2019年5月3日金曜日

 昨日は楢葉の天神岬、南相馬の萱浜の菜の花迷路、飯舘村の二枚橋の水芭蕉などを見て回った。
 それでは久しぶりに『俳諧問答』の続きを。

 「一、暮秋と云題号して、予が句ニ
 大き成る家ほど秋の夕べ哉
と云句、暮秋の巻頭に入たり。
 此句暮秋の句ニあらず。古来秋の暮、暮秋にあらずと定まれり。只、秋の夕間ぐれと云事のよし。
 則あら野集にも中秋の部に入たり。春の暮といふに対して、秋のくれを暮秋と心得たる人、稀々あり。秋のくれのあハれよりハ、猶あハれ也。」

(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.131~132)

 「秋の暮れ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 秋の季節の終わり。暮れの秋。暮秋。晩秋。《季・秋》
 ※千載(1187)秋下・三三三『さりともとおもふ心も虫のねもよわりはてぬる秋のくれかな〈藤原俊成〉」
 ※俳諧・野ざらし紀行(1685‐86頃)『しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮』
  ② 秋の日の夕暮れ。秋の夕べ。《季・秋》
 ※源氏(1001‐14頃)夕顔『すぎにしもけふわかるるも二みちにゆくかたしらぬ秋のくれかな』
 ※俳諧・曠野(1689)四『かれ朶に烏のとまりけり秋の暮〈芭蕉〉』」

とある。
 和歌では「秋の夕暮れ」というと『新古今集』の三夕の歌が有名だが、ネット上の『万葉集と八代集における「夕暮の歌」』(金中)によれば、「秋の夕暮れ」が和歌に詠まれるのは『後拾遺集』以降になる。
 それに対し、「秋の暮れ」ではないが「秋は暮るらむ」なら『古今集』に、

 夕づく夜をぐらの山に鳴く鹿の
     声のうちにや秋は暮るらむ
               紀貫之

の歌がある。暮秋の意味で用いられている。
 『後拾遺集』には、

 寂しさに宿を立ち出でて眺むれば
     いづこも同じ秋の夕暮れ
               良暹法師

の歌とは別に、暮秋の秋の夕暮れを詠んだ歌が見られる。

   九月尽日よみ侍ける
 秋はただけふはかりそとなかむれは
     夕暮にさへなりにける哉
               法眼源賢
   九月尽の日いせ大輔かもとにつかはしける
 としつもる人こそいとどおしまるれ
     けふはかりなる秋のゆふくれ
               大弐資通

暮れの秋のさらに秋の暮れということで紛らわしい。
 『千載集』には、

   山寺秋暮といへるこころをよみ侍りける
 さらぬたに心ほそきを山さとの
     かねさへ秋のくれをつくなり
               前大僧正覚忠

の歌がある。
 「精選版 日本国語大辞典の解説」で引用されていた、

   保延のころほひ、身をうらむる百首歌よみ侍りけるに、むしのうたとてよみ侍りける
 さりともとおもふこころもむしのねも
     よわりはてぬる秋のくれかな
               皇太后宮大夫俊成

の歌は、九月尽ではなく暮秋の虫の音の所に配置されている。

   百首歌たてまつりける時、よみ侍りける
 夜をかさねこゑよわりゆくむしのねに
     秋のくれぬるほとをしるかな
               大炊御門右大臣
   きりきりすのちかくなきけるをよませ給うける
 秋ふかくなりにけらしなきりきりす
     ゆかのあたりにこゑきこゆなり
               花山院御製

の次に並べられているから、この「秋のくれ」は暮秋のことで、秋の夕暮れのことではない。
 このことからすると、「秋の暮れ」を暮秋のこととするのも間違いとはいえない。むしろ「秋の暮れ」は暮秋と夕暮れの両義を持つといっていい。
 たとえば、

 枯枝に烏のとまりけり秋の暮   芭蕉

は「枯枝」という所に晩秋を感じさせるし、この秋の暮れは暮秋の秋の夕暮れという両方の意味を含んでるといった方がいい。

 此の道や行く人なしに秋の暮れ  芭蕉

 この句も九月二十六日の興行の発句で九月尽に近く、やはり暮秋の秋の夕暮れという両方の意味を持つ。
 『阿羅野』では確かに仲秋の巻頭から、

 かれ枝に烏のとまりけり秋の暮  芭蕉
 つくづくと絵を見る秋の扇哉   小春
 谷川や茶袋そそぐ秋のくれ    益音
 石切の音も聞けり秋の暮     傘下
 斧のねや蝙蝠出るあきのくれ   卜枝
 鹿の音に人の貌みる夕部哉    一葉

と並び、秋の暮れと「夕べ」の句が並ぶ。ただ夕べといっても「鹿の音」の句で、秋の夕暮れそのものを詠んだ句ではない。
 ただ、その一方で『猿蓑』の秋の一番最後の句が、

 塩魚の葉にはさかふや秋の暮   荷兮

の句になっている。
 『炭俵』の、

 秋のくれいよいよかるくなる身かな 荷兮

の句は砧と茸狩の句に挟まれているが、秋の後ろから六番目に位置している。
 『続猿蓑』はこの頃まだ許六は読んでないが、

   暮秋
 廣沢や背負ふて帰る秋の暮    野水
 行秋を鼓弓の糸の恨かな     乙州
 行あきや手をひろげたる栗のいが 芭蕉

の三句が並べらている。
 「秋の暮」については当時確かに混乱していたが、おおむね「暮秋」の意味で用いられていたといっていいのではないかと思う。

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