朝、家を出るときに見る月もすっかりやせ細り、逆三日月のような姿になってくると、そろそろ旧暦の正月(一月)も終わりかと思う。
正月の句について書くなら、もう後がないといったところか。如月になる前に、
今朝国土笑はせ初ぬ俳諧師 高政
菅野谷高政は宗因の高弟で京都談林の中心人物だった。
この句からは、江戸時代の俳諧師のイメージが今日の俳人のイメージと随分と異なることが感じ取れる。
彼らは文人として知識人の一翼として世間からの尊敬を集めてはいたものの、そこには真面目で神経質な芸術家というイメージはない。
子弟の間ではぴりぴりとした関係はあっただろう。仲間同士で真剣な議論をすることもあっただろう。でも世間の前では笑いを振りまく存在だった。
それは今日の「芸人」の世界に近いといってもいいのではないかと思う。テレビでおちゃらけて笑いを振りまいてはいても、その裏では厳しい修行があり、上下関係があり、真剣な議論がある。お笑いの道も決して誰でもできるような生易しいものではない。ただ、それを表に出さないのがプロというものだ。
今日でもお笑い芸人の世界からいっぱしの文化人になった者がいる。ビートたけしなどそのいい例だ。今や世界に誇る北野監督だ。
多分、たくさんの弟子達を抱えた芭蕉翁の姿は、たけし軍団に近いものがあったのだろう。今だったら芭蕉は「翁」ではなく「殿」と呼ばれていたかもしれない。
そのほかにもピース又吉のように芥川賞を取る芸人もいる。
俳諧師になるものの素性は様々だが、江戸時代の俳諧文化の礎を築いた松永貞徳は藤原惺窩に儒学を学んだ儒者だった。それだけでなく古今伝授を受けた細川幽斎に和歌を学び、里村紹巴に連歌を学んだ、当時の第一級の文化人だった。「松永」の姓も戦国武将の松永弾正の甥ということで、由緒正しい血筋を表わしている。
その貞徳の句はというと、
霞さへまだらにたつやとらの年
雲は蛇呑みこむ月の蛙かな
花よりも団子やありて帰る雁
冬ごもり虫けらまでもあなかしこ
といったもので、真面目な学者が馬鹿をやると、それだけで面白い。馬鹿をやっているようでも、「雲は蛇」の句は、中国では月の模様を兎ではなく蛙に例えていることを知っていないとわからないし、そういうところでチラッと教養を覗かせたりする。
もちろん、今日のお笑い芸人も結構そうそうたる名門大学の出身者が多い。ネタもかなり高度な知識を必要とするものがあったりする。それを思うと、貞徳は今日の芸人の祖だったと言ってもいいのだろう。
才能があるからといって偉ぶってはいけない。才能がある人間がその才能でもって人を笑わせ、溢れる知性をみんなを幸せにするために使う。決して戦争のために使ったりはしない。それが日本の文化人のあるべき姿であり、その伝統は今でも生きている、と信じたい。
正岡子規は「芭蕉雑談」のなかで「貞門の洒落(地口)檀林の滑稽(諧謔)」という言い方をしているが、芭蕉が見出したのはシュールネタや古典のパロディー、文体のパロディーなどいろいろ試みているうちに最終的に今日で言う「あるあるネタ」に至ったのではないかと思う。
「あるあるネタ」は実際にあることを句に詠むわけだから、写生だと言われれば写生にも見える。ただ、近代の写生がもっぱら作者個人の体験の伝達であるのに対し、あるあるネタは誰もが思っている共通の体験を言い当てることで笑いをもたらす。この笑いが蕉門にとって重要だった。
あるあるネタは今でも芸人ネタの主流を占めていて、シモネタにさえ気をつければそれほど下品に流れないから、日常の会話でも上手く用いれば洗練された会話術になる。
よく日本人は冗談がいえないと言うが、大仰なアメリカンジョークみたいなものは日本人には馴染まない。あるあるネタが理解できれば日本人の高度なお笑い文化が理解できるはずだ。
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