今日は半月よりやや膨らんだ月が見えた。やはり若干朧になっている。桜の花に月。満月は土曜日だそうだ。
昨日の続きだが、多種多様な人間が集まると、物の見方や考え方の違いから、いろいろ誤解が生じたり、利害がぶつかり合ったりして必ずいさかいが耐えないもので、そうやって罵りあいながらも何となく秩序が保たれている、そういうカオスな世界が作られる。
ただ、そういう人と人とのぶつかり合いや小さな誤解やいさかいで傷つけあうのに耐えられない人というのもいて、単一の価値観や一つの思想に支配された一つの世界を求める人というのは、多分そういう弱さによるのではないかと思う。
2チャンネルのようなカオスな世界を嫌い、フェイスブックやツイッターで、似たり寄ったりの考えの人間だけで集まって、そこだけの仲間内の常識で生きている。フェイクニュースに振り回される人というのはそういう人なのだろうと思う。
それは異質なものを受け入れられない、人間的な弱さなのだろう。
多様性を受け入れるというのは、多少なりとも傷つくことを恐れない強さが要求される。
それでは世間話もこのへんにして、「うたてやな」の巻の続き。
二十九句目。
歌書まよふ秋の碓
捕れ来て田舎の月も白けれど 鬼貫
片田舎で囚われの身となって、月明かりで辞世の歌でも書こうとしたのか。ただ、何分田舎のことなので、書き付けようにも紙も筆もない。石臼に刻み付けようかどうかと迷う。
「白」は「しるし」ではっきりと見えるけどという意味。
三十句目。
捕れ来て田舎の月も白けれど
朔日ながら膾せぬ家 万海
「朔日(ついたち)」は新月の日で、一ヶ月の始まり。「おついたち」と言って商家ではお粥や膾で商売繁盛を祈願したという。
前句の月に朔日を付けるのは違え付けで、満月と新月を対比させ、名月は見えても朔日の膾はないとする。逃げ句と見ていいだろう。
三十一句目。
朔日ながら膾せぬ家
黒餅をふたつならべて旗印 来山
「黒餅(こくもち)」は白字に黒い丸を描いた家紋で、「石(こく)持ち」に通じるというので好まれたという。黒田官兵衛が用いていたことでも知られている。黒餅を二つ重ねた紋は「重ね餅」という。
前句の「膾せぬ家」を武家としたのだろう。
三十二句目。
黒餅をふたつならべて旗印
秣をいるる賤に名のらせ 才麿
秣というと、芭蕉の『奥の細道』の旅の途中、黒羽の桃翠宅での興行の発句、
秣おふ人を枝折の夏野哉 芭蕉
の句も思い浮かぶ。田舎の方の名家なのだろう。
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