『俳諧問答』の続き。
「されバ、箸・橋・端の三ツをよくわかち侍る也。これハアイウヱヲの五ツのひびきより出て、一歳此ひびきにもるる事ハなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.135~136)
箸(はし)、橋(はし)、端(はし)は同音異義語で、この三つの違いは結局の所文脈から判断するもので、アクセントの異なるものもあるが、今でも地方によっても違いがあり、まして江戸時代のアクセントはさっぱりわからない。
雅語はいろは四十七文字と「ん」の文字で表記される。母音は基本的に「あいうえお」の五母音で、この時代には「い」と「ゐ」、「え」と「ヱ」、「お」と「を」はしばしば混乱していて、実際の発音に差がなくなっていたと思われる。ここでも許六は「アイウエオ」ではなく「アイウヱヲ」としている。
梵灯庵主の著で康応二年(一三九〇年)の奥書を持つ中世の連歌書『長短抄』には巻末に今日でいう五十音図に近いものが掲載されている。ここにはヰ・ゑ・おの文字がなく、イ・エ・ヲで統一されている。アイウエオの順番はこの頃に既に確立されていたと思われる。
ア=喉、イ=舌、ウ=唇となっていて、イは舌の本、エは舌の末で二四相通、ウは唇の内、ヲは唇の外で、三五相通とされ、アイウの三母音が基本にあって、エはイから、ヲはウから派生したとされている。
子音に関してはア・カ・ヤが喉、サ・タ・ラ・ナが舌、ハ・マ・ワが唇というふうに分類され、今日の五十音図のアカサタナハマヤラワの順番とは若干異なっている。
万葉集の時代では「い」と「ゐ(うぃ)」、「え」と「ゑ(うぇ)」、「お」と「を(うぉ)」が区別され、イ段、エ段、オ段は甲乙に別れ、八母音の言語だったとされている。
ただ、これらは雅語の音韻であって、口語では様々な方言があり、使われる音韻にも差があったと思われる。
今日でも東北弁では「い」と「え」の区別が分かりにくく、沖縄地方では三母音や四母音のところもある。奄美・徳之島方面ではイやエの甲乙の区別が残る所もあるという。
子韻でも江戸っ子はヒをシと言ったり、サ行をthに近い音で発音したりする。
明治の標準語はほぼ雅語の音韻を踏襲している。ただ、仮名ではその違いが表記されない鼻濁音が存在する。
「唐土聖人の代に、礼と楽を以て国を治め給うふ。
礼はいふに及ばず。楽といへる物、政の為にハ益なきに似たりといへ共、つくづくとおもふに、楽は五音相続の調子を以て打ならし侍る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.136)
音楽における五音は三分損益法によって作られる五つの音、宮・微・商・羽・角で、いわゆる四七抜きの五音階を形作る。
「唱歌は詩也。詩ハ風雅也。春ハうらうらと霞める中に、うぐひすの初音を催し、東風立初るより梅の匂ひを送る事をのべて、民の心をやハらげる也。
我朝の楽も又同じ。其唱歌ハ歌也。
詩は上声・去声・入声のおもきかるき事を分けたり。日本の詩ハ唐土の楽に諷ハれぬといへるも、慥ニ上声・去声のおもきかるき事をしらぬ故也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.136)
「唱歌」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「①笛・琴・琵琶(びわ)などの旋律を、譜によって口で歌うこと。
②楽に合わせて歌を歌うこと。」
とある。吟のように言葉に節を付けるのではなく、メロディーを口ずさむことのようだ。
漢詩は平声・上声・去声・入声の声調があり、そこに自ずとメロディーが生じるが、日本人が作る漢詩はそれがなかなか感覚的に理解できてないため、中国人からすると歌えないということになる。
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