「梅若菜」の巻の続き。
十三句目
すみきる松のしづかなりけり
萩の札すすきの札によみなして 乙州
(萩の札すすきの札によみなしてすみきる松のしづかなりけり)
これは『撰集抄』巻六第八の「信濃佐野渡禅僧入滅之事」の本説による付け。本説なので元ネタを知らないと何のことだかよくわからない。元ネタを知らなくても大体わかるようなら「面影」になる。
ここではわからないので、その元ネタの文章を引用しておこう。
「永暦の末八月の比(注:一一六一年八月か)、信濃の国さののわたりを過ぎ侍しに、花ことにおもしろく、蟲の音声々鳴わたりて、ゆきすぎがたく侍りて、野辺に徘徊し侍るに、玉鉾の行かふ道のほかに、すこし草かたぶくばかりに見ゆる道あり。いかなる道にかあらんとゆかしく覚えて、たづねいたりて見侍るに、すすき、かるかや、をみなへしを手折て、庵むすびてゐたる僧あり。齢四十あまり五十にもや成ぬらんと見えたり。前にけしかる硯筆ばかりぞ侍りける。まことに貴げなる人に侍り。庵の内を見入侍れば、手折て庵につくれる草々に、紙にて札をつけたり。
すすきのやどりには、
すすきしげる秋の野風のいかならん
夜なく蟲の声のさむけき
かるかやのしとみには、
山陰の暮ぬと思へばかるかやの
下置く露もまたき色かな
ふぢばかまのふすまには、
露のぬきあだにおるてふ藤ばかま
秋風またで誰にかさまし
荻の葉のもとには、
夕さればまがきの荻に吹風の
目にみぬ秋をしる涙かな
をみなへしの咲けるには、
をみなへし植しまがきの秋の色は
猶しろたへの露ぞ変らぬ
はぎ咲けるには、
萩が花うつろふ庭の秋風に
下葉もまたで露は散りつつ
と札をつけて、座禅し給へり。」
(『撰集抄』西尾光一校注、一九七〇、岩波文庫、p.183~185)
まあ、文字通りの「草庵」といえよう。
この西のほうの山に六十余りの老僧がいるのを見つけ、行ってみると眠るように息絶えていて、木の枝にやはり札がつけられていた。そこには、
むらさきの雲まつ身にしあらざれば
澄める月をばいつまでもみる
という歌が記されていた。
前句の「すみきる松のしづかなりけり」から、この歌を連想したのだろう。何の木かは本文には書いてないが歌の「雲まつ身」が「松」との掛詞になっているとも読み取れる。先ほどの歌もこの老僧の書いたものと思われる。
松の木の下で成仏した老僧のことを思い、
萩の札すすきの札によみなして
すみきる松のしづかなりけり
と二句一章に詠んだとみて間違いない。
『去来文』(也足亭岸芷編、寛政三年序)に「是、撰集抄の故事をとり申候。」とあり、『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)、『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年刊)、『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)、『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)他多数の古註がこの『撰集抄』「信濃佐野渡禅僧入滅之事」を引用している。
季題は「萩」「すすき」で秋。植物、草類。
十四句目
萩の札すすきの札によみなして
雀かたよる百舌鳥(もず)の一聲 智月
(萩の札すすきの札によみなして雀かたよる百舌鳥の一聲)
ここで乙州の姉にして義母でもある智月尼が登場する。
さて、本説の後の逃げ句は難しい。どうしても展開が重くなりがちな所から、後の蕉門の「軽み」の俳諧では好まれなくなっていったのだろう。
ここでは「札」のことは単なるたまたまあった景色の一部とみなし、単なる萩や薄の原っぱとしてつけたのだろう。そうでもしないとなかなか難しい。
『標註七部集稿本』(夏目成美著、文化十三年以前成立)に「夫木鈔 後京極 すそのには今こそすらし小鷹狩山のしげみに雀かたよる」とあり、この本歌で付けたものと思われる。たかが来るので雀が怯えて茂みに偏るという本歌を少し変えて、百舌鳥の一声に変えている。「鷹の一声」だと本歌のまんまで、単なるパクリだが、少し変えることでオマージュになる。これは本歌を取る時の鉄則。
勿論ここでは秋の句を三句続けなくてはならない事情があり、「鷹」は冬なので付けられない。百舌鳥は秋になる。
この歌は藤原良経の家集『秋篠月清集』にもある。藤原良経は九条良経とも呼ばれ、小倉百人一首では後京極摂政前太政大臣と記されている。
季題は「百舌鳥」で秋。鳥類。「雀」も鳥類。
十五句目
雀かたよる百舌鳥の一聲
懐に手をあたたむる秋の月 凡兆
(懐に手をあたたむる秋の月雀かたよる百舌鳥の一聲)
ここで去来とともに猿蓑を編纂した凡兆が登場する。このあとには去来も登
場するので、智月とともに後から遅れて到着したか。
句の方はあり場のイメージか。中世連歌のかつて有名だった句に、
罪もむくいもさもあらばあれ
月残る狩場の雪の朝ぼらけ 救済(きゅうせい)
というのがある。秋なので雪ではないし、勿論そのまんまというのは駄目なので「懐に手をあたたむる」という誰もがするようなしぐさで朝の寒さを表現している。今ならポケットに手を入れて、というところか。(救済参加の連歌、文和千句第一百韻はここ。)
思えば芭蕉の「ほつしんの初」の句以来、古典に傾いた重い付け合いの句が続いた。そろそろ単純なあるあるネタで軽い展開に戻そうというところか。
『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「雀を襲ふる百舌のあはただしさを見る。ふところ手は朝月也。」とある。
季題は「秋の月」で秋。夜分、天象。
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