五月にしては異常な暑さになったが、まだ朝夕が涼しいから救われてる。仕事中の飲料も五百ミリリットルのペットボトル二本分くらいで済んでいる。本当の夏の暑さだと一リットル紙パックが二、三本要る。
それでは『応安新式』の続き。
「一、一座一句物
若菜 款冬(やまぶき) 躑躅(つつじ) 杜若(かきつばた) 牡丹 橘 女郎花(おみなえし) 檜原 櫨(はじ) 如此植物
鶯 喚子鳥(よぶこどり) 貌鳥(かほどり) 郭公 螢 蝉 日晩(ひぐらし) 松虫 鈴虫 蛩(こおろぎ) 虫 熊 虎 龍 猪 鬼 女
如此動物
昔 古(いにしえ) 夕暮 昨日 夕立 急雨(むらさめ) 雨 嵐 木枯(こがらし) 朝月 夕月 如此類
隠家 そとも なるこ ひだ とぼそ 閨 如此類」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.299)
一座一句は百韻の連歌に一句という意味。
連歌ではそのほかにも一座二句物、一座三句物、一座四句物、一座五句物などがあり、頻繁に使っていい詞については、可隔五句物、可隔七句物などがある。可嫌打越物、可隔三句物については類似するカテゴリーの詞に対してで、同じ単語、同じ題材に対しては用いない。可隔五句物のところに「同字」とあるように、同じ言葉は基本五句去りになる。
こうした規則は連歌の難易度を調整するのに重要な意味があり、一つ一つにもっともらしい根拠があるわけではない。ゲームに適度な難易度を与えることで、飽きが来ずに長くプレーできるようにするというのが最大の狙いだったと思う。
「連歌新式永禄十二年注」には、
「五句物・四句物・三句物・二句物、或、七句去・五句去など員数定たる物は不及是非。其外の物は、皆一座一句の物たる故に、尤物をと書たり。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.27)
式目に挙げられている言葉はほんの一例であり、一座二句物、一座三句物、一座四句物、一座五句物といった定めのないものについては基本的に一座一句と考える。
連歌だと雅語の語彙は限られているが、俳諧の場合俗語を含むため使える言葉が飛躍的に増えたが、厳密ではないにせよ基本的に同じネタは一巻に二度用いないということで、一座一句が守られていたのではないかと思う。
そして、
「群出たる物也。百韻にかならずあらまほしき物を書きたる心也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.27~28)
と、特に連歌によく使われる詞で、あった方がいい詞を例にしているという。ただ、例外もあり、
「熊・虎・鬼・龍など様の物は、うちまかせて、百韻連歌にすべきにあらず。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.28)
とある。これは詠んではいけないというのではなく、千句興行なら一句くらいあってもいいという意味だ。
実際、熊・虎・鬼・龍を詠んだ和歌というと、なかなか思い浮かぶものがない。そうなると、こういう言葉を使ってしまうと、次に付ける人が困ってしまう。
時によりすぐれば民の嘆きなり
八大龍王雨やめたまへ
源実朝
という歌はあるにはあるが。
蕉門の俳諧では「糞尿」の句は『去来抄』「先師評」に「されど百韻といふとも二句に過ぐべからず。一句なくてもよからん」とあり、糞尿合わせて一座一句になっている。
「連歌新式永禄十二年注」は虎と龍(たつ)の例を挙げている。
しられぬほどに身をやかくさむ
みえずとも虎ふす野辺ぞ心せよ
たつのぼるながれにももの花うきて
また、
「むささび・ふくろうごときの異様の物は、千句・万句の外にすべからず。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.28~29)
とある。梟はこの頃は嫌われていたのか、「ごとき異様の」の扱いになっている。
「檜原(ひばら)」は万葉の時代には詠まれていた。
いにしへにありけむ人も我がごとや
三輪の檜原にかざし折りけん
柿本人麻呂
また「巻向の檜原」を詠んだ歌もいくつかある。
「櫨(はじ)」を詠んだ歌は、
山ふかみ窓のつれづれとふものは
色づきそむるはじの立ち枝
西行法師
鶉なく交野にたてるはじ紅葉
ちりぬばかりに秋風ぞふく
藤原親隆
など、比較的新しい歌に見られる。
「猪」は、
かるもかき臥す猪の床のいを安み
さこそ寝ざらめかからずもがな
和泉式部
の歌がある。
なお、式目には「龍 猪 鬼 女 如此動物」とあるが、「連歌新式紹巴注」には、
「龍<非生類> 鬼<同>。奥に委。女人倫也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.141)
とある。確かに女が動物というのはあんまりだ。想像上の動物は非生類として扱われるようだ。
だとするとゴブリンやエルフやドアーフなどの異世界物でおなじみの物も非生類として扱うべきなのか。ゴジラやポケモンはどうなのか。アンデッド系はまあ非生類だろうな。
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