芭蕉が大垣に帰ってしばらくすると、越人と曾良が同じ九月三日にやってくる。芭蕉はその時如行の家に滞在中で、路通も敦賀からずっと一緒にいる。その日は越人と曾良には会わず、その夜芭蕉は不知(俳号なのか、名前がわからなくこう記したかはよくわからない)の餞別興行に参加する。
翌九月四日。この日も芭蕉と路通は大垣藩の家老次席の戸田権太夫(如水)に呼ばれて、
こもり居て木の実草のみひろはゞや 芭蕉
御影たづねん松の戸の月 如水
思ひ立旅の衣をうちたてて 如行
水さはさはと舟の行跡 伴柳
ね所をさそふ烏はにくからず 路通
峠の鐘をつたふこがらし 誾如
それぞれにわけつくされし庭の秋 路通
ために打たる水のひややか 如水
池の蟹月待ッ岩にはい出て 芭蕉
の句を興行する。
そしてその夜左柳亭での興行で曾良と越人は再会する。
翌九月五日。如行の家に路通とともに戻った芭蕉は、六日に伊勢へ向かうということで如水から南蛮酒一樽と紙子を餞別に貰う。南蛮酒はおそらく焼酎に薬草を入れたあらき酒であろう。延宝の頃の興行の付け句にも詠まれている。
おそらく、この時はたまたま如行の弟子の竹戸がいて、新しい紙子が来たので要らなくなった古い紙衾を処分しようと思い、竹戸が欲しがったので与えたのではないかと思う。
芭蕉も機嫌よく、紙衾の記を書く。そのあと越人がやってきて、悔しがったのではないかと思う。竹戸もそれにこたえて、
題衾四季 竹戸
花の陰昼寐して見む敷衾
むしぼしのはれにかざらむ衾かな
ながき夜のねざめうれしや敷衾
首出して初雪見ばや此ふすま
を書き記す。
如行もまた、
「はせを師翁回国恙もなく我郷大垣にむかへ、とりて枕瀬の水を汲みて草鞋を解かしむ。ある夜油単の内より紙の衾を取り出でて、我門人竹戸といふものに得させたるなり。沙門ならば是を禅定の衾とせん。勇士はこれを母衣ぎぬに替へん。敢汝そこなふ事なかれ。身を終るまて愛して棺の中に敷けとぞに云。
如行
ものうさよいづくの泥ぞ此ふすま」
と記す。
ならばと、路通も、
「いろ香を先とするものは見る事華やかにして、さめてのち愛をうしなふ。その匠の業こまやかなるものは用る事あやうく、破れて後憂れふ。皆路によるもののとらざる処なり。此紙の衾ひとつハみちのく蚶泻のあたりより、いぶせき草の枕にうちはへ、雪の高濱有磯海蔭の山秋篠の里までも、疲れたる肩にかけ細りたる腰につけて、はるばる美濃の国までのぼりつき給ふを、竹戸といふおのこへ譲りあたへける也。衾一身旧里をはなれ辺土穢れたる肉眼にらまれたまひ、うき寐の夢のはかなきたのちに、かかる衾のうへにこそ有しめと肝に染ておぼえ侍る。紙と糊とのさかひは日を追て離れやすかるべし。志しと情けとは年経るとも損なふ事なかるべし。
路通
露なみだつつみやぶるな此衾」
と記す。
そのあと遅れて越人がやって来たのだろう。紙衾のことを悔しがり、かなり感情的に、
「阿難は世尊入滅の後に来り。孔子は周の衰へにいて、實房ハ嵐や庭の松に答へんとある庵を見、こゝに芭蕉老人は霞とゝもに武蔵野を出、能因西行の跡を慕ひひだるき事寒き事を泣く日に、松嶋白川を眺め漸(やうやう)秋風立つ越路を経て、濃州の市隠如行のもとにものし給ふよし、
夕に聞て其朝走り着て、先達てめづらしなんと泣笑ふその道の程、
前に聞こえつる衾は竹戸にもらはれけむこそこはいかに。富貴官位ハは徳大寺の如くうらやまし。
此衾とられけむこそ本意なけれ。貴妃李夫人か後を泣つゝけたるはうつけたる話になりぬ。越人/\おそく来てくやしからん越人、と越人の云
くやしさよ竹戸にとられたる衾」
と記す。
そのあと曾良がやってきて、これまでの書かれたものを読んで、ならばと付け加える。
「さきだつて殊おくれて来り。此衾の記を読てやまず。このふすまハ是果てしなきみちのくより、荒海の北の浜辺をめぐり、みのの国まで翁のもち給へり。我したがつて旦夕にこれを収む。いま竹戸にあたへられし事をそねんで、奪はんとすれば大石のごとくあがらず。おもふべし、衾のものたる薄うして其まことの厚き事を。
たゝみのは我手のあとぞ其衾」
越人が奪い取りそうなのを咎めて、自分の手の垢もついてるぞ、と付け加える。
「左比志遠理」の収録されたなかなか面白いやり取りで、相変わらず古文書は苦手だが、「みを」という古文書読解のAIアプリの力を借りて読んでみた。間違ってるかもしれない。
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