ヤフー・ニュースにTOKYO FMの番組のソースで「晩年の松尾芭蕉が、旅の途中に大阪に向かった理由とは?」というのがあった。
「仲違いしている弟子同士を仲直りさせるため」というのがその答で、このニュースでは弟子の名前が出てなかったが、酒堂(しゃどう)と之道(しどう)のことだ。
芭蕉の最後の旅は元禄七年の五月のことで、「空豆の花」の巻の興行の後、子珊亭で「別座敷」の興行を行い、五月十一日に旅立つ。一説に大腸癌だったのではないかと言われる芭蕉の病気は既に進行していて、歩くことはおろか、馬も負担が大きいので駕籠に乗ったともいわれている。
旅の目的は、ひとまずは伊賀への帰郷だったが、それとともにまだ行ったことのない明石より西への旅も計画されてたという。死ぬ前に一度は行ってみたかったのだろう。『奥の細道』の旅の途中でも、芭蕉自身はもっと北へ行くことを望んだが曾良の反対で象潟をあとに北陸道を戻ることになった。
五月二十八日に伊賀に着いた芭蕉は、閏五月十六日に伊賀を発ち大津や膳所を経て京都へ行く。去来の落柿舎滞在中に大阪の之道を迎えて「牛流す」の巻の興行を行う。ここで大阪での酒堂と之道との対立のことをいろいろと聞かされたのだろう。
六月には再び膳所に戻る。七月にはまた京都へ行き、中旬には伊賀に帰る。九月八日に大阪に向かう。途中奈良に寄る。九月十日に大阪に到着するが、ここで病状が急変する。九月二十七日に行われた「白菊の」の巻の興行が、芭蕉にとっての最後の興行となる。この時酒堂・之道の両者も参加した。
ここで仲直りするかに見えたが、結局対立は解消されなかった。十月十二日に芭蕉は没す。このとき之道は立ち会っているが、酒堂は直前に姿をくらませたという。
「白菊の」の巻を見る限り、酒堂・之道の間にそんなに作風の相違は感じられない。対立は俳諧の方向性というよりはもっと個人的なものだったと思われる。
之道はもとから大阪の人であるのに対し、酒堂は膳所の人で後に大阪に移ったため、之道から見れば余所者だったのだろう。しかもその余所者に、大阪の蕉門は衰退しているから俺が立て直すんだみたいなことを言われたなら、そりゃあ之道の立場がない。
大阪の蕉門は衰退しているというよりは、元々大阪談林の力が強く、それに伊丹の鬼貫の一派が合流して、蕉門にとってはなかなか食い込めない土地だった。今でも関東の笑いと関西の笑いは違うといわれるが、この蕉門と大阪談林の頃からのものなのかもしれない。それを余所者にとやかく言われたくないという気持ちはあったのだろう。
しかも酒堂は膳所にいた頃は珍碩と名乗り、「木のもとに汁も膾も桜かな」を発句とした興行にも参加していたが、酒堂に改名したことで名前まで「しどう」と「しゃどう」でかぶっている。之道が楓竹に改名したのも、このかぶりを気にしていたのかもしれない。
結局大阪の蕉門は分裂したまま、芭蕉が命をかけて大阪まで来たにもかかわらず、蕉門は大阪を制覇できなかった。まあ、ここで酒堂・之道の和解が成立していたら、ひょっとしたら関西独自のお笑い文化はなかったかもしれないから、それはそれで別に残念に思う必要はないのだろう。
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