江戸時代も二百五十年以上続いたため、初期と末期ではかなりの違いがある。芭蕉の活躍した延宝から元禄の頃と幕末とでは庶民の生活も大きく異なり、古註を読むときはその違いというのも常に頭に入れておかなくてはいけない。
醤油にしても、芭蕉の時代の関東ではまだそれほど普及してなかったし、鰹節にしてもそうだった。
お茶は抹茶が主流で、煎茶は江戸後期になる。酒も芭蕉の時代は濁り酒だった。天和二年(一六八二)に、
花にうき世我酒白く食(めし)黒し 芭蕉
の句がある。濁り酒と玄米が日常の食卓だった。
こういう違いを知るというのも俳諧を読む面白さの一つだと思う。
それでは「梅若菜」の巻、二裏に入る。
三十一句目
醤油ねさせてしばし月見る
咳聲(しはぶき)の隣はちかき縁づたひ 土芳
(咳聲の隣はちかき縁づたひ醤油ねさせてしばし月見る)
醤油の仕込みを終えた人が月を見に外に出たら、隣では咳をする声がする。二の裏ということもあってか、軽く流して場面を転換する。
『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「其場也。咳声月に対して。」とある。
無季。「咳聲」は近代では冬。
三十二句目
咳聲の隣はちかき縁づたひ
添へばそふほどこくめんな顔 園風
(咳聲の隣はちかき縁づたひ添へばそふほどこくめんな顔)
「こくめん」は黒面と書くが克明から来た言葉で、誠実だとか律儀だとかいう意味だという。何で克明が黒面になったのかはよくわからないが、あるいは定番が鉄板になったような言い間違いが定着したものか。
句の意味は、隣の咳払いした人のことを、その奥さんの側にたって、添えば添うほど生真面目な人だということだろう。ただ逆に、咳をした人の奥さんが誠実だとも取れる。咳をした人が女性だった可能性を含めると四通りの解釈が可能になる。
許六は『俳諧問答』のなかで、「此句、『添』字、前句の噂さ也。『見れバ見るほど』としたし。」と言っている。確かにこの混乱は隣人の咳を聞きながら、その聞いた人の感想ではなく隣人の配偶者の側に立った推測だというところからくるの。「見れば見るほど」だと咳の主が黒面ということになる。
そういうわけで、古註の解釈も割れている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)、『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は妻の方を黒面とし、『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)、『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)、『俳諧猿蓑付合注解』(桃支庵指直著、明治二十年刊)は夫のこととする。
無季。「顔」は人倫。
三十三句目
添へばそふほどこくめんな顔
形なき繪を習ひたる會津盆 嵐蘭
(形なき繪を習ひたる會津盆添へばそふほどこくめんな顔)
さて、ここからが京都での興行になる。嵐蘭は浅草の人で、其角、嵐雪、杉風などと並ぶ延宝の頃からの弟子。この頃伊賀を訪れたあと、上京した。
形なき絵というのは会津漆器でも「乾漆」と呼ばれるものだろう。高度な技術と手間隙を要するもので、それこそ黒面でなければ作れない。会津漆器は戦国時代に始まり、江戸初期には既に江戸へ出荷するまでに盛んになっていた。
『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)には「奥州会津の産物、模様さまざまに形さだかならぬ絵也。」とある。
無季。
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