2017年1月18日水曜日

 今日もあちこちで梅の花を見た。早咲きの梅は紅梅が多い。
 以前「ゆきゆき亭」にアップしていた「空豆の花」の巻の書き直しを始めた。まず表六句。

発句
   ふか川にまかりて
 空豆の花さきにけり麦の縁(へり)  孤屋(こをく)

 元禄七年(一六九四)初夏、深川芭蕉庵での興行の発句。このすぐあと五月十一日には芭蕉は西へと最後の旅に出る。
 初夏は麦秋ともいわれ、麦の穂が稔り、葉は枯れ、あたかも晩秋の田んぼのようになる。
 ソラマメもまた春から初夏にかけて、白と濃い紫とのコントラストのある、可憐な花をつける。「まかりて」は田舎に下る時の言い回しであり、都に上るときには「まうでて」となる。
 この句は都を離れて田圃を尋ねる句であり、芭蕉を陶淵明のような田園の居に隠棲する隠士に見立ての句だ。
 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には「まかりハ、あなへゆくに用る詞。まうでハ、此方へ来る事に用る詞。」とあり、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)には「都へハ参といひ、鄙へハまかるといふ。」とある。

季題は言葉はなくても内容からいえば「麦秋」で夏。「豆の花」という春の季題があるが、ここでは麦秋の風景であるため、句全体として夏の句となる。「空豆」「麦」はともに草類。
 連歌や蕉門の俳諧は実質季語で、句全体の内容から季節を判断する。これに対して近代俳句は「季語」が使われていればほぼ自動的に一定の季節に分類される形式季語で、そのため季重なりがあったときにも、実質的な季節で判断せずに自動的に判断するため混乱が生じる。そのため近代俳句では季重なりに対して厳しくなる傾向にある。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)にも「蚕豆(そらまめ)は夏季、其花は春季のもの、麦は夏季のものなれども、冬の播種より長く畠に在り。されば此句空豆の花とあるに、季の春、夏おぼつかなしと難ずる者あり。されど蚕豆の花、夏猶ほ咲くあれば、麦の縁とあるにかけて、夏季の句なることに論無し。」とある。近代俳句の立場から「季の春、夏おぼつかなし」という人も多かったのだろう。
 芭蕉の時代より一世紀くらい後だが、

 そら豆やただ一色に麦のはら  白雄

という句がある。


   空豆の花さきにけり麦の縁
 昼の水鶏(くひな)のはしる溝川   芭蕉
 (空豆の花さきにけり麦の縁昼の水鶏のはしる溝川)

 クイナは水田などに住むが、夜行性でなかなか人前に姿を表わさない。そのクイナが昼間に姿を表わしたということで、珍しいお客が芭蕉庵に尋ねてきてくれたことの寓意としている。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「発句ニ珍シカル体有ヨリ、昼ノ水鶏ト珍ラシク言テ其姿ヲ附タリ。」とある。

季題は「水鶏」で夏。水辺、鳥類。「溝川」も水辺。

第三
   昼の水鶏のはしる溝川
 上張(うはばり)を通さぬほどの雨降て  岱水(たいすい)
 (上張を通さぬほどの雨降て昼の水鶏のはしる溝川)

 水鶏が昼に出てきたのを、雨で行く人も稀だからだとする。そんな雨の中、上張を羽織って行く人は旅人か。
 『梅林茶談』(櫻井梅室著、天保十二年刊)には「卯月の空あたたなるに、小雨ふりかかりたる野路を過る旅人のさまなるべし。」とある。上に羽織るものを一般に上張りというなら、旅人の着る半合羽も含まれるのか。

無季。「上張」は衣装。「雨」は降物。

四句目
    上張を通さぬほどの雨降て
 そっとのぞけば酒の最中     利牛(りぎう)
 (上張を通さぬほどの雨降てそっとのぞけば酒の最中)

 前句の「上張を通さぬほど」はここでは雨の状態を表す単なる比喩になる。外は雨が降ってるので仕事も休み、家の中で密かに酒を飲んでいる。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「静なる日をたのしミ居たらん。そっとの語余情あり。」とある。

無季。

五句目
   そっとのぞけば酒の最中
 寝処に誰もねて居ぬ宵の月    芭蕉
 (寝処に誰もねて居ぬ宵の月そっとのぞけば酒の最中)

 「宵の月」というのは、まだ日も暮れてないうちから見える月のことで名月のことではない。旅の疲れで寝床で休んでいたが、いつの間にか誰もいなくなっている。何だ、みんな酒を飲んでいたか。七夕の頃の宴の句。
 土芳の『三冊子(さんぞうし)』(元禄十五年成立)には、「前句のそつとといふ所に見込て、宵からねる体してのしのび酒、覗出だしたる上戸のおかしき情を付けたる句也。」とある。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「打よりて遊びうかれてあるくなど、七夕頃の夜ルの賑ひとも広く見なして趣向し給ひけん。」とある。

季題は「月」で秋。夜分、天象。「寝処(ねどころ)」は居所。「誰」は人倫。

六句目
   寝処に誰もねて居ぬ宵の月
 どたりと塀のころぶあきかぜ   孤屋
 (寝処に誰もねて居ぬ宵の月どたりと塀のころぶあきかぜ)

 前句を若い衆のみんな遊びにいってて誰もいないとし、塀が倒れて起こさなくてはいけないのにという、主人のぼやきとした。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「折あしく事ある体、附合の死活を考ふべし。」とある。
 秋風で塀が倒れたのではなく、古くなってた塀が倒れて秋風が吹き込んできたと見たほうがいいと思う。月が出てみんな浮かれ歩いて留守なのに野分の風は無理がある。
 今日だと漫画アニメなどの温泉回のお約束の場面も浮かぶが、昔の風呂は混浴が普通だったのでそれはない。ただ、酔って暴れまわったり相撲を取ったりして塀が倒れたというのはあるかもしれない。

季題は「秋風」は秋。「塀」は居所。

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