今日は午前中雨が降り、暑さも和らいだ。
トランプさんは帰国したようだが、何をやっても話題にことかかない人だ。トランプさんがいなくなったら世界はまた元の退屈な世界にもどるのかな。
理性が人それぞれ多様なのは言葉の性質によるもので、数学や論理学は普遍性を持っている。概念は決して超越的な人類普遍のものではなく、様々な過去の用例が各自の記憶の中で構造化されたものにすぎない。
概念は典型であって、他の概念との境界は常に曖昧だ。バナナがおやつかどうかが問題になるのは、おやつの典型ではなく、食事との境界線に近い辺縁に位置するからだ。
それでは「応安新式」の続き。ここでも居所と非居所の境界が問題になる。
「一、可嫌打越物
岩屋 関戸 隠家 すみか すまゐ(已上居所に嫌之) 霧にふりもの 時分(夕暮と曙との類也) 雲にくもる 霞におぼろ 涼に冷 身にしむに寒 老に昔 古に故郷等 月に日次の日 日に月次の月 種まく野べの色づく 冬がれの野山にうへ物 竹に草木 梢にすゑ 碪に衣裳之類 音声に響 顧に見 夕に春秋の暮 樵夫に木の字 影に陰 面かげにかげ 遠にはるかなり 袖ぬるるに涙 なくに涙(鳥獣のなくは別の事也) 別に帰(恋の心は同事也) 別にきぬぎぬ 思に火(可依句体也) ぬとぬと すとすと 過去のし文字」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.300~301)
打越を嫌うというのは、二句隔てることを意味する。たとえば「雲にくもる」というのは、「雲」の出てくる句があって、その次の句があって、その次は打越になるからまだ出せないが、その次の句に「くもり」という言葉を出すのはいいということになる。
この辺りから、「世」だとか「雪」だとか同じ単語の制限ではなく、一定のカテゴリーの言葉が対象になることが多くなる。
連歌では題材となる言葉が様々に分類されている。今日での俳句では「季語」があるが、季節だけでなく山類、水辺、植物、獣類、光物、降物、居所、衣装、人倫など、様々な言葉がある。
「岩屋 関戸 隠家 すみか すまゐ(已上居所に嫌之)」というのは、「岩屋、関戸、隠家、すみか、すまゐ」といった言葉が居所のようで居所でないということがポイントになる。打越を嫌うものには、こういう似て非なる物が多い。つまり同じものならもっと句数を隔てなくてはならないが、似て非なる物だから打越を嫌うだけでかまわないというパターンだ。
「連歌新式永禄十二年注」には、
「岩のほらの有に、かりそめに住を、岩やと云り。然共、真実の居所には非。屋の字あれば、打越を嫌ける也。関戸・関屋、戸の字・屋の字あれば、打越をば嫌也。守人の住心なり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.52)
とある。岩屋は本来そこで生活するような場所ではなく、修行などで一時的に籠るための場所だから、居所にはならない。
「関戸・関屋」も関所の建物で、たとえ関守がそこで暮らしているとしても基本的には公共施設なので居所にはならない。
「隠家といふは、樹上石上に立よりて、をこなひをし、観念するを、隠家といへり。
或、柴など折かざし、草を引むすぶを、柴の庵・草の庵といへり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.52~53)
隠家も今では気心知れた仲間だけが集まる場所のことも言うし、比喩的な意味でのアジトや秘密基地と同様に用いられることもある。だが本来は修行のために隠棲する場所をいう。
「柴の庵」「草の庵」は非居所になるが、「庵」は居所になる。ただ、江戸時代になると草庵といっても自分の立派な庵を謙遜してそう呼ぶ場合が多くなる。
「屋」「戸」「家」もこれだけだと居所で、つまり「家」とあって二句隔てて「戸」は出せないが「関戸」ならいいということになる。「戸」とあって二句隔てて「隠家」もOKということになる。これは非居所だから許されるということで、居所と居所だと五句隔てなくてはいけない。
「栖といへば、居所の心大やう(になる)なり。狩人は山をすみかとし、海士は海を栖とするなどいへる心なり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.53)
つまり居所としての「すみか」ではなく比喩としての「すみか」ならいいということか。
「栖居、是又心おなじ。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.54)
「すまい」もそれと同じ。
このルールは居所と居所のようで居所でないものとの間で広く適用される。「連歌新式永禄十二年注」にはこのほかに、田の庵、居所に村、霧の籬(まがき)、浜庇も居所のような非居所として居所と打越を嫌うとしている。
「霧にふりもの」も「霧」は聳物で降物ではないが、降物に近いという点で打越を嫌うことになる。「霞」に「朧」も似て非なるということか。
「涼に冷 身にしむに寒 老に昔 古に故郷」なども同じで、似て非なる物は可嫌打越物として扱われる。
これでいくと植物と非植物の「草生える」は可嫌打越物でいいのか。
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