2019年5月5日日曜日

 今日は上野の芸大アートプラザの「猫展」を見に行った。そのあと谷中ビールを飲んで、浅草方面を散歩した。アニメ『さらざんまい』の聖地を見て回った。そして最後はカンピオンエールでまたビール。楽しい一日だった。
 やっぱり平和が一番。平和に賛成。あのミサイルを撃ってる国の人たちにもいつかこういう日が来ることを祈る。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「一、ありそ・となみの二集、かなの書違ひの事、上巻序文三枚めニ、えもいわれぬ趣の浮びける、又同じ三枚ノ終ニ、杖のあとをしたわれけん筆のあと、二ツながら、はのかな也。わにハあらず。此外上下巻共に、少々『は』の字書違ひ、「を』の字の相違見え侍れ共、執筆のあやまり、しいて論ずるに及ばず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.133)

 浪化編の『有磯海』『となみ山』(元禄八年刊)の二集には「は」と書くところが「わ」になってたり、「を」になってたりするという。
 『有磯海』は早稲田大学の古典籍総合データベースというサイトで見ることができる。確かに「王」という字を崩した変体仮名の「わ」が記されている。この字は「者」という字を崩した変体仮名の「は」と似ているため、版を起す過程で間違えたのだろう。この字は「遠」の字を崩した「を」とも似ている。

 「一、猿ミの下巻俳諧ニ云、
 草村に蛙こハがる夕まぐれ
 蕗の芽とりに行灯ゆりけす
 此句、ゆりの字、前にもたれてむづかし。『行灯さげ行』としたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.133)

 これは「市中や」の巻の八句目で、

   草村に蛙こはがる夕まぐれ
 蕗の芽とりに行燈ゆりけす     芭蕉

の句だ。
 これについては随分前に書いて「鈴呂屋書庫」にアップしている「『市中は」の巻、解説」を引いておこう。

 「前句の「蛙こわがる」を乙女の位(くらい)に取り成す「位付(くらいづ)け」。大の男が蛙を恐がれば滑稽だが、かわいらしい女の子が蛙を見て「きゃっ!」と言うのは今も昔も定番か。
 蕗の芽は「ふきのとう」のことで、夕方のお使いか。持っていた行灯をゆり消してしまうと、あたりは真っ暗でもっと恐い。
 ‥‥略‥‥
 確かに、蛙を恐がって刀を抜く、蛙を恐がって行灯をゆり消す、趣向が似ていて輪廻ではないかと言われれば、そう言えなくもない。その重複をうざいと言われればそうなのかもしれない。
 おそらく、それは芭蕉も考えたことであろう。似たような場面がこれより前まえの『奥の細道』の旅の途中で巻かれた「馬かりて」の巻に見られる。この時の様子は北枝が『山中三吟評語』に記している。その中六句目だ。

    青淵に獺の飛こむ水の音
 柴かりこかす峰のささ道     芭蕉

 打越は、

 鞘ばしりしをやがてとめけり   北枝

で、曾良の前句は『鞘ばしりし』を刀を抜く動作としてとらえ、『くせもの!』とばかりに刀を抜き放ったものの、何だ川獺かという落ちにする。どこか凡兆の句くと発想が似ている。
 芭蕉はこの川獺の句に付けるとき、『柴かりたどる』『柴かりかよふ』とも案じたあと『柴かりこかす』にしたという。
 『柴かりこかす』だと、川獺の音おとにびっくりして芝を刈っている人がこける、という意味になり、同じくびっくりして刀を抜くという打越とかぶってしまう。
 許六の『蕗の芽とりに行灯さげ行ゆく』の改案は、『柴かりたどる』『柴かりかよふ』に似てないか。おそらく芭蕉も許六が考えるような案は考えていたと思う。やや輪廻気味という嫌いはあっても、あえて芭蕉は句そのものの面白さを選んだのではなかったか。」

 今の自分にこれに付け加えることはない。

 「咳聲の隣ハ近き縁づたひ
 添へバそふほどこくめんな顔   園風
 此句、『添』字、前句の噂さ也。『見れバ見るほど』としたし。
 『ゆり』の字、前句にしたるし。『添』の字ハ、一向に前句の噂さ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.133~134)

 この句は「梅若菜」の巻の三十二句目。

   咳聲の隣はちかき縁づたひ
 添へばそふほどこくめんな顔

 これも「鈴呂屋書庫」から。

 「『こくめん』は黒面と書くが克明から来た言葉で、誠実だとか律儀だとかいう意味だという。何で克明が黒面になったのかはよくわからないが、あるいは定番が鉄板になったような言い間違いが定着したものか。
 句の意味は、隣の咳払いした人のことを、その奥さんの側にたって、添えば添うほど生真面目な人だということだろう。ただ逆に、咳をした人の奥さんが誠実だとも取れる。咳をした人が女性だった可能性を含めると四通りの解釈が可能になる。
 許六は『俳諧問答』のなかで、「此句、『添』字、前句の噂さ也。『見れバ見るほど』としたし。」と言っている。確かにこの混乱は隣人の咳を聞きながら、その聞いた人の感想ではなく隣人の配偶者の側に立った推測だというところからくる。『見れば見るほど』だと咳の主が黒面ということになる。
 そういうわけで、古註の解釈も割れている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)、『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は妻の方を黒面とし、『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)、『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)、『俳諧猿蓑付合注解』(桃支庵指直著、明治二十年刊)は夫のこととする。」

 克明が黒面になった理由はわからないが、今日の「鉄板」という言葉と似ているのではないかと思う。
 「鉄板」は本来は「定番」と言うべきところだったのだが、多分誰かが言い間違えて「てっぱん」と言ってしまったところ、鉄板のように硬い定番ということで定着してしまったのだと思う。
 真面目に働いている人は日焼けして顔が黒いところから、「黒面」になるほど克明ということになった可能性はある。
 ただ、今気付いたが、許六は肝心なことを忘れている。それは打越が、

 醤油ねさせてしばし月見る    猿雖

なので、「見る」はここでは使えない。

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