2019年5月21日火曜日

 今日は久しぶりにまとまった雨が降った。風も強かった。
 人間の自由というのは、我々の生得的に備わった感情や欲望や行動が基本的に偶発的な変異によるもので、何かの「ために」進化したのではないため、特定の目的に拘束されないことに由来する。生存のため、子孫を残すため、その外のいかなる目的にも拘束されてない。故に自由だ。
 恋も決して子孫を残す「ための」ものではない。だから同性を愛そうがそれは自由だ。
 生存のためでも子孫を残すためでもない行為をあえてする、あえてその自由を行使する、それが遊びの根本なのかもしれない。
 それでは『応安新式』の続き。

 「一、輪廻事
 薫物と云句に、こがると付て、又紅葉をつくべからず、船にては是を付べし、こがるといふ字、かはる故也、煙と云句に里とつきて、又柴たくなど薪の類を不可付、他准之。」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.298~299)

 これは同じ「こがる」でも違う意味に取り成してつける分にはかまわないということを言う。
 「薫物のこがる」「紅葉のこがる」はどちらも火によって焦げるという意味で、紅葉の場合も葉が赤くなるのを比喩として焦がると言っているから、同じ意味の「こがる」となる。これに対し「船のこがる」は漕ぐという別の単語への取り成しだからOKということになる。
 「連歌新式永禄十二年注」に、

 「紅葉 あかき物なれば、こがると云に付れば、火の心に成なり。たき物と云とも、こがると付ずして、荷葉・梅花・新枕など付たらんに、紅葉を嫌べからず。されば、船にて付べし と書たる事、此心也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.14)

 「薫物」と「紅葉」は本来打越を嫌うものではない。ただ「こがる」という文字が間にあるから「薫物のこがる」「紅葉のこがる」が輪廻になるだけで、薫物に蓮の葉(荷葉)を付けてそれに紅葉をつける分には問題ない。
 「荷葉(かえふ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 ハスの葉。
  2 夏に用いる薫物(たきもの)の名。ハスのにおいに似せたものという。
 『ただ―を一種(ひとくさ)合はせ給へり』〈源・梅枝〉」

とあり、薫物に縁がある。
 煙に里と付けてまた柴たくや薪を付けるのは、「煙りたなびく里」「柴焚く里」「薪こる里」と趣向が似てしまうからで、これも輪廻になる。
 「連歌新式永禄十二年注」に、

 「但、椎柴・なら柴・ふし柴などは不可嫌也。柴取・柴はこぶなどは、焼となしても、はや薪の心あれば、おもはしからず。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.14)

 椎柴・なら柴・ふし柴は山に柴の生えている様子なので、柴を焚いて煙を出すという連想に繋がらない。ただ「柴取る」「柴はこぶ」だと柴を燃やすして煙を出すという連想が働いてしまうので思わしくない。要は煙りたなびく里のイメージから離れよということだ。
 このあたりの判定はかなり微妙ではあるが、基本的には打越と前句を合わせたときの生じる趣向と同じものを繰り返してはいけないということだ。できる限り違う意味になるように付けてゆく、それが連歌にしても俳諧にしても基本となる。

 「一、遠輪廻事
 仮令花と云句に、風とも霞とも付て、又付加付之、数句を隔といふとも、一座に可嫌之、他准之。」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.299)

 「花」に「風」を付けた句あって、後になってまた花の句が出たときに同じように「風」を付けてはいけない。多少は変える必要がある。
 「連歌新式永禄十二年注」には、

 「是新式の法也。
 花に付る風・霞の類、近代強不及沙汰歟。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.16)

とあり、紹巴の時代では花に風と付けても、「風に咲く花」「風に匂う花」「風に散る花」のように趣向が違えば良しとする。

 「咲花に風を付るは、春風に花の咲心也。匂ふ花に付れば、風吹て匂ひのくははる心なり。散花に付れば、風に散たる心に成也。作意かはらば、何かくるしからん。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.16)

 輪廻も遠輪廻も、基本的には上句下句合わせて和歌として読み下した時、似たり寄ったりのものになることを嫌うもので、違う趣向の歌になっていれば問題はない。

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