桜は都内で五分咲き、このあたりでは三分咲きといったところか。
昼間も時折ポツリポツリと気象庁の記録に残らないような雨が降ったし、夜になると本降りになった。
それでは「うたてやな」の巻の続き。
十一句目。
常は橋なき野はづれの川
ぼとぼとと楮たたいて濁す水 補天
楮(こうぞ)は和紙の原料で、和紙を作るにはいくつかの過程があり、ネットで調べれば詳しく載っている。刈り取った楮をまず蒸して、皮を剝ぐ。この剝いだ皮のほうを使う。皮を干し、再び煮てから水に晒して不純物を取り除く。こうして綺麗になった皮の黒い部分を取り除き、再び煮込んで水に晒し、さらに不純物を取り除く。それから叩いてほぐし、それに水とトロロアオイから作ったネリを加えて漉いて紙にする。
「ぼとぼとと楮たたいて」というのはこの叩いてほぐす過程をいう。ただ、叩くだけでは水が濁らないので、その前の工程の水に晒して不純物を取り除く過程で水が濁っていたのだろう。
橋のない野のはずれの川では、こういう作業が行われていることもあったのだろう。
十二句目。
ぼとぼとと楮たたいて濁す水
むなしくさげてかへるもんどり 来山
「もんどり」はここでは漁具のことで、網に漏斗状の入口があり、入ったら出られなくなる罠のことをいう。
製紙作業で水が濁って魚が逃げてしまったのか、仕掛けたモンドリは空っぽで、むなしく下げて帰る。
十三句目。
むなしくさげてかへるもんどり
我宿の菊は心の節句なる 西鶴
菊の節句だから、これは九月九日の重陽の句だろう。菊の酒を飲んだりする。酒を飲む以上、肴も必要で、それでもんどりを仕掛けて魚を取ろうとしたのだろう。
「節(せち)」には今日でも正月料理を「御節(おせち)」というように、ご馳走の意味もある。我が宿では菊の酒さえあればご馳走は心の中だけで十分だ、とちょっと強がって言っているのだろう。
十四句目。
我宿の菊は心の節句なる
こがるるかたに三ヶ月の端 瓠界
菊はここでは娘の名前で「お菊さん」。「節句」も比喩で、心は節句のようにはしゃいでるという意味に取り成し、恋に転じる。
「菊」は秋の季語なので、ここで秋の季語を入れなくてはならないから三日月を出す。前句の重陽を捨てているので九日の月でなくてもいい。愛しい人はあの三日月の方向、つまり西の方にいるのだろう。
菊を娘の名に取り成すというと、『炭俵』の「むめがかに」の巻に、
御頭へ菊もらはるるめいわくさ
娘を堅う人にあはせぬ 芭蕉
の句があるが、これは元禄七年の春なので、この「うたてやな」の巻が元禄三年の春だから四年早い。こういう取り成しはよくあったのかもしれない。
十五句目。
こがるるかたに三ヶ月の端
虫はなせそれも泪の夜物ぞや 鬼貫
前句を逢いたくても逢いにいけない箱入り娘の句にして、同じ籠に囚われている鈴虫か何かに同情して、放してやれと言う。虫も「泣く」ように私と同じ夜に鳴いている者だから。
十六句目。
虫はなせそれも泪の夜物ぞや
とへどもこひをしらぬ木法師 万海
前句の「虫はなせ」を「虫放せ」ではなく「虫は何故(なぜ)」に取り成して、虫は何で泣いているのかと法師に問いかける。虫も恋して、雄が雌を引き寄せるために鳴いているのだが、恋に疎い木石のような心の法師は答に窮する。
十七句目。
とへどもこひをしらぬ木法師
鉈かりに行まい筈が近隣 来山
「木」に「鉈」の縁で付ける。鉈を借りに、普通なら行くはずのない近隣の家に行く。前句の「とへども」は「問えども」から「訪えども」に取り成され、木法師のもとを尋ねるのだが、恋を知らぬ木法師だったとなる。
十八句目。
鉈かりに行まい筈が近隣
火に焚て見よちりの世の花 才麿
これは「夜桜」のことか。鉈を借りに行く予定ではなかったが、薪を準備して夜に火を焚けば、闇の夜の花も見える。塵の世は闇ということで「塵の世の花」は「闇の花」ということか。
ただ、江戸時代には一般的には火を焚いて夜桜を観賞する習慣はなかった。それだけに満開の桜と満月が重なる日は貴重だったが、滅多に花と月が揃うことはなかった。
夜桜が本格的に広まったのは戦後の電気の普及のおかげといえよう。
0 件のコメント:
コメントを投稿