パーマ大佐さんと馬場祥弘さんは和解したようで何より。相変わらず「替え歌」と報道されているが、オリジナルの詞とメロディーを付け加えているだけで「歌詞の改変」はない。
取り成しは日本の伝統というところで、「梅若菜」の巻の続き。
四句目
雲雀なく小田に土持比なれや
しとぎ祝ふて下されにけり 素男
(雲雀なく小田に土持比なれやしとぎ祝ふて下されにけり)
しとぎは古代より神に捧げる餅とされ、本来は水に浸してふやかした生米を搗いて砕いて水で固めたもので、後に米粉を水で固めて団子状にし、豆や雑穀などを混ぜたものも作られるようになった。
お祝い事などの時に一度神様にお供えして、後で神前から下げてみんなで食べた。この句ははっきり言ってそのまんまだ。古註もほとんどは「しとぎ」の説明に終始している。まあ、春だから色々祝い事はあるだろうし、その時にしとぎが配られることもある。四句目だから軽い遣り句と見ていい。
無季。
五句目
しとぎ祝ふて下されにけり
片隅に虫齒かかへて暮の月 乙州
(片隅に虫齒かかへて暮の月しとぎ祝ふて下されにけり)
正月の鏡餅は元は歯固めの儀式だったという。神の供えた後の鏡餅を鏡開きの時に食うのは、歯を丈夫にすることで長寿を祈る儀式だった。それを面影にすると、この句はまた別の味わいがある。
しとぎは柔らかいから歯固めにはならないが、それすら虫歯が痛くて噛めないとなると、なんとも情けない。周りはお祝いで盛り上がっているのに、一人片隅で歯の痛みに堪えながら夕暮れの月を見る。
ここは月の定座だが、お祝いに素直に月の美しさをつけても当たり前すぎるので、せっかくのお祝いに月が出ているのに、とちょっとひねってみたのだろう。
『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「祝ふてといへる其便を咎めて、歯などいためたる人の黄昏にうづくまり居る体。」とある。
季題は「暮の月」で秋。夜分、天象。
六句目
片隅に虫齒かかへて暮の月
二階の客はたたれたるあき 芭蕉
(片隅に虫齒かかへて暮の月二階の客はたたれたるあき)
虫歯の痛みを抱えて一人たそがれているのに加えて、二階にいたはるばる遠方より来たお客さんまで帰ってしまうとますますたそがれてしまう。「たそがれる」という言い回しはごく最近のものだが、何かそれがぴったり来る。「たそがれる」という言葉は当時はなかったにせよそういう雰囲気で付けている、響き付けの一種といえよう。
虫歯と客の関係が特に指定されていないから、そこにはいろいろ想像が入り込む余地があり、古註は意見が割れている。
『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)は「客戻れば、片隅へ入て虫歯やしなふと付たり。」とある。お客さんと楽しく談笑している時は忘れていた虫歯の痛みが、お客さんが帰ってしまうと思い出したように痛み出すという意味だろうか。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)は「前句の姿のみすぼらしげに、くよくよものを思へるふぜいあれば、内証づとめする舟問屋の女などみゆ。」とする。
『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)には「立かはり入かはり客のおほき宿に、昼より客の事にうちかかりていそがしさに、持病の虫歯をいたみて片隅にかがみゐたるに、いつの間にかは二階の客は皆たちて跡しめやかなりとの句也。」とある。
『猿蓑四歌仙解』(鈴木荊山著、文政五年序)には「二階の客はもとより旅の人なれば、やがて別るる事ははじめより合点の事なれども、別れのかなしさ、去れとて人にかたるべきたよりもなく、むし歯といつはりかなしみたるなり。」とある。
まあ、この辺は自由に想像してねという所か。
季題は「秋」で秋。「客」は人倫。
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