連歌・俳諧だけでなく、定型詩というのも少なからずゲーム性を持っている。
つまり同じルールのもとに競うことができるという点では、定型詩もゲームである。連歌・俳諧はそれを多人数でできるようにより複雑なルールを整備していったと思えばいい。
この前の詩人会議時代の「帰化」は偽ソネットだが、押韻規則があるというので興味をもって作っていた。本当のソネットは音節数の規則もあるというから、やはり偽ソネットだ。文化的盗用とか言われるかな。
共産党系の詩人会議に所属し、今思えば社会派を気取っていたというか、何とも恥ずかしい。その恥の上塗りを。
岩躑躅
-智月尼の興によるソネット-
何も言わず何も言わせてもらえず
夕映えに赤らむ躑躅
心に広がってゆくまだ見ぬ海
また旅人を見送って家に帰る
また溶け出してゆく心の塵
家事、育児、終ることのない労働
水車小屋の廻りで時は移ろうとも
消えることのない苦しみの日々
悠久の時、命の営み
繰り返して回る水車
すぐそこに見えて届かない歴史の終り
本当の花を見る日はいつか
流れてくる花びらが悲しみに染まり
跡形もなく消えてゆくようにもゆる草
出典となった句は、
やまつゝじ海に見よとや夕日影 智月
見やるさえ旅人さむし石部山 同
待春や氷にまじるちりあくた 同
鶯に手もと休めむながしもと 同
やまざくらちるや小川の水車 同
しら雪の若菜こやして消にけり 同
「すぐそこに見えて届かない歴史の終り」は想像するだけなら簡単だが、やるとなるときつい「イマジン」の心でもある。
それでは「応安新式」の続き。
「一、雑物体用事
仮令、春と云句に弓と付て、又引・帰・をすなどは付べからず、これ用なる故也、本・末とは付べし、是体なる故也、打越に体あらば、もと・すゑ又不可然、長と云句に縄と付て、又短などは不可付之、是体なる故也、くる・ひくとは可付之、これ用也。」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.299)
これはいわゆる「用付け」の制だ。
輪廻の所に「薫物と云句に、こがると付て、又紅葉をつくべからず、船にては是を付べし」とあったが、これは「薫物(体)」に「こがる(用)」を付けて、そのあとに「舟(体)」を付けるのは良しとしている。
これに対し、春(体)は張る(用)と掛詞になるため、「弓(体)」を付けた際には「張る(用)」として扱われる。これに「引く(用)」を付けると輪廻になる。
体・用・体(取り成しによる別の体)の場合、二つの体がまったく別の場面を作るため輪廻にはならない。
ところが用・体・用だと同じ体にその用が付くため輪廻になる。似ているようでまったく違う。
「薫物のこがる」と「舟のこがる」は誰が見ても別の場面だが、「弓のはる」と「弓のひく」は同じ弓の場面になる。上句下句合わせて和歌の体としたとき、別の歌になれば良く、似たり寄ったりの歌になるのは悪い。これは連歌でも俳諧でも基本になる。
現代連句はそもそも上句下句合わせて和歌の体にするという発想もないし、むしろ一巻が一つの詩だと考えるため、緩やかなイメージの連鎖を好み、発想が飛躍することを嫌う。
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