発句に季語を入れるのは、本来は興行を開始する際の季候の挨拶を兼ねていたからで、「今日はいいお天気で」だとか「今日は寒いですね」だとか、「菊薫る候になりまして」だとかいうのと同じ感覚だった。この「鈴呂屋俳話」でも、そういう入り方をしている日が多いのはお気づきのことと思う。
会話の導入部で季節の話題に触れるのは、多分日本だけではないだろう。四季のはっきりしない国でも、その日の暑さのこととか、雨がいつ降るのかだとか話題にするのは、別に珍しいことではないかと思う。
あるあるネタにしても、どこの国でも冗談を言って笑いあったりするときには自然と言っていることだと思う。
ただ、われわれがその文化を誇りに思うのは、どこの国でもありながら何気なく見過ごされていることを高く評価していることだと思う。
日本の四季のうつろいが特別美しいのではない。どこの国でも季節はあって美しい自然や面白い行事や風物などがあったりする。あえていうなら、それを誇りとしていることが誇りなんだと思う。
多分アメリカンジョークにしても、どこの国の人も冗談は言うと思う。それを誇りにしていることがアメリカ人のアメリカ人らしさなのだと思う。
韓国人は東方正義の国として礼節の高さを誇りにしているが、礼節はどこの国にもある。それを誇りにすることが誇りなんだと思う。
人間なんてのは所詮同じ遺伝子を持つもので、いつの時代でもどこの国でもそんなに本質的に変わるものではない。ただ、何に重点を置くかという点では、その文化の個性が表れると思う。日本ではみんなが仲良く打ち解けるために、季節を話題にし、日常のありがちなことを笑いにする、その文化に誇りを持っている。それは悪いことではないと思う。
人の心の不易は時間だけでなく空間をも越える。もろこしにも印度にも風流はある。そして日本にも日本の風流がある。それで何も問題はないと思う。アメリカにもヨーロッパにも中国にも韓国にも四季はある。日本には日本の四季がある。ただ、日本人はそれをことさら重視して誇りとしているだけのことで、それが平和の文化である限り非難されるようなことではない。核兵器の数を誇るよりはよっぽどましだろう。
問題は日本人自身が自虐的になり、日本の四季を誇らなくなっていることの方だろう。除夜の鐘が騒音だとか、花見で一杯やっているのが国の恥だとか、アメリカ生まれの芸人がちょっと日本の四季のことでコメントしたら「そ~お~で~すよ~~」なんてすぐ尻馬に乗りたがる奴。どうにかならんか。
日本の文化と言ってもその多くは中国起源ではないかと言われれば、それには反論しない。でもそんなことを言ったら、欧米の文化ってみんなギリシャやイスラエルが起源じゃないか。
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