2018年3月6日火曜日

 昨日の十八句目は、ちょっと雑に通り過ぎてしまったが、

   猪猿や無下に見残す花のおく
 雪のふすまをまくる春風    路通

 これはやはり散った桜を雪に見立ててという方がいいだろう。猪や猿が見るだけで人知れずに散ってゆく桜。次の句では本物の雪に取り成すことができるように配慮されている。
 「ふすま」は辞書によると八尺または八尺五寸四方の掛布団で、当時一般に用いられた蒲団は袖と襟がついていて、

 蒲団着て寝たる姿や東山    嵐雪

のように蒲団は着るものだった。ふすまにはそれがない。
 今日では「ふすま」というと紙を張った建具の意味で用いられるが、昔は「襖障子(ふすましょうじ)」と言った。
 それでは二表に入り、十九句目。

   雪のふすまをまくる春風
 此石のうへを浮世にとし取て  芭蕉

 此の石は岩屋か何かだろうか。岩の上に庵を構えて儚き世に年老いてゆく。昔は正月が来ると一つ年を取ったので、前句は雪が春風に融けて春が来る様とする。

 二十句目。

   此石のうへを浮世にとし取て
 彼岸にいると鐘聞ゆなり    亀仙

 前句の石を墓石にして、墓参りしながら自分もまた年を取ったものだと嘆いていると、今は亡きあの人の声であるかのように鐘の音が聞こえてくる。彼岸の入りと「彼岸(あの世)に居る」と掛けている。
 年を取り死に近づくのは辛いけど、死んだらあいつにまた会えるのかと慰められる。

 二十一句目。

   彼岸にいると鐘聞ゆなり
 ゆき違う中に我子に似たるなし 李沓

 謡曲『百万』は生き別れた我子を捜す狂女物で、その一節に「これほど多き人の中に。などや我が子の無きやらん。あら。」とあるが、そのイメージを借りてきたか。
 ただ、前句の「鐘」と合わせると、同じ生き別れた我子を捜す狂女物の『三井寺』になる。それに「彼岸にいる」となるとこれはバッドエンド。

 二十二句目。

   ゆき違う中に我子に似たるなし
 いはぬおもひのしるる溜息   泉川

 これは遣り句。前句から大きく違った場面へ展開するのが難しいので、単に我が子を探す人を見て、その思いは溜息でわかる、とだけ付けて逃げる。もちろん恋への転換を計算してのことだろう。

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