2019年5月10日金曜日

 先日の「メシ喰うな」だが、遠藤ミチロウの「メシ喰わせろ」は、いかに社会主義の理念が素晴らしく、共に貧しさを分かち合おうと言っても、やはり空腹には耐え切れない。人間の自然の情がこの言葉によって発露される。これは風流の心にかなう。
 だが、町田康の「メシ喰うな」は一般大衆を「中産階級のガキ共」と罵り、町を行く花を抱えた人たちに嫉妬の怒りを撒き散らした挙句、そいつらに「メシ喰うな」と言う。嫉妬は人の常ではあるが、風流に欠ける。
 「俺の存在も肯定して、俺にも花を持たせてくれよ、一緒にメシ喰おう」ならまだ分かる。多分本心はそうなのだけど、あえてすねて見せているだけなのだと思う。まだ若い頃の作品ではあるし。
 この歌詞でミュージシャンを続けるのはどのみち無理だったし、早いとこ見切りをつけて小説家になったのは正解だった。

 「今の代のてにハ違ひハ皆是也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.137)

 つまり腹が減っているのにメシ食うなと言い、本当はあの色とりどりの花を持った人の群れに混じりたいのに、ぶちのめすと言ったり、本当は自己肯定感を求めて止まないのに否定してくれと言ったり、こういうすねた感じは一部の人には受けるかもしれないが、民の心を和らげるものではない。
 ただ、そういうのを新しがったり、人と違う奇抜な言葉を吐いたりして人目を引こうというのは、昔からよくあることだったのだろう。
 『去来抄』にある、「晩鐘のさびしからぬ」の句のように、強がって言っているのか、単に鈍感なのか、聞いても「え?何で?」と思ってしまうような句が何か新しいと思ってしまうかもしれないが、昔からそういうのはたくさんあったと思う。
 ただ淘汰されて残ってないだけのことだ。残ってないから新しいと思う、それだけだ。

 「てにはを以て打ならすといふハ、たとへバ師の句ニ、
 うき我を淋しがらせよかんこ鳥
 此句、『淋しがらする錬鼓鳥』とせば、何を以てか民の心のやハらぐ事あらん。これ常也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.137)

 凡庸な作者なら、

 うき我を淋しがらするかんこ鳥

とやって満足しそうだが、かんこ鳥の声を聞いただけで簡単に今までの憂鬱も忘れて、むしろ世俗が懐かしくなり寂しさを感じるというなら、結局その程度の憂鬱かよ、と言いたくなる。
 「淋しがらせよ」とすれば、閑古鳥くらいでは容易に晴れない深い憂鬱の表現になる。
 「うき我を淋しがらする」は、もともとたいした憂鬱でもないのに、閑古鳥の声で憂さも晴れたぞ、閑古鳥の風流の分かる俺ってかっけー、にしかならない。淋しがらせてくれと訴えかける所に人は心を動かす。

 「『淋しがらせよ』とてにはを以て打ならし吹ならす故に、五音相続してもののふの心やハらぎ、めに見えぬ神鬼を泣しめ侍る也。
 楽器の吹鼓をやとひ侍るにハ及ばずして、一句一句に楽ハおのづから調ひ侍る也。
 此ごろ、てにはに五音のひびき有て、唐土の楽にかハらず、民を治る事を発明せる也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫

p.137~138)

 まあ、いわばこれは魂の叫びというやつで、それだけに音楽のように人の心にすんなりと入ってくる。
 「めに見えぬ神鬼」は「鬼神」と言った方が分かりやすいが、これはいわゆる御霊も含まれる。「みたま」ではなく「ごりょう」の方で、非業の死を遂げた魂がまだこの世に恨みを残しとなると、何か災いが起こるたびに、ひょっとして祟りではないかとなり、気が気でない。
 その恨みを誰かが歌で代弁し、それに多くの人が共感し、みんなでその恨みを分かち合えば、怨霊の悪さするのではないかという不安も消える。怨霊が悪さをするのは、自分の気持ちをわかって欲しいからで、みんながme tooと言えばこの声は非暴力にして社会の変革につながってゆき、問題が解決されれば怨霊も浄化され守護神になる。
 クイーンの楽曲も「We Will Rock You」でみんなが手を打ち鳴らし足を踏み鳴らし、「We Are the Champions」をみんなで大合唱する、その一体感こそが本当に素晴らしいことで、たまたまそのボーカルがパキだったとかゲイだったとかいうのはそんなに重要でないし、それを忘れさせることが彼の偉大さだったと思う。
 俳諧も同じで、みんながあるある、そのとおりだ、と思うことが大事で、そこに大衆の間での一体感を生み出す。それはまさに民を治めるということだ。
 今の時代、それをやっているのは残念ながら近代俳句ではなく芸人たちの方だ。

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