2018年3月30日金曜日

 月はほぼ満月となった。今日は気温が下がったせいか、くっきりとした月だ。
 桜は半分くらい葉桜に変わってきている。
 それでは「うたてやな」の巻の続き。挙句まで一気にと思ったが、途中で詰まってしまった。
 四十五句目。

   築地くぐりし雪の足あと
 おろかさは寒声つかふ身の独り 来山

 「寒声(かんごゑ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 「僧や邦楽を学ぶ人が、寒中に声を出してのどを鍛えること。また、その声。」

とある。声を一度潰して作り直すという作業なのだろう。邦楽では非整数倍発声、いわばノイズのある声が重視されたため、意図的に声を潰し非整数倍音が多く出る状態にしたところで、非整数倍音の量を調整する技術を学んだのではないかと思われる。邦楽だけでなく僧の声明の声もこのようにして作られる。
 メタル系のボーカルでもしばしばクリアボイスとデスボイスを使い分ける人がいる。非整数倍音は意図的に調整できる。
 裕福な生まれでありながら、あえて築地をくぐって雪の中に出てゆき、寒声の練習をするのは、芸事の道楽にのめりこんだからであろう。それを「おろか」と自嘲する。
 四十六句目。

   おろかさは寒声つかふ身の独り
 うらるる娘里の落月      西鶴

 江戸時代の人身売買は基本的に禁止されていた。それでは遊郭に売られた遊女たちは何だったのかというと、その多くは債務奴隷、つまり借金返済のためのものだったと思われる。いわゆる奴隷制度の奴隷ではない。
 ウィキペディアによると、

 「奴隷制度終焉以後の人身売買は一般に、自ら了承して身売りしたり(借金の返済、親族に必要な金銭の用立てなど)、親が子に強要したり、親が子の替わりに契約を行ったり、また既にその状態の人を売買(転売)することもあるが、誘拐などの強制手段や甘言によって誘い出して移送することも多数あり、広義には当人に気づかせないグループ詐欺的な方法を含むことがあるなど、多様な実体・本質と分野を含む用語である。」

とある。
 この種の人身売買は近代に入っても戦後間もない頃までは合法的に行われていて、従軍慰安婦の多くもこうした債務奴隷だったと思われる。
 飢饉で荒れ果てた村から、朝もまだ薄暗い落月の頃、娘は売られてゆき、寒声つかふ芸能の世界に入ってゆくのだろう。「おろかさは」はそんな過酷な世界に対して発せられる。
 四十七句目。

   うらるる娘里の落月
 憂中の名残に汲ん秋の汐    瓠界

 「憂中」は「うき仲」で恋に転じる。
 謡曲『松風』からの発想か。『松風』では須磨も汐汲む海女の姉妹を残して在原行平が去っていくわけだが、本説を取る時はそのまんまではなく少し変える。ここでは娘が売られてゆくことで別れとなる。
 四十八句目。

   憂中の名残に汲ん秋の汐
 雁に鷗に浦づくしまふ     才麿

 謡曲『融』の趣向で逃げるか。後半の舞が見所の能だが、それを「浦づくし」と言ったか。

2018年3月29日木曜日

 暖かい日が続いている。月も大分丸くなった。今はどこも夜は明るいが、昔だったら月の明かりだけの真っ暗闇で、そんななか幽かに見える桜が本当の夜桜だったんだろうな。
 では「うたてやな」の巻の続き。
 三十九句目。

   人は火をけし火をともしけり
 げぢげぢに妹がくろ髪からるるな 才麿

 漫画なんかでよく科学者が出てきて、ボンと試験管が爆発すると、髪の毛が‥‥なんて場面を思い浮かべてしまうが、火も使い方を誤ると髪を焦がす。
 『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71の註には『和漢三才図会』の「按蚰蜒有毒如舐頭髮則毛脱昔以梶原景時比蚰蜒言動則入讒於耳爲害也」が引用されている。「按ずるに、蚰蜒毒有る如し、頭髮を舐(ね)ぶれば則毛脱る。」そのあとに「昔、梶原景時を以て蚰蜒に比す。言動則ち讒を耳に入れて害を為せば也。」と続く。梶原景時はウィキペディアによれば、「源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった『大悪人』と古くから評せられている」とある。
 じっさいにゲジゲジの毒で禿げることはないが、禿げるとゲジゲジに舐められたんだろうと言われたりしたのだろう。実際は火のせいでも、会話では敢えてからかってそう言うのはよくあることだ。
 四十句目。

   げぢげぢに妹がくろ髪からるるな
 こひともいはず死果しよし   来山

 愛しい男は結局打ち明けることもなく、何もないまま死んでしまった。前句の「くろ髪からるるな」を、出家したりするなよ、という意味に取り成す。
 四十一句目。

   こひともいはず死果しよし
 盆池や面を見せぬ藻のうき葉  補天

 前句の「こひ」を「鯉」のことにする。「盆池」は「まるいけ」と読む。庭の小さな池のこと。廃墟となって荒れ果てた池には藻がびっしりと茂り、鯉も死んでしまったのだろう。蛙の飛び込む音が聞こえてきそうだ。
 四十二句目。

   盆池や面を見せぬ藻のうき葉
 けふも出がけに揃ふ小比丘尼  瓠界

 この小比丘尼は遊女か。当時、熊野比丘尼、浮世比丘尼と呼ばれる遊女がいた。「盆池」は「血盆池地獄」の連想が働き、地獄絵を解説する本来の熊野比丘尼と縁がある。
 四十三句目。

   けふも出がけに揃ふ小比丘尼
 物いはで気の毒の牛が角なるや 鬼貫

 「牛の角を蜂が刺す」という諺は何も感じないことの例え。春を売る小比丘尼たちの物一つ言わない姿は、きゃっきゃと騒ぐ普通の娘たちと違って気の毒で、辛いことが多すぎて感覚が麻痺してしまったのだろうかと心配する。このあたりが鬼貫の「誠」か。今の援交少女にも通じるものがある。
 四十四句目。

   物いはで気の毒の牛が角なるや
 築地くぐりし雪の足あと    万海

 築地(ついじ)は屋敷の周囲にめぐらす屋根を瓦で葺いた土塀で、そこから転じて築地のある屋敷に住む公卿や堂上方をも意味する。
 築地をめぐらした公卿の屋敷の門をくぐる牛車の牛が、雪の降る中でも「もう」とも言わず黙々と歩いてゆくのを気の毒だとする。

2018年3月28日水曜日

 桜(染井吉野)は散り始めた。満月までは何とか持って欲しい。
 春は短くあっという間に去ってゆくから、せめてそれまでは心行くまで酔いしれよう。それが人生の花だ。他に大切なものなんてない。
 昔から長いこと人を惑わしているのは、脳内快楽物質が作り出す光の体験だ。神を見ただの、宇宙と一体化しただの、絶対的な真理を体得しただの、悟りを開いただの、真の自我を見つけただの、そんなものはすべて脳内快楽物質の作り出す幻想にすぎない。そんな境地は薬中だって知っている。
 一つの世界だの歴史の終焉だの、そんなものに命を賭ける価値もない。いつだって世界はあるがままに混沌としている。
 とはいえ、夢に生き夢に死ぬのは昔から人の性なのかもしれない。本当は何もないんだよ。すべてはあるがままで、それ以上のものは何もないんだ。花もあれば月もある。花はくれない柳はみどり、それだけで素晴らしいじゃないか。
 まあ、いずれにせよ一度きりの人生、無駄にしないようにね。
 それでは「うたてやな」の巻の続き。
 三十三句目。

   秣をいるる賤に名のらせ
 人々をよき酒ぶりにわらはして 瓠界

 酒を飲むなら明るく飲みたいものだ。上機嫌で冗談なんか飛ばして、たまたまやってきた秣を背負った客人とも、名前を聞き出してはすぐに兄弟のように仲良くなる。そんなふうに酒を飲みたいものだ。
 三十四句目。

   人々をよき酒ぶりにわらはして
 金乞ウ夜半を春にいひ延    西鶴

 年の暮れだろうか、借金を取り立てに来た人に酒を振舞い、笑わせたりして、結局支払いは来年ということになる。西鶴得意の世間胸算用。
 三十五句目。

   金乞ウ夜半を春にいひ延
 どれ見ても一かまへあるお公家たち 万海

 江戸時代のお公家さんは石高も低く抑えられていた。一説には公家の九割は三百石以下だったともいう。家の構えは立派だが借金が溜まっている家も結構あったのだろう。
 三十六句目。

   どれ見ても一かまへあるお公家たち
 戸渡る海へ舎利をなげいれ    補天

 これは難しい。
 『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71の註には、「どなたを見ても一構えあるようなお公家たちが、瀬戸を渡る舟から海へ舎利を投げ入れている。」とあるが、実際そのような習慣があったのか、その辺の事情がわからない。
 淳和天皇は京都大原野西院に散骨されたというし、藤原行成が母と母方祖父の遺体を火葬して鴨川に散骨したという例はあるようだが、そんなたくさんのお公家さんたちが舎利を海に撒くことがあったのか、よくわからない。
 二裏、三十七句目。

   戸渡る海へ舎利をなげいれ
 雨ねがふ竜の都の例にて    西鶴

 『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71の註には、『拾遺往生伝』上三十八に「伝教大師が渡唐の際に、持っていた舎利を海中に投じて竜王に与え、悪風を止めさせた」という話があるという。
 三十八句目。

   雨ねがふ竜の都の例にて
 人は火をけし火をともしけり  鬼貫

 昔は山の上で盛大な焚き火を行い、竜神を怒らせて雨を降らせようという千把焚(せんばたき)がいたるところで行われていたという。この儀式がどれくらい昔まで遡れるのかはよくわからない。
 鉦や太鼓で大きな音を立てて雨乞いするというのが江戸時代には多かったようだが、火を使った雨乞いの儀式があったとしてもおかしくはない。

2018年3月27日火曜日

 今日は半月よりやや膨らんだ月が見えた。やはり若干朧になっている。桜の花に月。満月は土曜日だそうだ。
 昨日の続きだが、多種多様な人間が集まると、物の見方や考え方の違いから、いろいろ誤解が生じたり、利害がぶつかり合ったりして必ずいさかいが耐えないもので、そうやって罵りあいながらも何となく秩序が保たれている、そういうカオスな世界が作られる。
 ただ、そういう人と人とのぶつかり合いや小さな誤解やいさかいで傷つけあうのに耐えられない人というのもいて、単一の価値観や一つの思想に支配された一つの世界を求める人というのは、多分そういう弱さによるのではないかと思う。
 2チャンネルのようなカオスな世界を嫌い、フェイスブックやツイッターで、似たり寄ったりの考えの人間だけで集まって、そこだけの仲間内の常識で生きている。フェイクニュースに振り回される人というのはそういう人なのだろうと思う。
 それは異質なものを受け入れられない、人間的な弱さなのだろう。
 多様性を受け入れるというのは、多少なりとも傷つくことを恐れない強さが要求される。
 それでは世間話もこのへんにして、「うたてやな」の巻の続き。
 二十九句目。

   歌書まよふ秋の碓
 捕れ来て田舎の月も白けれど 鬼貫

 片田舎で囚われの身となって、月明かりで辞世の歌でも書こうとしたのか。ただ、何分田舎のことなので、書き付けようにも紙も筆もない。石臼に刻み付けようかどうかと迷う。
 「白」は「しるし」ではっきりと見えるけどという意味。
 三十句目。

   捕れ来て田舎の月も白けれど
 朔日ながら膾せぬ家     万海

 「朔日(ついたち)」は新月の日で、一ヶ月の始まり。「おついたち」と言って商家ではお粥や膾で商売繁盛を祈願したという。
 前句の月に朔日を付けるのは違え付けで、満月と新月を対比させ、名月は見えても朔日の膾はないとする。逃げ句と見ていいだろう。
 三十一句目。

   朔日ながら膾せぬ家
 黒餅をふたつならべて旗印  来山

 「黒餅(こくもち)」は白字に黒い丸を描いた家紋で、「石(こく)持ち」に通じるというので好まれたという。黒田官兵衛が用いていたことでも知られている。黒餅を二つ重ねた紋は「重ね餅」という。
 前句の「膾せぬ家」を武家としたのだろう。
 三十二句目。

   黒餅をふたつならべて旗印
 秣をいるる賤に名のらせ   才麿

 秣というと、芭蕉の『奥の細道』の旅の途中、黒羽の桃翠宅での興行の発句、

 秣おふ人を枝折の夏野哉     芭蕉

の句も思い浮かぶ。田舎の方の名家なのだろう。

2018年3月26日月曜日

 旧暦だと二月十日。天気のいい日が続きそうなので、今年は満開の花と満月との共演が見られそうだ。ただ、南の方には早くも台風がって話もある。
 マスコミはネット上のフェイクニュースのことを問題にするが、引き合いに出される例はたいていアメリカの大統領選のことで、実際日本ではそんなにフェイクニュースは深刻な問題になっていない。
 思うにフェイクニュースというのはフェイスブックのシステム的な問題ではないかと思う。つまり似たり寄ったりの考え方の人間をつないでしまうため、そうした人たちに受けの良い偽ニュースを流すと簡単に食いつく、というのが問題なのではないかと思う。日本ではフェイスブックは商用以外ではほとんど活用されていない。
 ツイッターも似たような性格がある。日本で飛び交うデマはたいていツイッターで拡散されている。
 日本には2ちゃんねる(正確には今は「5ちゃんねる」になっている)という匿名の掲示板があり、ここではネトウヨもパヨクもそのほかいろいろな考えの人たちも区別なく書き込み、玉石混交のカオスな世界を形作っているが、こういうところだと、右がデマを流すと左が躍起になってその嘘を暴こうとし、左がデマを流すと右が躍起になってその嘘を暴こうとするから、結局どちらのデマもすぐばれてしまう。
 むしろ日本で問題なのはマスコミの偏向や印象操作の方で、ネット上のフェイクニュースはほとんど問題になっていない。海外の人は参考にして欲しい。
 さて、世間話はこれくらいにして、「うたてやな」の巻の続き。
 二表に入る。二十三句目。

   常盤の松に養子たづぬる
 根なし草根の出来けるは豊にて  才麿

 松に根なし草を付けるが、この「根なし草」は比喩で、今日でもよく用いられる言葉だ。要するに職業が定まらない状態を言う。職業が定まらないと、住所も定まらなくなることが多い。浮き草稼業というわけだ。
 その根なし草に根が出来るとなれば、それはようやく実を落ち着けられるような定職が見つかったということだろう。牢人だったら仕官が決まったということか。
 定職に着けば経済的にも安定し、女房も見つけ、次は跡取り息子が欲しくなる。まあ、常盤の松のような職場の長老に相談でもしてみようか、というところか。
 二十四句目。

   根なし草根の出来けるは豊にて
 いつも曇ぬ国ぞしりたき     鬼貫

 伊丹から大阪に出てきた鬼貫さんは、ちょうど士官の口を探していたところで、だが中々現実は甘くなかったのだろう。そんな自分の境遇を茶化して、こんな句にしちゃうあたりはさすが洒落てる。自分が仕官できないのは、世の中が曇っているからとでも言いたげだ。
 とはいえ、句の表向きの意味は逆で、いつも晴れてたら旱魃になって草も木も枯れてしまうから雨は必要。根の出来るのは曇って雨が降るおかげ。曇るから豊かになれる。曇らぬ国なんてあるわけないし、あるなら知りたいものだ、という意味になる。
 二十五句目。

   いつも曇ぬ国ぞしりたき
 難儀なる風の千島に住馴て   西鶴

 『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71の註は、

 胡沙吹かばくもりもぞするみちのくの
     えぞには見せじ秋の夜の月
               西行法師(夫木抄)

を引いているが、西鶴は談林の王道を守って律儀に證歌を引くので、おそらくこれで間違いないだろう。
 胡沙は今ではアイヌ語のホサ(息)ではないかと言われているが、この時代はおそらく字の通り「胡(西域の国)」の沙(砂)ではなかったかと思う。モンゴルの砂嵐で蝦夷の人は名月が見えないとは、当時の地理認識の混乱振りがわかる。
 千島については、

 あたらしや蝦夷が千嶋の春の花
     ながむる人もなくて散ちなむ
               滋円(拾玉集)

など、正確な位置はどうだか知らないが、都の人にもその存在は知られていた。
 胡沙の吹く千島に住み慣れれば、月が曇って見えないのが当たり前で、「いつも曇ぬ国ぞしりたき」と付く。
 二十六句目。

   難儀なる風の千島に住馴て
 我女房に逢もうるさや    来山

 前句を比喩にして、千島のように難儀な風(習慣)のある家に住み慣れて、自分地の女房に逢うのも一々面倒だ、と付く。
 「うるさし」はかつては面倒だという意味で、今のうるさいは「かしまし」だった。古語辞典によると心(うら)狭(さ)しが語源だという。「あいつは俳諧にはうるさい」という場合は、薀蓄が止まらなくて五月蝿いのではなく、本来は俳諧という狭いところに心を入れ込んでいる、というような意味だったのだろう。
 二十七句目。

   我女房に逢もうるさや
 鼠尾草は泪に似たる花の色  補天

 「鼠尾草」は「みそはぎ」と読む。鼠尾草で検索すると中国語が出てくる。現代中国ではSalvia officinalis(Sage)とあるからセージのことを指す。百度百科には、Salvia japonica Thunbとある。これはアキノタムラソウを指す。これに対しミソハギはLythrum anceps。ただ見掛けは似ている。
 ミソハギは盆花とも言われていて、旧盆のころに咲く。そこから、前句の女房を死んだ女房とし、お盆に帰ってくるとはいっても逢うのは心苦しいという意味に取り成す。
 二十八句目。

   鼠尾草は泪に似たる花の色
 歌書まよふ秋の碓      瓠界

 「碓」は「からうす」と読む。「碓氷峠」の「うす」。
 『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71の註には「『秋の暮』なら歌になるが『秋の碓』では歌になりにくい。どのように詠んだらよいか。」とある。ただ、「碓」と「暮」とでは違いすぎるので「雁」とした方が良いのではないか。草書だとかなり似ている。
 この場合は秋の雁と書こうとして「雁」と「碓」の違いがわからなくなった、という意味ではないかと思う。

 鳴き渡る雁の涙や落ちつらむ
      物思ふ宿の萩の上の露
            よみ人しらず(古今集)

が本歌か。

2018年3月24日土曜日

 今日の暖かさで桜も一気に開いた。都内は満開になったという。ただ、標本木が80パーセント咲けば満開というらしい。
 近所もこの前開花したと思ったらあっという間に五分から七分咲きになり、

 世の中は三日見ぬ間に桜かな   蓼太

とはよく言ったものだ。
 では「うたてやな」の巻の続き。
 十九句目。

   火に焚て見よちりの世の花
 さびしきに喰てなぐさむ土筆   瓠界

 前句の「火に焚て」は夜桜ではなく火を焚いて暖を取りながらの食事の風景になる。「さびしき」は山奥での隠棲の寂しさで、最初は塵の世が嫌になって出家して山に籠るのだが、しばらく暮らすと憂き思い出がだんだん美化され、懐かしくなり、寂しくもなる。

 憂き我をさびしがらせよ閑古鳥  芭蕉

の句は、この一年後に芭蕉が詠む句だが、中世の『水無瀬三吟』には、

   山深き里や嵐におくるらん
 慣れぬ住ひぞ寂しさも憂き    宗祇

の句もある。もともと世間の憂鬱からのがれるための隠棲で、最初は憂きがまさり、段々寂しさに変わってゆく過程は不易と言ってもいいのだろう。
 土筆はここでは「つくづくし」と読んで五文字にする。元禄二年の『阿羅野』に、

 すごすごと親子摘けりつくづくし 舟泉
 すごすごと摘やつまずや土筆   其角
 すごすごと案山子のけけり土筆  蕉笠
 土橋やよこにはへたるつくづくし 塩車
 川舟や手をのべてつむ土筆    冬文
 つくづくし頭巾にたまるひとつより 青江

という一連の「つくづくし」の句がある。「すごすごと」は今でいうと「黙々と」という感じか。
 さて、瓠界の句の意味だが、隠棲の寂しさは土筆を食べると故郷で子供の頃摘んだ土筆のことを思い出して、慰められた気分になる。火を焚いて食事をしていると、桜がほのかに見えて浮世の桜を思い出す。というところか。
 二十句目。

   さびしきに喰てなぐさむ土筆
 獺のまつりの魚を拾はん     補天

 困ったことに「獺祭」で検索すると日本酒の銘柄ばかりが出てきてしまう。「獺祭 出典」で検索するとコトバンクが出てくる。その「デジタル大辞泉の解説」には、

1 《「礼記」月令から》カワウソが自分のとった魚を並べること。人が物を供えて先祖を祭るのに似ているところからいう。獺祭魚。おそまつり。うそまつり。
2 《晩唐の詩人李商隠が、文章を作るのに多数の書物を座の周囲に置いて参照し、自ら「獺祭魚」と号したところから》詩文を作るとき、多くの参考書を周囲に広げておくこと。

とある。正岡子規も獺祭書屋主人を名乗り、「獺祭書屋俳話」を書いた。この鈴呂屋俳話もそのオマージュである。
 前句の寂しさに土筆を食う人物を隠逸の文士と見て、獺祭のように本をたくさん広げていると付ける。蕉門の「位付け」に似ている。ただ、土筆は川原に多く見られるので、川獺と縁がある。
 二十一句目。

   獺のまつりの魚を拾はん
 儒といはれたる身のいそがしさ  万海

 「儒」は「ものしり」と読む。「ものしり」は今日のようないろいろなことを知っている人という意味もあるが、祈祷師や占い師を指して言うこともあった。「儒」も元の意味は雨乞いをする人だという。占い師として名が立つと次々に占って欲しいという人がやってきて大忙し。いろいろな占いの書物を広げては、この人にはこれを、あの人にはこれをと書物を見ながら占う。
 二十二句目。

   儒といはれたる身のいそがしさ
 常盤の松に養子たづぬる     西鶴

 古今集の、

 常磐なる松のみどりも春くれば
     今ひとしほの色まさりけり
               源宗于朝臣

の歌を踏まえ、常盤の松の「見取り(多くの中から選び取ること)」を養子探しとする。占い師も忙しくて養子を取って手伝わせたい所か。

2018年3月23日金曜日

 桜は都内で五分咲き、このあたりでは三分咲きといったところか。
 昼間も時折ポツリポツリと気象庁の記録に残らないような雨が降ったし、夜になると本降りになった。
 それでは「うたてやな」の巻の続き。
 十一句目。

   常は橋なき野はづれの川
 ぼとぼとと楮たたいて濁す水   補天

 楮(こうぞ)は和紙の原料で、和紙を作るにはいくつかの過程があり、ネットで調べれば詳しく載っている。刈り取った楮をまず蒸して、皮を剝ぐ。この剝いだ皮のほうを使う。皮を干し、再び煮てから水に晒して不純物を取り除く。こうして綺麗になった皮の黒い部分を取り除き、再び煮込んで水に晒し、さらに不純物を取り除く。それから叩いてほぐし、それに水とトロロアオイから作ったネリを加えて漉いて紙にする。
 「ぼとぼとと楮たたいて」というのはこの叩いてほぐす過程をいう。ただ、叩くだけでは水が濁らないので、その前の工程の水に晒して不純物を取り除く過程で水が濁っていたのだろう。
 橋のない野のはずれの川では、こういう作業が行われていることもあったのだろう。
 十二句目。

   ぼとぼとと楮たたいて濁す水
 むなしくさげてかへるもんどり  来山

 「もんどり」はここでは漁具のことで、網に漏斗状の入口があり、入ったら出られなくなる罠のことをいう。
 製紙作業で水が濁って魚が逃げてしまったのか、仕掛けたモンドリは空っぽで、むなしく下げて帰る。
 十三句目。

   むなしくさげてかへるもんどり
 我宿の菊は心の節句なる     西鶴

 菊の節句だから、これは九月九日の重陽の句だろう。菊の酒を飲んだりする。酒を飲む以上、肴も必要で、それでもんどりを仕掛けて魚を取ろうとしたのだろう。
 「節(せち)」には今日でも正月料理を「御節(おせち)」というように、ご馳走の意味もある。我が宿では菊の酒さえあればご馳走は心の中だけで十分だ、とちょっと強がって言っているのだろう。
 十四句目。

   我宿の菊は心の節句なる
 こがるるかたに三ヶ月の端    瓠界

 菊はここでは娘の名前で「お菊さん」。「節句」も比喩で、心は節句のようにはしゃいでるという意味に取り成し、恋に転じる。
 「菊」は秋の季語なので、ここで秋の季語を入れなくてはならないから三日月を出す。前句の重陽を捨てているので九日の月でなくてもいい。愛しい人はあの三日月の方向、つまり西の方にいるのだろう。
 菊を娘の名に取り成すというと、『炭俵』の「むめがかに」の巻に、

   御頭へ菊もらはるるめいわくさ
 娘を堅う人にあはせぬ      芭蕉

の句があるが、これは元禄七年の春なので、この「うたてやな」の巻が元禄三年の春だから四年早い。こういう取り成しはよくあったのかもしれない。
 十五句目。

   こがるるかたに三ヶ月の端
 虫はなせそれも泪の夜物ぞや   鬼貫

 前句を逢いたくても逢いにいけない箱入り娘の句にして、同じ籠に囚われている鈴虫か何かに同情して、放してやれと言う。虫も「泣く」ように私と同じ夜に鳴いている者だから。
 十六句目。

   虫はなせそれも泪の夜物ぞや
 とへどもこひをしらぬ木法師   万海

 前句の「虫はなせ」を「虫放せ」ではなく「虫は何故(なぜ)」に取り成して、虫は何で泣いているのかと法師に問いかける。虫も恋して、雄が雌を引き寄せるために鳴いているのだが、恋に疎い木石のような心の法師は答に窮する。
 十七句目。

   とへどもこひをしらぬ木法師
 鉈かりに行まい筈が近隣     来山

 「木」に「鉈」の縁で付ける。鉈を借りに、普通なら行くはずのない近隣の家に行く。前句の「とへども」は「問えども」から「訪えども」に取り成され、木法師のもとを尋ねるのだが、恋を知らぬ木法師だったとなる。
 十八句目。

   鉈かりに行まい筈が近隣
 火に焚て見よちりの世の花    才麿

 これは「夜桜」のことか。鉈を借りに行く予定ではなかったが、薪を準備して夜に火を焚けば、闇の夜の花も見える。塵の世は闇ということで「塵の世の花」は「闇の花」ということか。
 ただ、江戸時代には一般的には火を焚いて夜桜を観賞する習慣はなかった。それだけに満開の桜と満月が重なる日は貴重だったが、滅多に花と月が揃うことはなかった。
 夜桜が本格的に広まったのは戦後の電気の普及のおかげといえよう。

2018年3月21日水曜日

 今日の午前中は雪が降った。薄っすらと積もったものの午後から雨に変わり、未だに降り続いている。明日は仕事だからこのまま雨でいてくれればいいが。
 それでは「うたてやな」の巻の続き。
 六句目。

   五月雨に預てとをるきみが駒
 なを山ふかく訴状書かへ      西鶴

 前句の「五月雨にきみが駒を預けて通る」の倒置に、預ける理由として山深く道が悪いからだとする。ついでに主君から預った訴状も改竄?この山は迷宮入りか。
 「なを山ふかく」は『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71の註によれば、

 しをりせでなほ山深くわけ入らん
     うきこと聞かぬ所ありやと
               西行法師(新古今集)

を證歌としている。
 古歌に典拠を取ながらも、「山ふかく」に二重の意味を持たせ「訴状書かへ」と意外な方向に展開するテクニックは、さすがあの有名な井原西鶴さんだけある。
 ネットで見ると井原西鶴は本名は平山藤五で大阪の豊かな町人の家に生まれるとある。となると井原は苗字ではない。平山氏というのは鎌倉武士平山季重を祖とする家が一応あるから、勝手に名乗ってたのでなければ立派な苗字と言えよう。
 七句目。

   なを山ふかく訴状書かへ
 世の噂いはぬ草木ぞ恥しき    万海

 文書の改竄はやはり恥ずべきことで、世間では散々なことを言われているが、そんな無責任な野次馬よりも物言わぬ草木に対して恥ずかしい。
 万海も大阪の人。宗因門の前川由平の門人。賀子編の『蓮実』には、西鶴、賀子、万海の三吟が収められている。
 発句も、

 糸あそぶころや女のまみおもし  万海
 川狩や色の白きは役者らし    同
 音ひくし魂祭る夜のまさなごと  同

などがある。
 八句目。

   世の噂いはぬ草木ぞ恥しき
 親の住ゐにおなじ白雪      舟伴

 自分もこうして恥ずかしい思いをして、雪が降ったみたいに白髪になるが、きっと実家に住む親も同じ思いでいるのだろう。「白雪」を比喩にではなく本物の雪と取り成すことで、逃げ句になる。
 舟伴もデータベース/江戸時代俳人一覧(このサイトには常々お世話になっている)によれば大阪の人。これで連衆は一巡して、あとは出勝ちになる。
 九句目。初裏に入る。

   親の住ゐにおなじ白雪
 餅つきに呼ぶ者どもの極りて   才麿

 親の餅搗きに呼ばれる人はいつも決まっている。いつも同じメンバーで同じ白雪の中、正月準備の餅搗きをする。
 十句目。

   餅つきに呼ぶ者どもの極りて
 常は橋なき野はづれの川     鬼貫

 「極まる」には困窮するという意味もある。野の外れにある普段は人の通らないところにある川は橋がないので、餅搗きに急に大勢人が集まってきても難儀する。

2018年3月19日月曜日

 今日は夕方から雨になった。しばらく降るようだ。

 上島鬼貫は伊丹の造り酒屋の三男だと言われているが、一方で藤原秀衡を先祖に持つ武士で、後に三池藩に仕官している。
 そうなると、姓は藤原で、苗字は上島ということになる。そのほかに油屋という屋号もある。本名は藤原宗邇(ふじわらのむねちか)。
 天和の頃は伊丹流長発句をはやらせた。上島青人(あおんど)、上島鉄卵はこの頃のメンバーで、一族と思われる。
 さて、この、

 うたてやな桜を見れば咲にけり   鬼貫

の句だが、この句を発句に鉄卵追善の五十韻が始まる。
 「うたてやな」は謡曲に用いられる言葉で、ぐぐると謡曲『隅田川』の一節が出てくる。そのほかに謡曲『敦盛』にも、

 ワキ:不思議やな鳬鐘を鳴らし法事をなして。まどろむ隙もなきところに。
    敦盛の来たり給うぞや。さては夢にてあるやらん
 シテ:何しに夢にてあるべきぞ。現の因果を晴らさんために。これまで現れ    来たりたり
 ワキ:うたてやな一念弥陀仏即滅無量の。罪障を晴らさん称名の。法事を絶    えせず弔う功力に。何の因果は荒磯海の

というふうに用いられている。
 謡曲の言葉は全国共通の言葉なので、どの地方の人にもわかりやすいということで、談林俳諧から蕉風確立期にかけてしばしば用いられた。

 あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁 芭蕉(延宝五年)

の「あら何ともなや」は謡曲『船弁慶』、

 あな無残やな甲の下のきりぎりす  芭蕉(元禄二年)

の「あな無残やな」は謡曲『実盛』で用いられている。この句は後に『奥の細道』に載せる時には「あな」をカットして単に「無残やな」としている。
 「うたてやな」は悪い事態に対してあきらめのこもった文脈で主に用いられ、困ったもんだ、やなものだ、というような意味になる。
 鉄卵の月命日だというのに、よりによってこんな日に桜が開花して、どうしていいものやら、と悲しむに悲しめず喜ぶに喜べない状態を表して言っているといってよいだろう。
 これに対し才麿が脇を付ける。

   うたてやな桜を見れば咲にけり
 月のおぼろは物たらぬ色      才麿

 前句の心を受けて、せっかく桜に十日の朧月が出て、夜もやや明るく桜を照らし出し、風情もあるというのに、ここに鉄卵がいないことを思うと物足りない気持ちです、と和す。
 第三は来山が付ける。

   月のおぼろは物たらぬ色
 酒盛の跡も春なる夕にて      来山

 ここで発句の鉄卵追悼の気持ちを断ち切り、何で月の朧が物足りないか、別の理由を考える。
  蘇軾の『春夜』に「春宵一刻直千金」とあるが、その日は早く仕事も終わり、早めの酒宴となってしまったのだろう。せっかくの春の宵なのに、みんなとっくに酔いつぶれて、そりゃ確かに物足りない。
 四句目。

   酒盛の跡も春なる夕にて
 名に聞ふれし浦の網主       補天

 「網主」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」によれば、

 「網主はアミモトとも呼ばれ,漁労経営者で,網子はアンゴ,オゴとも呼ばれ,網主に労力を提供する労働者。網主と網子の関係はきわめて封建的,徒弟的で,網主が網子の生活全般を援助する代りに,漁獲はすべて網主のものになり,しかも世襲的に何代も続く場合がある。」

だという。たくさんの網子を主従関係で従えている偉い人のようだ。当然網主の名前は近隣にも鳴り響いていることだろう。大漁ともなれば昼からでも盛大に酒宴を催し、夕方には酒宴もお開きになる。
 補天は大阪の来山の門人で、賀子編の『蓮実』に、

 水仙やせまくて広き花に勢     補天

の句がある。
 五句目。

   名に聞ふれし浦の網主
 五月雨に預てとをるきみが駒    瓠界

 「五月雨にきみが駒を預けて通る」の倒置。誰に預けたかというと、それが前句の網主になる。「きみが駒」は単に主人の駒という程度の意味か。
 瓠界(こかい)も大阪の人で、宗因の門下。賀子編の『蓮実』に、

 芭蕉葉や誰ぞ手をひろげたるやうに 瓠界

の句がある。

2018年3月18日日曜日

 今日は平塚の花菜ガーデンへ行き、いろいろな花を見てきた。チューリップ、ヒヤシンス、クロッカス、アネモネ、ムスカリ、水仙、クリスマスローズ、ユキヤナギ、木蓮、ミモザ、花桃、早咲きの桜、いろいろあった。よく見ると土筆も顔を出していた。
 そのあと秦野の水無川沿いのおかめ桜を見に行った。川の両側に植えられた桜の木はまだ若く、寄付した人の名札がかかっていた。これから木が大きくなるのが楽しみだ。
 あたみ桜、河津桜、おかめ桜、染井吉野、八重桜、これで春の桜リレーはほぼ完成といっていいだろう。河津桜は既に人気が出て、あちこちに名所ができた。
 日本は長いこと山桜の時代があり、近代に入ると染井吉野に取って代わられていったが、その染井吉野が今は一斉に老木となり、その前途が心配されていたが、これからは単品ではなく桜リレーの時代になると思う。
 陸上でもスケートでも日本はリレーが強いから、桜もリレーすれば最強だと思う。桜が途切れることなく咲き続ければ、いつでも思いついたときに花見ができる。別に皆が集まらなくても、御一人様(ぼっち)でもかまわない、それがこれからのスタイルになるのではないかと思う。
 昔だって桜の花を見て誰もが浮かれていたわけではない。親族をなくして悲しみの中で桜を見る人もいた。

   またきさらぎ十日をむかへて鉄卵をおもふ興行
 うたてやな桜を見れば咲にけり  鬼貫

 鉄卵の死は前年(元禄二年)の十月十日で、月命日の興行。同族でもあり、伊丹流の時代からの俳諧仲間だった。
 嬉しいはずの桜の開花も、人によっては事情があってそれが悲しくも感じられる。それに共感するのも俳諧の風流だ。共感は人と人とをつなぐ。それは個と個をつなぐことだということも忘れてはならない。人間はみんな一人なんだ、それを理解するのも風流の基本だ。

 鴉啼いてわたしも一人      山頭火
 咳をしても一人         放哉

 これは近代の自由律俳句。
 芭蕉にも、

 月花のなくて酒飲むひとり哉   芭蕉

の句がある。
 平昌オリンピックにつぎ、平昌パラリンピックも終った。メダリストたちは障害者に夢を与えたかもしれないし、ホーキングを引き合いに出すのもいい。でも別にメダリストになれなくても、ホーキングのようになれなくても、障害者が普通に幸せに暮らせる世の中を作ってゆくことが大事だと思う。

2018年3月17日土曜日

 今日は東京で染井吉野の開花宣言が出た。ただ、毎年のことだが開花すると急に寒い日が続いたりする。正岡子規も、

 毎年よ彼岸の入に寒いのは   子規

と詠んでいるから、昔からそうだったのだろう。花冷えは長持ちさせる冷蔵庫のような役割なので、そんなに悪いことでもない。あまり暖かいとあっという間に散ってしまう。
 さて、風流についていろいろ考えてきたが、要するに風流は盛んに作られては次々と流行してゆく庶民の間の民謡から来たもので、それは人と人とをつなぐものだった。同じ感情を共有し、それを人を傷つけないような柔らかい表現で広めることで、さらに多くの人の共感を得てゆく。
 こうした歌はしばしば社会の中での不満の声を代弁し、問題解決の糸口にもなって行く。権力者もこれを咎めず、むしろ参考にするべきことが、かつては君子の道として説かれてきた。
 風流は暴力による屈服ではなく、共感によって人の心をつなぐ。それによって「力を入れずして天地をうごかす」道となった。
 風流は上流階級の雅と相互に影響しあうことで「風雅」となり、身分の上下を越えた共感を生み出してゆく。
 俳諧の言葉もまた人を傷つけるような攻撃的な言葉ではなく、あくまで穏やかで婉曲で、時に笑いを交えながらながら、互いに共感できる世界を作り上げてゆく。
 このすばらしい伝統を残してくれたご先祖様に感謝するとともに、今の時代のSNSに反乱する口汚く人を罵る言葉も、少しづつ変わっていってくれるといいと思う。ネトウヨなら伝統を大切にするのはもちろんのこと、パヨクもせっかくの思想をより多くの人に広めようと思うなら、昔の人の心にも学ぶべきであろう。
 ということで一応中締めにしようと思う。

2018年3月16日金曜日

 今日は雨が降り、気温も下がった。三寒四温といったところだろう。
 では『詩経』大序の続き。

 雅者、正也、言王政之所由廃興也。政有大小、故有小雅焉、有大雅焉。頌者、美盛徳之形容、以其成功告于神明者也。是謂四始、詩之至也。

 (雅は正である。王政の廃れたり興ったりする所以を言う。政治には大小があり、そのため小雅があり大雅がある。頌は盛んな徳の姿を称え、その功績を神明に告げるものである。これを四つの始めといい、詩の至りである。)

 「雅」のもとの意味は藤堂明保編の『学研漢和大字典』によれば、「からみあってかどがとれる」ことだという。これに対し「正」は足を真っ直ぐに伸ばすことだという。
 ともすると権力争いで殺伐としがちな貴族社会だが、その一方でどこの国でもそれを和らげるための様々な優雅で平和的な習慣を作り上げている。どんな不愉快な時でも笑顔を絶やさなかったり、心の中では怒りに震えていても優雅な仕草で物毎に対処する。角が取れるというよりも角を隠すための処世術ともいえる。ひとたびそれが破れると、それこそ決闘か戦争になる。
 感情を露骨に表現するのではなく、あくまで婉曲的にそれとなく諭す程度に留めるような控えめな表現は、風雅の情に始まり礼に止むを体現するものともいえよう。
 庶民もまた怒りをあらわにするのではなく、婉曲的で控えめな表現でそれを伝えるのは、貴族のこうした雅な表現方法に倣ったものと言えよう。俳諧もまた和歌連歌の雅な表現の仕方の中に俗語を取り入れ、庶民の身近なあるあるを表現してゆく。
 「正」はまた「政」にも通じる。そしてその「政」には大事もあば小事もある。そこから『詩経』では儀式の格式に応じて大雅と小雅の二つに分類されている。国風、大雅、小雅、頌の四つを始といい、詩の至であると、これは同じ音の字を重ねての言葉遊びになっている。「詩」が「志」の発露であり、「四」つの「始」に分類され、「至」となる。

 詩が音楽から始まったというのは、文字によって記述される以前の詩はあくまで耳によって聞かれるもので、それが散文と異なるのは文法や論理以外の音声的秩序を持つことであるため、音楽の一種として認識されたのであろう。
 つまり、文法や論理以外の別の秩序を持つ文章、それが詩の定義と言っても良い。
 秩序には能記の秩序と所記の秩序が考えられる。能記の秩序は、音の響き、リズムの持つ秩序で、押韻や音節数の定型へと発展する。所記の秩序は内容の類似や対比で、比喩や対句へと発展する。
 なぜ言葉にこうした秩序が求められるかというと、それは文字のなかった時代はどんなに画期的なアイデアが生まれても、それは忘却との戦いだったからだと思う。忘れないために言葉にできる限り複雑な構造を持たせることから、詩は生まれたのではないかと思う。
 そして詩を忘れないためには、さらにそれを音楽として構造化し、さらに舞踏や芝居などにも発展させてゆく方が忘却を免れる率を高めることができたのだと思う。
 残っている詩は少なくとも忘却との戦いに勝利した詩であり、高度な構造を持つ覚えやすい詩が残り、そうでないものは淘汰される。
 むしろ、詩が文字によって記述されるようになってから、詩の構造はゆるくなり、出版文化の発展が自由詩や散文詩の盛況に繋がっていったのではないかと思う。
 詩の長さという点では、文字のなかった時代には物語を詩の形式で記憶し、語り継いだため、むしろ長編叙事詩の時代だった。それが文字によって記述されるようになると、物語は散文になり本になり、詩から独立していった。叙事詩の時代が終ると、詩は比較的短いものばかりになっていった。
 音楽の起源はよくわからないが、狩猟民族の音楽は単純で、歌詞のない歌が多いともいう。おそらく記憶すべきものがそれだけ少なかったのだろう。農耕牧畜社会になってから、音楽は複雑に発展してゆくことになる。
 かつてのマルクス史観では、歌は労働歌に始まったと言われたが、民族学的には裏付けられていない。音楽は余暇に歌われるのが普通だ。原始的な社会では一日の労働時間が極めて短い。有り余る時間の中で音楽は生まれる。それは人と人とをつなぐ仲立ちだった。
 東アジアの長江文明のもとでは歌は歌垣を生み、恋歌が主流となっていった。これが東アジアの風雅の原型となってゆく。中国ではあのオスプレイの歌が漢詩の起源となり、日本では出雲八重垣の歌が和歌の起源となる。
 風雅の原型は恋歌にあり、その非暴力的で婉曲な表現が、感情の生々しさを和らげ、他の分野においても恋歌に準じた表現が風雅の基本になって行く。

2018年3月15日木曜日

 今朝は東の空に爪で引っ掻いたような細い月が出ていた。逆三日月というか、ようやく睦月も終ろうとしている。
 この調子だと、今年は如月の望月を桜で迎えられそうだ。桜に朧月、花に月、昔の人が望んでもなかなか得られなかったもの、見てみたいな。
 さて詩経大序の続き。
 是以一国之事、系一人之本、謂之風、言天下之事、形四方之風、謂之雅。

 (これをもって一国のことを一人の本につなぐ。これを風という。天下のことを言い四方の風を形作る。これを雅という。)

 民衆の間でどこからともなく生み出されては流行する民謡は、情に発し礼に止むことによって、先王の権威に結び付けられ、国と一人一人の人間とを結びつける。それらは先王の道として庶民一人一人の思うことを、今で言う世論として国家体制の中に一つの意見として組み込むことができる。これを「風」という。
 これに対し、王朝の側から天下のことを、やはり一つの「風」として流行させ、広く周知させることを「雅」という。
 風と雅は下からか上からかの違いはあれ、ともに流行し、変風変雅を形作る。この変風変雅を後に略して「風雅」と呼ばれるようになったのだろう。
 変風変雅は官僚が支配する中国の体制のなかで、庶民の情を汲み上げ政治に反映させるシステムとしては、不完全ながらも一種の民主的なシステムだった。
 今の韓国の「国民情緒法」はこうした変風変雅の名残なのかもしれない。それは西洋の「社会契約」に基づく民主主義とは異なる、感情の爆発が政治を動かすというやや別の方向性を持つもので、国民が怒れば法も条約も曲げることができるという思想に貫かれている。
 日本でもしばしば「住民感情」という言葉がメディアで重要な意味を持って取り上げられている。住民意志でもなく住民の理性でもなく、「感情」という言葉が用いられる。このあたりも韓国の「国民情緒法」に近いものがある。ともに東アジアの古い政治形態の名残といえよう。
 西洋の民主主義が、古代ギリシャ以来「投票」による多数決によって住民の意思を数値化してきたのに対し、感情による政治は声の大きいものが勝つと言ってもいい。
 実際、今の日本では、多数決原理は「民主主義を踏みにじる」とまで言われている。声の大きさということになると数は問題ではなく、ただいかに口汚くえぐく相手を罵れるかが勝負になる。そこには風雅の本来の「礼」など微塵もない。ある意味、韓国の「国民情緒法」よりもたちが悪い。彼等が「ラップ」と称するものもヒップホップとはまったく別もので、シュプレヒコールの変形でしかない。わけもなく怒り狂っている人間が最強なのが今の日本の社会だ。「切れたもの勝ち」などとも言われている。
 余談だが、ヒップホップのMCバトルは本来聴衆による多数決で勝敗が決まるものだが、日本では審査員がいて上の方で勝手に勝敗を決める。
 本来風雅は情に発することも大事だが、情を無制限に爆発させるのではなく、「礼に止む」ことも重要だった。特に俳諧に端を発する江戸時代の風流は、基本的に最後は笑いにもってゆくということだったと思う。怒り狂うやつは野暮で、そこを笑って収めるのが粋だった。今日でいう「神対応」というやつだ。
 古代に日本では、和歌・連歌の風雅が「怒り」に結びつくことはなかった。万葉の時代には皇子同士が血で血を洗うような抗争も見られたが、ひとたび道鏡を契機に天皇制が確立されると、暴力的な皇位争いも終息し、死刑のない平和な時代が訪れた。
 実際に貴族同士の小競り合いや、地方での反乱は何度もあったが、日本の風雅の道は非暴力を貫いた。戦争を煽るような勇ましい歌がなかったというのが和歌の誇りともいえよう。
 この平和主義の伝統が、江戸時代の庶民の手に渡り「俳諧」となったとき、怒りより笑いの文化が育まれていった。

2018年3月13日火曜日

 ようやくネットで森友関係の改竄前の十四の文書を見つけ、読むことができた。
 まあ、要するに国有地を払い下げてもらう時に、最初は国会議員や首相夫人に口利きしてもらって、日本会議の理念に基づいた教育を行うとか言って安倍首相の名をちらつかせたりもしたのだろう。
 貰い受けたときは適正価格だったが、それが高くて払えないというので後に買い取るという前提での賃貸契約でとりあえず取得するが、その頃からか価格が高いなど言っていたようだ。
 そしてひとたび契約してしまうと、そのあと地盤が悪いだとかゴミが埋まっているだとかいろいろ難癖付けて値引き交渉をする。そのときにはもはや国会議員や首相夫人の名は出てこない。ただ、かつてそうした人たちの口利きがあったということで、虎の威を借る狐だったのだろうな。財務省の役人も相当手を焼いたのだろう。結局ほとんどただ同然で国有地を手に入れたというわけだ。その過程がこの文章を読むとよくわかる。
 仮に最初から首相の強い意向で学園の用地取得が行われたのなら、一度適正価格で契約してから値切るなんて回りくどいことはしなかっただろう。最初から圧力かけて安く譲り受け、官僚の方がそれを正当化するために地盤が悪いだとかゴミ処理に費用がかかるだとかいう理由付けをするという展開のほうが自然だ。
 まあ、そういうわけで、この十四の文章から首相の犯罪を立証することは難しい。だからパヨクは結局改竄そのものの責任問題で政府を追及するしかない。そんなところだろうか。
 まあ、風流でない話題はこれくらいにして、昨日の続きに入ろう。

 「至于王道衰、礼儀廃、政教失、国異政、家殊俗、而変風変雅作矣。」

 (周の王道が衰え、礼儀が廃れ、政教も失われ、国ごとに異なる政治が行なわれ、家ごとに風俗が異なるようになって、変風変雅の作が生じた。)

 周の王道の時代というのは、まあ記憶の中で美化された世界で、実際には存在しないユートピアと言ってもいいのだろう。実際の周の時代には、周辺にいろいろな民族がいて、やはりそれぞれの政治形態があり、習俗があり、いろいろな歌があったはずだ。
 国によって、時代によって、様々な文化があり、様々な流行があり、様々な音楽があり様々な詩のあるのは常と言ってもいい。
 文字のなかった時代は口承で伝達するとしても、もとのテキストとの比較ができないため、記憶が時間が経つと変容するように中身も変容して行き、いくつもの異なるバージョンが生じたりする。
 また、人間の旺盛な制作欲は次から次へと新しい作品を生み出すが、それを全部記憶できるわけではないので、新しい作品が流行すれば自然と古いものは忘却されてゆく。
 こうして芸術は絶えず流行を繰り返し、変化してゆくのは自然なことだった。不易というのはそれを文字によって記録できるようになってからのことだ。
 前に「『去来抄』を読む」という文章の中で述べたことだが、ここで繰り返しておこう。

 卜田隆嗣(しめだたかし)の『声の力─ボルネオ島プナンの歌と出すことの美学─』(一九九六、弘文堂)に、こういう話が記されている。
 ボルネオ島の中央部に近い、ブラガ川源流地帯に住む、最近まで狩猟採集生活を続けてきた人々の集落の音楽を研究した時の話だが、半年ばかり現地を離れ、日本に戻って、そして再び再調査に言った時、歌っている歌のほとんどが別のものになっていたというのだった。

 「彼らはやはり頻繁に歌っていた。ところがそのうたは、半年ほど前に録音して持って帰ったものとは全く違ったものばかりであった。大ざっぱな印象としては、あまり音高の種類は多くなく、音域もせまいという共通した特徴があるのだが、旋律も歌詞も、一つとして完全に同じものがないのだ。歌詞の場合には「うた」に特有の表現がルーチン化して用いられることも少なくないが、しかしそれも比率としては10パーセントに満たない。これにはかなり衝撃を受けた。
 この時まで、わたしはまったく無意識のうちに、プナンのうたは有限個のレパートリーから成り立っていて、そこに新しいものが追加されたり古いものが削除されたりしながら、伝承されていくものだ、と信じ込んでいたのである。前回の調査では、伝承の部分にまで立ち入る余裕はなかったので、今回はそのあたりもちょっと突っ込んで調べてみようと思っていたところヘ、いきなりわたし自身が意識していない偏向(バイアス)を指摘されたようなかっこうである。
 これは一体どういうことか。プナンにはうたの伝承などまったくないのか。それならうたはどのようにして創り出されるのか。そもそも「うた」とは何なのか。」(『声の力─ボルネオ島プナンの歌と出すことの美学─』卜田隆嗣、一九九六、弘文堂、p.6)

 どうやら流行のサイクルが早いのは、我々の社会だけではないようだ。
 考えてみれば、これは自然なことだろう。録音機もなければ楽譜もないプナンの人々が、一体どうやって膨大な過去の音楽を記憶することができるだろうか。
 彼らに我々と違う特別な能力があるわけでなく、あくまで自身の記憶に頼る限り、そんなに多くのレパートリーを覚えているわけではない。
 一方で、人間に正常な創作意欲がある限り、次から次へと新しい曲が生れてくる。そうなれば、古い曲はごく一部を除いて速やかに忘却されてゆくしかない。少なくとも、権力によって覚えることを強要され続けない限り、次から次へと新しいものが生み出され、一時流行し、やがて忘れ去られるというのは普通のことだ。

 流行とは、人間のあくなき創作欲と記憶力の限界とによって生じる自然現象である。

 風(民謡)も常に流行を繰り返し、変化して止まない。雅の方は文字によって記述されるから風ほど急速に流行と忘却を繰り返すことはないにせよ、やはり長い時間の流れの中では変化してゆく。変風変雅はいつの時代でも自然に起こっていると考えていい。

 「国史明乎得失之迹、傷人倫之廃、哀刑政之苛、吟詠情性、以風其上、達於事変、而懐其旧俗者也。」

 (歴史を収集する官僚はこれら政治の得失を明らかにし、人倫の廃れるのを傷み、刑政の過酷を哀れみ、情性を吟詠し、以てそれを風刺し、世の事々の変化に通じ、その旧俗を懐かしむのである。)

 史書などの編纂に関わる官僚は、先王の時代の理想が失われ、人倫が廃れ、過酷な刑罰が行われている現実に対し、人々の苦しみや悲しみを歌にして風刺し、昔を懐かしむ。

 「故変風発乎情、止乎礼義。」

 (故に変化して止まぬ諸国の風は情によって発せられ、礼儀によって完成する。)

 風はただ無条件に感情を爆発させるようなものではなく、きちんとした形式にまとめ上げられることによって、社会の一定の秩序の中に組み入れることができる。
 それはまず第一に非暴力であること。暴動を起すのではなく不満を歌にして歌うことによって非暴力による不満の表現に留めることで、社会の平和を維持することができる。
 そして、その言葉はみだりに人を傷つけるような罵声ではないということ。比喩や興などの技巧は物事を婉曲に表現することで言葉を和らげることで、言葉が暴力に変わるのを防ぐ。
 歌は感情の発露でありエモだが、それが一定の詩や音楽としての形式を持つことで、裸のままの感情の暴力性を抑えることができる。

 「発乎情、民之性也、止乎礼義、先王之沢也。」

 (情を発するのは民衆の自然な心であり、それを礼儀によって完成させるのは先王の恩沢である。)

 民衆が様々な喜び悲しみ、苦しみ、不満を歌で表現するのは自然なことであり、それを暴力的にならないように一定の形式を与えたのは先王の恩沢だった。
 実際には音楽の形式は民衆の中から自然に生まれたものであろう。ただ、それが長く子々孫々に引き継がれ、一つの伝統になったとき、その始祖として先王が仮定される。そして、先王の権威によってその伝統が維持されているということではないかと思う。

2018年3月12日月曜日

 パヨクの凱歌は相変わらずネット上に鳴り響いている。森友文書の改竄問題はマスコミも盛んに取り上げるが、どれも同じバイアスのかかったものばかりで真相はいまひとつはっきりしない。
 マスコミの影響力がどれくらい残っているかにもよるが、五月までに朝鮮半島が大きく動く可能性のあるときに政治的空白が生じてしまうと日本にとっての大きな損失になる。
 まあ、さすがに立憲なんちゃらが政権をとることはありえないが、政変が起きた場合に安倍首相とトランプ大統領との間で築かれた信頼関係がどこまで継承されるかという問題はある。
 それでは昨日の続き。

 歌垣は今でも中国南部から東南アジアにかけての小数民族の間に痕跡をとどめていて、かつては広く東アジア全体で行われていたのであろう。恋は和歌では中心的なテーマを占めているが、中国韓国などの漢詩の文化ではほとんど重視されなくなっていった。その意味では日本の方が前王の道に忠実なのだろう。天皇家が周王朝の子孫だという説も江戸時代まではまことしやかにささやかれていた。
 江戸時代の俳諧では、恋はやや斜に構えたものになったが、昭和の演歌や今日のJポップでも恋の歌が大半を占めている。
 おそらく歌垣は長江文明から来たもので、黄河文明にはなかったのではないかと思う。

 「故詩有六義焉。一曰風、二曰賦、三曰比、四曰興、五曰雅、六曰頌。」

(故に詩に六義有り:一に曰く風,二に曰く賦,三に曰く比,四に曰く興,五に曰く雅,六に曰く頌。)

 いわゆる詩の六義で、このうち「風」「雅」「頌」は詩経の章のタイトルになっているように、風は諸国の民謡、雅は宮廷での儀式の歌、頌は祖霊に捧げる歌と、歌われる場面で分けられている。ここから「風雅」というのは民謡と宮廷の歌とを合わせていう言葉になる。「風流」はもっぱら庶民の芸能やその趣向やトレンドなどを表すことになる。俳諧も俗語の文芸として雅語の和歌連歌と区別され、「風流」と呼ばれることになる。
 「賦」「比」「興」は詩の手法による分類で、「賦」は直接的に相手に語りかける体、「比」は風刺などでよく用いられる、そのものではなく別の物に喩えて語る体、「興」は「關雎」の詩のところで述べたように、他の物から言い興す体を言う。
 「賦」は後に詩よりもやや散文的な文章として独立したジャンルになって行った。
 西洋かぶれの文学者は賦=直叙、比=比喩、興=隠喩と西洋の概念に単純に当てはめてゆくことが多い。まあ、基本的に東洋の伝統の独自性なんてものにははなから興味がないのだろう。
 『古今集』の真名序には、「和歌有六義。一曰風、二曰賦、三曰比、四曰興、五曰雅、六曰頌。」とあり、完全に『詩経』のコピペになっている。これに対し仮名序の方は、

 「そもそも、歌の様、六つなり。からの歌にも、かくぞあるべき。
 そのむくさの一つには、そへ歌。おほさざきのみかどを、そへたてまつれる歌、

 難波津にさくやこの花冬ごもり
     今は春べとさくやこの花

と言へるなるべし。
 二つには、かぞへ歌、

 さく花に思ひつくみのあぢきなさ
     身にいたつきのいるも知らずて

といへるなるべし。[これは、ただ事に言ひて、物にたとへなどもせぬもの也、この歌いかに言へるにかあらむ、その心えがたし。五つにただこと歌といへるなむ、これにはかなふべき。]
 三つには、なずらへう歌、

 君に今朝あしたの霜のおきていなば
     恋しきごとにきえやわたらむ

といへるなるべし。[これは、物にもなずらへて、それがやうになむあるとやうにいふ也。この歌よくかなへりとも見えず。たらちめの親のかふこのまゆごもりいぶせくもあるかいもにあはずて。かやうなるや、これにはかなふべからむ。]
 四つには、たとへ歌、

 わが恋はよむとも尽きじ荒磯海の
     浜のまさごはよみつくすとも

といへるなるべし。[これは、よろづの草木、鳥けだものにつけて、心を見するなり。この歌は、かくれたる所なむなき。されど、はじめのそへ歌とおなじやうなれば、すこしさまをかへたるなるべし。須磨のあまの塩やくけぶり風をいたみおもはぬ方にたなびきにけり、この歌などやかなふべからむ。]
 五つには、ただこと歌、

 いつはりのなき世なりせばいかばかり
     人のことのはうれしからまし

といへるなるべし。[これは、事のととのほり、正しきをいふ也。この歌の心、さらにかなはず、とめ歌とやいふべからむ。山桜あくまで色を見つる哉花ちるべくも風ふかぬ世に。]
 六つには、いはひ歌、

 この殿はむべも富みけりさき草の
     みつ葉よつ葉にとのづくりせり

といへるなるべし。[これは、世をほめて神につぐる也。この歌、いはひ歌とは見えずなむある。春日野に若菜摘みつつよろづ世をいはふ心は神ぞしるらむ。これらや、すこしかなふべからむ。おほよそ、六くさにわかれむ事はえあるまじき事になむ。] 」

という具合で、結局まったく伝統の違う和歌に無理に『詩経』の六義を当てはめようとしても無理があり、異論を併記する形となり、「おほよそ、六くさにわかれむ事はえあるまじき事になむ。」と締めている。
 『古今集』の和歌は基本的に宮廷の雅語で詠まれたもので、その意味ではすべて「雅」だと言ってもいい。「風」は平安末に後白河法皇によって編纂された『梁塵秘抄』がそれに当たるのではないかと思う。『万葉集』は基本的に宮廷の言葉とやや宮廷言葉の地方訛りのある東歌があるだけで、「風」とは言い難い。雅語の確立される過程の歌と見るべきであろう。
 和歌の場合、賦比興は独立した形式とはならず、一首の中に混在した形をとるため、分類することが難しい。強いて言えば序言葉を用いた歌は「興」と言えるかもしれない。
 この六義のあとに、最初に引用した、

 「上以風化下、下以風刺上、主文而譎諫。言之者無罪、聞之者足以戒。故曰風。」

 (為政者は詩でもって民衆を風化し、民衆は詩でもって為政者を風刺する。あくまで文によって遠回しに諌める。これを言うものには罪はなく、これを聞くものを戒めることもない。それゆえ風という。)

の文章が来る。
 「風」には二種類あることになる。一つは為政者が民衆のために作る民謡。もう一つは民衆が自ら歌う民謡。ただ、日本の歴史では前者はほとんど見られない。『梁塵秘抄』の今様から、地下の連歌を経て俳諧をはじめ様々な庶民文化に至る過程は、貴族の方こそそれに引き寄せられ、取り入れたりしたものの、逆に貴族の作ったものを民衆に浸透させるということはほとんどなかった。それをやるようになったのは明治政府からだ。
 日本に特に風流の道が発達したのは、こうした上流階級から下層文化へのお仕着せがなかったことによるものだろう。そして、それをやるようになってから、風流の道は急速に衰退し、歪んだものとなっていったが、戦後になって大衆文化は急速に復興した。今ではジャパンクールと呼ばれ世界でも高く評価され、それを卑賤視する文化人は段々隅に追いやられていく傾向にある。(続く)

2018年3月11日日曜日

 一昨日の午後からネット上はパヨク界隈の勝利宣言の歓喜の声で沸き返っている。何があったのかはよくわからないが、ある官僚の自殺に関係があるようだ。
 今日は震災の日なのでさすがに報道の方も控えめで、静かになってたようだ。昨日は東京大空襲の日で、これも忘れてはいけない。
 今日は渋谷のふれあい植物センターに行った。そのあと西郷山公園を散歩したが、河津桜や梅もまだ残っている所にコブシ、アンズ、ユキヤナギなどが咲いていた。道端ではタンポポやスミレも咲いていた。目黒川の桜(染井吉野)のつぼみも膨らんでいた。さて、そろそろ本文に。

 「風流」は今の日本語では江戸時代に形成された日本独自の美意識をあらわすのに用いられているが、芭蕉の時代には「俳諧」と同義で用いられることもあった。中世にまで遡るとこの言葉は庶民の様々な芸能を表すのに用いられていた。
 だが、そもそも風流とは何だったのか、そのあたりのそもそも論をほんの少しやってみようかと思う。(「そもそも」という言葉はコトバンク「大辞林 第三版の解説」に「(物事の)最初。起こり。どだい。」とある。今日では議論する際の基礎や根底を意味する文脈で多く用いられる。)
 風流の「風」は風雅の「風」と同様、『詩経』大序でいう「風」に由来する。

 「上以風化下、下以風刺上、主文而譎諫。言之者無罪、聞之者足以戒。故曰風。」(『詩経』大序」)

 (為政者は詩でもって民衆を風化し、民衆は詩でもって為政者を風刺する。あくまで文によって遠回しに諌める。これを言うものには罪はなく、これを聞くものを戒めることもない。それゆえ風という。)

 中国も共産主義になってからは京劇以外の音楽を禁止したり、現実にはなかなかそうはならなかったものの、「言之者無罪、聞之者足以戒」は中国の政治の本来の理想だった。
 『詩経』はウィキペディアに、

「漢詩の祖型。古くから経典化されたが、内容・形式ともに文学作品(韻文)と見なしうる。もともと舞踊や楽曲を伴う歌謡であったと言われる。」

とあるように、もともとは音楽の歌詞だったとされている。日本でも「和歌」は「歌」という文字があるように、本来は節を付けて朗々と吟じられるものだった。
 民謡を「風」と呼ぶのは、ケルトの民謡を「エア」と呼ぶのと似ていて面白い。
 『詩経』の序は小序と大序に分けられている。小序の部分は短い。

 「關雎后妃之徳也。風之始也。故用之鄉人焉、用之邦國焉。風、風也、教也、風以動之、教以化之。」

 (「關雎」の詩は妃の徳であり、風の始まりである。天下を風化して夫婦を正したところからそう呼ばれる。それゆえこれを郷の人にこれを用いさせ、国を治めるのに用いる。風はその字の通り「かぜ」だ。教えだ。形のない風でもって国を動かし、その教えでもって郷の人を教化する。)

 この最初の部分は冒頭の「關雎」の詩の解説になっている。これに対し、これに続く部分は詩一般に関するもので、ここを「大序」という。

 「詩者志之所之也。在心為志、發言為詩。情動於中、而形於言。」

 (詩は志すところのものである。心にあるにを志しといい、言葉にして発すれば詩になる。感情が心の中を動き、言葉となって形を表わす。)

 「詩」と「志」の音の一致でもって、詩は志だという。心にある志と言葉に出せば詩になる。志は心の向うことを言い、理知的な意志に限らず、感情や衝動の向う所も含んで広く心の向うことをいう。そのためこのあと「情」という言葉で言い換えられる。
 感情が心の中を動く状態は「志」であり、それが言葉に表れれば「詩」になる。

 「言之不足、故嗟嘆之。嗟嘆之不足、故永歌之。永歌之不足、不知手之舞之、足之蹈之也。」

 (言うだけでは足りなくて叫ぶ。叫んでも足りなくて歌う。歌っても足りなくて手は舞い、足はステップを踏む。)

 言葉は叫びになり、叫びは歌になる。それがさらにダンスにまで発展する。こうして詩は単なる言葉だけのものにとどまらず、音楽やダンスを含んだ「風」に発展する。「風流」という言葉が様々な芸能を表すのは、「風」の概念が詩だけにとどまらない芸能全般に及ぶ概念だからだ。

 「情發於聲、聲成文。謂之音、治世之音、安以楽。其政和。乱世之音、怨以怒。其政乖。亡国之音、哀以思。其民困。」

(感情は声によって発せられ、声は文章となる。これを音という。良く治まった世の中の音は安らかで楽しい。その政策が平和だからだ。乱世の音は怨みがこもって怒っている。その政策が民衆から乖離しているからだ。亡国の音は悲しくて思い詰めた調子だ。それは民衆が困窮しているからだ。)

 感情が声になった詩文は、政治がうまくいっているかうまくいってないかを反映する。

 「故正得失、動天地、感鬼神、莫近於詩。」

 (故に政治の得失を正し、天地を動かし、鬼神を感応させること詩にまさるものはない。)

 民衆の歌う詩はこうした世論の動向を知る上で重要な指標であり、これを元に政策を修正しなくてはならない。それゆえ、詩は天地を動かし、鬼神を感応させる。
 「動天地、感鬼神(天地を動かし、鬼神を感応させる)」の部分は古今集仮名序の、

 「力をもいれずして、あめつちを動かし、目に見えぬおに神をもあはれとおもはせ、をとこをむなの仲をもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは、歌なり。」

に受け継がれている。

 「先王以是経夫婦、成孝敬、厚人倫、美教化、移風易俗。」

 (先王はこうした詩の持つ力でもって夫婦の道を表し、孝敬の習慣を作り上げ、人々を仲良くさせ、教化を美しいものとし、風を変えることで俗を変えてきた。)

 小序の「關雎」の詩は夫婦の道を正すための最初のもので、これを皮切りに先王は詩を用いて民を教化し、国を治めてきた。その「關雎」の詩はこういうものだった。

   關雎
 關關雎鳩 在河之洲
 窈窕淑女 君子好逑

 參差荇菜 左右流之
 窈窕淑女 寤寐求之

 求之不得 寤寐思服
 悠哉悠哉 輾轉反側

 參差荇菜 左右采之
 窈窕淑女 琴瑟友之

 參差荇菜 左右芼之
 窈窕淑女 鍾鼓樂之

 盛んに鳴き交わすミサゴが住んでいる川の中州
 奥ゆかしい淑女は君子が妻にと探す

 水に浮く大小のアサザは左右に流る
 奥ゆかしい淑女を寝ても醒めても欲しがる

 欲しくても手に入らず寝ても醒めても思い悩み
 苦しいよ苦しいよとのた打ち回るばかり

 水に浮く大小のアサザは左右に流る
 奥ゆかしい淑女は琴(きん)や瑟(しつ)を抱く

 水に浮く大小のアサザは左右に流る
 奥ゆかしい淑女に鉦や太鼓を叩いて絡む

 ミサゴは河辺に住み、空中でホバリングしては急降下して魚を捕らえる。英語ではオスプレイという。古代中国では夫婦仲の良い鳥ということで、今でいうオシドリのようなイメージがあったのだろう。
 アサザは睡蓮に似ていて、葉を水に浮かべ、水が流れると左右に動く。そこから浮かれた、落ち着かないというイメージがあったのだろう。
 ミサゴの夫婦仲のよさからよき妻を求める君子を想起させ、アサザの揺れに恋の悩みを重ねる。こうした景物から情を言い興す手法を「興(きょう)」と言う。
 こうした手法はJポップの作詞でもしばしば用いられる。庭に揺れるコスモスの花から老いた父母の優しさを言い興したり、サトウキビ畑をざわわざわわと吹く風から、戦争の迫る風雲急を連想させたり、こういう例はたくさんある。
 そしてこの恋の苦しみをどうすればいいのかというときに、レイプや略奪などという暴力的な手段に出るのではなく、しとやかな淑女の弾く琴の音に、太鼓をたたいて伴奏してやればいい、と説く。
 おそらく古代の歌垣(うたがき)の習慣から発想されたものだろう。古くは歌の掛け合いに始まり、ともに楽器を演奏する方向に発展していったのだろう。いつ始まったとも知れないこの古い平和的な習慣を、先王の道と呼んでいたのだろう。
 音楽で口説くというやり方は、日本の平安貴族も盛んに用いたが、それ以前に万葉の時代の旋頭歌の交換にはじまる和歌の贈答も盛んに行われた。(続く)

2018年3月9日金曜日

 今日は朝から以上に暖かかったが、春の嵐で朝は雨風が強く、その後も小雨の降ったり止んだりで定まらない天気だった。
 北朝鮮にも春は来るのだろうか。できれば雪崩打つような展開を期待したい。
 核開発する国に経済制裁が有効だと証明されるなら、今後の核廃絶運動にも希望をもたらすだろう。
 では「水仙は」の巻の残りを一気に。

 二裏、三十一句目。

   しばらく俗に身をかゆる僧
 飼立し鳥も頃日見えぬなり   路通

 雛から育ててきた鳥も最近見ないな、そういえばあの僧は還俗したんだっけ、さては‥‥

 三十二句目。

   飼立し鳥も頃日見えぬなり
 塘の家を降うづむ雪      泉川

 鳥の姿がないのを雪のせいとした。

 三十三句目。

   塘の家を降うづむ雪
 あけぼのは筏の上にたく篝   亀仙

 塘(つつみ)の家を漁師の家とした。明け方には篝(かがり)火を焚いて漁をする。

 三十四句目。

   あけぼのは筏の上にたく篝
 あかきかしらを撫る青柳    路通

 「筏」の浮かぶ水辺では、春になると柳が美しい。篝火に照らされて赤く照らされた頭を柳の糸が撫でる。春に転じることで花呼び出しになる。「あかきかしら」は酔った人にも取り成せることまで計算しているか。さっ、ここは芭蕉さん、おひとつ‥‥。

 三十五句目。

   あかきかしらを撫る青柳
 華さけり静が舞を形見にて   芭蕉

 静(しずか)は静御前で、文治二年(一一八六)四月八日、頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられたことはよく知られている。ただ、季節としては卯の花の頃ではあっても桜の季節ではない。
 『吾妻鏡』では義経と吉野山で別れたことが記されているが、これは雪の季節。謡曲『二人静』は静御前の舞をドッペルゲンガーのように二人で舞う幻想的な能だが、これも正月七日の若菜摘みの時のことになっている。静御前の死についてはいろいろな伝承があり、終焉の地とされている何箇所かの場所には静桜という桜があるが、これもいつ頃からなのかよくわからない。
 それでも静御前の舞には桜の花が似合うといわれれば、誰しもうなづいてしまうところがある。別に本物の静御前の舞を見たわけではなくても、何となくイメージとして華やかで、満開の桜が似合いそうな気がしてしまう。
 静御前の舞を形見にして桜の花が咲き、花見に酔いしれる赤い顔を柳の枝が撫でる。花の下では静御前が舞っているかのような幻想を見せる、芭蕉の幻術と言っていいだろう。
 ちなみに『義経千本桜』はウィキペディアによれば延享四年(一七四七)初演なので、かなり後のことだ。

 挙句

   華さけり静が舞を形見にて
 うぐひすあそぶ中だちの声   李沓

 花の下の舞を祝言(結婚式)の余興としたか。鶯の歌う中、仲人さんの声がする。

2018年3月8日木曜日

 今日は一日雨。3月8日は鯖の日らしい。
 それでは「水仙は」の巻の続き。

 二十九句目。

   朽たる舟のそこ作りけり
 唐人のしれぬ詞にうなづきて  泉川

 「唐人」をネットで検索するとすぐ出てくる和歌がある。

 唐人(からひと)もいかだ浮かべて遊ぶといふ
     今日そわが背子花かづらせな
                 大伴家持(万葉集)

 曲水の宴を詠んだ歌と言われている。曲水の縁というと盃を流して、それが流れてくる前に即興で詩を詠むというのがよく知られている。漢詩の押韻はしばしば即興での詩の交換など、その場ですばやく韻をふむ能力が要求され、今日のヒップホップのフリースタイルにも似ている。もちろん相手をディスったりはしないが。MCバトルに最も近いのは古代ギリシャの裁判であろう。当時の弁論は韻を踏んでいた。
 盃だけでなく筏を浮かべるというのが実際にあったのかどうかはよくわからない。まあ、川があればそこに船を浮かべて遊ぼうというのは誰でも考えそうなことだ。曲水の宴ではないが『源氏物語』の「紅葉賀」でも、「例の、楽の舟ども漕ぎめぐりて、唐土、高麗と、尽くしたる舞ども、種多かり。楽の声、鼓の音、世を響かす。」と、川に船を浮かべて遊んでいる。
 前句の「朽たる舟のそこ作りけり」から、曲水の宴のために舟を修理したとし、唐人も何やらしきりに頷いているが、中国語なのでよくわからない、という所だろう。

 三十句目。

   唐人のしれぬ詞にうなづきて
 しばらく俗に身をかゆる僧   芭蕉

 これは明の滅亡によって亡命して日本にやってきた儒者に感化されて、ということか。朱舜水と水戸光圀公との交流はよく知られている。多分こういう人が何人もいたのだろう。

2018年3月7日水曜日

 今日は寒さが戻ってきた。一日どんよりと曇っていた。
 それでは「水仙は」の巻の続き。

 二十三句目。

   いはぬおもひのしるる溜息
 元ゆひのほつれてかかる衣かつぎ 路通

 「元ゆひ」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「髪の根を結い束ねるのに用いる紐(ひも)のこと。「もっとい」ともいう。平安時代の垂髪に用いたことが絵巻物でみられるが、身分の低い者は、髪の乱れを防ぐ意味から用いていた。古くは糸やこよりを用いた。垂髪が髷(まげ)をつくる髪形に転じてから、こよりにさまざまの変化を生じ、幅の広い平(ひら)元結は髪飾りとして用いられた。」

とある。
 「衣かつぎ」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 「平安時代ごろから、上流の婦人が外出するとき、顔を隠すために衣をかぶったこと。またその衣や、それをかぶった女性。中世以降は単衣(ひとえ)の小袖(こそで)を頭からかぶり、両手で支えて持った。」

 画像で見ると顔を隠すというよりは髪の毛を隠すような形で、日除けの意味もあったのだろう。覆面ではない。
 一句は前句の溜息をつく女性の外見を描写しただけともいえる。二句合わせて恋になる。

 二十四句目。

   元ゆひのほつれてかかる衣かつぎ
 人のなさけをほたに柴かく   芭蕉

 「ほた(榾)」は古語辞典には「燃料となる木の株や朽ち木」とある。
 元結のほつれた女性を何か分けありと見て、田舎の住人が情けを掛け家に迎え入れ、薪となる榾を探しに柴刈りに行く。

 二十五句目。

   人のなさけをほたに柴かく
 語つつ萩さく秋の悲しさを   亀仙

 季節を秋に転じる。秋の夜長を語り明かすほのぼのとした世界。

 二十六句目。

   語つつ萩さく秋の悲しさを
 陀袋さがす木曾の橡の実    路通

 この年の前年の秋、芭蕉は越人と荷兮の使わした奴僕と六十斗(むそぢばかり)の道心の僧とともに姨捨山の月を見に行き、そこで、

 木曾のとち浮世の人のみやげ哉 芭蕉

の句を詠んでいる。この橡の実は荷兮への土産で、三月に出版される『阿羅野』には、

     木曽の月みてくる人の、みやげにとて杼(とち)の
     実ひとつおくらる。年の暮迄(くれまで)うしなはず、
     かざりにやせむとて
 としのくれ杼の実一つころころと     荷兮

の句が掲載されている。
 路通も芭蕉が荷兮に橡の実をお土産に持って帰った話を知っていて、その情景を付けたのであろう。楽屋落ちという感じもする。『阿羅野』が公刊された後なら、ああそういうことかとわかる。

 二十七句目。

   陀袋さがす木曾の橡の実
 月の宿亭主盃持いでよ     芭蕉

 『更科紀行』に、

 「いでや月のあるじに酒振(ふる)まはんといへば、さかづき持出(もちいで)たり。よのつねに一めぐりもおほきに見えて、ふつつかなる蒔絵をしたり。」

とあるが、この文章がいつ頃書かれたのかはよくわからない。ただ路通の句に、実際に姨捨の宿に泊った時のことを思い出して付けたのだろう。こういうふうに実体験を句にすることは珍しい。近代の連句ではどうか知らないが。
 いずれにせよ、この句は芭蕉の体験としてではなく、あくまで前句と合わせてこの句がどういう意味を持つかが重要で、橡の実はかつて食用にされていたので、酒の肴にしようと頭陀袋の中に「確か橡の実があったな」と探す場面とした方がいいだろう。
 もちろんここでは土産に拾った橡の実ではなく、木曾産のしっかりあく抜きした橡の実であろう。

 二十八句目。

   月の宿亭主盃持いでよ
 朽たる舟のそこ作りけり    李沓

 朽ちた舟の底を直して浮かべるようにしたので、盃を持ってきてくれ、舟の上で飲もう、ということだろう。

2018年3月6日火曜日

 昨日の十八句目は、ちょっと雑に通り過ぎてしまったが、

   猪猿や無下に見残す花のおく
 雪のふすまをまくる春風    路通

 これはやはり散った桜を雪に見立ててという方がいいだろう。猪や猿が見るだけで人知れずに散ってゆく桜。次の句では本物の雪に取り成すことができるように配慮されている。
 「ふすま」は辞書によると八尺または八尺五寸四方の掛布団で、当時一般に用いられた蒲団は袖と襟がついていて、

 蒲団着て寝たる姿や東山    嵐雪

のように蒲団は着るものだった。ふすまにはそれがない。
 今日では「ふすま」というと紙を張った建具の意味で用いられるが、昔は「襖障子(ふすましょうじ)」と言った。
 それでは二表に入り、十九句目。

   雪のふすまをまくる春風
 此石のうへを浮世にとし取て  芭蕉

 此の石は岩屋か何かだろうか。岩の上に庵を構えて儚き世に年老いてゆく。昔は正月が来ると一つ年を取ったので、前句は雪が春風に融けて春が来る様とする。

 二十句目。

   此石のうへを浮世にとし取て
 彼岸にいると鐘聞ゆなり    亀仙

 前句の石を墓石にして、墓参りしながら自分もまた年を取ったものだと嘆いていると、今は亡きあの人の声であるかのように鐘の音が聞こえてくる。彼岸の入りと「彼岸(あの世)に居る」と掛けている。
 年を取り死に近づくのは辛いけど、死んだらあいつにまた会えるのかと慰められる。

 二十一句目。

   彼岸にいると鐘聞ゆなり
 ゆき違う中に我子に似たるなし 李沓

 謡曲『百万』は生き別れた我子を捜す狂女物で、その一節に「これほど多き人の中に。などや我が子の無きやらん。あら。」とあるが、そのイメージを借りてきたか。
 ただ、前句の「鐘」と合わせると、同じ生き別れた我子を捜す狂女物の『三井寺』になる。それに「彼岸にいる」となるとこれはバッドエンド。

 二十二句目。

   ゆき違う中に我子に似たるなし
 いはぬおもひのしるる溜息   泉川

 これは遣り句。前句から大きく違った場面へ展開するのが難しいので、単に我が子を探す人を見て、その思いは溜息でわかる、とだけ付けて逃げる。もちろん恋への転換を計算してのことだろう。

2018年3月5日月曜日

 今日は久々に土砂降りの雨と強風で、春の嵐だった。
 アカデミー賞が下馬評どおりあの半漁人の映画に決まったようで、ひょっとしてナウシカの影響があるのかなと思った。オームのポジションが半漁人になったような気がする。女=自然=神秘主義、男=人工=科学万能主義といったジェンダーのパターンを引き継いでるように思える。
 去年は『美女と野獣』が流行ったが、西洋的にはこれが出典なのかもしれない。逆のパターンというのはあまりない。美女と野獣なら世の男どもは、「なら俺でもOKかな?」なんて期待を抱いたりするが、美男と野獣女だと世の女たちは嫉妬に怒り狂う。だから、結局化け物の世話は女の仕事になってしまう。
 さて、「水仙は」の巻の続き。

 十三句目。

   餅そなへ置く名月の空
 はらはらと葉広柏の露のをと   泉川

 餅と柏は付き物。前にも書いたが、一六四一年頃には端午の節句の柏餅が定着していたので、元禄二年の時代に餅から柏への連想は自然なものだった。
 とはいえ、これは名月の句なので秋になるから、柏餅は登場しない。そのかわりやがて餅を包むであろう柏の葉に、結んだ露の落ちる音を付けている。
 葉広柏は、

 閨の上に片枝さしおほひ外面なる
     葉広柏に霰降るなり
            能因法師(新古今集)

の用例があるが、普通の柏と何が違うのかはよくわからない。地域によってはナラガシワで代用することは前にも書いたが、それともまた違うのだろうか。

 十四句目。

   はらはらと葉広柏の露のをと
 一むれあくる雁の朝啄     亀仙

 朝露というくらいで、露に朝も付き物。「あくる」は夜が明けることか、それとも間隔を開けることか。「あるく」の間違いだという説もある。確かに、刈り終わった水田の落穂を啄ばむときは水に浮いてはいない。歩いてる。

 十五句目。

   一むれあくる雁の朝啄
 折ふしは塩屋まで来る物もらひ 路通

 「物もらひ」は乞胸(ごうみね)とも呼ばれる大道芸人や門付け芸人で、海辺の藻塩を焼く小屋にまでやって来ることもあったのか。人の気配もなく、雁が長閑に餌を啄ばんでいるだけの所に来てもどうかと思うに。

 十六句目。

   折ふしは塩屋まで来る物もらひ
 乱より後は知らぬ年号     芭蕉

 京都で「戦後」というと応仁の乱の後のことだとよく冗談に言われるが、この場合の乱もおそらくそれだろう。
 都が荒れ果てて商売上がったりの芸人が、仕方なく辺鄙な田舎にまでやって来る。都の情報が入ってこないため、年号が何になったかもわからない。

 十七句目。

   乱より後は知らぬ年号
 猪猿や無下に見残す花のおく  泉川

 戦乱の都から避難してきた者が、出家して一人山奥に隠棲する様か。吉野の西行庵を髣髴させる。となると保元・平治の乱の後は知らぬということか。
 猪や猿は花を見るでもなく、何事もなく通り過ぎてゆく。そんな山奥で花を見ながらの隠棲生活で、世俗の年号のことももはやわからなくなった。

 十八句目。

   猪猿や無下に見残す花のおく
 雪のふすまをまくる春風    路通

 舞台を北国の山奥とし、花の奥にはまだ雪が残っていて、それを春風が少しづつまくってゆく。

2018年3月4日日曜日

 今日は暖かかった。近所の梅も河津桜も満開で、まさに春爛漫。こんな日が永遠に続いたらいいなあ、なんて思いながらも昼寝してうだうだと過ごすのであった。
 さて、「水仙は」の巻の続き。初裏に入る。

   仁といはれてわたる白つゆ
 婿入に茶売も己が名を替て    李沓

 前句を「白露」から「仁」に名前を変えたという意味に取り成す。
 茶売りはここではお茶を売り歩く人という意味ではあるまい。おそらく陰間茶屋の男娼だろう。婿入りが決まってそれまでの源氏名の白露を捨て、仁という名前でこれから生きてゆく。
 八句目。

   婿入に茶売も己が名を替て
 恋に古風の残る奥筋       芭蕉

 平安時代の通い婚を想像したのか、夫が妻の家に入り苗字を変えるとした。ただ、芭蕉はまだ奥の細道に旅立つ前なので、陸奥での経験ではない。想像で付けている。
 其角も母方の榎本の姓を名乗っていたし、後に宝井姓に改名したが、これは俗姓で、本来の血統を表す姓ではなく、武家の苗字に準じた苗字帯刀を許されない庶民の姓なのだろう。
 婿養子に入ると苗字が嫁の姓に変わり、その息子もまた母方の苗字を名乗るのは、日本独自の習慣だったのだろう。
 昔の韓国では代理母(シバジ)というのがあって、昔そんな映画のビデオを借りてきて見た記憶があるが、日本人は血統へのこだわりがあまりなく、跡継ぎがいないなら婿をとればいいという発想だった。姓と苗字の違いもそのあたりの血統へのこだわりのなさの反映なのだろう。
 日本の「家」は本当の家ではなく擬制だという議論もある。また、日本では孝より忠が優先されるというのも、そのあたりの文化の差だろう。忠臣蔵でも義士たちは忠を優先して家族を捨てる。
 九句目。

   恋に古風の残る奥筋
 めづらしき歌かき付て覚ゆらん  亀仙

 遠い陸奥のことだから、今では珍しくなった和歌の贈答など古代の風習が行われているのを知り、その歌を書き付けて覚える。
 十句目。

   めづらしき歌かき付て覚ゆらん
 形(なり)もおかしうそだつ賤(しづ)の子    路通

 身分の低いあばら家に住んでいるような貧しい子供が、珍しく和歌に興味を持ち、学ぼうとしている。なかなか殊勝なことだが、上流にあこがれてちぐはぐな格好をしては却って浮いてしまう。
 十一句目。

   形もおかしうそだつ賤の子
 此里に持つたへたる布袴     芭蕉

 布袴(ぬのはかま)は「ほうこ」とも読む。布袴(ほうこ)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」によると、

 「1 布製の括(くく)り袴(ばかま)。裾口の括り緒から指貫(さしぬき)の袴ともいう。
 2 束帯の表袴(うえのはかま)・大口袴の代わりに指貫・下袴を用いた服装。束帯に次ぐ礼装で、朝儀以外の内々の式などに着用した。」

という。
 都落ちした貴族がどこか辺鄙な田舎の里に布袴を伝えたのだろう。その影響を受けて、その土地の子供の着るものがどこかおかしい。
 十二句目。

   此里に持つたへたる布袴
 餅そなへ置く名月の空      李沓

 前句の「持(もち)」を受けて、布袴とともに名月に餅を供える習慣も伝わったとする。

2018年3月2日金曜日

 今日は満月で、暖かい一日だった。春もやや景色ととのう気分だった。
 そろそろまた俳諧一巻を読んでみたくなった。
 旧暦では正月なので、やはりその季節のものをということで、元禄二年の正月、芭蕉が奥の細道に旅立つ三ヶ月前、興行場所は江戸で、それ以上詳しいことはわからない。連衆は当初奥の細道に同行するといわれていた路通と、大垣藩邸の門人たちだという。
 この年の歳旦には、

 元日は田毎の日こそ恋しけれ   芭蕉

の句がある。
 芭蕉は去年の秋に『更科紀行』の旅で姨捨山の月を見に行ったが、田毎の月は田んぼに水が張られ、まだ田植えの行われていない初夏の時期のものだから、見てはいない。
 しかも、田毎の月ではなく「田毎の日」という。初日の出の光が田んぼに映って田毎の日になることを想像したのか。ただこの時期の田んぼは水を張っていない。あくまでも想像の中のものだ。旅の途中のどこかで、水の張った初夏の田んぼに朝日が当たって輝いて見えたという記憶があったのか。道祖神の胸中を騒がせたような句だ。
 さて、何日のどこでかはよくわからないが、興行は路通の発句で始まる。

 水仙は見るまを春に得たりけり  路通

 水仙は冬の終わり、新暦正月の頃から咲いている。それを見ている間に春(旧正月)が来たという句だ。この発句からしても、興行は年が明けてそんなに日の経ってない頃に行われたのだろう。脇も正月の句で応じる。

   水仙は見るまを春に得たりけり
 窓のほそめに開く歳旦    李沓

 「見る間」をそのまんま見る隙間として、「窓のほそめに開く」と展開する。そして第三は猫の日で紹介した芭蕉の句だ。

   窓のほそめに開く歳旦
 我猫に野等猫とをる鳴侘て  芭蕉

 歳旦から猫の恋へと展開する。

   我猫に野等猫とをる鳴侘て
 ほしわすれたるきぬ張の月  亀仙

 昔は月の定座といってもそんな厳密なものではなく、四句目の短句で月を出しても別に問題はなかった。
 春の句に月を出すと朧月になるが、「朧月」という言葉を出してしまうと春に限定されてしまうので、春の季題の入れずに春の月を詠まなくてはならない。その工夫で出てきたのが、「ほしわすれたるきぬ張の月」。
 乾いた絹の白い月は秋の月。湿れば朧の春の月。なかなか考えたものだ。亀仙人の名は伊達じゃない。

   ほしわすれたるきぬ張の月
 槿にいらぬ糸瓜のからみあひ 泉川

 「槿」は「あさがほ」と読む。古代はムクゲのことだったが、江戸時代だと今の朝顔の意味になる。
 絹張りの月を序詞のように解して、干し忘れた洗濯物の絹張りから白い秋の月を導き出す。
 干し忘れた原因は、物干しに朝顔や糸瓜が絡みついていたから、どこか他に干そうと思っているうちに忘れてしまったということか。

   槿にいらぬ糸瓜のからみあひ
 仁といはれてわたる白つゆ  執筆

 ここで執筆の登場となる。連歌では挙句を詠むことが多いが、この頃の俳諧では連衆が一巡したあと、顔見世として登場することも珍しくない。
 朝顔と糸瓜が絡みついてもそれを無理にどかすのでもなく、自然のままにしてゆくこの家の住人を、仁徳のある人とし、白露の清き輝きに喩える。