昨日は新宿御苑に行った。梅、蝋梅、寒桜、水仙、福寿草、いろいろな花が咲いていた。旧正月を過ぎて俳諧も春になる。
今日は暖かかったが、夕暮れになると北風が吹いて寒さが戻ってきた。正月三日の月が見えた。
さて、新暦の一月三日には丸子宿に行った縁もあり、『猿蓑』の歌仙、「梅若菜」の巻を読んで行こうと思う。『炭俵』の時は『「炭俵」連句古註集』(竹内千代子編纂、1995、和泉書院)のお世話になったが、今度は『芭蕉連句古注集 猿蓑編』(雲英末雄編、1987、汲古書院)のお世話になる。たのんまっせー。
まずは発句から。
餞乙州東武行
梅若菜まりこの宿のとろろ汁 芭蕉
今栄蔵の『芭蕉年譜大成』(1994、角川書店)によると、この句は元禄四年(一六九一)一月上旬大津で、乙州(おとくに)が江戸へ行くのでそのはなむけに珍碩、素男、智月、凡兆、去来、正秀らが集って行われた興行の発句だった。
この時の興行は二十句で終わり、芭蕉がこの巻を伊賀に持ち帰り半残、土芳、園風、猿雖で二十一句目から三十二句目まで継がせ、暮春に芭蕉が上京したときに嵐蘭、史邦、野水、羽紅に残り四句を継がせて満尾させたという。かなり変則的な形で成立している。
元禄二年(一六八九)の秋に『奥の細道』の旅を終えた芭蕉は、伊賀へと向かう途中にあの、
初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 芭蕉
の句を詠むことになるが、そのあと芭蕉は奈良、京都、大津を転々とする。そして元禄二年の十二月に乙州の姉である智月尼と出会う。芭蕉より十一歳年上の智月尼に、その後元禄四年暮春の江戸下向まで様々な形で世話になることになる。
乙州は智月の弟だが、智月の死別した夫の家督を継がせるために養子にしたことで、弟でありながら息子でもある複雑な関係になった。
その乙州の一足早い江戸下向の餞別に詠んだ句が「梅若菜」の句だった。
句の意味は、これから江戸までの旅の間に至る所で梅を見るだろうし、芽生えたばかりの若菜も見ることだろう、そして宿では新鮮な若菜を食べることだろうし、そうそう丸子宿のとろろ汁も美味い頃だ、と江戸への旅路を羨んでみせて、乙州を喜ばそうというものだ。
梅は古来多くの和歌に詠まれたもので、若菜も『百人一首』でも有名な『古今集』の、
君がため春の野に出でて若菜摘む
我が衣手に雪は降りつつ
光孝天皇
の歌が思い起こされ、どちらも雅語だ。ただ、「若菜」が食べ物でもあるところから「まりこの宿のとろろ汁」を連想し、こちらの方は古典の風雅ではなく今の流行のもので、俳諧らしく落ちをつけている。
この不易と流行との微妙なミスマッチ感は、当時だと笑いどころだったのだろう。
『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「賦体にして道すがら梅もあり、若菜もあり、まりこの宿にはとろろ汁の名物あり、とたはぶれし句なり。」とある。『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)には「梅若菜のごとき景物は、勿論とろろ汁のごときも捨めやと、風雅の一棟也。」とある。「まりこのとろろ汁」が落ちだという認識が伺われる。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「前途の春色を思ひうらやめる意ならん。懸合の華実は更に、句作の鍛錬をみるべし。但むかしは挨拶体なども、幽玄をもてもととなせれば、雅にして心高し。」とある。
季題は「梅」「若菜」でともに春。植物。「梅」は木類。「若菜」は草類。「とろろ汁」は秋の季語だが春にも食べるので問題はない。景物を三つ並べるような句の作りは、
目には青葉山ほととぎす初鰹 素堂
の句に似ている。
脇
梅若菜まりこの宿のとろろ汁
かさあたらしき春の曙 乙州
(梅若菜まりこの宿のとろろ汁かさあたらしき春の曙)
江戸へと旅立つに当たって旅に不可欠な笠を新調し、真新しい笠でこの春の曙に旅立って行きますと、芭蕉の餞別に対しての「行ってきます」の挨拶となる。
『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「打添ニテ前句ノ意味ニ構ズ、翁ノ餞別ヲ謝スル心ニテ、唯イサギヨク門出仕ルト言心ニテ心ヨキ句トナシタリ。」とある。
『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「梅に曙、宿に笠。」とこの句が物付けでそれも二重に物付けをする「四手付(よつでづ)け」の句であることを指摘している。
季題は「春」で春。「笠」は衣装。
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