2017年1月31日火曜日

「梅若菜」の巻の第三。

   かさあたらしき春の曙
 雲雀なく小田に土持比(つちもつころ)なれや 珍碩(ちんせき)
 (雲雀なく小田に土持比なれやかさあたらしき春の曙)

 珍碩(ちんせき)は近江膳所の人。
 笠は旅人だけのものではなく、お百姓さんも農作業の時は笠を被る。冬の間の暇な時に新しい笠をこしらえたのだろう。新しい笠で気分も新たに、土を入れて田んぼの土も新しくし、田植えに備える。曙の空にはひばりも囀る。
 『はせを翁七部捜』(吏登口述・蓼太編、宝暦十一年序)には「葉五問 ひばり啼小田に土持比なれや、此第三比ならんの心歟。答、左にあらず。何比ならんといふ事をいぢわるう比なれやと、なすべきや。やはり比なれやなり。」とある。
 第三の末尾は「て」か「らん」で止めることが多い。これは規則ではなく単なる習慣で、必ずしも従う必要はない。第三あたりは句が滞ることを嫌い、早くささっと付けられるように、ある程度のパターンを決めておく方がいいというだけのことだ。
 だがここでは「や」で止めている。これは本来なら「土持つ頃ならん」とすべき所で、そのため『はせを翁七部捜』は問答形式で、これは「土持つ頃ならん」と同じに考えて良いのか?と問い、「さにあらず」と答える。「土持つ頃ならん」で良いなら、わざわざ意地悪く「頃なれや」と言い換える必要はない、というわけだ。だが「頃なれや」でなくてはいけない理由は記されていない。
 「らん」は疑問と反語の両方の意味があり、これを利用して前句との関係では疑問の意味だった「らん」を、次の句で反語に取り成せば、容易に大きな展開が出来る。「頃なるや」ならやはり疑問と反語の両方の意味があるから「頃ならん」とほぼ同じ働きになる。しかし「頃なれや」というふうに已然形に「や」が付いた場合は間投詞で詠嘆の意味に近くなる。

 春なれや名もなき山の朝霞   芭蕉

と同じ用法になる。意味としては「春が来たなあ!名もなき山も霞んでいる」という感じになる。これが、

 春なるや名もなき山の朝霞

だと、「名もなき山の朝霞に春なるや」の倒置となり、「春が来たのかなあ?」というニュアンスになる。
 そのためこの珍碩の句も、笠を新しくして小田に土を入れる季節になったなあ、という意味になる。「なったかなあ」という弱い言い方ではない。

季題は「雲雀」で春。鳥類。

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