2017年2月28日火曜日

 古池や蛙飛び込む水の音   芭蕉

 この句は誰もが知っているが、それはたいてい教科書に載ってたり、試験の時に覚えさせられたからで、この句のどこがいいのかわからないという人も多いことだろう。無理もない。三百年以上も前の「あるある」なんてそう簡単にわかってたまるものか。
 この句は一般的に、蛙の音に静寂を感じ、同時にそれが心の平静、いわば禅の境地を表すかのように言われている。それは、『奥の細道』の、これもまた有名な、

 閑かさや岩にしみ入る蝉の声  芭蕉

の句にも言えることで、そこから芭蕉には常に、心頭滅却した禅僧のイメージがついて回る。
おそらくは芭蕉の弟子の一人、各務支考の解釈に行き当たるのであろう。しかし、近代にあっては、それ以上に正岡子規の影響力を否定できない。
 子規の解釈は、単にこの句が静寂を表すという解釈を受け継ぐだけではなく、それがそのまま作者の句作に対する態度の静寂であり、作為や技巧(掛詞、援護、比喩、暗示、象徴、観念、洒落、滑稽、等)も排したということと、心に一転の曇りもないということを結びつけるというものだった。それはまさしく近代俳句の理想であり、今日でも俳句や短歌に作為や技巧があると、「疵」があると言われる状況にある。
 しかし、それは正岡子規が書いた時期も違う三つの解釈をごちゃ混ぜにしてできたような通念だった。
 正岡子規は明治二十二年の『古池の吟』の中でこう言っている。

 「『古池や蛙飛び込む水の音』とは誰も知りたる蕉翁の句なるが、その意味を知る者は少し。余は六、七年前にある人の話を聞きしに、こはふかみの三文字を折句にせしものなり‥(略)‥余、この説を信じてなかなかわからぬものとして考へたることなかりき、しかるにこの春スペンサーの文体論を読みし時、minor imageを以て全体を現はす、即ち一部をあげて全体を現はし、あるはさみしくといはずして自らさみしきやうに見せるのが尤詩文の妙処なりといふに至て覚えず机をうって『古池や』の句の味を知りたるを喜べり。悟りて後に考へて見れば、格別むづかしき意味でもなく、ただ池の閑静なる処を閑の字も静もなくして現はしたるまでなり。」

 スペンサーと言う、当時としては最新の知識でこの句が解けたという子規の喜びは、大変よく伝わってくる。当時、子規はまだ二十三歳。最初の喀血があり、「子規」という業を思いついたのもこの年だった。
 この頃子規はまだ、俳句革新なんてことは考えてなかった。ただ、スペンサーと言う、当時としては最新の知識でこの句が解けたと喜び勇んだだけだったと思っていい。若者にはありがちなことだ。
 ただ、この最初の子規の解釈はその後も様々な形で踏襲されてゆく。

 「春深いころのひっそりとした昼ま、時おり、ボチャッと水面に音を立てて蛙が飛び込むと、一瞬静寂が破られ、すぐまたもとの静寂に帰る。」(『松尾芭蕉』宮本三郎、今栄蔵、一九六七、桜楓社)

というのもその一例だ。
 「ふかみ」の三文字を折句にしたという説は『誹風柳多留』という川柳点に見られるもので、

 蛙飛ぶ池はふかみの折句なり

のことを言うのだろう。俳論といえるようなものではないし、俗説の類と見ていい。当時の俳諧師匠たちが言ってたのではなく、たまたま聞きかじった説をいかにも有力な説であるかのように言ってみただけのことだろう。
 ただ、ひょっとしたらこの折句は意識されていたかもしれない。偶然であるにしても、芭蕉自身気づいてひそかにほくそ笑んでたかもしれない。
というのも、古池の句の発表された貞享三年(一六八六)の前後には、かなりの頻度で複雑な言葉遊びが試みられているからだ。
 たとえば貞享元年(一六八四)の『野ざらし紀行』の中の句、

   二月堂に籠りて
 水とりや氷の僧の沓の音

はどうだろうか。この句は「こもり」と「こおり」を掛けているのみならず、「水」「氷」「沓」という水のつく字を三つ並べている。

 秋風や藪も畠も不破の関

これも、「やぶる」も「はだける」も「破れず」という遊びを含んでいる。
 古池の句と同じ歳に発表された、

 明月や池をめぐりてよもすがら

の句も、一見無造作そうだが、よく見ると、

 めいけつや池をめくりてよもすから

の頭「めいけつ」のあとに「池」「め」という文字が並び、「めいけつ」が逆さまになっている。あたかも池に逆さまに映った月が揺らいでいるかのようだ。
 さらに、元禄二年(一六八九)、『奥の細道』の旅の句でも、決して言葉遊びが少ないとは言えない。

 早苗とる手もとや昔しのぶ摺
 象潟や雨に西施がねぶの花
 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

の掛詞は言うまでもなく、

 行春や鳥啼魚の目は泪

の「目」と「泪」、

 夏山に足駄を拝む首途哉

の「足」と「首」、

 あつみ山や吹浦かけて夕涼

の「あつみ=暑」を「吹く」と「涼」となる、といった言葉遊びが目立つ。

 山寺や石にしみつく蝉の声

も「立石寺」の吟だし、同じ遊びは石山寺の、

 石山の石より白し秋の風

で行なわれている。「白」は五行説で秋を表す色であり、石の白さが縁となって「秋」を導き出している。
 こうした高い頻度で登場する言葉遊びは、決して貞門時代の悪弊などという言葉で済むものではない。俳諧は本来言葉遊びだし、芭蕉もひと通りの言葉遊びの可能性は試していただろう。
 復本一郎の『俳句を楽しむ』(一九九〇、雄山閣出版)に書かれている計算によると、『奥の細道』の五十句中十二句にこうした言葉遊びが見られるというが、目立たない微妙なものまで含めると、明らかにそれ以上になる。こうした句を得意とする芭蕉であれば、「ふかみ」を折句にするくらいのことはやったかもしれない。ただ、折句はあくまで隠し味のようなもので、別に「深み」ということを言いたかったわけではあるまい。句の本質ではなく、句の飾りの部分であろう。
 古池の句は実は「ふかみ」の折句だけではない。五七五の頭二文字を取ってゆけば「降る」「川」「水」と、水にまつわる語が三つ並んでいる。これは縁語と言っていいだろう。
 近代俳句だと原稿料の問題もあるのか、一句だけで発表することは稀で、十句連作だとか句集だとかいう形で発表されるのが普通だ。俳句誌の巻頭を飾るべく、毎月十句の連作をノルマにしている近代俳人と違って、かつての俳諧師の発句は一度の興行に一句詠めばよかった。それはあくまで興行の際の発句であり、特に蕉門の場合、撰集や紀行文に載せる発句はかなり厳密に吟味され、時間をかけて推敲され、完成されていった。
 芭蕉は決して無造作な句など詠んではいない。芭蕉の句は隅々まで計算され尽くしたものであり、だからこそ時代を超えるだけの力を持っている。それが一見無造作に見えるのは、技巧が完成されているからだ。それはちょうど『荘子』の「包丁解牛」のようなもので、技巧が身についてなければ、その試行錯誤のあとが仕上がりの際の表に現われてしまうが、真に技術を極めた包丁人の手にかかると、あたかもはじめから切られるべくして切れたかのように、包丁の跡が残らない。たとえば、

 閑かさや岩にしみ入る蝉の声    芭蕉

の句は、あたかも一瞬にして「はっ」と浮かんできたかのように見え、どこにどういう技法が使われたか解くのは困難だ。しかし、

 山寺や石にしみつく蝉の声

であれば、われわれは容易にその思考の跡をたどることができる。山寺の名は立石寺、その立石寺の石に、はかなく短い夏の命を鳴く蝉の声が数百年にわたって染み付いている。
 蝉は『徒然草』第七段に「夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし」とあり、中世の歌人は好んで蝉のはかなさをテーマとしてきたし、芭蕉も元禄三年(一六九〇)に、

 やがて死ぬけしきは見えず蝉の声

と詠んでいて、はかない命を象徴させている。多分に人類が終ることなく繰り返す数々の悲劇が、立石寺にそびえ立つ岩に染み付いているように感じられたのであろう。
 それをまず、「立石寺」と「石」の縁を「岩」に変えることによって目立たなくし、「しみつく」という直接的な言い回しも避け、、数々の悲劇を刻みながらも一見何ごともなさそうに見える岩の姿の幽玄さを表すべく、「閑かさや」の五文字が選ばれ、完成に至った。多分にこの時、王籍の、

 蝉噪(さわ)いで林逾(いよいよ)静かに
 鳥鳴いて山更に幽なり

の詩句を意識したのであろう。そして、この静かさを見出す前の段階に、

 さびしさや岩にしみ込蝉のこゑ
 淋しさの岩にしみ込せみの声

という句がある。完成句を表面的に見れば、蝉の声に静けさというminor imageの方が目につくが、決してそれだけではない。
 古池の句で用いられた技巧が、単なるminor imageだという解釈も、若き子規には新鮮で感動できたかもしれないが、果たして芭蕉の時代の高度に洗練され、頂点にまで達していた複雑の技法からすれば、あまりに稚拙なものだった。
 古池の句もまたその場でふっと浮かんできてできた句ではない。
 復本一郎は『芭蕉古池伝説』(一九八八、大修館書店)の中で、古池の句の成立過程を考察している。それによると、この句の最も確実な初出は、貞享三年(一六八六)の三月下旬に公刊された西吟編の『庵桜』の、

 古池や蛙飛んだる水の音       桃青

であり、一ヵ月後の閏三月の『蛙合』に、

 古池や蛙飛び込む水の音

という形で現われることになる。ここから貞享三年春に古池の句が成立したという説が一般に定着している。
 しかし、『蛙合』が大勢の弟子達の蛙の句を持ち寄った句合せで、中には京都の去来の句も入っている。果たしてこの年の春に詠んだ句が一ヶ月も経たずに『蛙合』という形に編集され、出版されたかどうかという疑問が残ることになる。
 復本一郎は、やや疑問は残るものの、鈴木勝忠が貞享元年(一六八四)二月中旬と推定した書簡を掲げている。

 「先達而(せんだって)の山吹の句、上五文字、此度、句案(あんじ)かへ候間、別に認遣(したためつかは)し候。初のは反古に被成可被下(なされくださるべき)候。此度、其角行脚致し候。是又宜(よろしく)御世話頼(たのみ)入候。
 知足様                  芭蕉」

 この手紙を信用するなら、古池の句の完成は貞享元年春で、それならゆっくり『蛙合』を企画することもできたであろう。そして、この手紙では同時に、

 山吹や蛙飛び込む水の音

というっ原案があったことも裏づけられることになる。
 そこで出てくるのが、支考の『俳諧十論』にある、

 「天和の初ならん、武江の深川に隠遁して、古池や蛙飛び込む水の音、といへる幽玄の一句に自己の眼をひらきて、これより俳諧の一道はひろまりけるとぞ。」

や『葛の松原』にある、

 「弥生も名残をしき此にやありけむ。蛙の水に落る音しばしばならねば、言外の風情この筋にうかびて、蛙飛こむ水の音、といへる七五は得玉へりけり。晋子(榎本其角)が傍に侍りて、山吹といふ五文字を冠らしめむかと、およずけ侍るに、唯、古池とはさだまりぬ。」

だ。
 後者にはその後いろいろ尾鰭がついて、それこそ其角が「山吹や」と言ったら芭蕉に一喝されただとか、「古池や」と芭蕉に言われ、俳諧の極意を悟り泪を流しただとかいう話が流布したが、この芭蕉と其角の過ごしたその日のうちに「古池」と定まったとはどこにも書いていない。もし知足宛書簡が本物だとすれば、天和二年(一六八二)に芭蕉は「蛙飛び込む水の音」の下七五を得、一度は其角の助言を入れ「山吹や」としたものの、貞享元年春に「古池や」に改めた、という推定が可能になる。

2017年2月26日日曜日

 連歌は句を付けるさいに、適度の難易度を調整してゲーム化する過程で、様々なルールが定められてゆき、それは「式目」にまとめられていった。俳諧に明確な式目はないが、おおむね連歌の式目に準じてきた。
 ただ、俳諧を面白くするためにはただルールを杓子定規に守ればいいというものではなく、ルールをきわどい所でかいくぐってみたり、多少の違反は流したり、それだけでなく歌仙という短い形式にあわせて去り嫌いのルールが簡略化され、連歌の五句去りが俳諧では三句去りになったりした。
 また、俗語の使用についても、最初の貞門の俳諧では一句に一語と制限されていたが、蕉門においては無制限になった。これによって俗語ではない雅語の部分に関して一々頌歌を引いてきて正しい雅語かどうかを検証する手間がなくなり、雅語を知らない人でも気軽に参加できるようになった。
 季語というのも、本来は連歌をゲーム化してゆく過程で、句材を様々に分類する中で生まれたもので、連歌では季節の言葉だけでなく、山類、水辺、居所、衣装、植物(うえもの)、獣類、鳥類、虫類など、細かく分類され、それぞれに去り嫌いのルールが定められていった。これは簡略化されながらも俳諧でも受け継がれていった。
 ただ、こういった季題の分類の中で季語が特殊な位置を占めたのは、それが発句に必要なものとされ、いわば連歌や俳諧の興行の開始の際の挨拶に用いられたからで、季語の心は基本的には季候の挨拶の心だというのはそういう事情による。
 挨拶として日常的に求められる以上、季語は単なる自然現象を言い表す言葉ではなく、春に万物を生じ秋に止むという生死の循環の比喩を含み、花が咲くのを喜び月に涙を流し、様々な古典作品に表れた季語の心を受け継いで日常的なコードとして用いるようになった。
 「春だねえ」という言葉は喜びを含み、「秋も深まったなあ」といえば寂しさを含む。「桜が咲いたね」と言えば春もまさに今がたけなわ、「月が綺麗だね」といえば秋の澄んだ空のように澄んだ心を表す。
 自然を比喩として用い、日常の会話に取り込んでコード化してゆくということは、もちろんいつの時代にもどこの民族でもやっていることだろう。ただ、その内容はその土地の生活や風土によって微妙に異なってくる。
 「槿」は日本では「一日にして栄を為す」のはかなさとはかない命への満足をメタファーとするが、韓国人はむしろ根絶やしにしようにもできないそのしぶとい生命力のメタファーとして国花としている。こうなると、韓国人の槿の心は日本人には理解しがたい韓国人独自のコードとなる。
 日本人の季節の心が西洋人にわからないとすれば、それは日本人の長い生活から練り上げられたコードだからで、もちろん西洋人が西洋の四季に対して持っている感情は日本人には計り知れないものもたくさんあるだろう。こういうのは「お互い様」という感覚を持たなくてはいけない。相手の国のことを深く理解すればこうした違いというのはそのうちわかってくるものだが、一朝一夕というわけにはいかない。外国人が日本の四季の心を理解しないからといってもあせってはいけない。こういうのは時間を要することだ。
 今の脳科学ではどうなのかしらないが、昔は例えば虫の音など日本人は左脳で聞き、西洋人は右脳で聞くなんてことがまことしやかに言われていた。日本人が虫の音を左脳(言語脳)で聞くとすれば、それは虫の音を単なる自然現象として聞くのではなく一つのメタファーとして捉えているからといえよう。日本人でも外国に行って初めて聞くような虫の音や鳥の声に接したら、そこには何のメタファーもなく、単なる自然の音として聞くことになるだろう。
 時代が変われば同じ日本人でも失われたメタファーはある。

 古池や蛙飛び込む水の音  芭蕉

のような当時の多くの人に響いた言葉も、芭蕉の死後かなり早い時期に既に意味不明になり、神秘化されてゆくことになった。そして明治になって正岡子規が、これはマイナーイメージで水の音に静寂を聞きつける句だということで、大体近代的な解釈は固まっていった。
 逆に夕焼けや満天の星空などは江戸時代の人はほとんど関心を持ってなかった。単なる自然現象として扱われ、深い心を込めたメタファーとなることはなかった。
 日本人が四季の移ろいに感じていた心は、実は時代によってもかなり大きく変わってきている。だからこそ、昔の俳諧を読むことは難しく、わかったときの感動も捨てがたいものとなる。
 季節一つとってもこうなのだから、いろいろな文化の異なる民族が共存するというのは簡単なことではないし、いろいろな軋轢が生じるのは当然なのだということは認識しなければならない。こうした問題の解決のヒントは、メタファーを読み解く楽しみだと思う。わからないから排除するのではなく、わからないから知りたいと思うことが、解決への唯一の道だと思う。
 当「鈴呂屋俳話」は過去の日本人のメタファーの解読を通じて、世界中の人々が固有のメタファーを持ち、それを理解することに喜びを感じるようにするための第一歩だとしたい。

2017年2月25日土曜日

 芭蕉が四季をどう捉えていたかは、『笈の小文』の冒頭の部分に記されている。

 「しかも風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。」

 ここでいう「四時」は「四季」と同じと見ていい。春夏秋冬あるなかで、特に春の「花」と秋の「月」とを挙げているのは、俳諧では月花の定座があり、他の季題とは違う特別な扱いをされているからだ。
 春夏秋冬、季節の移ろいを友として生きる時、「花」は単に春に咲く桜の花のことではない。花は物理的生物学的な「花」を意味するのではなく、同時に比喩としての花であり、比喩としての花はいわば「心の花」だ。
 時は移ろい咲く花もすぐに散ってしまうが、心の花は散らない。それは物質としての花ではなくあくまで比喩としての花だからだ。
 花の定座にも、実際には桜の花ではなく比喩としての「花」でも正花として扱われる言葉がいくつかある。「花火」「花嫁」「花相撲」「花燈籠」「作花」「花鰹」「華やか」なども正花になる。現代なら「花の女子大生」や「花のOL」でも正花だろうか。
 連歌でも「にせものの花」と呼ばれ、水無瀬三吟では「法(のり)の花」という言葉が出てくる。「心の花」もにせものの花になる。
 花月、花鳥風月、そのほか様々な季題にしても、必ずしも自然現象や人事を意味するだけでなく、比喩としての季節が大事であり、むしろ比喩の方がその季節の本質とされている。
 季節の心というのは、基本的には易経の「春に万物を生じ、秋に止む」という、四季を生命の循環に例えたもので、春に生まれ夏に盛りを迎え、秋に年老い、冬に死ぬ、ということが基本になる。
 こうした比喩は温帯地域に暮らしている人からすれば、多くの一年生の植物が春に芽を出し夏に育ち秋に衰え、冬に枯れ果てて行くのを常に目の当たりに見ているし、落葉樹もまた春に芽を出し秋に落葉し、冬に枯れ木となるのを見ている。これを人間の一生に喩えるという発想も、何ら珍しいものではないし、どこの国が起源なんてこともなく、温帯地域の人なら誰でも思いつくことだと言ってもいい。少年から大人への階段を登る頃を「青春」とよび、働き盛りの時代を夏に喩え、老いてゆく姿に天下の秋を重ね合わせるというのは、ほとんど自然発生的に誰もが思いつくことで、それゆえに特定の文化伝統を超えた「不易」として認識される。
 恋を四季に喩えるのも同様だ。春に出会い夏に燃え盛り秋に別れ冬に一人淋しくというのも、誰が発明したというわけでもない。温帯地域に住む人間としては自然な発想だ。
 その中で移ろい行く季節の中で最も生き生きとして価値のある美しいものを「花」と呼ぶのも自然な発想だ。「恋人を最初に花に喩えた人は天才だ」と言った人がいたが、恋人を花に喩えるのに天才の出現を待つ必要などない。そんなことは誰でも思いつくことだ。
 昔の人は四季の持つこうした比喩としての情、本意本情を日本人だけがわかる特別なものなどと思うことはなかった。それはまさに「不易」の情で、時代や民族を超えた普遍的なものだと確信していた。その情は文明人であれば誰しも共有できるもので、そうでないなら「鳥獣に類ス」だった。

 道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり  芭蕉

の句にしても、槿の花は人間からすれば「一日にして自ら栄となす」という比喩を読み取ることが出来るが、馬にはそのような比喩などわかるすべもなく、ただ食料として食べてしまう。
 さて、日本人が日本の季節の美しさを賛美する時、それがしばしば外人にはわかるまいというナショナリズムに結びつくのは、「鳥獣に類ス」の前にある「像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし」の部分だろう。心花にあらざれば「鳥獣」で、像花にあらざれば「夷狄」とするその差は一体何だろうか。一見してわかるのは「心」と「像」、字が違うということだ。
 「像」というのは形を表す「象」に人偏がついているように、人間から見た「かたち」つまり「似姿」のことを言う。これは「表現」と言ってもいいだろう。心の中に花があるかどうかは直接は見えない。それを形に表現した時、花の有無は判断できる。つまり生活の中で盛んに季節の比喩を用い、花や月の心を表現しているかどうかが「夷狄」かどうかの分かれ目になる。季節の様々な事象を比喩として表現し、生活の中に溶け込ませているというのが、昔から日本人にとっての「花」だった。そう考えて間違いないだろう。
 四季の移ろいは温帯地域ならどこにでもある。だが、それを比喩として生活に溶け込ませているのは明らかに文化だ。青春があって老いてく姿に秋を感じ、春に出会って秋に別れる恋がある。そこまでなら温帯地域ならどこの国の人でも思いつくことだろう。それは恋人を花に喩えるようなものだ。ただ、日本人はそれを連歌俳諧を通じて季語の体系を生み出し、日々の話題にする文化を作り上げた。それは誇ってもいいだろう。
 勿論こうした文化は韓国にも中国にもある。彼らもまた美しい四季のある国に生まれたことを誇る権利がある。西洋にもこれに類するものがあるのなら、やはりそれは誇っていいだろう。これらは文化であり、必ずしも同一ではない。しかし同じ人間である以上、それほど大きくかけ離れてはいないだろう。ただ、比喩であり文化である以上、互いに理解し難い部分があってもおかしくはない。
 人間の心は長い進化の歴史の中で獲得された遺伝的なもので、それゆえ「不易」である。これに対しそれをどのように表現するかは文化の問題で、それは時代や地域によって異なる「流行」である。それを理解することが、偏狭なナショナリズムに陥ることもなく、かといって自らの文化伝統に自虐的になることなく、他の文化との相対性を理解しながらその価値を自覚してゆく道なのではないかと思う。それがまさに芭蕉の「不易流行」の心だと思う。

2017年2月24日金曜日

 発句に季語を入れるのは、本来は興行を開始する際の季候の挨拶を兼ねていたからで、「今日はいいお天気で」だとか「今日は寒いですね」だとか、「菊薫る候になりまして」だとかいうのと同じ感覚だった。この「鈴呂屋俳話」でも、そういう入り方をしている日が多いのはお気づきのことと思う。
 会話の導入部で季節の話題に触れるのは、多分日本だけではないだろう。四季のはっきりしない国でも、その日の暑さのこととか、雨がいつ降るのかだとか話題にするのは、別に珍しいことではないかと思う。
 あるあるネタにしても、どこの国でも冗談を言って笑いあったりするときには自然と言っていることだと思う。
 ただ、われわれがその文化を誇りに思うのは、どこの国でもありながら何気なく見過ごされていることを高く評価していることだと思う。
 日本の四季のうつろいが特別美しいのではない。どこの国でも季節はあって美しい自然や面白い行事や風物などがあったりする。あえていうなら、それを誇りとしていることが誇りなんだと思う。
 多分アメリカンジョークにしても、どこの国の人も冗談は言うと思う。それを誇りにしていることがアメリカ人のアメリカ人らしさなのだと思う。
 韓国人は東方正義の国として礼節の高さを誇りにしているが、礼節はどこの国にもある。それを誇りにすることが誇りなんだと思う。
 人間なんてのは所詮同じ遺伝子を持つもので、いつの時代でもどこの国でもそんなに本質的に変わるものではない。ただ、何に重点を置くかという点では、その文化の個性が表れると思う。日本ではみんなが仲良く打ち解けるために、季節を話題にし、日常のありがちなことを笑いにする、その文化に誇りを持っている。それは悪いことではないと思う。
 人の心の不易は時間だけでなく空間をも越える。もろこしにも印度にも風流はある。そして日本にも日本の風流がある。それで何も問題はないと思う。アメリカにもヨーロッパにも中国にも韓国にも四季はある。日本には日本の四季がある。ただ、日本人はそれをことさら重視して誇りとしているだけのことで、それが平和の文化である限り非難されるようなことではない。核兵器の数を誇るよりはよっぽどましだろう。
 問題は日本人自身が自虐的になり、日本の四季を誇らなくなっていることの方だろう。除夜の鐘が騒音だとか、花見で一杯やっているのが国の恥だとか、アメリカ生まれの芸人がちょっと日本の四季のことでコメントしたら「そ~お~で~すよ~~」なんてすぐ尻馬に乗りたがる奴。どうにかならんか。
 日本の文化と言ってもその多くは中国起源ではないかと言われれば、それには反論しない。でもそんなことを言ったら、欧米の文化ってみんなギリシャやイスラエルが起源じゃないか。

2017年2月22日水曜日

 今日は新暦では2月22日、にゃんにゃんにゃんで猫の日。とはいえ、「猫好きは来る年来る年猫の年」って川柳があるように、猫好きには毎日が猫の日なのではないかと思う。
 しまったなと思ったのは、猫の恋のことを一昨日書いてしまったことだ。今日に取って置けばよかった。そういうわけで、今日は猫の恋の句の拾遺。
 まず、

 北窓に後めたしや猫の恋     万山 「西國曲」

 昔は冬の間は北窓を塞いでいた。「北窓塞ぐ」は冬の季語になっている。春になると北窓を開ける。その頃ちょうど猫の恋が始まり、そこから猫が出入りする。「うしろめたし」はかつてはやましいことがある時だけではなく、単に気がかりなことがあるという意味でも用いられた。

 美尾谷が錣(しころ)になくや猫の恋 卷耳 「北國曲」

 これは源平屋島合戦の時、悪七兵衛景清(平景清)と源氏方の美尾谷十郎国俊と格闘になり、国俊の兜の錣(しころ)をひきちぎったという逸話から来ている。雄猫同士の喧嘩する姿からの連想か。

 痩る程恋する猫や夜の雨     貴和 「北國曲」

 これは「麦めしにやつるゝ恋か猫の妻 芭蕉」と似ている。果たして本当に恋猫が食欲をなくすのかどうかはよくわからない。擬人化している感じがする。支考は「うき恋にたえてや猫の盗喰」と詠んでいる。

 猫の恋通ふや犬の鼻の先     重行 「陸奥鵆」

 これも「またうどな犬ふみつけて猫の恋 芭蕉」と似ている。

 朧月猫とちぎるや夜の殿     越闌 「正風彦根躰」

 これも「猫の恋やむとき閨の朧月 芭蕉」に似ている。猫の恋もこの辺でネタ切れか。
 猫の恋ではないが、春の猫の句。

 春雨や寝返りもせぬ膝の猫    桃醉 「陸奥鵆」
 若菜摘姿なりけり猫背中     秏登 「皮籠摺」
 あれちらせ上野の梅に猫のこゑ  厚風 「二葉集」
 行春や猫に胡蝶のそで別     正興 「西國曲」
 出代やあとに名残の猫の声    丶嶺 「西國曲」
 うそ眠る猫のつらはる椿かな   一桃 「杜撰集」
 柳されて嵐に猫ヲ釣ル夜哉    木因
 猫の尾の何うれしいぞ春の夢   賢明
 猫逃げて梅ゆすりけり朧月    言水
 ねこの子のくんずほぐれつ胡蝶哉 其角

 というわけで、春の猫はとりあえずこんなところで。

2017年2月21日火曜日

 朝、家を出るときに見る月もすっかりやせ細り、逆三日月のような姿になってくると、そろそろ旧暦の正月(一月)も終わりかと思う。
 正月の句について書くなら、もう後がないといったところか。如月になる前に、

 今朝国土笑はせ初ぬ俳諧師    高政

 菅野谷高政は宗因の高弟で京都談林の中心人物だった。
 この句からは、江戸時代の俳諧師のイメージが今日の俳人のイメージと随分と異なることが感じ取れる。
 彼らは文人として知識人の一翼として世間からの尊敬を集めてはいたものの、そこには真面目で神経質な芸術家というイメージはない。
 子弟の間ではぴりぴりとした関係はあっただろう。仲間同士で真剣な議論をすることもあっただろう。でも世間の前では笑いを振りまく存在だった。
 それは今日の「芸人」の世界に近いといってもいいのではないかと思う。テレビでおちゃらけて笑いを振りまいてはいても、その裏では厳しい修行があり、上下関係があり、真剣な議論がある。お笑いの道も決して誰でもできるような生易しいものではない。ただ、それを表に出さないのがプロというものだ。
 今日でもお笑い芸人の世界からいっぱしの文化人になった者がいる。ビートたけしなどそのいい例だ。今や世界に誇る北野監督だ。
 多分、たくさんの弟子達を抱えた芭蕉翁の姿は、たけし軍団に近いものがあったのだろう。今だったら芭蕉は「翁」ではなく「殿」と呼ばれていたかもしれない。
 そのほかにもピース又吉のように芥川賞を取る芸人もいる。
 俳諧師になるものの素性は様々だが、江戸時代の俳諧文化の礎を築いた松永貞徳は藤原惺窩に儒学を学んだ儒者だった。それだけでなく古今伝授を受けた細川幽斎に和歌を学び、里村紹巴に連歌を学んだ、当時の第一級の文化人だった。「松永」の姓も戦国武将の松永弾正の甥ということで、由緒正しい血筋を表わしている。
 その貞徳の句はというと、

 霞さへまだらにたつやとらの年
 雲は蛇呑みこむ月の蛙かな
 花よりも団子やありて帰る雁
 冬ごもり虫けらまでもあなかしこ

といったもので、真面目な学者が馬鹿をやると、それだけで面白い。馬鹿をやっているようでも、「雲は蛇」の句は、中国では月の模様を兎ではなく蛙に例えていることを知っていないとわからないし、そういうところでチラッと教養を覗かせたりする。
 もちろん、今日のお笑い芸人も結構そうそうたる名門大学の出身者が多い。ネタもかなり高度な知識を必要とするものがあったりする。それを思うと、貞徳は今日の芸人の祖だったと言ってもいいのだろう。
 才能があるからといって偉ぶってはいけない。才能がある人間がその才能でもって人を笑わせ、溢れる知性をみんなを幸せにするために使う。決して戦争のために使ったりはしない。それが日本の文化人のあるべき姿であり、その伝統は今でも生きている、と信じたい。
 正岡子規は「芭蕉雑談」のなかで「貞門の洒落(地口)檀林の滑稽(諧謔)」という言い方をしているが、芭蕉が見出したのはシュールネタや古典のパロディー、文体のパロディーなどいろいろ試みているうちに最終的に今日で言う「あるあるネタ」に至ったのではないかと思う。
 「あるあるネタ」は実際にあることを句に詠むわけだから、写生だと言われれば写生にも見える。ただ、近代の写生がもっぱら作者個人の体験の伝達であるのに対し、あるあるネタは誰もが思っている共通の体験を言い当てることで笑いをもたらす。この笑いが蕉門にとって重要だった。
 あるあるネタは今でも芸人ネタの主流を占めていて、シモネタにさえ気をつければそれほど下品に流れないから、日常の会話でも上手く用いれば洗練された会話術になる。
 よく日本人は冗談がいえないと言うが、大仰なアメリカンジョークみたいなものは日本人には馴染まない。あるあるネタが理解できれば日本人の高度なお笑い文化が理解できるはずだ。

2017年2月20日月曜日

 ちょっと前までは春が来たなと思う頃になると、家の前にどこからともなく猫がやってきて、猫同士がかちあったりすると、「おわあああああーー」「うわうおおおおおーー」と喧嘩をおっぱじめたりするものだった。ここんとこ、この声を聞いてない気がする。
 猫のもたらす毎年恒例のこの行事を、昔に人は「猫の恋」と呼んだ。あれは発情の声というよりは、雌のもとに通ってくる雄猫たちの喧嘩の声だ。
 猫の恋を詠んだ句はたくさんある。
 まず猫が通ってくる。

 猫の妻竃(へつい)の崩れより通ひけり 芭蕉 「江戸広小路」
 京町のねこ通いけり揚屋町       其角 「焦尾琴」

 そして声を上げる。

 猫の恋初手から鳴きて哀れなり     野坡 「炭俵」
 あたまからないて見せけり猫の恋    枳邑 「二葉集」
 我影や月になを啼猫の恋        探丸 「続猿蓑」
 おもひかねその里たける野猫哉     巳百 「続猿蓑」
 いろいろの声を出しけりたはれ猫    穂音 「一幅半」
 田作りの口で鳴きけり猫の恋      許六

 浮かれる。

 石磨の音にうかれつ猫の恋       孤松 「幾人主水」
 まとふどな犬ふみつけて猫の恋     芭蕉 「茶のさうし」
 猫の恋のぼりつめてか屋根の音     信昌 「一幅半」

 恋に迷う。

 ふみ分て雪にまよふや猫の恋      千代女
 行衛なき恋に疲や船の猫        擧桃 「花の雲」
 うき恋にたえてや猫の盗喰       支考 「続猿蓑」
 麦めしにやつるゝ恋か猫の妻     芭蕉 「猿蓑」

 喧嘩する。

 うき友にかまれて猫の空ながめ     去来 「猿蓑」
 にくまれてたはれありくや尾切猫    芦本 「皮籠摺」

 懐旧。

 懐旧や雨夜ふけ行猫の恋        千那 「鎌倉街道」
 ははき木の我が影法師や猫の恋     斗曲 「北國曲」

 邪魔される。

 手をあげてうたれぬ猫の夫かな     智月 「卯辰集」
 のら猫の恋ははかなし石つぶて     等年 「西國曲」
 雨だれの水さされてや猫の恋      化光 「北國曲」

 終わり。

 猫の恋やむとき閨の朧月        芭蕉 「をのが光」
 うらやまし思ひ切る時猫の恋     越人 「猿蓑」
 盗して見かぎられけり猫の妻     乙由 「皮籠摺」
 羽二重の膝に飽きてや猫の恋    支考 「東華集」
 傾城の生れかはりか猫の妻      木導 「韻塞」

 今や地球的規模で猫のエンクロージャーが進行している。いわゆる野良猫は駆除され、飼い猫は家の中で飼われて外に出ないようにされている。
 日本やアメリカは野良猫の収容施設があり、引き取り手がなければ殺処分される。ドイツではそうした公的施設がないため、その場で射殺されているという。ドイツで民間のティアハイムが盛んなのは公的サービスの欠落によるもので、野良猫はボランティアに保護されるか殺されるかのどちらかだ。
 もう三十年以上も前だろうか。鹿児島の大隅半島を夜にドライブした時、漁村の集落に入ると夥しい数の猫が道路脇に出てきていて、目が点々と光っていた。最近夜の西伊豆を走ることがあったが、そのときは一匹の猫にも出会わなかった。
 東海道や古代東海道など街道ウォーキングで一日二十キロ三十キロ歩いたりしても、二、三匹猫に出会えればいいほうで、一匹も見ない日もある。
 かつて当たり前のようにいた路地裏の猫は、今やすっかり見ることも稀になった。
 猫の島というのがネットで話題になって、そういうところには世界中から観光客が来る。逆に言えばそういう島はもはや世界でも稀で、それこそ最後の楽園なのかもしれない。
 これに対し、猫を共有財産(コモンズ)と位置づけて、地域で猫を共同飼育する地域猫の活動も起きているが、猫嫌いの住人との間に軋轢があることは否定できない。
 このままでは「猫の恋」も忘れられた季語として消えてゆくことになるだろう。
 「殺処分ゼロ」なんて言葉だけが踊っているが、現実には殺処分されるような猫そのものが年々いなくなっているということが見過ごされている。
 昔は、

 猫の恋やむとき閨の朧月      芭蕉

 これからは、

 猫の恋やむとき猫のない世界

2017年2月17日金曜日

 今日は春一番が吹いた。
 「春一番」という言葉は俳諧でも明治の俳句でも見た記憶がない。わりと最近の言葉だ。
 ウィキペディアによると、気象庁は安政6年2月13日の長崎県壱岐郡郷ノ浦町の漁師の漁船が転覆した事件以降、漁師らがこの強い南風を「春一」あるいは「春一番」と呼ぶようになったという。実際にこの言葉が一般に広まったのは1959年に民俗学者の宮本常一が『俳句歳時記』で紹介したことによるらしい。春一番という言葉の初出は天保二年の『稲束家日記』だという。ここまではウィキペディアの受け売り。
 まあ、今ではすっかり馴染んで日本の伝統のように思えることも、意外に新しいものは多い。「春一番」もその一つといっていいだろう。
 「梅若菜」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

2017年2月16日木曜日

 レギュラーの「あるある探検隊」ネタで「シュートチャンスにパスをする」というのがあったが、百年たったらこのネタの何が面白かったのか、謎になるかもしれない。まず、何の競技のシュートだったのか。シュートチャンスになるようにパスを出したんならナイスプレーではないかなど、まったく違った意味に受け取られているかもしれない。
 まして芭蕉の俳諧は300年以上も前のこと。今回もまず「竹の割下駄」で悩んでしまった。
 そういうわけで、「梅若菜」の巻のラスト三句。

三十四句目
   形なき繪を習ひたる會津盆
 うす雪かかる竹の割下駄     史邦
 (形なき繪を習ひたる會津盆うす雪かかる竹の割下駄)

 史邦(ふみくに)は尾張犬山の出身で京都在住。
 ここでまず問題なのは「竹の割下駄」というのがどういう下駄かだ。割下駄で検索すると八ツ割下駄というのが出てくる。八つ割にした歯の上に藺草や裂いた竹を編んだ表を乗せたもので、柔軟性があって歩きやすい。雪駄に近く、底の皮の代わりに八つ割にした板を張ったという感じだ。
 会津桐の博物館のサイトを見ると、そこにも桐の八つ割りというのがあって、「下が熱い所で仕事をする時などに履いていた。セッタの底に桐のコマのようなものをつなげてつける。下が熱いはがね作りの作業用下駄であった。」とある。ただ、これは竹ではない。雪とも関係なさそうだ。
 「古文書ネット」というサイトだと、「竹下駄」というのが紹介されている。文化七年刊の八隅芦庵著『旅行用心集』からの引用で、「此外下駄も草履下駄の如く辷(すべ)る也、是は辷るに曲ることなくまつすくにはしるなり、近年多くこれを用ゆるといふ、是等旅具にあらざれとも雪国のみの物故出也」とある。時代も元禄ではないが古註に近い年代で、雪国で用いられたという点も符合する。ただ、絵を見ると竹を半分に割ったものに鼻緒をつけただけのシンプルなもので、子供がすべって遊ぶためのスケート靴のようなもののようだ。
 結局これだけではよくわからない。古註を見てみよう。
 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)には「竹にて拵たる下駄也。」とある。
 『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)には「塗物細工する者の小庭にはかかる下駄など有べし。」とある。庭下駄の一種か。
 『猿蓑四歌仙解』(鈴木荊山著、文政五年序)には「是は茶人の庭先きと見ゆ。」とある。茶人が履いたということは雪駄系、だとすると八つ割り下駄か。
 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「あたへのやすき竹の割下駄はくさま也。」とある。「あたへ」が「あたひ」のことだとすると、安価だったのか。
 『俳諧猿蓑付合注解』(桃支庵指直著、明治二十年刊)には「降雪に、庭下駄のぬるるも気づかざるさまを含みし逃句の付方也。」とある。やはり庭下駄だから、竹を編んだものに割り歯を付けた八つ割り下駄のことなのだろう。
 とりあえず、ここでは八つ割り下駄と見ていいだろう。会津漆器の乾漆の盆を作るような人なら、庭下駄に竹の八つ割り下駄を履く風流人で、会津だからその下駄の上にうっすらと雪が積もり、履こうにも履けないという所に俳諧らしい笑いがあった、というところか。

季題は「薄雪」で冬。降物。次は花の定座だが、あえて冬か。「下駄」は衣装。

三十五句目
   うす雪かかる竹の割下駄
 花に又ことしのつれも定らず     野水
 (花に又ことしのつれも定らずうす雪かかる竹の割下駄)

 野水は名古屋の人。『野ざらし紀行』の旅の途中で荷兮、杜国らと巻いた俳諧は『冬の日』にまとめられ、芭蕉七部集の最初のものとなった。
 前句が冬なので、「花」は出すけどこれから花の季節が来て、どこか花見の旅に出ようと思うに、同行者が定まらずとし、今は一人部屋に籠り、庭下駄の竹の割下駄も雪が積もっている。
 『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には、「竹の割下駄をはく人のうへにして、年々花の旅を心懸るに、今年も又連の定まらぬと心せかるるさまの付にして、乙州餞別の俳諧、名残の花に一巻の守備を調ふ付也としるべし。」とある。春に旅立つ乙州に、一緒に花を見に行けないのが残念ということか。

季題は「花」で春。植物、木類。「つれ」は人倫。

挙句
   花に又ことしのつれも定らず
 雛の袂を染るはるかぜ      羽紅
 (花に又ことしのつれも定らず雛の袂を染るはるかぜ)

 羽紅はウコウと読む。ハクではない。凡兆の妻。おとめさん。
 春といえば春の女神、佐保姫。春風が雛の袂を染めるというのは、佐保姫の霞の衣からのイメージで『詞花集』には、

 佐保姫の糸染め掛くる青柳を
    吹きな乱りそ春の山風
               平兼盛

の歌もある。柳の緑も佐保姫の染めたものとしている。
 花見の参加者も決まらぬままに桃の節句となり、雛の袂の鮮やかな色彩は山々を緑やくれないに染め上げるように、佐保姫の春風が染めていったのだろうか、と付く。さながら羽紅自身が佐保姫になったかのように、この一巻を目出度く締めくくる。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「花ノ噂ヲスル一間ノ風情ヲ言リ。但春染ル神ト言ハ佐保姫ノ事ニテ、染ル春風トナシタルハ一段ナリ。」とある。

季題は「雛」「春風」で春。

2017年2月15日水曜日

 江戸時代も二百五十年以上続いたため、初期と末期ではかなりの違いがある。芭蕉の活躍した延宝から元禄の頃と幕末とでは庶民の生活も大きく異なり、古註を読むときはその違いというのも常に頭に入れておかなくてはいけない。
 醤油にしても、芭蕉の時代の関東ではまだそれほど普及してなかったし、鰹節にしてもそうだった。
 お茶は抹茶が主流で、煎茶は江戸後期になる。酒も芭蕉の時代は濁り酒だった。天和二年(一六八二)に、

 花にうき世我酒白く食(めし)黒し  芭蕉

の句がある。濁り酒と玄米が日常の食卓だった。
 こういう違いを知るというのも俳諧を読む面白さの一つだと思う。
 それでは「梅若菜」の巻、二裏に入る。

三十一句目
   醤油ねさせてしばし月見る
 咳聲(しはぶき)の隣はちかき縁づたひ  土芳
 (咳聲の隣はちかき縁づたひ醤油ねさせてしばし月見る)

 醤油の仕込みを終えた人が月を見に外に出たら、隣では咳をする声がする。二の裏ということもあってか、軽く流して場面を転換する。
 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「其場也。咳声月に対して。」とある。

無季。「咳聲」は近代では冬。

三十二句目
   咳聲の隣はちかき縁づたひ
 添へばそふほどこくめんな顔   園風
 (咳聲の隣はちかき縁づたひ添へばそふほどこくめんな顔)

 「こくめん」は黒面と書くが克明から来た言葉で、誠実だとか律儀だとかいう意味だという。何で克明が黒面になったのかはよくわからないが、あるいは定番が鉄板になったような言い間違いが定着したものか。
 句の意味は、隣の咳払いした人のことを、その奥さんの側にたって、添えば添うほど生真面目な人だということだろう。ただ逆に、咳をした人の奥さんが誠実だとも取れる。咳をした人が女性だった可能性を含めると四通りの解釈が可能になる。
 許六は『俳諧問答』のなかで、「此句、『添』字、前句の噂さ也。『見れバ見るほど』としたし。」と言っている。確かにこの混乱は隣人の咳を聞きながら、その聞いた人の感想ではなく隣人の配偶者の側に立った推測だというところからくるの。「見れば見るほど」だと咳の主が黒面ということになる。
 そういうわけで、古註の解釈も割れている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)、『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は妻の方を黒面とし、『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)、『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)、『俳諧猿蓑付合注解』(桃支庵指直著、明治二十年刊)は夫のこととする。

無季。「顔」は人倫。

三十三句目
   添へばそふほどこくめんな顔
 形なき繪を習ひたる會津盆      嵐蘭
 (形なき繪を習ひたる會津盆添へばそふほどこくめんな顔)

 さて、ここからが京都での興行になる。嵐蘭は浅草の人で、其角、嵐雪、杉風などと並ぶ延宝の頃からの弟子。この頃伊賀を訪れたあと、上京した。
 形なき絵というのは会津漆器でも「乾漆」と呼ばれるものだろう。高度な技術と手間隙を要するもので、それこそ黒面でなければ作れない。会津漆器は戦国時代に始まり、江戸初期には既に江戸へ出荷するまでに盛んになっていた。
 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)には「奥州会津の産物、模様さまざまに形さだかならぬ絵也。」とある。

無季。

2017年2月14日火曜日

 今日はバレンタインデーで、バレンタインは近代俳句では春の季語になる。
 もっとも最近では愛の告白の意味が薄れて、チョコレートの祭になりつつある。80年代くらいにはスーパーに行くと安価な冗談チョコが並んでたりしたが、近年では高級志向が強まり、ゴディバなどのブランドチョコももはや古くなって、有名ショコラティエやBean to Barの人気が高まってきている。
 贈り物に限らず、自分チョコや女子会用やら、さらにはスイーツ男子の需要も増えてきている。
 そのうち「チョコレート」自体が春の季語になるのでは。
 さて、「梅若菜」の巻の続き。

二十八句目
   ここもとはおもふ便も須磨の浦
 むね打合せ着たるかたぎぬ    半残
 (ここもとはおもふ便も須磨の浦むね打合せ着たるかたぎぬ)

 肩衣(かたぎぬ)は袖のない肩から背中を覆う衣装で、戦国時代の武士は織田信長の肖像画のように、胸よりも下のところで合わせてきていたが、江戸時代の武士が礼服として着る肩衣は袴の所まで合わせないで着る。胸を打ち合わせて着る肩衣は庶民のものと思われる。
 浄土真宗の門徒の着る略肩衣とする説もあるが、ここでは田舎の漁村の古風な風俗を付けたと見たほうがいい。
 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「打かはりて門徒の講中。」とし、『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)でも「又須磨の浦のもの淋しさを付出したり。又一向宗の人のさまなど也。」と略肩衣のこととしている。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)では「ただ其人の形状をいへれど、憂愁をふくめる句作の妙をみるべし。」とあり、『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)では「おもふごとく便りもなきを案る、身すぼらしき姿なるらむ歟。」とある。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も「其人ニシテ住馴タレバ都ノ姿モナクナリタル姿ヲ言、」とある。
 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)の源氏の従者という説は三句にまたがって輪廻になる。

無季。「肩衣」は衣装。

二十九句目
   むね打合せ着たるかたぎぬ
 此夏もかなめをくくる破扇      園風
 (此夏もかなめをくくる破扇むね打合せ着たるかたぎぬ)

 さて、月の定座だが、月は出ない。
 前句の胸打ち合わせの肩衣のみすぼらしさを受けて、壊れた扇子の柄の所を縛って補修して使っている様を付ける。
 江戸時代の庶民は団扇を使うことが多く、壊れた扇子を使うのは困窮した牢人であろう。「此の夏も」というから、今年も仕官を果たせずという所か。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「此付の余情を弁せば、青雲の志をもとげず、空く月日の流るるを歎く意あり。」とある。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も「二君に仕ヱザル浪人トミナシ其用ヲ付タリ。」とある。

季題は「夏」で夏。「この夏も」は述懐。

三十句目
   此夏もかなめをくくる破扇
 醤油ねさせてしばし月見る    猿雖
 (此夏もかなめをくくる破扇醤油ねさせてしばし月見る)

 ここでやっと月が出る。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には夏之部六月に「醤油造」の項目があり、「[和漢三才図会]醤油、和名比之保。本邦の俗、油の字を加ふ。醤油は本草に載る豆油(たまり)なり。」とある。それゆえ、この句は月はあっても夏の句として扱われる。
 醤油というと日本人の食卓に欠かせないものだが、今のような醤油が江戸の庶民の間に普及したのは文化・文政期だという。元禄の頃だと、関西を中心に溜まり醤油が用いられていた。
 醤油は微生物の活動の活発になる前の冬から春に仕込むことが多く、夏に仕込むことはあまりない。何で夏のそれも晩夏の六月の季題になっているのかは謎だ。
 一つの仮説だが、本来「醤油造」は魚醤の仕込みのことで、かつて瀬戸内海で広く造られていたイカナゴ醤油は夏の油の乗ったイカナゴを使っていたため、夏の季題になったのではないかと思う。特に、夏になると鮮度が保てないため食用に適さなくなり、その時期に魚醤が造られたのではないかと思う。
 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「前句の五文字より付起したり。此度も醤油の世話するよ、と月に対して術懐せる心こもれり。」とある。

季題は「醤油ねさせて」で夏。「月」は夜分、天象。

2017年2月12日日曜日

 「梅若菜」の巻の続き。

二十五句目
   身はぬれ紙の取所なき
 小刀の蛤刃なる細工ばこ       半残
 (小刀の蛤刃なる細工ばこ身はぬれ紙の取所なき)

 蛤刃(はまぐりば)というのは、刀などの断面が通常は直線的なのに対し丸くふくらみを持たせたもので、刃先の角度が鈍くなる分切れ味は落ちるが、強度が増すのと切ったものが刀身に張り付きにくくなる利点がある。硬いものを叩き切るときなどに良い。今日ではコンベックスグラインドとも言い、サバイバルナイフなどに多いという。
 武骨な蛤刃の小刀は細かい細工には向いてないから、これは職人ではなく素人が細工箱に似合わない小刀をしまっているということで、これじゃ濡れて張り付いた紙をはがすことも出来ない、とう意味なのだろう。
 『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)の「取所もなき物ぐさきおとこの細工ばこならん。」というのが一番当たってるのではないかと思う。刃物の知識もなしに適当に道具箱につめているといったところだろう。
 『標註七部集稿本』(夏目成美著、文化十三年以前成立)に「職人尽哥合第三、硎、いつまでかはまぐりばなる小刀のあふべき事のかなはざるらん。」とあるが、いろいろ検索してみているけど、今の所はどの職人歌合せなのか不明。いくつかの古註はこの歌を引用しているが、本歌かどうかはよくわからない。

無季。

二十六句目
   小刀の蛤刃なる細工ばこ
 棚に火ともす大年の夜      園風
 (小刀の蛤刃なる細工ばこ棚に火ともす大年の夜)

 園風も伊賀藤堂藩士。
 今の神棚の元となる伊勢のお札を祭る大神宮棚が普及したのは江戸時代中期で、それ以前の神棚は基本的に仮設のものだった。大晦日に歳神様を祭る棚も、お盆の精霊棚のようなものだったのだろう。
 蝋燭が量産され、庶民でも手軽に買えるようになったのも、おそらく江戸中期からだろう。それ以前は行灯のように油を燃やすか、松脂などを利用したのだろう。小刀はそのとき、薪にする松や竹などを燃えやすいように小さく切るのに用いられたのかもしれない。
 古註は「古」といっても江戸時代中期以降なので、その辺の前提の違いが理解できずに、貧しい家の小さな神棚を想像し、切れない小刀でせわしく神棚をこさえている情景としている。

季題は「大年」で冬。盆が釈教でないのなら、正月の歳神様を祭るのも神祇とはいえないだろう。

二十七句目
   棚に火ともす大年の夜
 ここもとはおもふ便も須磨の浦    猿雖
 (ここもとはおもふ便も須磨の浦棚に火ともす大年の夜)

 猿雖は伊賀上野の商人で元禄二年に出家したという。
 「ここもと」は「此処許」でこのあたりのこと。「須磨」は「済まぬ」と掛詞になるが、これは和歌ではよくあること。いとしい人から便りは来てもここ須磨の裏ではすっきりしない。そうこうしているうちに棚に火をともす大晦日となる。『源氏物語』「須磨」の巻の良清の朝臣の心情を本説にしたものであろう。棚は住吉の神を祭ったものか。猿雖は貞享の頃からの門人のせいか、付け方が古い。
 ただ、『源氏物語』の本説は同じ『猿蓑』の「市中は」の巻にも、

   魚の骨しはぶる迄の老を見て
 待人入し小御門の鎰(かぎ)    去来

の句があり、前句の老人を『源氏物語』「末摘花」の巻に登場する門の鍵の番人の老人と取り成しての、本説付けになっている。一巻に一句くらいはあってもいいし、芭蕉も嫌ってなかった。
 単に流人の心情を詠んだとも取れるから「面影」と言えなくもないが、それにしても王朝時代の話で元禄の風情ではない。

無季。「おもふ便」は恋。二十三句目の「恋」から三句隔てている。

2017年2月11日土曜日

 今日は梅が丘の羽根木公園の梅を見た。世田谷梅祭りをやっていて人が多く賑やかだった。外人さんもたくさんいた。梅の遅速というが結構咲きそろっていた。
 午前中は雲ひとつないいい天気だったが、午後からは寒波のせいで雪雲がここまで流れてきたのか、雪がちらつくことはなかったけど黒い雲が通り過ぎ、寒かった。
 梅を詠んだ句はたくさんあるが、印象に残るというか一番インパクトのあるのは、

 うめの花赤いは赤いはあかいはな 惟然

ではないか。いかにも春が来て浮かれている感じで、子供でもわかるようなこんな単純な句は、一見簡単そうで難しいし、惟然門の超軽みの句はいくつも作られたが、これを越える句はないだろう。
 ただ、この句は『去来抄』に引用されているから、芭蕉の死後五年も経たぬ頃に詠まれていたのだろう。初出はやや末尾が異なる、朱拙編の元禄十二年一月刊の『けふの昔』の、

 梅の花赤いは赤いは赤ひもの   惟然

だった。「あかいはな」の形は『去来抄』と惟然の死後に公刊された『惟然坊句集』による。
 惟然の超軽みの句はこの直後の元禄十二年の播州への旅によって一気に開花した。
 惟然撰『二葉集(じえふしふ)』は元禄十五年頃の編纂で、この直前に惟然は再び播州を訪れている。ただ、ここには「うめの花」の句はない。その『二葉集』の梅の句はこんな調子だ。

 吹かぜも心ありけなむめのはな     智月
 それはそれそこらの梅のほんのほんの  柳門
 梅の花何とおもやるすつぺりと     釣壺
 むめの花白を見(みる)さひあかひのも 簔里

 同じ『二葉集』には播州の連衆との表六句、

 からびたる寝ごとや梅にあたたまれ  元灌
   霞はどこをどうまよふかの    惟然
 雛祭る彼是などと有事で       千山
   さしてもないにきゃっきゃきゃっきゃア 多幸
 月影のたれやらほんに似たはいの   定當
   それそれそれよ松たけかそれ   元用

がある。
 そして同じ元禄十五年に千山撰の『花の雲』が刊行されている。それはこんな調子だった。

 おもふまま思ひのままにんめの花     多幸
 酔たやらんめのにほひも葱(ひともじ)も 至楽

 梅は当時は「むめ」と表記されていたが、「んめ」というのは当時の播州の方言か。
 梅の句ではないが、

 うぐひすがそりゃ鶯が鶯が  至楽

に至っては、作者不詳だが芭蕉の句と言われてきた「松島やああ松島や松島や」を思い起こさせる。

2017年2月9日木曜日

 今日も寒かったが、3年前のような大雪にはならなかった。今年は関西の方が雪の当たり年か。
 さて、「梅若菜」の巻の続き。

二十二句目
   汗ぬぐひ端のしるしの紺の糸
 わかれせはしき鶏の下      土芳
 (汗ぬぐひ端のしるしの紺の糸わかれせはしき鶏の下)

 伊賀で次に登場するのが芭蕉の俳論をまとめた『三冊子』を書き残すことになる土芳さん。恋に転じる。
 鶏の声で急いで帰ってゆくというと王朝時代の通い婚の恋かと思わせて、前句に付くと「汗ぬぐい」という卑近なものがあったりして、これはいわゆる夜這いの句と見ていいだろう。
 鶏の声に驚いて退散する男。ただ残していった汗ぬぐいには紺の意図のしるしがあって誰が来たかばれてしまう。
 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)には「賤の女などの恋と付たり。」とあり、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「忘れ物と見て、せはしきとは作れり。余情自知すべし。」とある。

無季。「わかれ」は恋。「鶏」は鳥類。

二十三句目
   わかれせはしき鶏の下
 大胆におもひくづれぬ恋をして    半残
 (大胆におもひくづれぬ恋をしてわかれせはしき鶏の下)

 鶏の声での別れから『伊勢物語』の陸奥の国の女の面影に転じる。
 陸奥の国をさまよい歩く都から来た男に恋心を持つ女がいて、最初は恋に死ぬくらいなら蚕になるという歌を送る。それを哀れに思って男はそこに「いきて寝にけり」となるのだが、夜更けに帰ろうとするとその女は、

 夜も明けばきつにはめなでくたかけの
    まだきに鳴きてせなをやりつる

と詠む。
 「きつにはめなで」は古い時代には「狐に食めなで」つまり「狐に食はさずに」というふうに解釈されていた。今で言う「恨みはらさでおくべきか」のような言い回しで、「夜が明けたなら狐に食わさでおくべきか」といったところか。
 江戸後期になって平田篤胤は「きつ」を水槽のことだとし「水槽に嵌めなで」と解釈したが、芭蕉の時代にはその解釈はない。
 「くだかけ」は「朽た家鶏」。「この糞ニワトリめ」といった感じか。
 現代語訳すれば、

 夜があけたら狐に食わすぞ糞ニワトリ
    まだなのに鳴いて彼氏帰らせ

といったところか。
 さすがの業平さんも、田舎の女の真っ直ぐな情熱には辟易するという話だ。芭蕉の時代の言葉だと「大胆におもひくづれぬ」ということなる。
 『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には「伊勢物語の俤にして、二句一意の付也。」とある。

無季。「恋」は恋。

二十四句目
   大胆におもひくづれぬ恋をして
 身はぬれ紙の取所なき      土芳
 (大胆におもひくづれぬ恋をして身はぬれ紙の取所なき)

 前句の心をものに例えた付け。一句に恋の言葉がないため恋を離れ別のテーマに転換しやすくなる。
 濡れて張り付いた紙ははがそうにもはがせない。そんな恋をしてしまった、と。
 『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)には「比論付と言也。ものにたとへる也。」とある。

無季。「身」は人倫。

2017年2月8日水曜日

 ヤフー・ニュースにTOKYO FMの番組のソースで「晩年の松尾芭蕉が、旅の途中に大阪に向かった理由とは?」というのがあった。
 「仲違いしている弟子同士を仲直りさせるため」というのがその答で、このニュースでは弟子の名前が出てなかったが、酒堂(しゃどう)と之道(しどう)のことだ。
 芭蕉の最後の旅は元禄七年の五月のことで、「空豆の花」の巻の興行の後、子珊亭で「別座敷」の興行を行い、五月十一日に旅立つ。一説に大腸癌だったのではないかと言われる芭蕉の病気は既に進行していて、歩くことはおろか、馬も負担が大きいので駕籠に乗ったともいわれている。
 旅の目的は、ひとまずは伊賀への帰郷だったが、それとともにまだ行ったことのない明石より西への旅も計画されてたという。死ぬ前に一度は行ってみたかったのだろう。『奥の細道』の旅の途中でも、芭蕉自身はもっと北へ行くことを望んだが曾良の反対で象潟をあとに北陸道を戻ることになった。
 五月二十八日に伊賀に着いた芭蕉は、閏五月十六日に伊賀を発ち大津や膳所を経て京都へ行く。去来の落柿舎滞在中に大阪の之道を迎えて「牛流す」の巻の興行を行う。ここで大阪での酒堂と之道との対立のことをいろいろと聞かされたのだろう。
 六月には再び膳所に戻る。七月にはまた京都へ行き、中旬には伊賀に帰る。九月八日に大阪に向かう。途中奈良に寄る。九月十日に大阪に到着するが、ここで病状が急変する。九月二十七日に行われた「白菊の」の巻の興行が、芭蕉にとっての最後の興行となる。この時酒堂・之道の両者も参加した。
 ここで仲直りするかに見えたが、結局対立は解消されなかった。十月十二日に芭蕉は没す。このとき之道は立ち会っているが、酒堂は直前に姿をくらませたという。
 「白菊の」の巻を見る限り、酒堂・之道の間にそんなに作風の相違は感じられない。対立は俳諧の方向性というよりはもっと個人的なものだったと思われる。
 之道はもとから大阪の人であるのに対し、酒堂は膳所の人で後に大阪に移ったため、之道から見れば余所者だったのだろう。しかもその余所者に、大阪の蕉門は衰退しているから俺が立て直すんだみたいなことを言われたなら、そりゃあ之道の立場がない。
 大阪の蕉門は衰退しているというよりは、元々大阪談林の力が強く、それに伊丹の鬼貫の一派が合流して、蕉門にとってはなかなか食い込めない土地だった。今でも関東の笑いと関西の笑いは違うといわれるが、この蕉門と大阪談林の頃からのものなのかもしれない。それを余所者にとやかく言われたくないという気持ちはあったのだろう。
 しかも酒堂は膳所にいた頃は珍碩と名乗り、「木のもとに汁も膾も桜かな」を発句とした興行にも参加していたが、酒堂に改名したことで名前まで「しどう」と「しゃどう」でかぶっている。之道が楓竹に改名したのも、このかぶりを気にしていたのかもしれない。
 結局大阪の蕉門は分裂したまま、芭蕉が命をかけて大阪まで来たにもかかわらず、蕉門は大阪を制覇できなかった。まあ、ここで酒堂・之道の和解が成立していたら、ひょっとしたら関西独自のお笑い文化はなかったかもしれないから、それはそれで別に残念に思う必要はないのだろう。

2017年2月7日火曜日

 「梅若菜」の巻は二の懐紙に入る。二の表。
十九句目
   灰まきちらすからしなの跡
 春の日に仕舞てかへる経机      正秀
 (春の日に仕舞てかへる経机灰まきちらすからしなの跡)

 正秀も近江国膳所の人で、十七句目のところで触れた「鑓持のなほ振たつるしぐれ哉」の句で知られている。
 芭蕉の元禄四年五月二十三日付の正秀宛書簡に「しぐれの鑓持句驚入、此集之かざりとよろこび申候。御手柄とかく申難候。」とあるところから、この句は元禄三年冬の句で、この「梅若菜」の興行のときは芭蕉はまだ知らなかったと思われる。当時の撰集向けの発句は時間をかけて推敲してから発表することも多かったので、まだ完成してなかったのかもしれない。
 「経机」はお経を読んだり、写経をしたりする際の主にお坊さんが使うもので、畑から飛んでくる灰に悩まされ、遂に断念して帰ることにしたのだろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「灰をいとふの意にして体用の変あり。」とある。
 『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には、「爰に起情して、千部などの法会勤て寺に帰る僧の永き日に倦たる模様迄、一句のうへに見せて、前の畑際を通る人の見出し也。僧とはいはずして経机と作りて聞せる所手づま也。」とある。打越の「鑓の柄に立すがりたる」も武人といわずして武人を表す。この辺が「匂い」となる。

季題は「春の日」で春。「経机」は釈教。

二十句目
   春の日に仕舞てかへる経机
 店屋物(てんやもの)くふ供の手がはり 去来
 (春の日に仕舞てかへる経机店屋物くふ供の手がはり)

 「てんやもの」という言葉は最近聞かれなくなったが、ちょっと前までは出前を取ったりする時に「てんやものですまそう」なんて言ったりした。本来は出前やデリバリーやケータリングのことだけでなく、宿屋や飲食店で食べるものも含め、店の食事を「てんやもの」と言った。
 この句は経机をしまって帰る人を偉い坊さんにお仕えする小坊主のこととし、交替で非番になったのをいいことにお寺の精進料理ではなく、店で好きなものを食っている様を付けた。まあ、修行は大事だけど息抜きも欲しいというのは修行僧の本音だろう。今なら通学路で買い食いをする中高生のようなものか。
 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)には「買喰する体也。」とある。
 『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には、「前の僧を院家と見て、供多く連たるさまの付也。」とある。

無季。「供」は人倫。

二十一句目
   店屋物くふ供の手がはり
 汗ぬぐひ端のしるしの紺の糸     半残
 (汗ぬぐひ端のしるしの紺の糸店屋物くふ供の手がはり)

 ここから先が伊賀での興行となる。何でこんな変則的な一巻になったのかはよくわからないが、『奥の細道』の山中温泉で病気で先に伊勢に向かう曾良への餞別の興行となった「馬かりて」の巻でも、曾良の参加は初の懐紙のみで、二の懐紙は芭蕉と北枝との両吟になっている。そこから考えると、ここでも乙州が明日の朝早く旅立つため、初の懐紙だけで早めに終わりにしたのだろう。
 蕉門の俳諧は貞門談林の俳諧に比べ、技法が高度になった分速度が遅くなったのではないかと思う。百韻が少なくなり歌仙が主流になったのもその辺の事情があったのだろう。また、出勝ちに比べて三吟四吟などの順番の決まった形式の方が速度が落ちるのではないかと思う。一人で次の句を考えるより、大勢で考えた方が早くなるし、またスピードを競うようにもなる。
 中世の連歌は千句興行などを行い、かなり速い速度で句が付けられていったと思われる。また近世の談林俳諧でも、井原西鶴の大矢数独吟興行は、ほとんど今のラップのように早口で切れ目なく句を詠んでいったのではないかと思われる。それに比べると蕉門の俳諧は熟考の俳諧で、量より質を重視したものと思われる。
 半残は伊賀上野の人で伊賀藤堂家の家臣。芭蕉の元禄四年五月十日付けの半残宛書簡には、「いがの手柄大分に御座候。ご発句、花うつぼ・木兎など、人々驚入申候。」と、

 鼠共春の夜あれそ花靫     半残
 みみづくは眠る処をさされけり 同

の句を高く評価している。
 さて二十一句目だが、前句の「手がはり」という言葉には体裁・形式などが普通と異なっているという意味もある。そこから店屋物を食う共のちょっと変わった体裁、と取り成して、汗ぬぐう布の端っこに紺の糸で印があると付ける。他の人、いわゆる傍輩の持ち物と区別するためだと思われる。
 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)に「店屋物くひに来りし供のもの、昼のあつさに汗ぬぐふ也。その手拭にしるしの付て有也。」とある。

季題は「汗ぬぐひ」で夏。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の夏之部に「汗巾(あせぬぐひ) 長さ一二尺の布の両端を縫ひ、これを用ふ。」とある。

2017年2月6日月曜日

 「梅若菜」の巻の続き。

十六句目
   懐に手をあたたむる秋の月
 汐さだまらぬ外の海づら     乙州
 (懐に手をあたたむる秋の月汐さだまらぬ外の海づら)

 懐で手を温める人を漁師か何かと見たか。位付けと言っていいだろう。次が花の定座ということもあってか、ただ場所だけを示す。「外の海」は内海に対しての言葉で、太平洋、日本海、東シナ海などを指すとみていいのか。
  『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「海士や船人の天気を窺ふ様子ともみゆ」とある。
 『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年刊)には「愚考、筑前玄界灘迄を内海と云、又瀬戸内といふ。是より九州地へかけて外海といふといへる説もあり。猶尋ぬべし。内海の汐の満干定りありと和漢三才図会に見ゆ。外海は汐の沙汰なし。」とある。

無季。「汐」「海づら」は水辺。

十七句目
   汐さだまらぬ外の海づら
 鑓の柄に立すがりたる花のくれ    去来
 (鑓の柄に立すがりたる花のくれ汐さだまらぬ外の海づら)

 さてもう一人の猿蓑の編者、去来の登場。そしていきなり花を持たされる。凡兆が月で去来が花と、これは芭蕉の粋な計らいと見ていいだろう。
 これは秀吉の時代に朝鮮行きを命じられた武将の姿だろうか。なかなか汐が定まらず海を渡れないまま、今日も駄目かといかにも疲れたように鑓の柄で体を支えて佇んでいる。戦意が盛り上がらず、今日も長閑に桜の花に日は暮れてゆく。武将の苛立ちと平和が一番という庶民感覚とのギャップを感じさせる。
 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)はこの句を「いせをはりの海づらを打詠たる鑓もち也。」と鑓持ちの句としている。「鑓持ち」は大名行列などで、槍をかざして盛り上げる役で、

 鑓持のなほ振たつるしぐれ哉     正秀

の句は『猿蓑』の見どころの一つとなっている。この正秀もこのあと登場する。ただ、伊勢尾張だと七里の渡しで外海とはいえない。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)は「渡海を思ふ勇士のもやうなど見るべきか。」とあり、この方が良いと思う。
 『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)は「前の海辺を軍場と見て勇士の風情を付たり。魏の曹操梁を横たへ詩を賦などの俤なり。」とするが、深読みのしすぎだろう。曹操は中国人が驚くほど今の日本では人気だが、江戸時代からそうだったのか。日本では元禄二年に『通俗三国志』が出版されているが、去来がその影響を受けたかどうかはわからない。

季題は「花」で春。植物、木類。「萩の札」から三句隔てている。

十八句目
   鑓の柄に立すがりたる花のくれ
 灰まきちらすからしなの跡    凡兆
 (鑓の柄に立すがりたる花のくれ灰まきちらすからしなの跡)

 これは、『和漢朗詠集』にある菅原文時の漢詩、

 桃李不言春幾暮 煙霞無跡昔誰栖
 桃李もの言わず春いくばくか暮れぬる
 煙霞跡無し昔誰ぞ栖

の心か。鑓の柄に立ちすがるのは老いた武将で、「煙霞跡無し」を俳諧らしく芥子菜の菜の花の跡形もなく刈られて、土を作るための灰が撒かれている情景にする。こういう換骨奪胎は凡兆の得意とするところだろう。
 この詩句は平家物語の少将都帰の場面でも引用されている。謡曲「泰山府君」には、「煙霞跡を埋むでは花の暮を惜み。」とある。
 古註はいろいろ意見が割れていて、これといった有力な説はない。

季題は「からし菜」で春。植物、草類。

2017年2月5日日曜日

 「梅若菜」の巻の続き。


十三句目
   すみきる松のしづかなりけり
 萩の札すすきの札によみなして    乙州
 (萩の札すすきの札によみなしてすみきる松のしづかなりけり)

 これは『撰集抄』巻六第八の「信濃佐野渡禅僧入滅之事」の本説による付け。本説なので元ネタを知らないと何のことだかよくわからない。元ネタを知らなくても大体わかるようなら「面影」になる。
 ここではわからないので、その元ネタの文章を引用しておこう。

 「永暦の末八月の比(注:一一六一年八月か)、信濃の国さののわたりを過ぎ侍しに、花ことにおもしろく、蟲の音声々鳴わたりて、ゆきすぎがたく侍りて、野辺に徘徊し侍るに、玉鉾の行かふ道のほかに、すこし草かたぶくばかりに見ゆる道あり。いかなる道にかあらんとゆかしく覚えて、たづねいたりて見侍るに、すすき、かるかや、をみなへしを手折て、庵むすびてゐたる僧あり。齢四十あまり五十にもや成ぬらんと見えたり。前にけしかる硯筆ばかりぞ侍りける。まことに貴げなる人に侍り。庵の内を見入侍れば、手折て庵につくれる草々に、紙にて札をつけたり。
 すすきのやどりには、

 すすきしげる秋の野風のいかならん
    夜なく蟲の声のさむけき

 かるかやのしとみには、

 山陰の暮ぬと思へばかるかやの
    下置く露もまたき色かな

 ふぢばかまのふすまには、

 露のぬきあだにおるてふ藤ばかま
    秋風またで誰にかさまし

 荻の葉のもとには、

 夕さればまがきの荻に吹風の
    目にみぬ秋をしる涙かな

 をみなへしの咲けるには、

 をみなへし植しまがきの秋の色は
    猶しろたへの露ぞ変らぬ

 はぎ咲けるには、

 萩が花うつろふ庭の秋風に
    下葉もまたで露は散りつつ

と札をつけて、座禅し給へり。」
(『撰集抄』西尾光一校注、一九七〇、岩波文庫、p.183~185)

 まあ、文字通りの「草庵」といえよう。
 この西のほうの山に六十余りの老僧がいるのを見つけ、行ってみると眠るように息絶えていて、木の枝にやはり札がつけられていた。そこには、

 むらさきの雲まつ身にしあらざれば
    澄める月をばいつまでもみる

という歌が記されていた。
 前句の「すみきる松のしづかなりけり」から、この歌を連想したのだろう。何の木かは本文には書いてないが歌の「雲まつ身」が「松」との掛詞になっているとも読み取れる。先ほどの歌もこの老僧の書いたものと思われる。
 松の木の下で成仏した老僧のことを思い、

 萩の札すすきの札によみなして
    すみきる松のしづかなりけり

と二句一章に詠んだとみて間違いない。
 『去来文』(也足亭岸芷編、寛政三年序)に「是、撰集抄の故事をとり申候。」とあり、『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)、『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年刊)、『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)、『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)他多数の古註がこの『撰集抄』「信濃佐野渡禅僧入滅之事」を引用している。

季題は「萩」「すすき」で秋。植物、草類。

十四句目
   萩の札すすきの札によみなして
 雀かたよる百舌鳥(もず)の一聲   智月
 (萩の札すすきの札によみなして雀かたよる百舌鳥の一聲)

 ここで乙州の姉にして義母でもある智月尼が登場する。
 さて、本説の後の逃げ句は難しい。どうしても展開が重くなりがちな所から、後の蕉門の「軽み」の俳諧では好まれなくなっていったのだろう。
 ここでは「札」のことは単なるたまたまあった景色の一部とみなし、単なる萩や薄の原っぱとしてつけたのだろう。そうでもしないとなかなか難しい。
 『標註七部集稿本』(夏目成美著、文化十三年以前成立)に「夫木鈔 後京極 すそのには今こそすらし小鷹狩山のしげみに雀かたよる」とあり、この本歌で付けたものと思われる。たかが来るので雀が怯えて茂みに偏るという本歌を少し変えて、百舌鳥の一声に変えている。「鷹の一声」だと本歌のまんまで、単なるパクリだが、少し変えることでオマージュになる。これは本歌を取る時の鉄則。
 勿論ここでは秋の句を三句続けなくてはならない事情があり、「鷹」は冬なので付けられない。百舌鳥は秋になる。
 この歌は藤原良経の家集『秋篠月清集』にもある。藤原良経は九条良経とも呼ばれ、小倉百人一首では後京極摂政前太政大臣と記されている。

季題は「百舌鳥」で秋。鳥類。「雀」も鳥類。

十五句目
   雀かたよる百舌鳥の一聲
 懐に手をあたたむる秋の月      凡兆
 (懐に手をあたたむる秋の月雀かたよる百舌鳥の一聲)

 ここで去来とともに猿蓑を編纂した凡兆が登場する。このあとには去来も登

場するので、智月とともに後から遅れて到着したか。
 句の方はあり場のイメージか。中世連歌のかつて有名だった句に、

   罪もむくいもさもあらばあれ
 月残る狩場の雪の朝ぼらけ     救済(きゅうせい)

というのがある。秋なので雪ではないし、勿論そのまんまというのは駄目なので「懐に手をあたたむる」という誰もがするようなしぐさで朝の寒さを表現している。今ならポケットに手を入れて、というところか。(救済参加の連歌、文和千句第一百韻はここ。)
 思えば芭蕉の「ほつしんの初」の句以来、古典に傾いた重い付け合いの句が続いた。そろそろ単純なあるあるネタで軽い展開に戻そうというところか。
 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「雀を襲ふる百舌のあはただしさを見る。ふところ手は朝月也。」とある。

季題は「秋の月」で秋。夜分、天象。

2017年2月3日金曜日

 今日は節分。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の冬之部のところにこうある。

 「凡(およそ)節分は立春の前日にあり。年内節分あるときは、禁裡熬豆(いりまめ)を殿中に撒(まか)せられて疫鬼(えきき)を逐(お)ふ。春にあるも亦然り。今夜、大豆を撒(まく)を拍(はやす)といふ。同夜、家々の門戸に鰯の頭首(かしら)、并に狗骨(ひひらぎ)の条(えだ)を挿む。伝へいふ、この二物、疫鬼の畏るる所なり。一家の内に事を執る者を年男といふ。声高に鬼は外福は内と呼て、疫を禳(はら)ひ福をもとむ。」

 鰯の頭や柊の枝は廃れてしまったが、豆まきは今も健在だ。それと最近になって俄に登場し、ほとんど主役クラスになっているのが恵方巻だ。恵方巻は関西の海苔業者が考案し、セブンイレブンが全国に広めたと言われている。別に古い言われはない。
 昔の祭は「まつりごと」で、共同体の起源や過去の事件、掟などを思い起こさせるためにあったのだろう。それと同時に共同体にわだかまる不満や様々な願望を表出させていたのかもしれない。
 今の祭は共同体から切り離されて、何か刺激のあることを様々な多種多様な人間の間で共通の体験とすることの方に意味があるのかもしれない。それはクリスマスやハローウィンやバレンタインだけでなく、スポーツイベントや何とかフェスといわれるものも含まれる。
 恵方巻も基本的には理由は後付で、とにかく家族や仲間と一緒に普段やらないようなことをすることで盛り上がるということが重要なのだろう。
 豆まきで「鬼は外」と言わずに「鬼は内」と言う所もあるようだし、「福は内」だけしか言わない所もあるという。ただ、「鬼」がもともと疫鬼(えきき)のことで、今で言えば病原体のことだとすれば、やはり殺菌や滅菌をするように外へやりたいものだ。
 まあ、あまり清潔すぎると今度は免疫がなくなるなんて問題もあるし、誤った知識で病気を追い払おうとすると、動物を扱う人たちへの偏見になったり、被爆者や原発避難者までも追い払ったり、困った問題も起こる。
 テロリストは外、と言いたいのも確かにわかる。ただ、誰がテロリストで誰がそうでないか見た目でわからなければ、本当は役に立ついい人なのに追い出されたり、良い人だと思って入れた人が実はテロリストだったりする。
 まあ、そうやって疑心暗鬼になって闇雲に何もかも排除しようとするというのが、実は「心の鬼」だというところで落ちをつければいいのか。
 節分の句は芭蕉の時代の俳諧にはそれほど多くない。年内立春なら節分は普通に冬でいいが、年が明けてから節分が来ることもあるからややこしいというのもあったのだろう。乙孝撰の『一幅半』に二句見つけた。

 大豆(まめ)まきや暗き所は大づかみ  枝鳩
 節分や亦来年の種を蒔(まく)    任他

2017年2月2日木曜日

 さて、「梅若菜」の巻は初裏に入る。

七句目
   二階の客はたたれたるあき
 放やるうづらの跡は見えもせず   素男
 (放やるうづらの跡は見えもせず二階の客はたたれたるあき)

 これはおそらく『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)に「速に座を立たるをうづら立といふ」とあるように、二階の客を鶉に例えたものだろう。「うづらだち」という言葉は古語辞典にも載っている。急に帰る無作法をいう。こういう比喩の句だと、次の句は本当に鶉を放った情景として展開できる。
 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)に「客の逗留中など飼置たるを放ちやる也。一句放生会なり。」とある。確かに話としては通じるが、果たしてそのようなことは当時よくあることだったのかどうかが問題だ。多くの人が共感するような「もっとも、しかり」、今でいえば「あるある」と言えるようなことだったのなら、この解釈で良いのだろう。

季題は「鶉」で秋。鳥類。前句の「秋」もいわゆる「放り込み」で必然性のない季題だったように、ここの「鶉」も比喩ではあるが式目の都合上秋ということでいいのだと思う。

八句目
   放やるうづらの跡は見えもせず
 稲の葉延(はのび)の力なきかぜ  珍碩
 (放やるうづらの跡は見えもせず稲の葉延の力なきかぜ)

 飛び去っていった鶉の跡に残っているのは、ただ稲の伸びた葉に力なく風が吹いているだけ。
 ここはお約束どおり、前句の鶉を実景として展開する。「力なきかぜ」は「秋風」が輪廻になるので、こういう言い回しになったのだろう。
 『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)に「鶉飛行て見えず。其跡には、田面の稲葉のびの風にそよぎ侍るのみとなむ。」とあり、これで十分だろう。

季題は「稲」で秋。植物、草類。

九句目
   稲の葉延の力なきかぜ
 ほつしんの初(はじめ)にこゆる鈴鹿山 芭蕉
 (ほつしんの初にこゆる鈴鹿山稲の葉延の力なきかぜ)

 これは西行法師の面影。「力なき風」に無常の思いを読み取り、発心を付けている。

 鈴鹿山うき世をよそにふり捨てて
    いかになりゆくわが身なるらむ
               西行法師

の歌は良く知られている。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「うしろがみにひかるる風情、力なきの語に出づ。刈萱西行などいふ面影ともみるべし。」とある。刈萱上人も妻子を捨てて出家するが、行き先は高野山だから鈴鹿山は越えていない。

無季。「発心」は釈教。打越の「放やるうづら」を放生会のこととすると輪廻になる。放生会とは無関係と見た方がいい。「鈴鹿山」は山類。名所。

十句目
   ほつしんの初にこゆる鈴鹿山
 内藏頭(くらのかみ)かと呼聲はたれ  乙州
 (ほつしんの初にこゆる鈴鹿山内藏頭かと呼聲はたれ)

 せっかく浮世を振り捨てたというのに、いきなり後ろから「内藏頭殿ではないか、またどうなされたのだ。」なんて俗世にいたときの名前で呼ばれてしまう。ありそうなことだ。「別人だ、人違いであろう」などと言っても「内藏頭殿であろう、間違いない」なんて言われたりして。
 内藏頭で出家した人というのを史書で捜せば誰かしら出てくるかもしれないが、別に特定の誰かの故事を本説にしたわけではない。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「懇友などの追来るならん。ふり向たる姿、眼下にあるがごとし。但京家の人とも見て此名を出せるや。」とある。

無季。「内藏頭」「誰」は人倫。

十一句目
   内藏頭かと呼聲はたれ
 卯の刻の箕手(みのて)に並ぶ小西方  珍碵
 (卯の刻の簔手に並ぶ小西方内藏頭かと呼聲はたれ)

 小西方は関が原の戦いで西軍(豊臣方)に付いた小西行長のことと思われる。実際には西軍は敵に対して左右に長く広げた鶴翼の陣を敷いたと言われている。箕手も27宿の一つ箕宿の星の形による陣形で、左右に長く広げて敵を取り囲むような陣形を言う。
 卯の刻は夜明けの時刻で、関が原の戦いは夜明けとともに始まったとされている。
 内藏頭は元は官職の名だったが、内蔵助などと同様、後に普通に人名として使われるようになった。『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年刊)には小西行長の家臣に小堀内藏頭がいたというが、グーグルで検索したけどこの名前は見つからなかった。特定の誰かを指すのではなく、ただありそうな名前というだけのことだろう。

無季。ちなみに関が原の戦いは旧暦九月十五日で秋。

十二句目
   卯の刻の簔手に並ぶ小西方
 すみきる松のしづかなりけり  素男
 (卯の刻の簔手に並ぶ小西方すみきる松のしづかなりけり)

 これは遣り句と見ていいだろう。合戦の場面に朝の景色を付けている。強いて言えば、合戦で多くの人が命を散らせてゆくのに対し、松の木は長年にわたって静かにそれを見守っているという対比が読み取れる。

無季。「松」は植物、木類。「稲」から三句隔てている。

2017年2月1日水曜日

 パーマ大佐さんと馬場祥弘さんは和解したようで何より。相変わらず「替え歌」と報道されているが、オリジナルの詞とメロディーを付け加えているだけで「歌詞の改変」はない。
 取り成しは日本の伝統というところで、「梅若菜」の巻の続き。

四句目
   雲雀なく小田に土持比なれや
 しとぎ祝ふて下されにけり     素男
 (雲雀なく小田に土持比なれやしとぎ祝ふて下されにけり)

 しとぎは古代より神に捧げる餅とされ、本来は水に浸してふやかした生米を搗いて砕いて水で固めたもので、後に米粉を水で固めて団子状にし、豆や雑穀などを混ぜたものも作られるようになった。
 お祝い事などの時に一度神様にお供えして、後で神前から下げてみんなで食べた。この句ははっきり言ってそのまんまだ。古註もほとんどは「しとぎ」の説明に終始している。まあ、春だから色々祝い事はあるだろうし、その時にしとぎが配られることもある。四句目だから軽い遣り句と見ていい。

無季。

五句目
   しとぎ祝ふて下されにけり
 片隅に虫齒かかへて暮の月   乙州
 (片隅に虫齒かかへて暮の月しとぎ祝ふて下されにけり)

 正月の鏡餅は元は歯固めの儀式だったという。神の供えた後の鏡餅を鏡開きの時に食うのは、歯を丈夫にすることで長寿を祈る儀式だった。それを面影にすると、この句はまた別の味わいがある。
 しとぎは柔らかいから歯固めにはならないが、それすら虫歯が痛くて噛めないとなると、なんとも情けない。周りはお祝いで盛り上がっているのに、一人片隅で歯の痛みに堪えながら夕暮れの月を見る。
 ここは月の定座だが、お祝いに素直に月の美しさをつけても当たり前すぎるので、せっかくのお祝いに月が出ているのに、とちょっとひねってみたのだろう。
 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「祝ふてといへる其便を咎めて、歯などいためたる人の黄昏にうづくまり居る体。」とある。

季題は「暮の月」で秋。夜分、天象。

六句目

   片隅に虫齒かかへて暮の月
 二階の客はたたれたるあき    芭蕉
 (片隅に虫齒かかへて暮の月二階の客はたたれたるあき)

 虫歯の痛みを抱えて一人たそがれているのに加えて、二階にいたはるばる遠方より来たお客さんまで帰ってしまうとますますたそがれてしまう。「たそがれる」という言い回しはごく最近のものだが、何かそれがぴったり来る。「たそがれる」という言葉は当時はなかったにせよそういう雰囲気で付けている、響き付けの一種といえよう。
 虫歯と客の関係が特に指定されていないから、そこにはいろいろ想像が入り込む余地があり、古註は意見が割れている。
 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)は「客戻れば、片隅へ入て虫歯やしなふと付たり。」とある。お客さんと楽しく談笑している時は忘れていた虫歯の痛みが、お客さんが帰ってしまうと思い出したように痛み出すという意味だろうか。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)は「前句の姿のみすぼらしげに、くよくよものを思へるふぜいあれば、内証づとめする舟問屋の女などみゆ。」とする。
 『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)には「立かはり入かはり客のおほき宿に、昼より客の事にうちかかりていそがしさに、持病の虫歯をいたみて片隅にかがみゐたるに、いつの間にかは二階の客は皆たちて跡しめやかなりとの句也。」とある。
 『猿蓑四歌仙解』(鈴木荊山著、文政五年序)には「二階の客はもとより旅の人なれば、やがて別るる事ははじめより合点の事なれども、別れのかなしさ、去れとて人にかたるべきたよりもなく、むし歯といつはりかなしみたるなり。」とある。
 まあ、この辺は自由に想像してねという所か。

季題は「秋」で秋。「客」は人倫。