「梅若菜」の巻は二の懐紙に入る。二の表。
十九句目
灰まきちらすからしなの跡
春の日に仕舞てかへる経机 正秀
(春の日に仕舞てかへる経机灰まきちらすからしなの跡)
正秀も近江国膳所の人で、十七句目のところで触れた「鑓持のなほ振たつるしぐれ哉」の句で知られている。
芭蕉の元禄四年五月二十三日付の正秀宛書簡に「しぐれの鑓持句驚入、此集之かざりとよろこび申候。御手柄とかく申難候。」とあるところから、この句は元禄三年冬の句で、この「梅若菜」の興行のときは芭蕉はまだ知らなかったと思われる。当時の撰集向けの発句は時間をかけて推敲してから発表することも多かったので、まだ完成してなかったのかもしれない。
「経机」はお経を読んだり、写経をしたりする際の主にお坊さんが使うもので、畑から飛んでくる灰に悩まされ、遂に断念して帰ることにしたのだろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「灰をいとふの意にして体用の変あり。」とある。
『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には、「爰に起情して、千部などの法会勤て寺に帰る僧の永き日に倦たる模様迄、一句のうへに見せて、前の畑際を通る人の見出し也。僧とはいはずして経机と作りて聞せる所手づま也。」とある。打越の「鑓の柄に立すがりたる」も武人といわずして武人を表す。この辺が「匂い」となる。
季題は「春の日」で春。「経机」は釈教。
二十句目
春の日に仕舞てかへる経机
店屋物(てんやもの)くふ供の手がはり 去来
(春の日に仕舞てかへる経机店屋物くふ供の手がはり)
「てんやもの」という言葉は最近聞かれなくなったが、ちょっと前までは出前を取ったりする時に「てんやものですまそう」なんて言ったりした。本来は出前やデリバリーやケータリングのことだけでなく、宿屋や飲食店で食べるものも含め、店の食事を「てんやもの」と言った。
この句は経机をしまって帰る人を偉い坊さんにお仕えする小坊主のこととし、交替で非番になったのをいいことにお寺の精進料理ではなく、店で好きなものを食っている様を付けた。まあ、修行は大事だけど息抜きも欲しいというのは修行僧の本音だろう。今なら通学路で買い食いをする中高生のようなものか。
『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)には「買喰する体也。」とある。
『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には、「前の僧を院家と見て、供多く連たるさまの付也。」とある。
無季。「供」は人倫。
二十一句目
店屋物くふ供の手がはり
汗ぬぐひ端のしるしの紺の糸 半残
(汗ぬぐひ端のしるしの紺の糸店屋物くふ供の手がはり)
ここから先が伊賀での興行となる。何でこんな変則的な一巻になったのかはよくわからないが、『奥の細道』の山中温泉で病気で先に伊勢に向かう曾良への餞別の興行となった「馬かりて」の巻でも、曾良の参加は初の懐紙のみで、二の懐紙は芭蕉と北枝との両吟になっている。そこから考えると、ここでも乙州が明日の朝早く旅立つため、初の懐紙だけで早めに終わりにしたのだろう。
蕉門の俳諧は貞門談林の俳諧に比べ、技法が高度になった分速度が遅くなったのではないかと思う。百韻が少なくなり歌仙が主流になったのもその辺の事情があったのだろう。また、出勝ちに比べて三吟四吟などの順番の決まった形式の方が速度が落ちるのではないかと思う。一人で次の句を考えるより、大勢で考えた方が早くなるし、またスピードを競うようにもなる。
中世の連歌は千句興行などを行い、かなり速い速度で句が付けられていったと思われる。また近世の談林俳諧でも、井原西鶴の大矢数独吟興行は、ほとんど今のラップのように早口で切れ目なく句を詠んでいったのではないかと思われる。それに比べると蕉門の俳諧は熟考の俳諧で、量より質を重視したものと思われる。
半残は伊賀上野の人で伊賀藤堂家の家臣。芭蕉の元禄四年五月十日付けの半残宛書簡には、「いがの手柄大分に御座候。ご発句、花うつぼ・木兎など、人々驚入申候。」と、
鼠共春の夜あれそ花靫 半残
みみづくは眠る処をさされけり 同
の句を高く評価している。
さて二十一句目だが、前句の「手がはり」という言葉には体裁・形式などが普通と異なっているという意味もある。そこから店屋物を食う共のちょっと変わった体裁、と取り成して、汗ぬぐう布の端っこに紺の糸で印があると付ける。他の人、いわゆる傍輩の持ち物と区別するためだと思われる。
『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)に「店屋物くひに来りし供のもの、昼のあつさに汗ぬぐふ也。その手拭にしるしの付て有也。」とある。
季題は「汗ぬぐひ」で夏。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の夏之部に「汗巾(あせぬぐひ) 長さ一二尺の布の両端を縫ひ、これを用ふ。」とある。
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