑えらて来た。もし仮にロシアとウクライナの武力による国境の変更を国際社会が認め、これに対する市民のデモもわずかでしかないということになれば、これは国境の変更にGOサインを出したようなものだ。
 このままロシアとウクライナの戦闘が膠着するなら、地球規模での国境の引き直しが、グレート・リセットが起こるのではないかと思う。まあ、言ってみれば戦国時代になるということだ。
 実際、植民地時代に西洋列強によって引かれた国境を持つ地域では、これを願ってもないチャンスと思う人も少なからずいるだろうし、彼らはロシアの勝利に期待してることだろう。
 これまで平和のために作られてきた技術が、急テンポで軍事に転用されるようになるだろう。いわばAIとロボットと遠隔操作と情報操作の戦争になる。いわば、こうした軍事技術を持つ軍事輸出国がこれからは繫栄することになる。
 戦争に勝つことより、戦場になることを免れた国が、最終的には繁栄することになる。