今日は節分。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の冬之部のところにこうある。
「凡(およそ)節分は立春の前日にあり。年内節分あるときは、禁裡熬豆(いりまめ)を殿中に撒(まか)せられて疫鬼(えきき)を逐(お)ふ。春にあるも亦然り。今夜、大豆を撒(まく)を拍(はやす)といふ。同夜、家々の門戸に鰯の頭首(かしら)、并に狗骨(ひひらぎ)の条(えだ)を挿む。伝へいふ、この二物、疫鬼の畏るる所なり。一家の内に事を執る者を年男といふ。声高に鬼は外福は内と呼て、疫を禳(はら)ひ福をもとむ。」
鰯の頭や柊の枝は廃れてしまったが、豆まきは今も健在だ。それと最近になって俄に登場し、ほとんど主役クラスになっているのが恵方巻だ。恵方巻は関西の海苔業者が考案し、セブンイレブンが全国に広めたと言われている。別に古い言われはない。
昔の祭は「まつりごと」で、共同体の起源や過去の事件、掟などを思い起こさせるためにあったのだろう。それと同時に共同体にわだかまる不満や様々な願望を表出させていたのかもしれない。
今の祭は共同体から切り離されて、何か刺激のあることを様々な多種多様な人間の間で共通の体験とすることの方に意味があるのかもしれない。それはクリスマスやハローウィンやバレンタインだけでなく、スポーツイベントや何とかフェスといわれるものも含まれる。
恵方巻も基本的には理由は後付で、とにかく家族や仲間と一緒に普段やらないようなことをすることで盛り上がるということが重要なのだろう。
豆まきで「鬼は外」と言わずに「鬼は内」と言う所もあるようだし、「福は内」だけしか言わない所もあるという。ただ、「鬼」がもともと疫鬼(えきき)のことで、今で言えば病原体のことだとすれば、やはり殺菌や滅菌をするように外へやりたいものだ。
まあ、あまり清潔すぎると今度は免疫がなくなるなんて問題もあるし、誤った知識で病気を追い払おうとすると、動物を扱う人たちへの偏見になったり、被爆者や原発避難者までも追い払ったり、困った問題も起こる。
テロリストは外、と言いたいのも確かにわかる。ただ、誰がテロリストで誰がそうでないか見た目でわからなければ、本当は役に立ついい人なのに追い出されたり、良い人だと思って入れた人が実はテロリストだったりする。
まあ、そうやって疑心暗鬼になって闇雲に何もかも排除しようとするというのが、実は「心の鬼」だというところで落ちをつければいいのか。
節分の句は芭蕉の時代の俳諧にはそれほど多くない。年内立春なら節分は普通に冬でいいが、年が明けてから節分が来ることもあるからややこしいというのもあったのだろう。乙孝撰の『一幅半』に二句見つけた。
大豆(まめ)まきや暗き所は大づかみ 枝鳩
節分や亦来年の種を蒔(まく) 任他
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