2019年5月31日金曜日

 「応安新式」の続き。

 「一、可隔三句物
 月 日 星(如此光物) 雨 露 霜 霰(如此降物) 霞 霧 雲 煙(如此聳物) 木に草 虫与鳥 鳥与獣(如此動物)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.301)

 「光物(ひかりもの)」は江戸時代の俳諧では「天象」と呼ばれているが、「連歌新式紹巴注」には「天象に七夕・天河など夜分にも成也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.174)とある。
 月と日は三句隔てる。ただ、どちらかが光物ではない日次を表わす文字なら打越を嫌うだけになる。
 降物はその名の通り空から降ってくるものを言うが、露も降物に含まれる。「露が降りる」とはいうが、「露が降る」とは言わない。それでも降り物に含まれる。「霧が降る」という言い方はあるが霧は降物ではなく聳物になる
 聳物(そびきもの)は聞きなれない言葉だが、「聳く」はweblio古語辞典には、

 「①そびえる。
  ②(煙・雲・霧などが)たなびく。

とある。
 「木に草」は植物(うゑもの)が木類と草類に分けられるため、木と木、草と草は可隔五句物になるが、木と草は可隔三句物になる。竹は木でも草でもないので、木に対しても草に対しても可嫌打越物になる。
 「虫与鳥 鳥与獣」の虫類、鳥類、獣類は動物に含まれる。「女」が「如此動物」とあったのは、かつて人倫も動物に含まれてた時期があったからかもしれない。魚類というのはなくて水辺に含まれる。
 鳥と鳥、虫と虫、獣と獣は可隔五句物だが、鳥と虫、虫と獣、獣と鳥は可隔三句物になる。
 人倫はこの「応安新式」には何の記述もない。「連歌新式紹巴注」には、可嫌打越物のところに「人倫与人倫<我・誰之類、奥に在之>」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.159)とある。「体用事」の所には「人 我 身 友 父 母 誰 関守 主(如此類人倫也)」とある。
 鬼や龍といった架空の生き物は紹巴の頃には非生類になったようだが、今日では様々な種類の幽霊、妖怪、妖精、亜人、モンスター、宇宙人、ロボット、アンドロイドなどのキャラがあるため、「人外」という分類も欲しい所だ。人外と人外は可隔三句物、人倫と人外は可嫌打越物というのはどうだろうか。

 「一、可隔五句物
 同字 日与日 風与風 雲与雲 煙与煙 野与野 山与山 浪与浪 水与水 道与道 夜与夜 木与木 草与草 獣与獣 鳥与鳥 虫与虫 恋与恋 旅与旅 水辺与水辺 居所与居所 夕与夕(時分) 述懐与述懐 神祇与神祇 釈教与釈教 袖与袖 衣裳与衣裳(如此同類) 山与山名所 浦与浦名所」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.301)

 「日与日 風与風 雲与雲 煙与煙 野与野 山与山 浪与浪 水与水 道与道」までは同字とあまり変わらないように思えるが、風に関しては「連歌新式永禄十二年注」に、

 「是は、風の名は五句去るべし、と云心也。嵐・山颪・野分・木枯等の事也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.80)

とある。煙と煙は紹巴の頃には可隔七句物になっていた。
 「夜与夜 木与木 草与草 獣与獣 鳥与鳥 虫与虫 恋与恋 旅与旅」は字ではなく、夜分・木類・草類・獣類・鳥類・虫類・恋・羇旅に分類される言葉同士を指すと思われる。
 「水辺与水辺 居所与居所 夕与夕(時分) 述懐与述懐 神祇与神祇 釈教与釈教 袖与袖 衣裳与衣裳(如此同類)」も同様、水辺・居所・述懐・神祇・釈教・衣装といった分類の言葉同士と、時分としての夕方に属するもの同士、が可隔五句物になるが、袖と袖は同字の延長のように思える。
 「山与山名所 浦与浦名所」は山に富士、浦に明石などをいう。

 「一、可隔七句物
 同季 月与月 松与松 竹与竹 夢与夢 涙与涙 船与舟 田与田 衣与衣」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.301)

 同季というのは春の季語と春の季語、夏の季語と夏の季語などを言う。続ける分には春秋は五句、夏冬は三句までというルールがこのあとの「句数」の所に出てくる。途切れた場合は七句隔てなくてはならない。
 その外の、月・松・竹・夢・涙・船・田・衣などはのちに煙もここに加わったように、あまり頻繁に出てきても面白くないということで、難易度を調整するために選ばれたのではないかと思う。
 江戸時代の俳諧になると、歌仙という短い形式が用いられる機会が増えたせいか、可隔三句物は可嫌打越物に、可隔五句物は可隔三句物に改められたものが多い。

2019年5月30日木曜日

 一組の男女が平均して二人の子供を作った場合、その二人の子供が二人の子供を作るまで生きられれば人口は維持できるが、何らかのアクシデントでそこまで生きられなかった場合を考えると、二人の子供では人口は減少する。人口を増やすためには誰かが三人の子供を生み、平均を二人よりやや大目にしなくてはならない。
 これをわかりやすく言うと、人口を減らさないためには女性にはできれば三人の子供を生むことをお願いしたい、ということになる。
 ただ、これは人口を減らさないということが至上命令になっているという前提の話で、既に地球には七十億の人口があり、これ以上増えれば食糧危機も危惧される中、むしろ飢餓や戦争などによらない、あくまで出生率の低下という平和で自然な形で人口が減少に転じるなら、それは決して悪いことではない。
 果して少子化対策なんて本当に必要なのかどうか、議論すべきはそこなのではないかと思う。少子化対策が必要なら、どういう言葉を使おうが結局は女性に三人の子供の出産をお願いすることになる。
 それでは「応安新式」の続き。

 可嫌打越物は「連歌新式永禄十二年注」に「付句くるしからず。」とあり、打越のみを嫌うだけで、たとえば発句に、

 炎天下待ち行列に草生える   玉森裕太

とある場合、「草生える」は笑いを意味するwwwwwwのことで非植物(うゑものにあらず)であるため、打越つまり第三に植物(うゑもの)を出すことはできないが、脇に、

   炎天下待ち行列に草生える
 こうべを垂れる庭の向日葵

と植物を脇に付けるのはかまわないということだ。
 このあとの第三に植物を続けて詠むことはできない。

 「月に日次の日 日に月次の月」も似て非なものということで同様に考えることができる。光物の月と日は可隔三句物だが、一月二月睦月如月などの月は光物ではない。同様に六日七日などの日も光物ではない。似て非なる物であるが故に可嫌打越物になる。
 「種まく野べの色づく 冬がれの野山にうへ物 竹に草木 梢にすゑ」この辺も同じ。「種蒔く」は植物の種をまくのだがそれ自体は植物ではない。「野辺の色づく」も植物が色づくのだが植物としては扱われない。「冬枯れの野山」も植物が枯れるのだが植物としては扱われない。ただこれらは植物のことを詠んでいるので打越を嫌う。
 竹が草か木かは今日の植物学者の間でも意見が分かれているという。「連歌新式永禄十二年注」には、

 「もろこしには、草の部に用也。古今の歌に
  木にもあらず草にもあらぬ竹のよのはしに我身はなりぬべら也
 是によりて、木にも草にも付ざる也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.59)

とある。「竹のよ」は世に掛けて用いられている。
 竹も草に似て非なる物、木に似て非なる物ということで、草にも木にも打越を嫌うものとなる。
 「梢にすゑ」は「こずゑ」は木の末で末が含まれているが、一応別の単語ということで同字五句去りにはならない。
 「碪に衣裳之類 音声に響 顧に見」の「砧」衣を打つことだがそれ自体は衣装ではない。「ね」「こゑ」に「ひびく」も同語ではないが同じような意味なので打越を嫌う。「かえりみ」に「み」は梢と同様、おなじ「み」の言葉が入ってはいるが、同字とはせず、打越のみ嫌う。
 「夕に春秋の暮 樵夫に木の字」夕暮れに「夕」に暮春暮秋の「暮」も意味が違うので打越のみを嫌う。「きこり」は木をこる人で「木」の字が入るが同字としては扱わない。
 「影に陰 面かげにかげ」の「影」と「陰」の違いはわかりにくいが、見えている影と、見えない部分の陰との違いか。人影、火影、月影などは見えているが、木陰、物陰などは見えない陰になる。ネット上の「違いがわかる事典」には、

 「影は、『月の影』のように、元々は日・月・星・灯火などの光を表す言葉。
 そこから、光が反射して、水や鏡の面などに映る物の形や色などを表わし、光が遮られることで見える物の姿や形、黒い部分などを表わすようになった。
 陰は、日光や風雨が当たらない部分で、必ずしも光と対ではない。
 光との関係で考えた場合は、光が遮られることで現れるのが『影』、見えなくなったところが『陰』となる。
 陰は、見えないところの意味から、『陰で悪口を言う』のように、その人のいないところや目の届かないところ、『陰のある人』のように、表面には出てこない暗い面の意味でも使われる。」

とある。
 「面影」と「影」は同字が含まれるが同字として扱わない例に入る。
 「遠にはるかなり 袖ぬるるに涙 なくに涙(鳥獣のなくは別の事也) 別に帰(恋の心は同事也) 別にきぬぎぬ 思に火(可依句体也)」これは「とほい」に「はるか」は似ているため打越を嫌う。「袖ぬるる」は涙で濡れたものであるため、近い言葉として打越を嫌う。「なく」に「涙」も同じ。ただし動物や鳥や虫の「鳴く、啼く」は同じ「なく」でも意味が違うため、打越でも嫌わない。
 「別に帰(恋の心は同事也) 別にきぬぎぬ 思に火(可依句体也)」のうち「わかれ」と「かえる」は恋の場面なら同じ意味になるので打越を嫌うが、そうでないなら嫌わない。「わかれ」に「きぬぎぬ」は同じ意味なので嫌う。「おもひ」に「ひ」は分かりにくいが、「連歌新式紹巴注」には、

 「もゆるおもひ・胸のおもひは、消えがたきなど云句嫌也。只のおもひと云には不嫌也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.164)

 これも恋に限定された嫌いのようだ。
 「ぬとぬと すとすと 過去のし文字」の「ぬ」と「ぬ」は完了の「ぬ」同士が打越を嫌うということで、否定の「ぬ」は特に嫌わない。「す」と「す」は否定の「ず」と「ず」のこと。過去の「し」同士も打越を嫌う。
 ただし、両方とも句の末尾に来ると韻字になるので打越を嫌う。

2019年5月29日水曜日

 今日は午前中雨が降り、暑さも和らいだ。
 トランプさんは帰国したようだが、何をやっても話題にことかかない人だ。トランプさんがいなくなったら世界はまた元の退屈な世界にもどるのかな。
 理性が人それぞれ多様なのは言葉の性質によるもので、数学や論理学は普遍性を持っている。概念は決して超越的な人類普遍のものではなく、様々な過去の用例が各自の記憶の中で構造化されたものにすぎない。
 概念は典型であって、他の概念との境界は常に曖昧だ。バナナがおやつかどうかが問題になるのは、おやつの典型ではなく、食事との境界線に近い辺縁に位置するからだ。
 それでは「応安新式」の続き。ここでも居所と非居所の境界が問題になる。

 「一、可嫌打越物
 岩屋 関戸 隠家 すみか すまゐ(已上居所に嫌之) 霧にふりもの 時分(夕暮と曙との類也) 雲にくもる 霞におぼろ 涼に冷 身にしむに寒 老に昔 古に故郷等 月に日次の日 日に月次の月 種まく野べの色づく 冬がれの野山にうへ物 竹に草木 梢にすゑ 碪に衣裳之類 音声に響 顧に見 夕に春秋の暮 樵夫に木の字 影に陰 面かげにかげ 遠にはるかなり 袖ぬるるに涙 なくに涙(鳥獣のなくは別の事也) 別に帰(恋の心は同事也) 別にきぬぎぬ 思に火(可依句体也) ぬとぬと すとすと 過去のし文字」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.300~301)

 打越を嫌うというのは、二句隔てることを意味する。たとえば「雲にくもる」というのは、「雲」の出てくる句があって、その次の句があって、その次は打越になるからまだ出せないが、その次の句に「くもり」という言葉を出すのはいいということになる。
 この辺りから、「世」だとか「雪」だとか同じ単語の制限ではなく、一定のカテゴリーの言葉が対象になることが多くなる。
 連歌では題材となる言葉が様々に分類されている。今日での俳句では「季語」があるが、季節だけでなく山類、水辺、植物、獣類、光物、降物、居所、衣装、人倫など、様々な言葉がある。
 「岩屋 関戸 隠家 すみか すまゐ(已上居所に嫌之)」というのは、「岩屋、関戸、隠家、すみか、すまゐ」といった言葉が居所のようで居所でないということがポイントになる。打越を嫌うものには、こういう似て非なる物が多い。つまり同じものならもっと句数を隔てなくてはならないが、似て非なる物だから打越を嫌うだけでかまわないというパターンだ。
 「連歌新式永禄十二年注」には、

 「岩のほらの有に、かりそめに住を、岩やと云り。然共、真実の居所には非。屋の字あれば、打越を嫌ける也。関戸・関屋、戸の字・屋の字あれば、打越をば嫌也。守人の住心なり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.52)

とある。岩屋は本来そこで生活するような場所ではなく、修行などで一時的に籠るための場所だから、居所にはならない。
 「関戸・関屋」も関所の建物で、たとえ関守がそこで暮らしているとしても基本的には公共施設なので居所にはならない。

 「隠家といふは、樹上石上に立よりて、をこなひをし、観念するを、隠家といへり。
 或、柴など折かざし、草を引むすぶを、柴の庵・草の庵といへり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.52~53)

 隠家も今では気心知れた仲間だけが集まる場所のことも言うし、比喩的な意味でのアジトや秘密基地と同様に用いられることもある。だが本来は修行のために隠棲する場所をいう。
 「柴の庵」「草の庵」は非居所になるが、「庵」は居所になる。ただ、江戸時代になると草庵といっても自分の立派な庵を謙遜してそう呼ぶ場合が多くなる。
 「屋」「戸」「家」もこれだけだと居所で、つまり「家」とあって二句隔てて「戸」は出せないが「関戸」ならいいということになる。「戸」とあって二句隔てて「隠家」もOKということになる。これは非居所だから許されるということで、居所と居所だと五句隔てなくてはいけない。

 「栖といへば、居所の心大やう(になる)なり。狩人は山をすみかとし、海士は海を栖とするなどいへる心なり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.53)

 つまり居所としての「すみか」ではなく比喩としての「すみか」ならいいということか。

 「栖居、是又心おなじ。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.54)

 「すまい」もそれと同じ。
 このルールは居所と居所のようで居所でないものとの間で広く適用される。「連歌新式永禄十二年注」にはこのほかに、田の庵、居所に村、霧の籬(まがき)、浜庇も居所のような非居所として居所と打越を嫌うとしている。
 「霧にふりもの」も「霧」は聳物で降物ではないが、降物に近いという点で打越を嫌うことになる。「霞」に「朧」も似て非なるということか。
 「涼に冷 身にしむに寒 老に昔 古に故郷」なども同じで、似て非なる物は可嫌打越物として扱われる。
 これでいくと植物と非植物の「草生える」は可嫌打越物でいいのか。

2019年5月27日月曜日

 暑い日が続く。テレビは熱中症に注意を呼びかけスポーツを控えるように呼びかけるが、高校野球に言及することはない。玉森裕太さんの句のパクリだが、炎天下野球別腹草生える。
 ところで、社会主義の理性の王国はなぜ挫折するのか。
 答えは簡単だ。理性は一つではなく、人それぞれみんな違うからだ。
 みんな違うのにそれを無理矢理一つにしようとすれば、必ず争いが起こる。議論は永遠に平行線で、解決を急げばもはや暴力しかない。
 かくして理性のユートピアのための戦いは修羅の道に堕ちて行く。
 ならどうすればいい。遊べばいい。想像の中だけならユートピアはいつでもそこにある。
 あのロックの神様もかくのたもうた。想像しろ(imagine)。放っておけ(let it be)。
 それではゲームで遊ぼう。我国が誇る中世の遊び文化、連歌の式目の続き。

 「一、一座四句物
 雪(三様之、此外春雪一、似物の雪、別段の事也) 晨明(ありあけ)(四季各一) 関(只一、名所一、恋一、春秋などに一) 氷(只一、つらら一、月の氷、涙の氷などに一、霜雪のこほるなどに一) 鐘(只一、入逢一、尺教一、異名一)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.300)

 この辺になると大分少なくなってくる。
 雪の「三様」は冬の雪を趣向を変えながら三句ということ。そのほかに一句春の雪を詠むことができる。似せ物の雪は比喩としての雪で桜の散る様を雪に喩えるようなことをいうと思われる。四句とは別に詠むことができる。
 氷の四句に氷室は含まれない。「連歌新式心前注」に「氷室は此外なるべし」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.240)とある。
 有明の月は秋であっても一句に制限される。その他春夏冬の有明も一句づつ詠める。
 鐘の異名は「連歌新式永禄十二年注」に、

 「異名とは、くぢらのこゑ・かものこゑなどいへり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.48)

とある。

 「一、一座五句物
 世(只一、浮世世中の間に一、恋世一、前世後世などに一) 梅(只一、紅葉一、紅梅一、冬梅一、青梅一) 橋(只一、御階一、梯一、名所一、浮橋一)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.300)

 「恋世」は古文の試験でお馴染みの「世の中」には男女の仲の意味があるというもの。「前世後世などに一」は前世一、後世一で、これで五句になる。
 ただ紹巴の時代には解釈が割れていたのか、「連歌新式永禄十二年注」には、

 「只の世一、述懐の世二、恋の世一、前世・後世・仏世など三の中に一用。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.51)

とあり、「連歌新式紹巴注」には、

 「述懐世二。恋の世は面をかへてあるべし。うき世に憂字二句。悲しきも同。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.155)

とあり、「連歌新式心前注」には、

 「只一。浮世・世中の間に一。恋の世一。前世一。後世一。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.243)

とある。

2019年5月26日日曜日

 今日も暑かった。それでは「応安新式」の続き。

 龍の句のところで例として挙げられてた、

 たつのぼるながれにももの花うきて

の句は、『宗伊宗祇湯山両吟』の六十一句目で、

   落つるもいく瀬滝のみなかみ
 龍のぼるながれに桃の花浮きて   宗伊

の句だった。(「ながれにものの」と書いてしまったが、これは入力ミスなので訂正した。)

 「一、一座二句物
 春月(只一、在明一) 夏月(只一、在明一) 冬月(只一、在明一) 暁(只一、其暁一) 代(神代一、君代一) 春風(只一、春の風一) 秋風(只一、春の風一) 松風(只一、松の風一) 五月雨(只一、梅雨一) 夕 今日 いほ一(いほり一) 故郷(只一、名所引合一) 岡(只一、名所引合一) 池(只一、名所引合一) 湊(只一、名所引合一) 宿(只一、旅一) 庭(只一、庭の教など云て一) 雁(春一、秋一) 猿(只一、ましら一) 旅(只一、旅衣など云一) 命(只一、虫の命などに一) 老(只一、鳥木などに一) 男(只一、桂男など云て一、如此二句物懐紙可替之)名残(只一、花などに一) 成にけり 思しに 物を(如此置所をかへて二句) 恋しく・こひしき うらみ・うらむ(如此云かへて二句)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.300)

 連歌の言葉は基本的には一座一句だが、言い換えることで二句用いることのできるものがある。月は春夏秋冬に分けることができて、そのうちの春夏冬に関しては月の句とは別に有明の句を一句詠むことができる。
 秋の場合も有明は一句だが、他は制限がない。ただし、可隔七句物で同字五句去りよりは厳しくなっている。
 「水無瀬三吟」の場合、五句目に秋の月(意味的には有明)、十八句目に秋の月、二十七句目に春の月、四十八句目に秋の月、五十八句目に秋の月、六十六句目に秋の月、九十句目に秋の月で、この頃は四花八月という規則はなかった。
 前にこの俳話でも取り上げた「宗祇独吟何人百韻」では、第三に春の月、十一句目に秋の月、十九句目に秋の月、三十一句目に秋の月、四十四句目に秋の月、五十二句目に冬の有明、六十句目に秋の月、六十九句目に秋の月、八十四句目に秋の月、九十二句目に秋の月となっている。基本的に秋の月以外はそれほど詠まれることはない。江戸時代の俳諧のほうが秋の月以外の頻度が高いように思える。
 なお、『新式追加条々』には、

 「春月(只一、在明一、三日月一) 夏 冬(同前)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.305)

とある。春夏冬の月はそれぞれ一座三句物に増えている。
 「暁(只一、其暁一)」の其暁については、「連歌新式永禄十二年注」に、

 「其暁とは、三会の暁の事也。又、人の心の迷のやみをはらして、心の明白に成ことをいへり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.36)

とある。「三会」は「竜華三会」で、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 「《連声(れんじょう)で「りゅうげさんね」とも》釈迦の入滅後56億7000万年ののち、弥勒菩薩がこの世に出て、竜華樹の下で悟りを開き、人々を救済するために説法するという3回にわたる法座。竜華会。弥勒三会。」

とある。
 ネット上の論文、『弥勒菩薩による救済の表現─「とはずがたり」を中心に』(吉野瑞恵)によれば、『とはずがたり』に、

 このたびは待つあか月のしるべせよ
     さても絶えぬる契なりとも
             (巻三、一四六)
 月を待暁までの遥かさに
     今入日の影ぞ悲しき
             (巻三、一四六)

の歌があり、竜華の暁を意味するという。
 「代(神代一、君代一)」は「世」とは別で、「世」は一座五句物になっている。「かみのよ」「きみがよ」が一句づつという意味。
 「君が代」の用例としては、『姉小路今神明百韻』の挙句、

   日影さす山のかたその竹の戸に
 君が此の代のひかりしるしも  宗砌

 『応仁元年心敬独吟山何百韻』の七十六句目、

   身を安くかくし置へき方もなし
 治れとのミいのる君か代    心敬

などの句がある。
 「春風(只一、春の風一) 秋風(只一、春の風一) 松風(只一、松の風一) 五月雨(只一、梅雨一) 夕 今日 いほ一(いほり一)」は言い換えればOKというもの。
 「故郷(只一、名所引合一) 岡(只一、名所引合一) 池(只一、名所引合一) 湊(只一、名所引合一)」は名所の古郷、名所の岡、、名所の池、名所の港とそれぞれ別に詠める。名所の故郷というのは、「連歌新式心前注」に、

 「名所の古郷とは、志賀の古郷・吉野の古郷など也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.228)

とある。生まれた所という意味ではなく旧都・旧跡の意味で、

 みよしのの山の秋風さよふけて
     ふるさと寒くころも打つなり
               参議雅経

の歌もある。志賀にも、

 あすよりは志賀の花園まれにだに
     たれかは訪はん春のふるさと
           摂政太政大臣(藤原良経)

の歌がある。
 「庭(只一、庭の教など云て一)」の「庭の教」は「連歌新式心前注」に、

 「庭の訓とは、物を習事也。
 論語、季子篇、鯉走而過庭。曰、学詩乎。対曰未也。曰不学詩、無以言也。鯉退学詩。他日又独立、鯉趨而過庭。曰、学礼乎。答曰未也。不学礼無以立鯉退而学礼。
 是にて、物をならひをしゆる事を庭訓と云。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.229)

とある。歌語だと「にはのをしへ」になる。
 また、「連歌新式永禄十二年注」や「連歌新式心前注」には、

 「庭の外、寺・皇居等之間に庭あるべし。」

とあり、「連歌新式紹巴注」には、

 「庭一、皇居に一、庭のをしへなどに一。」

とある。寺や皇居の庭は別扱いとして、実質的に一座三句物になっている。
 「雁(春一、秋一)」は秋に来る雁、春に帰る雁で二度詠めるということ。これはわかりやすい。
 「猿(只一、ましら一)」は「さる」とその異名の「ましら」を詠める。
 「命(只一、虫の命などに一) 老(只一、鳥木などに一)」は人間と人間以外に一句づつ。

 「一、一座三句物
 神(神代一、只一、名所一) 花三(懐紙をかふべし、にせ物の花此外に一) 藤(只一、藤原一、季をかへて一) 櫻(只一、山櫻遅櫻など云て一、紅葉一) 柳(只一、青柳一、秋冬の間一) 落葉(只一、松の落葉一、柳ちるなど云て一) 紅葉(只一、梅櫻に一、草のもみぢ一) 荻(只一、夏冬に一、やけはら一) 薄(只一、尾花一、すぐろ、ほやなどに一) 都(只一、名所一、此内に有べし、旅一) 塩(只一、焼て一、潮一) 岸(只一、彼岸一、名所一) 文(恋一、旅一、文字文一) 狩(鷹一、鶉一、獣一) 鶏(夜鳥一、庭鳥一、異名一) 鹿(只一、鹿の子一、すがる一) 車(只一、水車一、法車一)」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.300)

 「神(神代一、只一、名所一)」のうち名所の所は「連歌新式永禄十二年注」には「名神一」となっていて、

 「むすぶの神、一夜めぐりの神、あら人神などを名の神と云なり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.41)

とある。
 「花三(懐紙をかふべし、にせ物の花此外に一)」は、この頃まだ「定座」というものはなく、表裏含めて一枚の懐紙に一句、どこでも良かった。一座三句だと花のない懐紙が出来てしまうため、比喩としての花を一句詠み、四枚の懐紙すべてに花が行くようにした。
 後の『新式今案』でも基本的には花は一座三句だが、「近年或為四本之物然而余花は可在其中」とある。
 「荻(只一、夏冬に一、やけはら一)」とあり、「連歌新式永禄十二年注」に、「焼原は春なり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.43)として、

 けふよりは萩の焼原かき分て
     若なつみにと誰をさそはん

の歌が例示されている。
 「薄(只一、尾花一、すぐろ、ほやなどに一)」とあるが、「すぐろ、ほや」は「連歌新式永禄十二年注」に、

 「薄は総名なり。尾花とは穂に出たるを云。すぐろとは、焼野の薄を云。ほやとは、すはの祭の頭屋を薄のほにてふくを云。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.43~44)

とある。

 あはづののすぐろの薄角ぐめば
     冬立なづむ駒ぞいばふる
 しな野なるほやのの薄ほに出て
     いざみだれなむしどろもどろに
 わぎもこに逢坂山の篠薄
     ほにはいでずて恋やわたらむ

の三首が例として挙げられているが、最初の歌は、

 あはづ野のすぐろのすすきつのぐめば
     冬たちなづむ駒ぞいばゆる 
              権僧正静円

 二首目はよくわからない。ネットで

 しなのなるほやのすゝきも風ふけば
     そよそよさこそいはまほしけれ
 まめなれど良き名も立たず刈萱の
     いざ乱れなむしどろもどろに

の二首を見つけたが。
 「ほや」は穂屋で、『猿蓑』に、

 雪散るや穂屋の薄の刈り残し   芭蕉

の句がある。
 三首目は『古今集』の、

 我妹子に逢坂山のしのすすき
    穂には出でずも恋ひわたるかな

だと思われる。
 「岸(只一、彼岸一、名所一)」の彼岸はあの世、涅槃の岸のこと。
 「文(恋一、旅一、文字文一)」の「文字文」は諸注には「文学一」とある。
 「鶏(夜鳥一、庭鳥一、異名一)」の異名は「くたかけ・ゆふつけ鳥など」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.237)と「連歌新式心前注」にある。

2019年5月24日金曜日

 五月にしては異常な暑さになったが、まだ朝夕が涼しいから救われてる。仕事中の飲料も五百ミリリットルのペットボトル二本分くらいで済んでいる。本当の夏の暑さだと一リットル紙パックが二、三本要る。
 それでは『応安新式』の続き。

 「一、一座一句物
 若菜 款冬(やまぶき) 躑躅(つつじ) 杜若(かきつばた) 牡丹 橘 女郎花(おみなえし) 檜原 櫨(はじ) 如此植物
 鶯 喚子鳥(よぶこどり) 貌鳥(かほどり) 郭公 螢 蝉 日晩(ひぐらし) 松虫 鈴虫 蛩(こおろぎ) 虫 熊 虎 龍 猪 鬼 女

 如此動物
 昔 古(いにしえ) 夕暮 昨日 夕立 急雨(むらさめ) 雨 嵐 木枯(こがらし) 朝月 夕月 如此類
 隠家 そとも なるこ ひだ とぼそ 閨 如此類」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.299)

 一座一句は百韻の連歌に一句という意味。
 連歌ではそのほかにも一座二句物、一座三句物、一座四句物、一座五句物などがあり、頻繁に使っていい詞については、可隔五句物、可隔七句物などがある。可嫌打越物、可隔三句物については類似するカテゴリーの詞に対してで、同じ単語、同じ題材に対しては用いない。可隔五句物のところに「同字」とあるように、同じ言葉は基本五句去りになる。
 こうした規則は連歌の難易度を調整するのに重要な意味があり、一つ一つにもっともらしい根拠があるわけではない。ゲームに適度な難易度を与えることで、飽きが来ずに長くプレーできるようにするというのが最大の狙いだったと思う。
 「連歌新式永禄十二年注」には、

 「五句物・四句物・三句物・二句物、或、七句去・五句去など員数定たる物は不及是非。其外の物は、皆一座一句の物たる故に、尤物をと書たり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.27)

 式目に挙げられている言葉はほんの一例であり、一座二句物、一座三句物、一座四句物、一座五句物といった定めのないものについては基本的に一座一句と考える。
 連歌だと雅語の語彙は限られているが、俳諧の場合俗語を含むため使える言葉が飛躍的に増えたが、厳密ではないにせよ基本的に同じネタは一巻に二度用いないということで、一座一句が守られていたのではないかと思う。
 そして、

 「群出たる物也。百韻にかならずあらまほしき物を書きたる心也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.27~28)

と、特に連歌によく使われる詞で、あった方がいい詞を例にしているという。ただ、例外もあり、

 「熊・虎・鬼・龍など様の物は、うちまかせて、百韻連歌にすべきにあらず。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.28)

とある。これは詠んではいけないというのではなく、千句興行なら一句くらいあってもいいという意味だ。
 実際、熊・虎・鬼・龍を詠んだ和歌というと、なかなか思い浮かぶものがない。そうなると、こういう言葉を使ってしまうと、次に付ける人が困ってしまう。

 時によりすぐれば民の嘆きなり
     八大龍王雨やめたまへ
              源実朝

という歌はあるにはあるが。
 蕉門の俳諧では「糞尿」の句は『去来抄』「先師評」に「されど百韻といふとも二句に過ぐべからず。一句なくてもよからん」とあり、糞尿合わせて一座一句になっている。
 「連歌新式永禄十二年注」は虎と龍(たつ)の例を挙げている。

   しられぬほどに身をやかくさむ
 みえずとも虎ふす野辺ぞ心せよ

 たつのぼるながれにももの花うきて

 また、

 「むささび・ふくろうごときの異様の物は、千句・万句の外にすべからず。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.28~29)

とある。梟はこの頃は嫌われていたのか、「ごとき異様の」の扱いになっている。
 「檜原(ひばら)」は万葉の時代には詠まれていた。

 いにしへにありけむ人も我がごとや
    三輪の檜原にかざし折りけん
                柿本人麻呂

 また「巻向の檜原」を詠んだ歌もいくつかある。
 「櫨(はじ)」を詠んだ歌は、

 山ふかみ窓のつれづれとふものは
     色づきそむるはじの立ち枝
                西行法師
 鶉なく交野にたてるはじ紅葉
     ちりぬばかりに秋風ぞふく
                藤原親隆

など、比較的新しい歌に見られる。
 「猪」は、

 かるもかき臥す猪の床のいを安み
     さこそ寝ざらめかからずもがな
                和泉式部

の歌がある。
 なお、式目には「龍 猪 鬼 女 如此動物」とあるが、「連歌新式紹巴注」には、

 「龍<非生類> 鬼<同>。奥に委。女人倫也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.141)

とある。確かに女が動物というのはあんまりだ。想像上の動物は非生類として扱われるようだ。
 だとするとゴブリンやエルフやドアーフなどの異世界物でおなじみの物も非生類として扱うべきなのか。ゴジラやポケモンはどうなのか。アンデッド系はまあ非生類だろうな。

2019年5月23日木曜日

 連歌・俳諧だけでなく、定型詩というのも少なからずゲーム性を持っている。
 つまり同じルールのもとに競うことができるという点では、定型詩もゲームである。連歌・俳諧はそれを多人数でできるようにより複雑なルールを整備していったと思えばいい。
 この前の詩人会議時代の「帰化」は偽ソネットだが、押韻規則があるというので興味をもって作っていた。本当のソネットは音節数の規則もあるというから、やはり偽ソネットだ。文化的盗用とか言われるかな。
 共産党系の詩人会議に所属し、今思えば社会派を気取っていたというか、何とも恥ずかしい。その恥の上塗りを。

   岩躑躅
       -智月尼の興によるソネット-
 何も言わず何も言わせてもらえず
 夕映えに赤らむ躑躅
 心に広がってゆくまだ見ぬ海
 また旅人を見送って家に帰る

 また溶け出してゆく心の塵
 家事、育児、終ることのない労働
 水車小屋の廻りで時は移ろうとも
 消えることのない苦しみの日々

   悠久の時、命の営み
   繰り返して回る水車
   すぐそこに見えて届かない歴史の終り
 
   本当の花を見る日はいつか
   流れてくる花びらが悲しみに染まり
   跡形もなく消えてゆくようにもゆる草

 出典となった句は、

 やまつゝじ海に見よとや夕日影   智月
 見やるさえ旅人さむし石部山    同
 待春や氷にまじるちりあくた    同
 鶯に手もと休めむながしもと    同
 やまざくらちるや小川の水車    同
 しら雪の若菜こやして消にけり   同

 「すぐそこに見えて届かない歴史の終り」は想像するだけなら簡単だが、やるとなるときつい「イマジン」の心でもある。
 それでは「応安新式」の続き。

 「一、雑物体用事
 仮令、春と云句に弓と付て、又引・帰・をすなどは付べからず、これ用なる故也、本・末とは付べし、是体なる故也、打越に体あらば、もと・すゑ又不可然、長と云句に縄と付て、又短などは不可付之、是体なる故也、くる・ひくとは可付之、これ用也。」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.299)

 これはいわゆる「用付け」の制だ。
 輪廻の所に「薫物と云句に、こがると付て、又紅葉をつくべからず、船にては是を付べし」とあったが、これは「薫物(体)」に「こがる(用)」を付けて、そのあとに「舟(体)」を付けるのは良しとしている。
 これに対し、春(体)は張る(用)と掛詞になるため、「弓(体)」を付けた際には「張る(用)」として扱われる。これに「引く(用)」を付けると輪廻になる。
 体・用・体(取り成しによる別の体)の場合、二つの体がまったく別の場面を作るため輪廻にはならない。
 ところが用・体・用だと同じ体にその用が付くため輪廻になる。似ているようでまったく違う。
 「薫物のこがる」と「舟のこがる」は誰が見ても別の場面だが、「弓のはる」と「弓のひく」は同じ弓の場面になる。上句下句合わせて和歌の体としたとき、別の歌になれば良く、似たり寄ったりの歌になるのは悪い。これは連歌でも俳諧でも基本になる。
 現代連句はそもそも上句下句合わせて和歌の体にするという発想もないし、むしろ一巻が一つの詩だと考えるため、緩やかなイメージの連鎖を好み、発想が飛躍することを嫌う。

2019年5月22日水曜日

 今日はまた晴れた。ただ、夜になって雲が出てきて月は見えない。
 それでは「応安新式」の続き。

 遠輪廻のところで、「連歌新式永禄十二年注」には、

 「竹と云句に世と付て、又夜の字不可付之。如此類又遠輪廻なり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.17)

とある。
 これは竹の節と節の間のことを「よ」と言っていたためで、この「よ」に掛けて「世」「夜」を付けるのは、同じ趣向と見なされていたからだ。
 『古今集』に、

 なよ竹のよながきうえにはつしもの
     おきゐて物を思ふころかな
              ふじはらのたゞふさ

の歌のように、「竹のよ」を「世」に掛けて用いることがあった。『新古今』のも、

   延喜御時屏風哥
 としことにおいそふ竹のよゝをへて
     かはらぬいろをたれとかはみん
                 紀貫之

の歌もある。
 同様に、竹に「ふし」を付ける場合も意味は違っていても同じ掛詞ということで遠輪廻になる。

 「又、竹にうきふしと付て、又、竹と云句にふし侘てと付る事、竹のふしを用事同ければ、不可然也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.17)

 「一、本歌事
 三句に不可渡(本説・物語・同之)但迯歌あらば不可嫌之、凡新古今已来之作者、不可用之、本歌は堀川院百首の作者までをとるべし、又雖為近代作者、證歌には可用之。」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.299)

 本歌、本説(故事などによる付け)、あるいは源氏物語・伊勢物語などの物語を出典として付ける場合は三句に渡ってはいけない。
 この場合、たとえ意味や趣向を違えていても、同じ歌、同じ故事、同じ物語を出典としている場合は輪廻になる。
 三句目を付けるとき、別の歌、別の故事、別の物語を引いてくる分にはかまわない。これを「迯歌(逃歌)」という。

 「たとへば、朝霧と云句に明石の浦と付て、又嶋がくれ行舟と付れば、三句になるなり。
 前の朝霧の一句に雖無本歌心、明石の浦を付れば、ほのぼのと明石の浦の朝霧にといふ歌の心に、朝霧の句もなる也。
 其ゆへは、彼本歌なくは、朝霧に明石の浦付くべきゆへなけらば也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.18)

 朝霧という言葉が、前句と特に本歌を取っらずに出てきていたとしても、次の句に「明石の浦」と付いた時は、上句下句合わせて出来上がる歌が、『古今集』の、

 ほのぼのとあかしの浦の朝霧に
     島隠れゆく舟をしぞ思ふ
              読人知らず
   このうた、ある人のいはく、柿本の人麿がうたなり

の本歌取りの歌になるからだ。
 これに更に「嶋がくれ行舟」を付ければ、同じ「ほのぼのと」の歌を本歌にした和歌が二首並んでしまうことになる。これを嫌う。

 「逃歌とは、我舟に乗て漕行に、嶋のみえたる体の句はくるしからず。別の歌の心になれば也。
 天ざかるひなの長路を漕くれば明石のとより大和嶋みゆ」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.18)

 「朝霧」に「我舟に乗て漕行」と来て「嶋のみえたる」と続ける分には最初の二句は「ほのぼのと」の歌だが、次の二句は『新古今集』の、

   題しらず
 天離る鄙の長路を漕くれば
     明石の門より大和嶋見ゆ
              人麿

という別の歌が本歌になるため、「逃歌」になる。この場合もちろん同じ人麿の歌であってもかまわない。
 なお、この歌は今日では、

 天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば
     明石の門より大和島見ゆ
             柿本人麻呂

という形で知られている。これは江戸後期の国学の『万葉集』の訓読みで、それ以前は『新古今集』の歌として先の形で知られていた。
 『応安新式』では「凡新古今已来之作者、不可用之、本歌は堀川院百首の作者までをとるべし」となっていて、十二世紀の初め頃までの作者(藤原公実・源俊頼・大江匡房・藤原基俊など)の歌はいいが、新古今の時代、つまり俊成・西行・定家などのものは用いないとなっている。
 先の人麿の歌は『新古今集』だが、人麿自体は万葉時代の人なのでセーフになる。
 ただこれは、

 「人のあまねくしらざる歌をば付合に不可好用之。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.20)

とあるように、みんなが知っているような歌を使いなさいという意味だ。それは連歌が社交の場であって、みんなが楽しめるようにという配慮で、こんなマイナーな歌でも知ってるぞという薀蓄を語る場ではないからだ。
 江戸時代の俳諧になると、その辺はかなり揺らいでくる。
 「又雖為近代作者、證歌には可用之。」とあるのは、本歌は堀川院百首まででも、それ以降の歌を証歌(證歌)にする分にはかまわないということだ。
 本歌と証歌の違いについては「連歌新式永禄十二年注」には、

 「本歌と証歌との分別の事。本歌と云は、前句の付合也。証歌と云は、詞づかひ・一句のしたて也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.20)

とある。本歌というのは元歌の趣向を借りてきて付けることをいい、証歌というのは、使用している語句の用法の正しさを過去の用例で検証することを言う。
 また、

 「本歌といふにも猶心え有べし。たとへば、梅に鶯を付、柳に鶯を付、雪に桜、款冬に蛙、又、卯花・橘、五月雨等に時鳥を付、紅葉・萩等に鹿・鴈を付、萩・薄・女郎花等に虫を付事をば本歌とはいはず。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.20~21)

とあるのは、特に一種の和歌に限定される趣向を借りるのではなく、多くの歌で用いられている組み合わせは、江戸時代の俳諧では「付き物」というが、これは本歌には入らない。
 物語も三句に渡ってはいけないが、『源氏物語』のような長い物語であれば、同じ『源氏物語』の別の場面を付けて逃げることはできる。

 「源氏物語は、大部の物なれば三句すべし。但、同所は二句ばかりすべきなり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.24)

 なお、本説は故事によって付けるが、いわゆる「こじつけ」ではない。「こじつけ」という言葉は江戸後期のもので、本来故事と関係ないなかったものを、あとから故事になぞらえる、いわば後付けの故事をいう。

2019年5月21日火曜日

 今日は久しぶりにまとまった雨が降った。風も強かった。
 人間の自由というのは、我々の生得的に備わった感情や欲望や行動が基本的に偶発的な変異によるもので、何かの「ために」進化したのではないため、特定の目的に拘束されないことに由来する。生存のため、子孫を残すため、その外のいかなる目的にも拘束されてない。故に自由だ。
 恋も決して子孫を残す「ための」ものではない。だから同性を愛そうがそれは自由だ。
 生存のためでも子孫を残すためでもない行為をあえてする、あえてその自由を行使する、それが遊びの根本なのかもしれない。
 それでは『応安新式』の続き。

 「一、輪廻事
 薫物と云句に、こがると付て、又紅葉をつくべからず、船にては是を付べし、こがるといふ字、かはる故也、煙と云句に里とつきて、又柴たくなど薪の類を不可付、他准之。」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.298~299)

 これは同じ「こがる」でも違う意味に取り成してつける分にはかまわないということを言う。
 「薫物のこがる」「紅葉のこがる」はどちらも火によって焦げるという意味で、紅葉の場合も葉が赤くなるのを比喩として焦がると言っているから、同じ意味の「こがる」となる。これに対し「船のこがる」は漕ぐという別の単語への取り成しだからOKということになる。
 「連歌新式永禄十二年注」に、

 「紅葉 あかき物なれば、こがると云に付れば、火の心に成なり。たき物と云とも、こがると付ずして、荷葉・梅花・新枕など付たらんに、紅葉を嫌べからず。されば、船にて付べし と書たる事、此心也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.14)

 「薫物」と「紅葉」は本来打越を嫌うものではない。ただ「こがる」という文字が間にあるから「薫物のこがる」「紅葉のこがる」が輪廻になるだけで、薫物に蓮の葉(荷葉)を付けてそれに紅葉をつける分には問題ない。
 「荷葉(かえふ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 ハスの葉。
  2 夏に用いる薫物(たきもの)の名。ハスのにおいに似せたものという。
 『ただ―を一種(ひとくさ)合はせ給へり』〈源・梅枝〉」

とあり、薫物に縁がある。
 煙に里と付けてまた柴たくや薪を付けるのは、「煙りたなびく里」「柴焚く里」「薪こる里」と趣向が似てしまうからで、これも輪廻になる。
 「連歌新式永禄十二年注」に、

 「但、椎柴・なら柴・ふし柴などは不可嫌也。柴取・柴はこぶなどは、焼となしても、はや薪の心あれば、おもはしからず。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.14)

 椎柴・なら柴・ふし柴は山に柴の生えている様子なので、柴を焚いて煙を出すという連想に繋がらない。ただ「柴取る」「柴はこぶ」だと柴を燃やすして煙を出すという連想が働いてしまうので思わしくない。要は煙りたなびく里のイメージから離れよということだ。
 このあたりの判定はかなり微妙ではあるが、基本的には打越と前句を合わせたときの生じる趣向と同じものを繰り返してはいけないということだ。できる限り違う意味になるように付けてゆく、それが連歌にしても俳諧にしても基本となる。

 「一、遠輪廻事
 仮令花と云句に、風とも霞とも付て、又付加付之、数句を隔といふとも、一座に可嫌之、他准之。」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.299)

 「花」に「風」を付けた句あって、後になってまた花の句が出たときに同じように「風」を付けてはいけない。多少は変える必要がある。
 「連歌新式永禄十二年注」には、

 「是新式の法也。
 花に付る風・霞の類、近代強不及沙汰歟。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.16)

とあり、紹巴の時代では花に風と付けても、「風に咲く花」「風に匂う花」「風に散る花」のように趣向が違えば良しとする。

 「咲花に風を付るは、春風に花の咲心也。匂ふ花に付れば、風吹て匂ひのくははる心なり。散花に付れば、風に散たる心に成也。作意かはらば、何かくるしからん。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.16)

 輪廻も遠輪廻も、基本的には上句下句合わせて和歌として読み下した時、似たり寄ったりのものになることを嫌うもので、違う趣向の歌になっていれば問題はない。

2019年5月20日月曜日

 ジョン・レノンの「イマジン」の理想も、想像するだけなら簡単だが実際にやるとなるとかなりきついものがある。
 国なんてないんだとはいっても、人は生きるために社会集団を作り、集団の利益のために行動する。そこに自ずと仲間とそうでないものの区別が生まれ、それが大きな単位になれば結局心の中に国境が生まれる。
 アメリカのどこかの学校では親友を作ることを禁止しているらしい。特別な人、大事な人が生じれば、自ずと人を平等に扱うことは困難になる。だからといって家族も恋人も親友もいない世界というのが本当に理想の世界なのかというと、誰もが首をひねるところだろう。それこそディストピアではないかと思う。
 現実には困難なことでも、想像の世界なら簡単なことだ。歌もそうだし、小説やゲームやスポーツの中でなら実現できることもある。
 様々な理不尽に満ちた糞ったれなこの世界で救いがあるとしたら、それを当たり前と受け入れるのではなく笑い飛ばす世界があるということだ。
 連歌・俳諧は歌であると同時にゲームでもあり、苦渋に満ちた世界を笑いに変える別乾坤でもある。
 ゲームであるからにはルールがある。ゲームのルールというのは退屈しない程度に適度な難易度を具えていなければならない。そしてそのルールに従う限り、各プレーヤーは身分に関係なく平等になる。偉い人だからルールを無視してもいいということではない。
 連歌の公式ルールは基本的に応安五(一三七二)年に作られた『応安新式』と『新式追加』それに享徳元(一四五二)年の『新式今案』の三つがある。ここではまず『応安新式』を見て行くことにする。
 まず最初にあるのがこれ。

 「一、韻字事
 物の名と(朝夕の字同之、他准之)詞の字と是を不可嫌、物の名と物の名打越を可嫌、詞の字つつ、けり、かな、らん、して如此類、打越可嫌之、他准之。」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.298)

 これだけだと何だかよくわからないので、『連歌新式古注集』(木藤才蔵編、一九八八、古典文庫)の「連歌新式永禄十二年注」を見てみよう。

 「韻の字といふは、上句下句のとまりの字也。詩にはすこしかはりたり。連歌には、手尓於葉の字をも、韻の字といへり。又、歌に韻をふみてよめる時は詩におなじ。定家卿の歌に、繊の字にてよめる、
 面影のひかふる方にかへりみる都の山は月ほそくして
 してといふは、てにをはなればなり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.10)

 たとえば、水無瀬三吟の表八句、

 雪ながら山もと霞む夕べかな    宗祇
   行く水遠く梅匂う里      肖柏
 川風にひとむら柳春みえて     宗長
   船さす音もしるき明け方    宗祇
 月やなほ霧渡る夜に残るらん    肖柏
   霜置く野原秋は暮れけり    宗長
 鳴く虫の心ともなく草枯れて    宗祇
   垣根をとへばあらはなる道   肖柏

の場合だと、「かな」「里」「て」「方」「らん」「けり」「て」「道」が韻字になる。打越、つまり「かな」「て」、「里」「方」、「て」「らん」、「方」「けり」、「らん」「道」など、同じ音の重複がなければ良しとする。

 「物名(朝夕之字同之。他准之)与詞の字、不嫌之。物名与物名可嫌打越(時雨・夕暮などととむる事、近代不嫌之)
 たとへば、時雨ととまり、あられととまる、このれのかなを嫌たる也。朝夕の字同之と云は、夕・曙・夜・昼・宵・暁などは、物名に可用之と云心也。
 しぐれ・夕ぐれなど留る事、近代不嫌之。この詞今案なり。
 物名と物名とのとまり、今の世には不嫌之、といふは是也。されば是より前の一段は、いらざる物なれど、後常恩寺殿の奥書に云、応安の新式は此道亀鏡也、永不可違背と侍り。此故に、あらためずして書ける也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.11)

 「物名」は体言で、「詞の字」は用言を指すと思われる。
 物名の場合は「時雨」「夕暮れ」だとおなじ「れ」の字で留まるということで、「応安新式」の時代は嫌っていた。ただこの注の書かれている室町時代末期の紹巴の時代では嫌わなくなっていたようだ。
 「しぐれ」「あられ」も同様、「れ」の字で留まるのでNGとなる。
 西洋では韻を踏む伝統があるから、韻字の一致は好まれるが、日本ではむしろ嫌われる傾向にあった。
 以前『九鬼周造のライム』を書いたとき、古今集の上句と下句で韻を踏んでいるものがどれだけあるか調べたことがある。『九鬼周造のライム』から引用しておこう。

 「単純に考えても、日本語の母音は五つしかないのだから、和歌の上句の末尾と下句の末尾が単純韻を踏む確立は五分の一、『古今集』の千首余りの和歌のうち二百首がこの種の韻を踏んでいることは当然予測できる。また、いろはは四十七文字だから、拡充単純韻を踏む確率は四十七分の一、少なくとも二十首はあってもおかしくない。実際末尾に来る文字というのは四十七文字均等ではなく、頻繁に出現する文字が幾つかあるから、もっと確率は高い。まして、先に述べたような無意識のライミングが存在するなら、より多くの頻度で末尾の一致が生じている可能性がある。
 ところが実際に数えてみると、『古今集』の巻一から巻十八までのちょうど千首の和歌に関して、上句と下句の末尾の母音の一致するもの(単純韻)は百十九首、末尾の母音子音とも一致するもの(拡充単純韻)は十三首しかない。これはむしろ、上句と下句の母音の一致を嫌っている可能性がある。少なくとも、ここには意図的な押韻は認められない。」

 連歌式目での打越の同韻を嫌うのも、もとから和歌でも韻を踏むことを嫌う傾向があり、それを引き継いだ側面もあったのではないかと思う。

 「一、詞の字、つつ・けり・かな・らん・して、如此類可嫌打越(他准之)
 か様の手尓於葉の字は、一句の詮にならず。いひそへて、十七、十四の仮名の数にするまでなり。ムノスナリレリ てにをはを詞の字と云事は、玄恵法師の太平記書給ふ時、てにをはの字をさだめられたる也。前の月ほそくしてと云歌も、ほそきまでなり。ほそきかなとも、ほそからんともいはるるなり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.12)

 詞の字の場合、同じ韻は同じ助詞である事が多いため、打越で同じ言葉を嫌うのは輪廻を嫌うのとほぼ同じことといえる。
 俳諧でもこの韻字のルールはほぼ守られている。

2019年5月19日日曜日

 今日は代々木へOKINAWAまつり2019を見に行った。山羊そばを食べた。千代田ねこ祭りにも出ていたむぎ(猫)のステージをここでも見た。
 昨夜は家の前の枇杷の木にハクビシンが来てギャーギャーうるさかった。最近都市を中心に増えているという。
 ウィキペディアによれば、ハクビシンはてっきり外来種だと思っていたが、

 「これら日本のハクビシンが在来種なのか外来種なのかは確定していない。江戸時代に記録された『雷獣』とされる動物の特徴がハクビシンに似ているため、江戸時代には既に少数が日本に生息していたとする説や、明治時代に毛皮用として中国などから持ち込まれた一部が野生化したとの説が有力である。根拠としては、国内においてジャコウネコ科の化石記録が存在しないこと、中国地方や九州に連続的に分布していないことが挙げられる。ただし、導入個体群の原産地や詳細な導入時期に関しては不明である。」

となっている。ただ、

 「日本では本州から九州にかけて断続的に分布しており、日本での初めての確実な記録は1943年の静岡県浜名郡での狩猟記録で、1952年以降は国の狩猟統計にも登場している。」

とあるから、昔から散発的に持ち込まれて野生化する事はあったが、爆発的に増えたのは最近のことだと見ていいのだろう。
 増えているといえばアライグマも前に相模川の沿いの道路で轢かれたアライグマを見たことがある。狸かと思ったがそれにしてはデカすぎるし、尻尾に縞々があった。
 都市の環境は概ね動物に対して親切で、獲って食うこともなければ、農作物を荒らすといって追い払われることもないから、在来種だけでなく固有種で一度山に追い払われたものも結構街に帰ってきているという。
 子供の頃は狸が出るというと「どんな田舎だ」と言われたし、七十年代にはこの町の「最後の狸」とか言われた剥製にされた個体もいたが、今では東京の真ん中でも狸はいる。
 この頃は街での猪や熊の出没もニュースになっている。
 植物の方も、昔ながらの蓬や葎にかわって、様々な外来植物の花が咲いている。この頃目に付くのはユウゲショウで、ピンクの小さく可憐な花を咲かす。名前はユウゲショウだが早朝から咲いているし、夕方には萎んでいる。
 今の時期にはまだナガミヒナゲシの小さなオレンジの花も咲いている。多くは既に芥子坊主になっているが、これが細長いために「ナガミ」と呼ばれているという。
 子供の頃は初夏になるとヒメジョオンの白い花に埋め尽くされた空き地が多かったが、最近はこの二つに押されている。
 もう十八年くらい前になるか、詩人会議時代に書いた詩をふと思い出した。

   帰化
 この頃見知らぬ顔が増えてきた
 人の夢埋めた埋め立て地
 どこからか流れ着いた異国の種に
 咲いた花びらひとときの栄華

 ゴミとなっても夢は終らない
 靴底にへばりつきクソにまみれ
 またどこか遠くの街で
 人知れずに花盛り

   どこだっていいこの地球の地面に
   今日が一人降り立った記念日
   開かれた未来自由に思い描け

   すべての生き物のそれぞれの遺伝子
   誰にでもある生きてゆく権利
   異国の地を新しい色に染めてやれ

 今思うと甘いなと思うのは、「個」として様々な人々が交じり合うのならさほど問題は起こらないが、異国の地に移り住んでも本国の集団意識を持ち続け、そこで集団となって権利を主張し始めるなら、結局実質的な侵略行為になってしまうことだ。
 集団の閉鎖性を異国の地にまで持ち込まないようにできるほど、人類の「個」の意識は成熟していない。口では世界市民などと言ってはいても、結局特定の民族集団の利益の為に排他的にふるまうなら、やはり「外国人」だ。それが今世界で問題になっているのではないかと思う。
 いかなる民族も国家も宗教も関係ない完全な「個」というのが存在して、誰もが七十億人に対してたった一人であるという究極のマイノリティーとして生きるなら、本当の意味で国境のない世界を作ることができるだろう。だが、現実はちがう。結局人は心の中に国境を作り、ただ「自分達」の利害の為に人権を利用することしか考えない。
 さて、風流の方はというと、そろそろ連歌・俳諧に欠かせない式目のことを考えてみようかと思う。ゲームは世界を繋ぐ、そう信じたい。そのゲームに欠かせないのはルールだ。同じルールを共有することでプレーヤーは一つになる。

2019年5月16日木曜日

 月も大分丸くなってきた。今日は旧暦四月の十二日。
 それでは「杜若」の巻。残念ながら今日で終わり。

 二表
 十九句目。

   ねためる筋を春惜まるる
 燕に短冊つけて放チやり     叩端

 「ねためる筋」を仲を引き裂こうとしている筋としたか。燕に短冊をつけて飛ばして思いを伝えようとする。
 燕に短冊は何か故事でもあるのかと思ったが、よくわからない。伝書鳩は江戸時代に日本に入ってきたと言うが、おそらく江戸後期のことだろう。となると想像で燕に短冊を思いついたことになる。七夕のカササギの渡せる橋あたりがヒントになったか。
 二十句目。

   燕に短冊つけて放チやり
 亀盞を背負さざなみ       芭蕉

 これも何か故事があるわけではなさそうだ。お目出度い亀の背中に盞(さかずき)を背負わせて酒をふるまうとは何とも粋だが、実際には亀は思ったとおりに歩いてくれないし、揺れて酒がこぼれたりするから、難しい。
 燕に亀と対句のように付ける相対付け(向え付け)だ。
 二十一句目。

   亀盞を背負さざなみ
 天気さへ勅に応じて雲なびく   安信

 前句を吉祥とし、森羅万象をあやつる聖人君主の登場とした。
 震災の頃、当時の菅首相が「総理という役割はまさに森羅万象のことに対して対応しなければなりません」と言ったというが、これは単にあらゆることに対処するという意味で、別に森羅万象を意のままに操る能力があるわけではない。
 今の安倍首相は噂によると地震を起したり火山を噴火させたり北にミサイルを発射させたりする能力があるらしいが、あくまで噂にすぎない。
 二十二句目。

   天気さへ勅に応じて雲なびく
 五日の風の宮雨のみや      如風

 「風の宮」はウィキペディアによると、「外宮正宮南方の檜尾山(ひのきおやま)の麓に位置する外宮の別宮である。」とある。
 さらに、「古くは現在の末社格の風社(かぜのやしろ、風神社とも)であったが、1281年(弘安4年)の元寇の時に神風を起こし日本を守ったとして別宮に昇格した。」とある。
 雨の宮はよくわからないし、「五日」にも何か意味があったかどうかは不明。何となく語呂が良くて並べた言葉であろう。
 二十三句目。

   五日の風の宮雨のみや
 菓子売も木がくれてのみ住はつる 自笑

 「菓子売(かしうり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 菓子を売り歩くこと。また、その人。
 ※滑稽本・浮世床(1813‐23)初「日傘をさして高く組あげたる菓子箱をかたにかつぎて売来る此菓子売」

とある。ただこれは江戸後期のことで、ここでは京都の門前菓子を売る人のことではないかと思う。
 前句を五日間雨風が続いて「風の宮雨の宮」だったとし、いつもは賑わう門前もひっそりしていて、「木がくれてのみ住はつる」となる。
 二十四句目。

   菓子売も木がくれてのみ住はつる
 長屋の外面たつ名はぢらひ    知足

 菓子売りの娘がひっそりと暮らしているのは、長屋で浮名が立ってしまったからだとする。
 さて恋に転じて盛り上がってきたところでここからどういう展開をするのか、残念ながらこの先は現存していない。
 未完なのか、散逸したのか、さだかではないが、挙句の体にはなってないから、ここで満尾ということはない。

2019年5月15日水曜日

 「杜若」の巻の続き。

 十三句目。

   岸にかぞふる八百の鷺
 森透に燈籠三つ四つ幽なる    叩端

 前句を単に河辺の風景として、その向こうに神社があるのか、燈籠が三つ四つ森の木々の合い間に見える。夜分になるので月を呼び出す。
 十四句目。

   森透に燈籠三つ四つ幽なる
 子をおもふ親の月さがしけり   重辰

 これは謡曲『三井寺』か。前句を三井寺の燈籠とする。「月さがしけり」は「月の中をさがしけり」。
 十五句目。

   子をおもふ親の月さがしけり
 それの秋すなる手打の悔しくも  知足

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は子殺しのこととするが、子の敵(かたき)をとったとも取れる。
 いずれにせよ前句を心の闇に真如の月を探すこととする。
 十六句目。

   それの秋すなる手打の悔しくも
 猫ならば猫霧晴てから      如風

 曲者と思って手打ちにしたが、霧が晴れたら猫だった。無用な殺生は悔やんでも悔やみきれない。
 十七句目。

   猫ならば猫霧晴てから
 鳥辺野に葛とる女花わけて    桐葉

 「鳥辺野」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「京都市東山(ひがしやま)区、東山西麓(せいろく)の地域。かつては現在の五条坂から今熊野(いまくまの)付近にかけての広い地区を称していた。平安中期ごろから葬送の地として知られ、『源氏物語』にも葵上(あおいのうえ)が荼毘(だび)に付されるようすを記している。近世以前は庶民の墓は墓石がなく、卒塔婆(そとば)を立てたが、近世以降は大谷本廟(ほんびょう)(西大谷)から清水(きよみず)寺にかけて墓地が集中し、浄瑠璃(じょうるり)で知られたお俊(しゅん)・伝兵衛(でんべえ)の墓などもある。[織田武雄]」

とある。江戸時代ではもはや風葬の地ではなく、普通に墓石が立てられて

いた。
 「葛とる」は葛の根を掘るのではない。葛の根の収穫は冬でかなりの力仕事だ。ここでは食用にする葛の芽ではないかと思う。
 花の定座で、この場合の「花わけて」が正花であるからには、そこいらの雑草の花ではなく、散った桜の花びらを掻き分けてという意味だろう。
 墓場で葛の芽を摘む女は、この周辺に住む被差別民であろう。
 墓地には猫が多い。死んだ猫と考える必要はない。葛を取りながら猫に餌やったりしてたのかもしれない。
 十八句目。

   鳥辺野に葛とる女花わけて
 ねためる筋を春惜まるる     僕言

 女が出たところで恋に転じる。
 ねたましい人を憎みながら、春の終ってしまうのを惜しむ。

2019年5月14日火曜日

 「杜若」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   それとばかりの秋の風音
 捨かねて妻呼鹿に耳ふさぎ    如風

 これはひょっとして「剃れとばかり」に取り成したか。
 山奥に妻呼ぶ鹿のビイというこえが聞こえてきて、人の世も悲しければ山に住む鹿も悲しげで、俊成卿の、

 世の中よ道こそなけれ思ひ入る
     山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
            皇太后宮大夫俊成

の歌も思い起こされる。
 ならばいっそ出家すればとばかりに秋の風も悲しげだが、なかなか出家には踏み切れない。
 述懐の句で、中世連歌のような古風な響きがある。
 八句目。

   捨かねて妻呼鹿に耳ふさぎ
 念力岩をはこぶしただり     安信

 「念力」は今日のようなサイコキネシスの意味ではなく、本来は信じる力という意味。必ずしも仏道や信仰とは限らず、思い込みが強いと本当にそうなるという意味で、「念力岩をも通す」という諺もある。これは「石に立つ矢」の故事からきたもので、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「一心を込めて事を行えばかならず成就するとのたとえ。中国楚(そ)の熊渠子(ようきょし)が、一夜、石を虎(とら)と見誤ってこれを射たところ、矢が石を割って貫いたという『韓詩外伝(かんしがいでん)』巻6や、漢の李広(りこう)が猟に出て、草中の石を虎と思って射たところ、鏃(やじり)が石に突き刺さって見えなくなったという『史記』「李将軍伝」の故事による。「虎と見て石に立つ矢もあるものをなどか思(おもい)の通らざるべき」の古歌や、「一念(一心)巌(いわ)をも通す」の語もある。[田所義行]」

とある。
 この句は咎めてにはで、前句の「捨かねて」を受けて世を捨てようかやっぱりやめようか迷っている人に、信じれば岩をも動かすんだと諭す体とみていい。
 最後の「しただり」は鹿の声を受けたもので、一種の放り込みとみていいだろう。鹿の声に耳を塞いでるつもりでも、知らずと涙がしただる。
 九句目。

   念力岩をはこぶしただり
 道野辺の松に一喝しめし置    重辰

 「一喝」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 禅家の語。悟りを得させるために用いる叱咤(しった)、叫声(きょうせい)。喝(かつ)。いちかつ。〔文明本節用集(室町中)〕
 ※読本・雨月物語(1776)青頭巾「『作麼生(そもさん)何(なんの)所為ぞ』と、一喝(いっカツ)して他(かれ)が頭を撃給へば」 〔臨済録〕」

とある。
 道野辺松の木の下で僧が同行の弟子に喝を入れ、前句をその喝の内容とする。街はずれ、村はずれの松の木の下は決闘の場所になったり、いろいろなドラマを盛り上げる上での欠かせない舞台装置と言えよう。
 十句目。

   道野辺の松に一喝しめし置
 長者の輿に沓を投込ム      芭蕉

 これは謡曲『張良(ちょうりょう)』の本説か。
 張良はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「能の曲名。四・五番目物。観世信光(のぶみつ)作。シテは黄石公(こうせきこう)。漢の高祖に仕える張良(ワキ)は,夢の中で不思議な老人に出会い,5日後に下邳(かひ)の土橋で兵法を伝授してもらう約束をする。下邳に出向くと,老人(前ジテ)はすでに来ていて遅参を咎(とが)め,さらに5日後に来いといって消え失せる。張良が今度は早暁に行くと,威儀を正した老人が馬でやって来て黄石公(後ジテ)と名のり,履いていた沓(くつ)を川へ蹴落とす。」

とある。このあとのことは、「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「漢の高祖の軍師となった張良が黄石公の川に落とした沓(くつ)を取って、その人柄を認められ、ついに兵法の奥義を授かる。」

とある。「松に一喝」を遅参を咎める場面とし、沓を返す場面を「輿に沓を投込ム」と元ネタと少し違えて付ける。
 十一句目。

   長者の輿に沓を投込ム
 から樽を荷ふ下部のうつつなや  知足

 「うつつなや」はうつつでない、つまり気が確かでないこと。樽が空だというから、飲んじゃったんだろうな。長者の輿に沓を投げつけたりするなんて、普通じゃない。
 十二句目。

   から樽を荷ふ下部のうつつなや
 岸にかぞふる八百の鷺      桐葉

 これは源平合戦の富士川の戦いか。ウィキペディアには、

 「平氏撤退に関しては以下のような逸話が有名である。その夜、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れる。それに富士沼の水鳥が反応し、大群が一斉に飛び立った。『吾妻鏡』には「その羽音はひとえに軍勢の如く」とある。これに驚いた平家方は大混乱に陥った。『平家物語』や『源平盛衰記』はその狼狽振りを詳しく描いており、兵たちは弓矢、甲冑、諸道具を忘れて逃げまどい、他人の馬にまたがる者、杭につないだままの馬に乗ってぐるぐる回る者、集められていた遊女たちは哀れにも馬に踏み潰されたとの記載がある。事実がどのようなものであったかは不明ではあるが、平家軍に多少の混乱があったものと推察される。」

とある。
 平家が合戦を前にして飲んだくれていて、水鳥の羽音を敵軍と聞き誤ったとする。

2019年5月12日日曜日

 今日は生田緑地バラ園に行った。ことしも良く咲いていたし、人もたくさん来ていた。
 北の飛翔体は短距離ミサイルでアメリカや日本の脅威にはならないということで、とりあえず問題なし。韓国の玄武-2Bやロシアの9K720「イスカンデル」と同様のものだという。射程は長くても五百キロくらいか。まあ、「名状しがたいミサイルのようなもの」と言っておけば良いのか。
 脅威になるとしたら、三十八度線とそう離れてない所に首都を持つあの国くらいか。北の狙いが板門店宣言で取り決めた南北統一にあるとすれば、必要なのは現体制の延命のための支援ではなく受け入れ準備のほうで、それが整わないから、かなりいらいらしながら時間稼ぎしている可能性もある。
 さて、今月の卯月の俳諧ということで『校本芭蕉全集』三巻・四巻・五巻をめくってみたが、この季節は芭蕉さんも暑さで体調を崩すことが多かったのか、この季節の興行は少ない。
 とりあえず貞享二年四月四日、『野ざらし紀行』の旅の途中、鳴海の知足亭での九吟二十四句興行をみていこうと思う。猫の句も一句ある。
 発句は、

 杜若われに発句のおもひあり   芭蕉

で、何ともシンプルなメッセージだ。知足亭の庭に杜若が咲いているのを見て、今日はお招きくださってどうもありがとう、それでは発句といきましょうか、というだけの句だ。発句は本来こういうものでよかった。
 『伊勢物語』で在原業平が三河八橋で詠んだとされる「かきつばた」の歌を踏まえているという説もある。三河八橋は鳴海の隣の池鯉鮒宿(ちりゅうしゅく)の先にある。距離にして三里くらいか。電車だと九駅。
 脇は主人の知足が付ける。

   杜若われに発句のおもひあり
 麦穂なみよるうるほひの末    知足

 麦の穂のたわわに実ろうとしている今日この頃、我々もこうして打ち揃い興行ができるのも、みんな芭蕉さんの「うるほひ」ですと、単純に持ち上げて返す。脇は本来こういうものでよかった。
 第三。

   麦穂なみよるうるほひの末
 二つして笠する烏夕ぐれて    桐葉

 桐葉は熱田で芭蕉に宿を提供している。この興行にも同行した。
 麦畑に烏は付き物で、海の向こうのフィンセント・ファン・ゴッホも絵に描いている。
 「笠する」は笠擦るで、威嚇のためによく行うタッチアンドゴーのことか。一羽ならともかく二羽もとなるとびっくりする。
 「笠する」を笠を被るの意味に取ると、二人の僧の比喩にもなる。
 四句目。

   二つして笠する烏夕ぐれて
 かへさに袖をもれし名所記    叩端

 「名所記」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「江戸時代前期の地誌,名所旧跡案内記のなかで文芸的色彩の濃い書の総称。仮名草子の『竹斎』などが名所記の先駆的作品であるが,実用的記述,すなわち名所旧跡の由来,道中の行程などが欠けており,名所記とはいえない。中川喜雲の仮名草子『京童 (わらべ) 』 (1658) が名所記の最初で,以後,山本泰順の『洛陽名所集』 (58) ,浅井了意の『東海道名所記』などが刊行された。名所記が後世に及ぼした影響は大きく,秋里籬島の『都名所図会』 (1780) 以下の名所図会類はその代表的な例である。」

 仮名草子の『竹斎』は芭蕉も読んでいたのか、前年の冬には、

 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉 芭蕉

の句を詠んでいる。
 万治二年(一六五九年)に刊行された浅井了意の『東海道名所記』などを片手に東海道を旅する人も、当時のあるあるだったと思われる。不意のカラスのタッチアンドゴーにびっくりして本を取り落とす。
 「かへさ」は「帰りがけ」、夕方だから宿に戻る。
 五句目。

   かへさに袖をもれし名所記
 住馴て月待つほどのうら伝ひ    僕言(僕の人偏のない字だが、フォントが見つからないので「僕」で代用する。)

 これは『源氏物語』須磨巻の十五夜の場面の本説。前句の名所記を、源氏の君が須磨から帰ったあとに描いた須磨の絵日記のことだとする。
 六句目。

   住馴て月待つほどのうら伝ひ
 それとばかりの秋の風音      自笑

 月待つ浦に秋風と、軽く流す。

2019年5月10日金曜日

 先日の「メシ喰うな」だが、遠藤ミチロウの「メシ喰わせろ」は、いかに社会主義の理念が素晴らしく、共に貧しさを分かち合おうと言っても、やはり空腹には耐え切れない。人間の自然の情がこの言葉によって発露される。これは風流の心にかなう。
 だが、町田康の「メシ喰うな」は一般大衆を「中産階級のガキ共」と罵り、町を行く花を抱えた人たちに嫉妬の怒りを撒き散らした挙句、そいつらに「メシ喰うな」と言う。嫉妬は人の常ではあるが、風流に欠ける。
 「俺の存在も肯定して、俺にも花を持たせてくれよ、一緒にメシ喰おう」ならまだ分かる。多分本心はそうなのだけど、あえてすねて見せているだけなのだと思う。まだ若い頃の作品ではあるし。
 この歌詞でミュージシャンを続けるのはどのみち無理だったし、早いとこ見切りをつけて小説家になったのは正解だった。

 「今の代のてにハ違ひハ皆是也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.137)

 つまり腹が減っているのにメシ食うなと言い、本当はあの色とりどりの花を持った人の群れに混じりたいのに、ぶちのめすと言ったり、本当は自己肯定感を求めて止まないのに否定してくれと言ったり、こういうすねた感じは一部の人には受けるかもしれないが、民の心を和らげるものではない。
 ただ、そういうのを新しがったり、人と違う奇抜な言葉を吐いたりして人目を引こうというのは、昔からよくあることだったのだろう。
 『去来抄』にある、「晩鐘のさびしからぬ」の句のように、強がって言っているのか、単に鈍感なのか、聞いても「え?何で?」と思ってしまうような句が何か新しいと思ってしまうかもしれないが、昔からそういうのはたくさんあったと思う。
 ただ淘汰されて残ってないだけのことだ。残ってないから新しいと思う、それだけだ。

 「てにはを以て打ならすといふハ、たとへバ師の句ニ、
 うき我を淋しがらせよかんこ鳥
 此句、『淋しがらする錬鼓鳥』とせば、何を以てか民の心のやハらぐ事あらん。これ常也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.137)

 凡庸な作者なら、

 うき我を淋しがらするかんこ鳥

とやって満足しそうだが、かんこ鳥の声を聞いただけで簡単に今までの憂鬱も忘れて、むしろ世俗が懐かしくなり寂しさを感じるというなら、結局その程度の憂鬱かよ、と言いたくなる。
 「淋しがらせよ」とすれば、閑古鳥くらいでは容易に晴れない深い憂鬱の表現になる。
 「うき我を淋しがらする」は、もともとたいした憂鬱でもないのに、閑古鳥の声で憂さも晴れたぞ、閑古鳥の風流の分かる俺ってかっけー、にしかならない。淋しがらせてくれと訴えかける所に人は心を動かす。

 「『淋しがらせよ』とてにはを以て打ならし吹ならす故に、五音相続してもののふの心やハらぎ、めに見えぬ神鬼を泣しめ侍る也。
 楽器の吹鼓をやとひ侍るにハ及ばずして、一句一句に楽ハおのづから調ひ侍る也。
 此ごろ、てにはに五音のひびき有て、唐土の楽にかハらず、民を治る事を発明せる也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫

p.137~138)

 まあ、いわばこれは魂の叫びというやつで、それだけに音楽のように人の心にすんなりと入ってくる。
 「めに見えぬ神鬼」は「鬼神」と言った方が分かりやすいが、これはいわゆる御霊も含まれる。「みたま」ではなく「ごりょう」の方で、非業の死を遂げた魂がまだこの世に恨みを残しとなると、何か災いが起こるたびに、ひょっとして祟りではないかとなり、気が気でない。
 その恨みを誰かが歌で代弁し、それに多くの人が共感し、みんなでその恨みを分かち合えば、怨霊の悪さするのではないかという不安も消える。怨霊が悪さをするのは、自分の気持ちをわかって欲しいからで、みんながme tooと言えばこの声は非暴力にして社会の変革につながってゆき、問題が解決されれば怨霊も浄化され守護神になる。
 クイーンの楽曲も「We Will Rock You」でみんなが手を打ち鳴らし足を踏み鳴らし、「We Are the Champions」をみんなで大合唱する、その一体感こそが本当に素晴らしいことで、たまたまそのボーカルがパキだったとかゲイだったとかいうのはそんなに重要でないし、それを忘れさせることが彼の偉大さだったと思う。
 俳諧も同じで、みんながあるある、そのとおりだ、と思うことが大事で、そこに大衆の間での一体感を生み出す。それはまさに民を治めるということだ。
 今の時代、それをやっているのは残念ながら近代俳句ではなく芸人たちの方だ。

2019年5月9日木曜日

 ところで「不詳飛翔体」とは何ぞや。そのまま翻訳すればUFOになってしまう。さすがあの国はついにUFOを完成させたか。
 日本のマスコミも南北両国に忖度して、この言葉を使っているし、「飛しょう体」と表記しているところもある。
 まあ、この問題であんまり引っ張るとヘイトだと言われそうなので、『俳諧問答』の方に行くとする。

 「やまと歌ハてには也。てにはハ五音のひびき也。
 芭蕉をはせをと訓じたるハ、是ウトヲト通やうするひびき也。
 てにはのよき句ハ、おのづから五音の調子よくひびき、又てにはのあしき句ハ、五音のひびきととのひ侍らぬ故に、民の心に感応する事なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.136~137)

 音楽の五音は音階だったが、やまと歌の五音はアイウヱヲの五母音ということになる。ここで許六は「てには」を格助詞の文法的な働きとしてではなく、母音の音韻のこととしている。
 「芭蕉」は今日ではバショーと発音することが多く、丁寧に言うとバショウになる。オなのかウなのか曖昧な所は、芭蕉の時代でも同じだったのかもしれない。確かに「是ウトヲト通やうするひびき」だ。『長短抄』にも三五相通とある。
 蕉という字は中古音(隋唐の時代の音)ではツィエウに近かったようだ(『学研漢和大字典』による)。古代のサ行もチャに近かったと言うから、ツィエウをセヲと訓じたのであろう。ただ、後に音便化して今の発音に至る。ちなみに今の北京語のピンインはjiāoで、オーという音便化は日本独自のものだ。
 「てにはのよき句ハ、おのづから五音の調子よくひびき」というのは明らかに文法の議論ではない。まあ、文法的に変な句は変な耳障りな感じに響くことを考えれば、違和感のなくすらすらと言い下せて聞き流せることを「五音のひびきととのふ」と言っているのだろう。

 「されバ絲竹・管弦の吹鼓(ふきならし)なくても、此てにはのひびきを以て打はやし侍るゆへに、めに見えぬ鬼を泣しめ、もののふの心をやハらげる事うたがひなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.136~137)

 「絲竹(いとたけ)」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①楽器。
  ②管弦の音楽。
  出典新花摘 俳文
 『和歌の道いとたけの技』
 [訳] 和歌の道や音楽の技術。
 参考漢語『糸竹(しちく)』の訓読。『糸』は琴・箏(そう)・三味線など弦楽器、「竹」は笛・笙(しよう)など管楽器。」

とあり、これでゆくと「絲竹・管弦」は同語反復になる。
 やまと歌(和歌)は雅語でメロディーを口ずさむもので、てにはの響きは、文法的にも整い違和感なく響くため、口ずさんだ時にもきれいに聞こえる。
 「打はやし」というから鼓(つづみ)を伴奏にすることもあったのだろう。『野ざらし紀行』の素堂の序にも「狂句木枯の竹斎、よく鼓うつて人の心を舞しむ」とある。俳諧でも鼓を打ってメロディーを付けて歌い、それに合わせて舞うような楽しみ方があったのだろう。正岡子規以降の近代では俳句でも短歌でも素読を基本とし、歌うことはほとんどなくなった。
 こうして「あそび」として楽しむのが和歌・連歌・俳諧といった言の葉の道の基本で、だからこそ目に見えぬ鬼神も楽しませ、上機嫌にさせて災厄をもたらさないようにし、怒り狂う軍人の心もまあまあと和ませ、非暴力にして世界を動かすと考えられていた。額に皺を寄せてうんうん悩ませる近代文学とはそこが違う。
 近代文学は特定の思想を大衆に吹き込み闘争を煽るもので、やまとの言の葉の道とは相容れない。日本の近代詩の原点である『新体詩抄』の大半は人を戦いへと煽る、ほとんど軍歌のような内容だった。

 「かかる大事のてにはを、あだに心得て容易にをく事、大和歌の本意をうしなひ侍れバ、民の心やハらく事、盡未来にいたると云共、あるべからず。
 たとへバてにはのあしきと云ハ、餓たる時飯をこのむ心あり、我已に餓たり、飯を喰まじきと云がごとし。今の代のてにハ遣ひハ皆是也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.136~137)

 てにはが変で一々耳につっかえるような言い回しでは、人々も感情を共有することが難しい。
 そのような言い回しは人とは違う自分だけの言い回しを作ろうとして生じるもので、他人との感情の共有を拒否してると言っていい。近代俳句、近代短歌、現代詩、純文学、ことごとくそのように出来ている。まあ、平和な世の中に対立や分断を引き起こし、戦いを煽り、革命を起すための文学であれば致し方ない。まさに「メシ喰うな」だ。
 先日他界された遠藤ミチロウは「ワルシャワの幻想」という曲の中で「メシ喰わせろ」と歌ってたが、芥川賞作家の町田康は「メシ喰うな」というアンサーソングを歌ってた。

2019年5月8日水曜日

 『俳諧問答』の続き。

 「されバ、箸・橋・端の三ツをよくわかち侍る也。これハアイウヱヲの五ツのひびきより出て、一歳此ひびきにもるる事ハなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.135~136)

 箸(はし)、橋(はし)、端(はし)は同音異義語で、この三つの違いは結局の所文脈から判断するもので、アクセントの異なるものもあるが、今でも地方によっても違いがあり、まして江戸時代のアクセントはさっぱりわからない。
 雅語はいろは四十七文字と「ん」の文字で表記される。母音は基本的に「あいうえお」の五母音で、この時代には「い」と「ゐ」、「え」と「ヱ」、「お」と「を」はしばしば混乱していて、実際の発音に差がなくなっていたと思われる。ここでも許六は「アイウエオ」ではなく「アイウヱヲ」としている。
 梵灯庵主の著で康応二年(一三九〇年)の奥書を持つ中世の連歌書『長短抄』には巻末に今日でいう五十音図に近いものが掲載されている。ここにはヰ・ゑ・おの文字がなく、イ・エ・ヲで統一されている。アイウエオの順番はこの頃に既に確立されていたと思われる。
 ア=喉、イ=舌、ウ=唇となっていて、イは舌の本、エは舌の末で二四相通、ウは唇の内、ヲは唇の外で、三五相通とされ、アイウの三母音が基本にあって、エはイから、ヲはウから派生したとされている。
 子音に関してはア・カ・ヤが喉、サ・タ・ラ・ナが舌、ハ・マ・ワが唇というふうに分類され、今日の五十音図のアカサタナハマヤラワの順番とは若干異なっている。
 万葉集の時代では「い」と「ゐ(うぃ)」、「え」と「ゑ(うぇ)」、「お」と「を(うぉ)」が区別され、イ段、エ段、オ段は甲乙に別れ、八母音の言語だったとされている。
 ただ、これらは雅語の音韻であって、口語では様々な方言があり、使われる音韻にも差があったと思われる。
 今日でも東北弁では「い」と「え」の区別が分かりにくく、沖縄地方では三母音や四母音のところもある。奄美・徳之島方面ではイやエの甲乙の区別が残る所もあるという。
 子韻でも江戸っ子はヒをシと言ったり、サ行をthに近い音で発音したりする。
 明治の標準語はほぼ雅語の音韻を踏襲している。ただ、仮名ではその違いが表記されない鼻濁音が存在する。

 「唐土聖人の代に、礼と楽を以て国を治め給うふ。
 礼はいふに及ばず。楽といへる物、政の為にハ益なきに似たりといへ共、つくづくとおもふに、楽は五音相続の調子を以て打ならし侍る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.136)

 音楽における五音は三分損益法によって作られる五つの音、宮・微・商・羽・角で、いわゆる四七抜きの五音階を形作る。

 「唱歌は詩也。詩ハ風雅也。春ハうらうらと霞める中に、うぐひすの初音を催し、東風立初るより梅の匂ひを送る事をのべて、民の心をやハらげる也。
 我朝の楽も又同じ。其唱歌ハ歌也。
 詩は上声・去声・入声のおもきかるき事を分けたり。日本の詩ハ唐土の楽に諷ハれぬといへるも、慥ニ上声・去声のおもきかるき事をしらぬ故也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.136)

 「唱歌」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①笛・琴・琵琶(びわ)などの旋律を、譜によって口で歌うこと。
  ②楽に合わせて歌を歌うこと。」

とある。吟のように言葉に節を付けるのではなく、メロディーを口ずさむことのようだ。
 漢詩は平声・上声・去声・入声の声調があり、そこに自ずとメロディーが生じるが、日本人が作る漢詩はそれがなかなか感覚的に理解できてないため、中国人からすると歌えないということになる。

2019年5月7日火曜日

 あれ以来全く音沙汰なしだった沖縄のジュゴンだが、東京新聞の報道によれば、何と去年の十一月まで辺野古の東側の海岸(埋め立てているのは南側)や嘉陽海岸でジュゴンの海藻の食跡が確認されていたという。
 また九月にはジュゴンの姿も確認されていたということで、だとするとC個体が生きていたか、別のジュゴンがやってきたかどちらかで、これは朗報といっていいだろう。
 C個体は嘉陽海岸が主な生息地で辺野古の東側は同じ湾内になる。
 なお、この前死んでいたB個体の死因調査はまだ行われてないようだ。玉城知事が、「死因を究明する意味でも土砂投入をやめ‥」といっているようだが、まさか土砂投入をやめるまで死因究明に応じないというんじゃないだろうな。
 まあ、それはともかくとして今日も『俳諧問答』の続きを。

 「一、夫レてにはと云物を人々心安くおもひなして、いたづらにをく事、元来つたなき故也。てにはハ我朝やまと詞の根本也。
 芭蕉をはせをと訓じ、蘭をらにと訓ずるハ、是やまと詞となすべき為に、かくハ訓じ侍る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.135)

 さて、今までいろいろと、てにはがまずいだの変だの指摘してきた許六さんだが、ここでそもそも「てには」とはというそもそも論に入る。
 「心安くおもひなして」は安易に考えてということ。「いたづらにをく」は無自覚に用いるくらいの意味か。大体文法というのはどこの国どこの言語でもそういうもので、ほとんどの人が無自覚に用いているのが普通だ。
 外国語を習う時と違い、母国語は赤ちゃんの時に自然に習得する。だから一々文法を学んだりしない。ただ習慣として身につけ使いこなしている。それは「つたなき故」どころか、むしろこうした自然言語こそが「詞の根本」だというのが今の言語学の考え方だ。
 ただ、「雅語」のような学習を必要とする共通言語ともなると、それはむしろ規範言語であり、「てにはハ我朝やまと詞の根本也」というのはそういう規範言語に当てはまる。
 自然言語としての日本語は昔から様々な方言やスラングや業界詞などによって細分化され、「てには」の使い方も必ずしも一定ではない。ただ、俳諧の詞は雅語に俗語を交えたものが基本になり、芭蕉やのちに惟然がより自然言語に近づけようとしてはきたものの、基本的には規範言語を脱するものではない。
 それは明治の言文一致運動にしても同じで、言文一致は同時に規範言語としての標準語制定運動と並行して起きたものにほかならない。書き言葉を話し言葉にあわせるだけではなく、話し言葉そのものを人工的に作られた標準語にあわせてゆこうというものだった。
 もちろん、この鈴呂屋俳話の文章も書き言葉であって、実際に私はこのように喋ることはない。
 余談だが、子供の頃筆者は作文が大の苦手だった。感想文とか書かされても断片的ないくつかの文章を綴るのがやっとだった。ところが高校生の頃だったか、急にいくらでも文章が書けるようになった。書き言葉で思考できるようになったからではないかと思っている。
 雅語の習得も、結局は雅語で思考できるかどうかの問題ではないかと思う。こうした規範言語の立場からすると、自然言語は粗雑で乱暴で拙いということになる。
 許六のいう「やまと詞」は雅語であり、本来古代中国語だった詞が雅語の中に取り込まれた例として、芭蕉(はせを)、蘭(らに)を例に挙げている。「やまと詞となすべき為に」というのやまと詞に取り込むためと言っていい。

 「されバ、やまとの地において、草木・土石・風水のひびきまでも、皆歌也。まして人間の言葉においてをや。
 花になく鶯、水にすむ蛙も歌をよむとハ、古今集の序文也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.135)

 ここでいうやまと詞が雅語である以上、それは和歌の詞だ。「草木・土石・風水のひびき」が雅語によって表わされる限りでは、それは歌の詞だ。
 「草木」はただの生物学的な植物でなく、歌に詠まれ、そこに古来様々な感情が託された時、それはやがて様々な古歌の記憶を喚起する詞となる。
 「虫の音」も日本人にとってただの雑音ではなく、左脳で一種の「詞」として処理されるのは、それが古人から引き継がれた「虫の音」の情を喚起するからに他ならない。
 雅語に親しみ、雅語で思考できるようになった時、草木・土石・風水のひびきはみな古歌の情を引き起こすものとなる。
 ただ、「花になく鶯、水にすむ蛙も歌をよむ」という『古今集』仮名序の詞は、鶯や蛙が和歌の情を引き起こすというよりは、鶯の囀りも蛙の声も原始的な歌だという意味ではないかと思う。動物が声を出すように、人も声を出す。
 『詩経』の大序に、

 「言之不足、故嗟嘆之。嗟嘆之不足、故永歌之。永歌之不足、不知手之舞之、足之蹈之也。(言うだけでは足りなくて叫ぶ。叫んでも足りなくて歌う。歌っても足りなくて手は舞い、足はステップを踏む。)
 情發於聲、聲成文。(感情は声によって発せられ、声は文章となる。)」

というように、ただ言葉で何らかの概念を伝達するだけでなく、そこに様々な感情が込められ、叫んだり歌ったり踊ったりする、その感情の発露は、根源を辿るなら鶯の囀りや蛙の声から進化したものだと考えられる。
 ただ、人間の言葉は単なる感情の発露としての叫びではなく、様々な概念に分解された記憶に目次(インデックス)と付け、いつでもそれを引きだせるだけでなく、伝達をも可能にする。いわば記憶をその場でのフラッシュバックに頼らず、意図的にいつでも引きだせるようにした所に、人間ならではの文明が生まれたと言っていいだろう。
 チンパンジーは高い所にあるバナナと踏み台と長い棹を見て、その場で何かを思いつくことはできるが、人間ならそれを夜の寝床で考えることもできる。
 ただ、こうした言語を獲得してもなお、その言語は古い動物の鳴き声の上に接木されている。この脳の古い層と新しい層が不可分に結びつく所に、歌の言葉としての「雅語」を発達させたのが、日本の文化だと言ってもいいかもしれない。
 言葉に概念を乗せることで、人は知識を共有化することができるようになった。同じように、言葉に感情を乗せれば、人は感情を共有できるようになる。これが雅語の力だった。

 「神代の歌ハ、文字の数もさだまらずとハいへり。今の代ハ、三十一文字の数を合せねば、歌とハいはず。
 一昼夜の雑話幷呼吸の数、皆是歌也。
 歌をたてる国風なれば、和字ハいふに及ばず、漢字に訓と云ものを付てよめるも、皆是大和の歌詞なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.135)

 「神代の歌」は記紀神話などに登場する歌。たとえば日本武尊の、

 大和は国のまほろば
 たたなづく青垣山ごもれる
 大和しうるはし

などは後の短歌や長歌や旋頭歌の形態を取っていない。三十一文字の歌の起源は、長いこと、

 八雲立つ出雲八重垣妻ごみに
     八重垣作るその八重垣を

とされてきた。
 連歌の起源は、

 新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる
 日々並べて夜には九夜日には十日を

だとされてきた。
 やがて長歌や旋頭歌も廃れ、歌というと三十一文字の和歌を表わすようになった。
 ただ、こうした狭義の歌に限らなくても、雅語の伝統の身に染み付いた日本人であるなら、「一昼夜の雑話幷呼吸の数、皆是歌也。」ということになる。
 漢字に訓を付けて大和言葉に取り込んできたように、俗語も俳諧の上句下句にすることで、雅語の領域をひろげてきた。そしてやがて、雅語を用いずとも俗語で人々は感情を共有するようになった。
 西洋の言語でも、今日のポップスや映画やコミックスの言葉は俳諧の詞と同様、広く大衆の間での感情の共有に役立っていると思う。
 古代中国語を雅語に取り込んだ例としては、他にも「梅(むめ)」「馬(むま)」「木槿(むくげ)」「山茶花(さんざか→さざんか)」などがある。

2019年5月6日月曜日

 早いもんで春は終わり今日は旧暦四月の二日。そして九連休も今日で終わり。明日からまた灰色の日々が‥‥。
 生きるためには働かなくてはいけないし、生き残るためには戦わなくてはいけない時も来るかもしれない。ただ、忘れてはいけないのは、結局われわれはその「ために」生まれてきたのではないということだ。
 生存のため、子孫を残すため、それは遺伝子の命令ではない。ただ我々は生存し、子孫を残したものの血を引いてるというだけのことで、血に拘束されているわけではない。
 生きとし生けるもの、結局はみんな同じだ。生存し子孫を残したものの子孫であることには変わりないが、それは結果であって何に命令されたわけでもない。それが究極の自由(かまわぬ)だ。
 互いに同じ生きる者として共鳴し合い、そしてお互いの違いも知る。遊びはいつもそれを教えてくれる。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「深川集に出る予が宅のはいかいニ云、
 今はやるひとへ羽織を着つれたち
 奉行の鑓に誰もかくるる     翁
 此巻出来終て師の云ク、此誰の字、全ク前句の事也。是仕損じ也といへり。
 今此句に寄て見る時、右両句前句ニむづかし。予閑に察して云ク、第一時代の費あり。又ハ師名人たりといへ共、執着の病あり。師さへ如此し。門人猶以たるべし。前句ニ着シ、題ニ着する事、人情の病也。毎度此俳諧をよむ時、したしきやうにおぼゆ。
 退て吟味すれば、此二字前句にむづかし。師在世の時、此事沙汰侍らずや。先生よくしり給ハむ。次でながらしるす。外へハ弥沙汰なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.134~135)

 これは元禄五年十二月上旬、許六亭での興行された、

 洗足に客と名の付寒さかな    洒堂

を発句とする歌仙で、三十二句目に、

   今はやる単羽織を着つれ立チ
 奉行の鑓に誰もかくるる     芭蕉

とある。
 前にも述べたが、「誰も」の誰は「今はやる単羽織を着つれ立チ」たむろしていた衆そのもので、重複になるというわけだ。「さっとかくるる」くらいでも良かったということだろう。
 「誰も」だと登場人物が複数いなくてはいけないが、なければ一人でもいいことになり次の句の展開の幅が広がる。
 『山中三吟評語』に、「馬かりて」の巻の四句目、

   月よしと角力に袴踏ぬぎて
 鞘ばしりしをやがてとめけり   北枝

の句の時、

  鞘ばしりしを友のとめけり   北枝
 「とも」の字おもしとて、「やがて」と直る

と言ったのと同じで、この場合も相撲を取る場面では人が何人か集まっているさまが想像できるから、「友」と言わなくても意味は伝わる。
 友の字がなければ次の句の登場人物は単体でもよくなり、

   鞘ばしりしをやがてとめけり
 青淵に獺の飛こむ水の音     曾良

という展開が可能になる。曲者!とばかりに刀を抜き放つと、何だ川獺か、という落ちになる。
 許六もそのときは気付かなかったのだろう。言われて見るとなるほど重複してうざいかな、ぐらいのところか。
 こうした細かいことを後になってから気にするのは、一に執着の病、二に人情の病で、それほど問題にすることでもない。

2019年5月5日日曜日

 今日は上野の芸大アートプラザの「猫展」を見に行った。そのあと谷中ビールを飲んで、浅草方面を散歩した。アニメ『さらざんまい』の聖地を見て回った。そして最後はカンピオンエールでまたビール。楽しい一日だった。
 やっぱり平和が一番。平和に賛成。あのミサイルを撃ってる国の人たちにもいつかこういう日が来ることを祈る。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「一、ありそ・となみの二集、かなの書違ひの事、上巻序文三枚めニ、えもいわれぬ趣の浮びける、又同じ三枚ノ終ニ、杖のあとをしたわれけん筆のあと、二ツながら、はのかな也。わにハあらず。此外上下巻共に、少々『は』の字書違ひ、「を』の字の相違見え侍れ共、執筆のあやまり、しいて論ずるに及ばず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.133)

 浪化編の『有磯海』『となみ山』(元禄八年刊)の二集には「は」と書くところが「わ」になってたり、「を」になってたりするという。
 『有磯海』は早稲田大学の古典籍総合データベースというサイトで見ることができる。確かに「王」という字を崩した変体仮名の「わ」が記されている。この字は「者」という字を崩した変体仮名の「は」と似ているため、版を起す過程で間違えたのだろう。この字は「遠」の字を崩した「を」とも似ている。

 「一、猿ミの下巻俳諧ニ云、
 草村に蛙こハがる夕まぐれ
 蕗の芽とりに行灯ゆりけす
 此句、ゆりの字、前にもたれてむづかし。『行灯さげ行』としたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.133)

 これは「市中や」の巻の八句目で、

   草村に蛙こはがる夕まぐれ
 蕗の芽とりに行燈ゆりけす     芭蕉

の句だ。
 これについては随分前に書いて「鈴呂屋書庫」にアップしている「『市中は」の巻、解説」を引いておこう。

 「前句の「蛙こわがる」を乙女の位(くらい)に取り成す「位付(くらいづ)け」。大の男が蛙を恐がれば滑稽だが、かわいらしい女の子が蛙を見て「きゃっ!」と言うのは今も昔も定番か。
 蕗の芽は「ふきのとう」のことで、夕方のお使いか。持っていた行灯をゆり消してしまうと、あたりは真っ暗でもっと恐い。
 ‥‥略‥‥
 確かに、蛙を恐がって刀を抜く、蛙を恐がって行灯をゆり消す、趣向が似ていて輪廻ではないかと言われれば、そう言えなくもない。その重複をうざいと言われればそうなのかもしれない。
 おそらく、それは芭蕉も考えたことであろう。似たような場面がこれより前まえの『奥の細道』の旅の途中で巻かれた「馬かりて」の巻に見られる。この時の様子は北枝が『山中三吟評語』に記している。その中六句目だ。

    青淵に獺の飛こむ水の音
 柴かりこかす峰のささ道     芭蕉

 打越は、

 鞘ばしりしをやがてとめけり   北枝

で、曾良の前句は『鞘ばしりし』を刀を抜く動作としてとらえ、『くせもの!』とばかりに刀を抜き放ったものの、何だ川獺かという落ちにする。どこか凡兆の句くと発想が似ている。
 芭蕉はこの川獺の句に付けるとき、『柴かりたどる』『柴かりかよふ』とも案じたあと『柴かりこかす』にしたという。
 『柴かりこかす』だと、川獺の音おとにびっくりして芝を刈っている人がこける、という意味になり、同じくびっくりして刀を抜くという打越とかぶってしまう。
 許六の『蕗の芽とりに行灯さげ行ゆく』の改案は、『柴かりたどる』『柴かりかよふ』に似てないか。おそらく芭蕉も許六が考えるような案は考えていたと思う。やや輪廻気味という嫌いはあっても、あえて芭蕉は句そのものの面白さを選んだのではなかったか。」

 今の自分にこれに付け加えることはない。

 「咳聲の隣ハ近き縁づたひ
 添へバそふほどこくめんな顔   園風
 此句、『添』字、前句の噂さ也。『見れバ見るほど』としたし。
 『ゆり』の字、前句にしたるし。『添』の字ハ、一向に前句の噂さ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.133~134)

 この句は「梅若菜」の巻の三十二句目。

   咳聲の隣はちかき縁づたひ
 添へばそふほどこくめんな顔

 これも「鈴呂屋書庫」から。

 「『こくめん』は黒面と書くが克明から来た言葉で、誠実だとか律儀だとかいう意味だという。何で克明が黒面になったのかはよくわからないが、あるいは定番が鉄板になったような言い間違いが定着したものか。
 句の意味は、隣の咳払いした人のことを、その奥さんの側にたって、添えば添うほど生真面目な人だということだろう。ただ逆に、咳をした人の奥さんが誠実だとも取れる。咳をした人が女性だった可能性を含めると四通りの解釈が可能になる。
 許六は『俳諧問答』のなかで、「此句、『添』字、前句の噂さ也。『見れバ見るほど』としたし。」と言っている。確かにこの混乱は隣人の咳を聞きながら、その聞いた人の感想ではなく隣人の配偶者の側に立った推測だというところからくる。『見れば見るほど』だと咳の主が黒面ということになる。
 そういうわけで、古註の解釈も割れている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)、『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は妻の方を黒面とし、『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)、『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)、『俳諧猿蓑付合注解』(桃支庵指直著、明治二十年刊)は夫のこととする。」

 克明が黒面になった理由はわからないが、今日の「鉄板」という言葉と似ているのではないかと思う。
 「鉄板」は本来は「定番」と言うべきところだったのだが、多分誰かが言い間違えて「てっぱん」と言ってしまったところ、鉄板のように硬い定番ということで定着してしまったのだと思う。
 真面目に働いている人は日焼けして顔が黒いところから、「黒面」になるほど克明ということになった可能性はある。
 ただ、今気付いたが、許六は肝心なことを忘れている。それは打越が、

 醤油ねさせてしばし月見る    猿雖

なので、「見る」はここでは使えない。

2019年5月4日土曜日

 今日は八王子城跡へ行った。一部石垣や礎石が残り、歴史オタクからすればいろいろと興味深いものがたくさんあるのだろう。御主殿の滝が血に染まったとかそれくらいの話は知っているが、基本歴史に疎い私としては、山登りのハイキングだった。
 本丸跡まで標高445mを登って降りて、いい運動になった。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「秋のくれと云句二ツ、余は行秋と云句也。秋のくれと云共、暮秋の心を兼たる句もあり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.132)

 この三句が何を指すのか明示されていないが、許六・李由撰『韻塞』の九月の所の末尾三句か。

 のびのびて衰ふ菊や秋の暮    許六
   謝芭蕉被訪草庵悦而旧交
 十年もこと葉一つよ暮の秋    蝉桃
 行秋や身に引きまとふ三布蒲団  翁

 二句目は「暮の秋」になっている。許六の記憶違いか。
 三句目の「三布蒲団(みのぶとん)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (『の』は布の幅) 三幅の布で作った蒲団。敷蒲団に用いる。みの。
 ※俳諧・韻塞(1697)九月『行秌や身に引まとふ三布蒲団〈芭蕉〉』」

とある。
 「暮秋の心を兼たる句」が次の文章に繋がる。

 「予が撰集、予が句に、
 のびのびておとろふ菊や秋の暮
と云ハ、暮秋を兼て、九月の中に入れたり。秋の暮ハ、皆八月ニ入るなり。
 此集も、てにはあやまり論ゼバいとまなし。序文の自句にて大方しれたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.132)

 「皆八月」とは言っても八月の所には、

 大きなる家ほど秋のゆふべかな  許六

の句しかない。
 それに、「のびのびて」の句は特に夕暮れという感じがしない。普通に「暮の秋」の意味でよかったのではないかと思う。
 「序文の自句」は『韻塞』が乾と坤に分かれている、坤の方の序文の、

 水すじを尋ねて見れば柳かな

の句のことか。
 今の表記法だと違和感はないが、当時の書き方だと「水すじを尋て見ば柳かな」と書くところで、ある意味で近代的だ。
 自分の撰集についてこのように言うということは、結局てにはの間違いは版本にする段階の校正の問題だったのか。まあ、当時は校正を専門にやる人はいなかったのだろう。

 「一、予が難問に云ク、近年ミだりかハしき集共出ると云ハ、如此の事也。見極て申侍る。過言ニハあらず。高弟よくきき分ケ給ヘ。一句無理にきこえ侍るといへば、是非なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.132)

 高弟へ注意しているのは、どこの撰集を見ても結局間違いが多いということで。それを真似するなということだったのではないかと思う。
 間違っているものを無理矢理こじつけたり、想像力をたくましくして意味を補ったりして、強引に理解するようなことをする必要はないが、ただ気を利かせて直してしまうと、実は間違いではなく深い意味があるのかもしれない。難しいところだ。
 『野ざらし紀行』の、

   二月堂に籠りて
 水とりや氷の僧の沓の音     芭蕉

の句も、蝶夢(ちょうむ)編の『芭蕉翁発句集』(安永三年刊)では「水とりやこもりの僧の沓の音」とあり、また、『芭蕉句選』(元文四年刊)では「水鳥や氷の僧の沓の音」と書かれていたという。
 芭蕉真筆の原稿であってもこれは間違っていると思って、あえてこのように直したのだろう。本人はもはや故人となっているから、確かめることも出来ない。
 実のところ今日の我々も本当にこの句が真筆通りだったのかどうか証明することはできない。ただ真筆であるがゆえに尊重すべきと考えているだけだ。ただ、芭蕉真筆にも誤字はある。どんな物事でも絶対はない。

2019年5月3日金曜日

 昨日は楢葉の天神岬、南相馬の萱浜の菜の花迷路、飯舘村の二枚橋の水芭蕉などを見て回った。
 それでは久しぶりに『俳諧問答』の続きを。

 「一、暮秋と云題号して、予が句ニ
 大き成る家ほど秋の夕べ哉
と云句、暮秋の巻頭に入たり。
 此句暮秋の句ニあらず。古来秋の暮、暮秋にあらずと定まれり。只、秋の夕間ぐれと云事のよし。
 則あら野集にも中秋の部に入たり。春の暮といふに対して、秋のくれを暮秋と心得たる人、稀々あり。秋のくれのあハれよりハ、猶あハれ也。」

(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.131~132)

 「秋の暮れ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 秋の季節の終わり。暮れの秋。暮秋。晩秋。《季・秋》
 ※千載(1187)秋下・三三三『さりともとおもふ心も虫のねもよわりはてぬる秋のくれかな〈藤原俊成〉」
 ※俳諧・野ざらし紀行(1685‐86頃)『しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮』
  ② 秋の日の夕暮れ。秋の夕べ。《季・秋》
 ※源氏(1001‐14頃)夕顔『すぎにしもけふわかるるも二みちにゆくかたしらぬ秋のくれかな』
 ※俳諧・曠野(1689)四『かれ朶に烏のとまりけり秋の暮〈芭蕉〉』」

とある。
 和歌では「秋の夕暮れ」というと『新古今集』の三夕の歌が有名だが、ネット上の『万葉集と八代集における「夕暮の歌」』(金中)によれば、「秋の夕暮れ」が和歌に詠まれるのは『後拾遺集』以降になる。
 それに対し、「秋の暮れ」ではないが「秋は暮るらむ」なら『古今集』に、

 夕づく夜をぐらの山に鳴く鹿の
     声のうちにや秋は暮るらむ
               紀貫之

の歌がある。暮秋の意味で用いられている。
 『後拾遺集』には、

 寂しさに宿を立ち出でて眺むれば
     いづこも同じ秋の夕暮れ
               良暹法師

の歌とは別に、暮秋の秋の夕暮れを詠んだ歌が見られる。

   九月尽日よみ侍ける
 秋はただけふはかりそとなかむれは
     夕暮にさへなりにける哉
               法眼源賢
   九月尽の日いせ大輔かもとにつかはしける
 としつもる人こそいとどおしまるれ
     けふはかりなる秋のゆふくれ
               大弐資通

暮れの秋のさらに秋の暮れということで紛らわしい。
 『千載集』には、

   山寺秋暮といへるこころをよみ侍りける
 さらぬたに心ほそきを山さとの
     かねさへ秋のくれをつくなり
               前大僧正覚忠

の歌がある。
 「精選版 日本国語大辞典の解説」で引用されていた、

   保延のころほひ、身をうらむる百首歌よみ侍りけるに、むしのうたとてよみ侍りける
 さりともとおもふこころもむしのねも
     よわりはてぬる秋のくれかな
               皇太后宮大夫俊成

の歌は、九月尽ではなく暮秋の虫の音の所に配置されている。

   百首歌たてまつりける時、よみ侍りける
 夜をかさねこゑよわりゆくむしのねに
     秋のくれぬるほとをしるかな
               大炊御門右大臣
   きりきりすのちかくなきけるをよませ給うける
 秋ふかくなりにけらしなきりきりす
     ゆかのあたりにこゑきこゆなり
               花山院御製

の次に並べられているから、この「秋のくれ」は暮秋のことで、秋の夕暮れのことではない。
 このことからすると、「秋の暮れ」を暮秋のこととするのも間違いとはいえない。むしろ「秋の暮れ」は暮秋と夕暮れの両義を持つといっていい。
 たとえば、

 枯枝に烏のとまりけり秋の暮   芭蕉

は「枯枝」という所に晩秋を感じさせるし、この秋の暮れは暮秋の秋の夕暮れという両方の意味を含んでるといった方がいい。

 此の道や行く人なしに秋の暮れ  芭蕉

 この句も九月二十六日の興行の発句で九月尽に近く、やはり暮秋の秋の夕暮れという両方の意味を持つ。
 『阿羅野』では確かに仲秋の巻頭から、

 かれ枝に烏のとまりけり秋の暮  芭蕉
 つくづくと絵を見る秋の扇哉   小春
 谷川や茶袋そそぐ秋のくれ    益音
 石切の音も聞けり秋の暮     傘下
 斧のねや蝙蝠出るあきのくれ   卜枝
 鹿の音に人の貌みる夕部哉    一葉

と並び、秋の暮れと「夕べ」の句が並ぶ。ただ夕べといっても「鹿の音」の句で、秋の夕暮れそのものを詠んだ句ではない。
 ただ、その一方で『猿蓑』の秋の一番最後の句が、

 塩魚の葉にはさかふや秋の暮   荷兮

の句になっている。
 『炭俵』の、

 秋のくれいよいよかるくなる身かな 荷兮

の句は砧と茸狩の句に挟まれているが、秋の後ろから六番目に位置している。
 『続猿蓑』はこの頃まだ許六は読んでないが、

   暮秋
 廣沢や背負ふて帰る秋の暮    野水
 行秋を鼓弓の糸の恨かな     乙州
 行あきや手をひろげたる栗のいが 芭蕉

の三句が並べらている。
 「秋の暮」については当時確かに混乱していたが、おおむね「暮秋」の意味で用いられていたといっていいのではないかと思う。

2019年5月1日水曜日

 今日は府中美術館で行われている「へそまがり日本美術」展を見に行った。仙厓の梟、徳川家光公の木菟、蘆雪の狗、彭城百川の狐、他いろいろ面白い絵があった。蘆雪の『猿猴弄柿図』は慢心するなという戒めだろうか。
 昨日は一日雨で平成の最初の日を思い出す。マスメディアも皇室一色で同じ映像を何度も繰り返す。あの時と何一つ変わっていないような妙なデジャブ感のある一日だった。
 令和にちなんだ妙な万葉集押しも実際の所どこまで盛り上がっているのか。まあ、『文選』では経済効果が期待できないからな。
 例の「梅花謌卅二首」は、確かにその後の古今集以降の梅の趣向に繋がるもので、和歌の原型といえる。ネットだと令和の話題に埋もれて序文ばかりが出てきて、肝心のこの三十二首がなかなか出てこないので、岩波文庫から引用する。
 冒頭の歌は、

 正月立ち春の来らばかくしこそ
     梅を招きつつ楽しき竟め
               大弐紀卿

 これは新年と梅を結びつけるものだが、「正月立ち」という言い回しが何とも古めかしい。「春立」は今にも残るが、睦月が立つという言い回しはその後消えてしまったようだ。
 睦月になれば自動的に春は来るのだから、「正月立ち春の来らばかくしこそ」はさすがに冗長で、「春立てば」の五文字で済むことだ。
 梅といえば鶯だが、この組み合わせは既にこの三十二首の中に現れている。

 梅の花散らまく惜しみわが苑の
     竹の林に鶯鳴くも
              少監阿氏奥島
 春されば木末隠りて鶯ぞ
     鳴きていぬなる梅が下枝に
              少典山氏若麻呂
 春の野に鳴くや鶯なつけむと
     わが家の苑に梅が花咲く
              筭師志氏大道
 梅の花散り乱ひたる岡傍には
     鶯鳴くも春片設けて
              大隈目榎氏鉢麻呂
 鶯の声聞くなへに梅の花
     吾家の苑に咲きて散る見ゆ
              対馬目高氏老
 わが宿の梅の下枝に遊びつつ
     鶯鳴くも散らまく惜しみ
              薩摩目高氏海人

 作者の名前は特にルビを振らなかったが、これをすらすら読める人はどのみち日本にそうたくさんはいないから、別に覚えなくてもいいだろう。
 『古今集』の、

   題しらず
 梅がえにきゐる鶯春かけて
     鳴けどもいまだ雪はふりつつ
              読人しらず
   題しらず
 折りつれば袖こそにほへ梅の花
     ありとやここに鶯の鳴く
              読人しらず
   むめの花ををりてよめる
 鶯のかさにぬふとて梅の花
     折りてかざさむ老かくるやと
              東三条の左のおほいまうちぎみ

 この最後の歌は、

 鶯の笠落したる椿かな   芭蕉

の元になっている。
 面白いのは、白梅の散るのを雪に喩えた歌があることだ。

 わが苑の梅の花散るひさかたの
     天より雪の流れ来るかも
              主人

 「かも」は後の「かな」に通じるもので、主観的な想像を治定する働きがある。名古屋弁の「きゃーも」にその名残を留めている。
 梅は雪の季節に降るので、「後に追ひて和ふる梅の歌四首」に、

 残りたる雪に交れる梅の花
     早くな散りそ雪は消ぬとも
 雪の色を奪ひて咲ける梅の花
     いま盛なり見む人もがな

の歌がある。
 散る白梅と雪は比喩なのか本当に雪が降っていたのか紛らわしいということのあったか、その後雪に喩えられるのは桜になり、本物の雪も『古今集』では、

   雪の木にふりかかれるをよめる
 春たてば花とや見らむ白雪の
     かかれる枝にうぐひすの鳴く
              素性法師

とやはり桜に喩えられる。
 なお、この三十二首には桜も登場する。

 梅の花咲きて散りなば桜花
     継ぎて咲くべくなりにてあらずや
              薬師張氏福子

 やはり梅は桜の前座だったのか。