『陸奥鵆』でみつけたミミズクの句。
木兎の啼や木の葉の落る度 月尋
木兎の笑ひを見たる時雨哉 李里
フクロウやミミズクの寝顔は笑っているように見える。時雨の森で目を細めているミミズクを見つけたら感動するだろうな。李里さんは鹿の糞の句だけではなかった。
では「空豆の花」の巻の続き、二表に入る。
十九句目
ふとん丸げてものおもひ居る
不届な隣と中のわるうなり 岱水
(不届な隣と中のわるうなりふとん丸げてものおもひ居る)
隣同士の幼い恋も、親同士仲が悪くて、さながらロミオとジュリエット?
『月居註炭俵集』(年次不詳、文政七年江森月居没す)に「隣と中悪くなり物を思ひゐる也。」とあり、これはわかりやすい。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「後附なり。○誰かあぐべきなどいひけん。ふりハけ髪の兼言も仇になりぬる思ひなるべし。」とある。出典をひけらかしていてわかりにくいが、「誰かあぐべき」「ふりハけ髪」は『伊勢物語』の筒井筒からの引用で、幼馴染の男と女が成長につれ異性を意識し、男が女を妻にしたいと思うものの女の親に反対され、
筒井つの井筒にかけしまろがたけ
過ぎにけらしな妹見ざる間に
と詠む。女もこれに、
くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ
君ならずして誰かあぐべき
と返した。このエピソードの面影と考えたのであろう。ただ、「ふとん丸げて」だとあくまで江戸時代の設定になる。古典の風雅の当時の現代的翻案と見られなくもないが、古典のことを知らなくても十分あるあるネタになっている。
古典の風雅を江戸の日常で表現する。それはまさに「軽み」だといえよう。
「兼言(かねごと)」は約束の言葉。
昔せし我がかねごとの悲しきは
いかに契りしなごりなるらむ
平定文『後撰集』
の用例がある。
無季。「中(仲)」は恋。
二十句目
不届な隣と中のわるうなり
はっち坊主を上へあがらす 利牛
(不届な隣と中のわるうなりはっち坊主を上へあがらす)
はっち坊主は鉢坊主のことで、托鉢に来た乞食坊主のこと。昔の人は信心深かったから、そんな怪しげな坊主でも食い物を恵んでやったりしたが、わざわざ家に上がらせるというのはあまりないこと。いろいろな家を訪ねる托鉢僧だから、隣の家の人間がどんなにひどいことをするか話て聞かせ、噂を広めてもらおうということか。
『月居註炭俵集』(年次不詳、文政七年江森月居没す)には、「隣と不和になりたる折、鉢坊主の来たるに上へあがらせ、あくぞもくぞを咄すハ、身軽き人のさま也。」とある。「あくぞもくぞ」は人の欠点をいう。
無季。「はっち坊主」は釈教。人倫。
二十一句目
はっち坊主を上へあがらす
泣事のひそかに出来し浅ぢふに 芭蕉
(泣事のひそかに出来し浅ぢふにはっち坊主を上へあがらす)
田舎の荒れ果てた家に隠棲している身で、誰か亡くなったのであろう。おおっぴらに葬儀も出来ず、たまたまやってきた托鉢僧にお経を上げてもらう。
どういう事情でおおっぴらに葬儀ができないのかは、いろいろ想像の余地がある。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)は「邸中の孫の君などなくしまいらせたる賤がふせ家に、形のごとくの営ミ事もうち憚れる按排ならんか。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は「幼い落君をかくまひ置しが、医療叶ハず、なくし参らせたるふせ家に、野辺の送りさへ世を憚れる按排ならんか。」とあり、『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)には「人のなくなりたるなるべけれど、ゆゑありて、まづハ人にも告ざる也。」とある。
『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)は「桐壺の更衣の母の愁傷のすがた也。」とし、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)は「賤しからぬひとの故ありて、世をしのぶ田舎住居と、はからずも世を去りしものありて、忍ぶ身の人にも告やらで」とある。
土芳の『三冊子』には、
「桐の木高く月さゆる也
門しめてだまって寝たる面白さ
この事、先師のいはく、すみ俵は門しめての一句に腹をすへたり。試に方々門人にとへば皆、泣事のひそかに出来しあさ茅生といふ句によれり。老師の思ふ所に非ずと也。」
とある。『炭俵』の特に評判の良かった句と言えよう。
無季。「なくこと」は哀傷。
二十二句目
泣事のひそかに出来し浅ぢふに
置わすれたるかねを尋ぬる 孤屋
(泣事のひそかに出来し浅ぢふに置わすれたるかねを尋ぬる)
貧しい浅茅生の家で必死に貯めた金だったが、それがどこに置いたかわからなくなったら、やはり泣きたくなる。
前句がいわゆる有心体の深い情を持った句である場合、次の句は重くならないようにあえて卑俗に落とすことが多い。「むめがかに」の巻の、
門しめてだまつてねたる面白さ
ひらふた金で表がへする 野坡
と同様に考えればいい。
『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には「泣事のひそかに出来しと云より転じて、貧家のわりなき事にて質置たる金をうしなひ、家うち取かかりて捜す体を見せたり。」とある。
無季。
二十三句目
置わすれたるかねを尋ぬる
着のままにすくんでねれば汗をかき 利牛
(着のままにすくんでねれば汗をかき置わすれたるかねを尋ぬる)
これは夢落ち。大切な金がなくなった夢を見てはっと目が覚める。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「前句を夢に転じて汗とハいへり。しかもその字のわざとならぬ句作の工夫を察すべし。」とある。
無季。「汗」は近代では夏の季語だが、どのみちここでは冷や汗のことで、夏にかく汗ではない。
二十四句目
着のままにすくんでねれば汗をかき
客を送りて提る燭台 岱水
(着のままにすくんでねれば汗をかき客を送りて提る燭台)
昔の遊郭はいきなりことに及ぶようなことはせず、まずは遊女の姿を垣間見、やがて対面するが、そこでも話をするだけ。遊びなれぬ客は間が持てずにもじもじするばかりで、酒ばかりかっくらって、ついには居眠り。冷や汗かきながら、遊女の灯す燭台で送ってもらう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「初対面なる遊女とも見たらん。」とある。
無季。「客」は人倫。
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