2019年5月9日木曜日

 ところで「不詳飛翔体」とは何ぞや。そのまま翻訳すればUFOになってしまう。さすがあの国はついにUFOを完成させたか。
 日本のマスコミも南北両国に忖度して、この言葉を使っているし、「飛しょう体」と表記しているところもある。
 まあ、この問題であんまり引っ張るとヘイトだと言われそうなので、『俳諧問答』の方に行くとする。

 「やまと歌ハてには也。てにはハ五音のひびき也。
 芭蕉をはせをと訓じたるハ、是ウトヲト通やうするひびき也。
 てにはのよき句ハ、おのづから五音の調子よくひびき、又てにはのあしき句ハ、五音のひびきととのひ侍らぬ故に、民の心に感応する事なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.136~137)

 音楽の五音は音階だったが、やまと歌の五音はアイウヱヲの五母音ということになる。ここで許六は「てには」を格助詞の文法的な働きとしてではなく、母音の音韻のこととしている。
 「芭蕉」は今日ではバショーと発音することが多く、丁寧に言うとバショウになる。オなのかウなのか曖昧な所は、芭蕉の時代でも同じだったのかもしれない。確かに「是ウトヲト通やうするひびき」だ。『長短抄』にも三五相通とある。
 蕉という字は中古音(隋唐の時代の音)ではツィエウに近かったようだ(『学研漢和大字典』による)。古代のサ行もチャに近かったと言うから、ツィエウをセヲと訓じたのであろう。ただ、後に音便化して今の発音に至る。ちなみに今の北京語のピンインはjiāoで、オーという音便化は日本独自のものだ。
 「てにはのよき句ハ、おのづから五音の調子よくひびき」というのは明らかに文法の議論ではない。まあ、文法的に変な句は変な耳障りな感じに響くことを考えれば、違和感のなくすらすらと言い下せて聞き流せることを「五音のひびきととのふ」と言っているのだろう。

 「されバ絲竹・管弦の吹鼓(ふきならし)なくても、此てにはのひびきを以て打はやし侍るゆへに、めに見えぬ鬼を泣しめ、もののふの心をやハらげる事うたがひなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.136~137)

 「絲竹(いとたけ)」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①楽器。
  ②管弦の音楽。
  出典新花摘 俳文
 『和歌の道いとたけの技』
 [訳] 和歌の道や音楽の技術。
 参考漢語『糸竹(しちく)』の訓読。『糸』は琴・箏(そう)・三味線など弦楽器、「竹」は笛・笙(しよう)など管楽器。」

とあり、これでゆくと「絲竹・管弦」は同語反復になる。
 やまと歌(和歌)は雅語でメロディーを口ずさむもので、てにはの響きは、文法的にも整い違和感なく響くため、口ずさんだ時にもきれいに聞こえる。
 「打はやし」というから鼓(つづみ)を伴奏にすることもあったのだろう。『野ざらし紀行』の素堂の序にも「狂句木枯の竹斎、よく鼓うつて人の心を舞しむ」とある。俳諧でも鼓を打ってメロディーを付けて歌い、それに合わせて舞うような楽しみ方があったのだろう。正岡子規以降の近代では俳句でも短歌でも素読を基本とし、歌うことはほとんどなくなった。
 こうして「あそび」として楽しむのが和歌・連歌・俳諧といった言の葉の道の基本で、だからこそ目に見えぬ鬼神も楽しませ、上機嫌にさせて災厄をもたらさないようにし、怒り狂う軍人の心もまあまあと和ませ、非暴力にして世界を動かすと考えられていた。額に皺を寄せてうんうん悩ませる近代文学とはそこが違う。
 近代文学は特定の思想を大衆に吹き込み闘争を煽るもので、やまとの言の葉の道とは相容れない。日本の近代詩の原点である『新体詩抄』の大半は人を戦いへと煽る、ほとんど軍歌のような内容だった。

 「かかる大事のてにはを、あだに心得て容易にをく事、大和歌の本意をうしなひ侍れバ、民の心やハらく事、盡未来にいたると云共、あるべからず。
 たとへバてにはのあしきと云ハ、餓たる時飯をこのむ心あり、我已に餓たり、飯を喰まじきと云がごとし。今の代のてにハ遣ひハ皆是也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.136~137)

 てにはが変で一々耳につっかえるような言い回しでは、人々も感情を共有することが難しい。
 そのような言い回しは人とは違う自分だけの言い回しを作ろうとして生じるもので、他人との感情の共有を拒否してると言っていい。近代俳句、近代短歌、現代詩、純文学、ことごとくそのように出来ている。まあ、平和な世の中に対立や分断を引き起こし、戦いを煽り、革命を起すための文学であれば致し方ない。まさに「メシ喰うな」だ。
 先日他界された遠藤ミチロウは「ワルシャワの幻想」という曲の中で「メシ喰わせろ」と歌ってたが、芥川賞作家の町田康は「メシ喰うな」というアンサーソングを歌ってた。

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