2018年3月12日月曜日

 パヨクの凱歌は相変わらずネット上に鳴り響いている。森友文書の改竄問題はマスコミも盛んに取り上げるが、どれも同じバイアスのかかったものばかりで真相はいまひとつはっきりしない。
 マスコミの影響力がどれくらい残っているかにもよるが、五月までに朝鮮半島が大きく動く可能性のあるときに政治的空白が生じてしまうと日本にとっての大きな損失になる。
 まあ、さすがに立憲なんちゃらが政権をとることはありえないが、政変が起きた場合に安倍首相とトランプ大統領との間で築かれた信頼関係がどこまで継承されるかという問題はある。
 それでは昨日の続き。

 歌垣は今でも中国南部から東南アジアにかけての小数民族の間に痕跡をとどめていて、かつては広く東アジア全体で行われていたのであろう。恋は和歌では中心的なテーマを占めているが、中国韓国などの漢詩の文化ではほとんど重視されなくなっていった。その意味では日本の方が前王の道に忠実なのだろう。天皇家が周王朝の子孫だという説も江戸時代まではまことしやかにささやかれていた。
 江戸時代の俳諧では、恋はやや斜に構えたものになったが、昭和の演歌や今日のJポップでも恋の歌が大半を占めている。
 おそらく歌垣は長江文明から来たもので、黄河文明にはなかったのではないかと思う。

 「故詩有六義焉。一曰風、二曰賦、三曰比、四曰興、五曰雅、六曰頌。」

(故に詩に六義有り:一に曰く風,二に曰く賦,三に曰く比,四に曰く興,五に曰く雅,六に曰く頌。)

 いわゆる詩の六義で、このうち「風」「雅」「頌」は詩経の章のタイトルになっているように、風は諸国の民謡、雅は宮廷での儀式の歌、頌は祖霊に捧げる歌と、歌われる場面で分けられている。ここから「風雅」というのは民謡と宮廷の歌とを合わせていう言葉になる。「風流」はもっぱら庶民の芸能やその趣向やトレンドなどを表すことになる。俳諧も俗語の文芸として雅語の和歌連歌と区別され、「風流」と呼ばれることになる。
 「賦」「比」「興」は詩の手法による分類で、「賦」は直接的に相手に語りかける体、「比」は風刺などでよく用いられる、そのものではなく別の物に喩えて語る体、「興」は「關雎」の詩のところで述べたように、他の物から言い興す体を言う。
 「賦」は後に詩よりもやや散文的な文章として独立したジャンルになって行った。
 西洋かぶれの文学者は賦=直叙、比=比喩、興=隠喩と西洋の概念に単純に当てはめてゆくことが多い。まあ、基本的に東洋の伝統の独自性なんてものにははなから興味がないのだろう。
 『古今集』の真名序には、「和歌有六義。一曰風、二曰賦、三曰比、四曰興、五曰雅、六曰頌。」とあり、完全に『詩経』のコピペになっている。これに対し仮名序の方は、

 「そもそも、歌の様、六つなり。からの歌にも、かくぞあるべき。
 そのむくさの一つには、そへ歌。おほさざきのみかどを、そへたてまつれる歌、

 難波津にさくやこの花冬ごもり
     今は春べとさくやこの花

と言へるなるべし。
 二つには、かぞへ歌、

 さく花に思ひつくみのあぢきなさ
     身にいたつきのいるも知らずて

といへるなるべし。[これは、ただ事に言ひて、物にたとへなどもせぬもの也、この歌いかに言へるにかあらむ、その心えがたし。五つにただこと歌といへるなむ、これにはかなふべき。]
 三つには、なずらへう歌、

 君に今朝あしたの霜のおきていなば
     恋しきごとにきえやわたらむ

といへるなるべし。[これは、物にもなずらへて、それがやうになむあるとやうにいふ也。この歌よくかなへりとも見えず。たらちめの親のかふこのまゆごもりいぶせくもあるかいもにあはずて。かやうなるや、これにはかなふべからむ。]
 四つには、たとへ歌、

 わが恋はよむとも尽きじ荒磯海の
     浜のまさごはよみつくすとも

といへるなるべし。[これは、よろづの草木、鳥けだものにつけて、心を見するなり。この歌は、かくれたる所なむなき。されど、はじめのそへ歌とおなじやうなれば、すこしさまをかへたるなるべし。須磨のあまの塩やくけぶり風をいたみおもはぬ方にたなびきにけり、この歌などやかなふべからむ。]
 五つには、ただこと歌、

 いつはりのなき世なりせばいかばかり
     人のことのはうれしからまし

といへるなるべし。[これは、事のととのほり、正しきをいふ也。この歌の心、さらにかなはず、とめ歌とやいふべからむ。山桜あくまで色を見つる哉花ちるべくも風ふかぬ世に。]
 六つには、いはひ歌、

 この殿はむべも富みけりさき草の
     みつ葉よつ葉にとのづくりせり

といへるなるべし。[これは、世をほめて神につぐる也。この歌、いはひ歌とは見えずなむある。春日野に若菜摘みつつよろづ世をいはふ心は神ぞしるらむ。これらや、すこしかなふべからむ。おほよそ、六くさにわかれむ事はえあるまじき事になむ。] 」

という具合で、結局まったく伝統の違う和歌に無理に『詩経』の六義を当てはめようとしても無理があり、異論を併記する形となり、「おほよそ、六くさにわかれむ事はえあるまじき事になむ。」と締めている。
 『古今集』の和歌は基本的に宮廷の雅語で詠まれたもので、その意味ではすべて「雅」だと言ってもいい。「風」は平安末に後白河法皇によって編纂された『梁塵秘抄』がそれに当たるのではないかと思う。『万葉集』は基本的に宮廷の言葉とやや宮廷言葉の地方訛りのある東歌があるだけで、「風」とは言い難い。雅語の確立される過程の歌と見るべきであろう。
 和歌の場合、賦比興は独立した形式とはならず、一首の中に混在した形をとるため、分類することが難しい。強いて言えば序言葉を用いた歌は「興」と言えるかもしれない。
 この六義のあとに、最初に引用した、

 「上以風化下、下以風刺上、主文而譎諫。言之者無罪、聞之者足以戒。故曰風。」

 (為政者は詩でもって民衆を風化し、民衆は詩でもって為政者を風刺する。あくまで文によって遠回しに諌める。これを言うものには罪はなく、これを聞くものを戒めることもない。それゆえ風という。)

の文章が来る。
 「風」には二種類あることになる。一つは為政者が民衆のために作る民謡。もう一つは民衆が自ら歌う民謡。ただ、日本の歴史では前者はほとんど見られない。『梁塵秘抄』の今様から、地下の連歌を経て俳諧をはじめ様々な庶民文化に至る過程は、貴族の方こそそれに引き寄せられ、取り入れたりしたものの、逆に貴族の作ったものを民衆に浸透させるということはほとんどなかった。それをやるようになったのは明治政府からだ。
 日本に特に風流の道が発達したのは、こうした上流階級から下層文化へのお仕着せがなかったことによるものだろう。そして、それをやるようになってから、風流の道は急速に衰退し、歪んだものとなっていったが、戦後になって大衆文化は急速に復興した。今ではジャパンクールと呼ばれ世界でも高く評価され、それを卑賤視する文化人は段々隅に追いやられていく傾向にある。(続く)

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