2022年12月30日金曜日

2022年12月29日木曜日

 一年ももうすぐ終わり。
 ウクライナに安倍元首相の暗殺と、今年はこれまでの平和な世界が暴力によって踏みにじられ、滅茶苦茶になってしまった年だった。
 来年こそはこの暴力が止み、平和な世界を取り戻すことができますように。久しぶりに言うけど鈴呂屋は平和に賛成します。

 はかいしにかばねをつみの年暮れぬ

 昨日の続き。
 それならこうした贈与と相互抑制による冷たい社会がどのようにして熱い社会に移行していったか、それを少し考えてみることにしよう。
 もちろんこの変化は必然ではない。実際二十世紀まで冷たい社会は地球上のあちこちに残っていた。そして、それが西洋の学者たちに発見された頃から、彼らもまた急激な変革を迫られることになった。
 ほぼ全裸に近い格好で弓矢を引いてたコイサン人は、ナイキのウエアを着て銃を手にするようになった。彼らは貨幣経済を認め、交換によってこうした物を手にするようになった。
 だが、こうした外圧がなかった時代には、変化は急激でなかったに違いない。
 変革の要因となったのは、おそらく余剰人口の問題であろう。
 二十世紀まで残った冷たい社会は、砂漠であったり極度の密林であったり、そうでなければ極寒の地であったり、過酷な環境に暮らす人たちだった。
 豊かな地域ではそれだけ大きな人口増加圧が生じる。それは二つのことを生み出す。
 一つは慢性的な戦争状態であり、もう一つは何らかの理由で共同体を追放された人たちが、狩猟のテリトリーを持たずに何等かのサービスによって生計を立てる呪術師の道を歩むということで、相互贈与でない最初の交換は後者から生まれたと考えられる。
 慢性的な戦争状態は、例えば隣の集落へ行って一人殺して帰って来れば成人として認められるというようなものもあれば、全面的な戦争になる場合もある。当然ながら殺された方の遺族はどのような理由であれ納得できるものではなく、恨みと報復の連鎖を生み出す。結果的にそれによって人口は一定に保たれることになる。
 その一方で、呪術師は何らかのサービスを提供することで、その代償に食料を得ることになるが、この取引はもはや相互贈与ではない。
 呪術師は絶えず移動し、村落共同体と永続的な関係を持つわけではない。そこで初めて一回限り、あるいは数回限りの臨時の相互贈与が行われ、これが商取引の起源となる。
 呪術師は病気の治療もすれば歌や踊りや物語などの娯楽も提供する。これらは一定時間の労働に対する対価を貰うわけではない。病気の治療は出来高払いだろうし、芸能の報酬も基本的に面白ければということになる。
 食料や生活必需品は基本的に村落共同体の中で自給できている。それは個人個人の自給自足ではなく、村落内部の相互贈与によって自給されている。呪術師への報酬はその余剰に限られる。そこでの交換価値もまた病気を治してもらった嬉しさや芸能を見ての感動から決定される。
 労働が取り引きされるようになるのは、大規模な灌漑農法が発明され、そのための大規模な工事が必要になってからであろう。あるいは永続的な戦争状態の中で傭兵の需要が生じたかもしれない。
 呪術師たちがやがて大きな集団をつくるに至るようになると、その中から先頭に特化する集団が出てきてもおかしくない。そうなると、少人数だと戦争の助っ人にすぎないが、それが戦闘集団となると村全体を逆に支配することが可能になる。
 最初は山賊のように村を襲っては略奪するだけだったかもしれないが、やがて略奪して村を滅ぼすよりも、村人を生かしておいて奴隷にするという知恵が働くようになる。こうして原始的な国家が誕生することになる。
 そして国家が巨大になり、大河の流域を専有できるようになると、そこに灌漑農法が可能になる。
 こうした武力(暴力)による支配はもちろん等価交換にはならない。生殺与奪権の掌握によって有無を言わせぬ労働と搾取が可能だからだ。そこにはまだ社会契約は存在しない。
 呪術師集団はやがて巨大化し、軍事や灌漑などを取り仕切り、強制労働と搾取を繰り返すうちに、より利益を上げる方法をまた模索しだす。その過程で交易という概念が生まれたのではないかと思う。
 また同じように生産性を高めるための支配者集団の中から、新しい技術の開発が行われ、そこに職人集団が生まれたと考えられる。
 古代の日本を見ても、職人集団は天皇の供御人として非課税と諸国往来自由などの特権を持っていた。
 そして、貨幣が誕生するのはそれよりも後になる。

2022年12月28日水曜日

 狩猟採集民族の完全平等社会が原始共産制と呼ぶべきものであるなら、その社会の原理は極めてシンプルで、誰かがより多く持つことで生じる嫉妬を極力回避する状態と言って良い。
 現代社会でもそうだが、嫉妬はしばしば犯罪、それも殺人などを引き起こす。警察も自警団もない原始的な社会では殺人を誰かが寝込みをゴツンとやることを防ぐのは難しい。だから嫉妬を買わないように自制するというのが天寿を全うするための道になる。
 それでも嫉妬による殺人事件はしばしば起こる。その最大の原因が恋であるのは容易に想像がつくだろう。
 モーガンが思い描いてエンゲルスも支持した原始乱婚制がなぜ成立しないかというと、乱婚制は持てる男の一人勝ちになってしまうからだ。当然ほかの男は嫉妬する。殺人事件が後を絶たない。だから平等に分配する必要があった。それゆえ一夫一婦制に落ち着くことになる。
 それでもなかなか意中の異性と結婚することは難しい。ある程度の不倫は容認されたとしても、それはそれでやはり持てる男と持てない男の差ができてしまう。嫉妬の炎を消すことは火事を消すより難しい。
 こうして一見平和のように見える共同体、誰もが平等で誰もが幸せなのかというとそうではなかった。そこはいつでも嫉妬の炎がめらめら燃えていて、それが時折爆発しては殺人を生む。殺人は遺族の恨みを残し、復讐心を生む。こうして村は解けることのない呪いがかかったように常に嫉妬と復讐の炎に包まれている。これが原始共産制だ。
 こうした中で狩った獲物を自慢したり、弓矢の腕を誇ったり、手先の器用さを自慢しようものなら、古い言葉だが総スカンを喰らう。その能力が原因で女にもてたりしようもんなら、たちどころに嫉妬の標的となる。事を荒立てないように、みんな気を遣っている。
 謙譲の美徳というのはこういう社会では当たり前のことだった。我が国の神道の基本もまた天地自然の不測の力を恐れ、身を慎むことに尽きる。嫉妬もまた自然の力の一種と言って良いだろう。
 さて、こう考えてみると、交換価値の源泉は感情的な「羨望」によるもので、羨望が強ければ強いほど、それを与えられた時にその人を縛る力が強くなる。
 例えばヤクザにロレックスの時計を貰ったということは、同時にその時計の代償に組員として働けということで、その際の労働時間の取り決めも何もない。
 おそらく、一度貰ったが最後で、その後は様々な脅迫によって一生組に縛り付けられ、それを断ち切るには指一本を代償として支払うことになる。
 贈与は感情との交換だから、それは人格的なもので、その返済には同等の羨望を満たしてやるか、そうでなければ人格を削る必要がある。
 余談だが、桃太郎の吉備団子も労働契約ではなく、ヤクザのロレックスと同様のものと考えた方が良い。「吉備団子一個でやってられるか!」といった言ったパロディは労働契約の考え方によるもので、本来は唱歌に「一つ私に下さいな」とあるように、禽獣が人間の生産物にと対して羨望を持つ所から始まる主従関係の契りだった。
 最初の原始的な交換価値が羨望によるものなら、当初からそれは希少価値と密接な関係があるし、他人の女房に羨望を抱くなら、その時点で交換価値は性的である。
 例えば村を訪れたゆきずりの旅人に女房を抱かせてやるといった贈与も、いろいろな所で見られる。これは最も原始的な「性の商品化」と言って良いだろう。
 古典経済学が二次的なものと見做した希少価値や精神的価値は、むしろ経済の原初から存在していたと言って良いのではないかと思う。
 羨望が交換価値の基礎にあると考えるなら、今の巨大化した消費性向も実は羨望の体系であることが理解できる。レアアイテムのみならず、人々は常に羨望の的を生み出しては、自らも同等な羨望を集めようと凌ぎを削る。それが芸能、スポーツ、YouTubeであったりする。
 レビ・ストロースは社会を「冷たい社会」と「熱い社会」に分けたが、冷たい社会は羨望を抑制するために生産を最低限に留める社会であり、熱い社会は羨望を満たすために生産性を高めて行く社会と言って良いだろう。
 ならば、剰余価値を搾取と見做して単純再生産へと引き戻す革命は、熱い社会を冷たい社会に変えるという意味を持つことになる。労働者が生活に最低限必要なものを価値の源泉に置くならそういうことになる。
 つまり、そこにあるのは科学的社会主義ではなく原始共産制だ。これがマルクスの意図ではなかったのは明白だ。

2022年12月27日火曜日

 晴れた良い天気が続いている。月も三日月から少しづつ太くなってゆく。

 さて労働価値説だが、着想としては石高のような発想で、穀物はどこでも作っていてどこでも消費される商品であり、その生産量や価格などの統計も取りやすいことと、それに要する労働量がどこでも大差ないということから、一人の農夫が作る穀物の価値を交換価値の尺度にできないか、というものだったということが想像できる。
 アダム・スミスの『国富論』第六章で、その労働価値説が展開される。

 「元本と蓄積と土地の専有に先立つ初期未開の状態にとどまる社会では、さまざまなものを獲得するために費やされた労働量の比率が、それを交換する際のルールになりうる唯一の事情であった、と思われる。」

 これは推測であり、検証はされていない。
 二十世紀に入ってアフリカなどの狩猟民族社会に文化人類学者が入り込んで調査をするようになると、こうした社会の実態は近代人の想像とはかなり異なるものだったことが明らかになった。
 近代人が思い描いたようなロビンソン・クルーソーのような自給自足の生活はそこにはなかった。
 あったのは徹底した贈与によって相互依存する社会だった。
 たとえばコイサン人(昔はブッシュマンと言った)は単独狩猟で生計を立てているが、借りに必要なさまざまなものを狩人が自分で作ることを禁じ、すべて共同代の他のメンバーに作ってもらわなくてはならず、仕留めた獲物もすべて分配しなくてはならない。
 彼らは徹底的な出る杭は打たれる社会で、狩の腕前を自慢したりするのもNG。狩が上手くて人よりたくさん獲物を獲れそうになると、サボって調整しなくてはならない。
 狩りの道具でも上手い下手は仕方がないものとしても、その道具は順繰りに全員が使うようになっていて、とにかく条件に差ができないように苦心している。
 こうした徹底した平等主義は、集団狩猟をやるムブティ族(旧名ピグミー)でも共通していて、それぞれの労働に応じた交換ではなく、あくまで全員が労働して全員で消費する社会だった。
 根底にあるのは贈与を受けると負債が生じ、それを返さなくてはならないというルールで、既に完全平等主義の均衡の破れた社会においてはモースが『贈与論』で論じたような、時として競覇型の贈与(ポトラッチ)が行われていた。
 単純に言えばより多く与えたものがより多く恩を着せることができるということで、最近はあまり見ないが、昭和の頃の日本でも酒代を俺がおごる、いや俺がといった小さなポトラッチが行われていた。
 完全平等社会はこうした贈与による恩が即時に返済される状態で、これによって平等が維持されていた。これに対して返済が滞って、恩を受けたままの状態が長引けば、その社会は不平等なものになり、主従関係が生じ、階層が生じてゆくことになる。
 昭和のヤクザの世界でも、堅気の物を引き入れる時には必ず高価な贈与を行う。これによって恩にしばれれてずるずると深みにはまってゆくことになる。これを防ぐには、ヤクザから贈り物を受けた時は必ず同額の品をお返しするというのが基本だった。
 日本の社会ではこうした贈与による恩のやり取りはかなり残っている。御祝儀や香典の半返しの習慣なども、基本的には贈与による恩着せによる支配を防ぐというのが基本にあったのだろう。
 西洋では早くからそれが廃れてしまったのであろう。
 原始的な経済は交換ではなく、まず贈与から始まる。贈与を受けた時、それと同等の価値の物を返済できないと、やがては生殺与奪権を相手に与えることになる。この返済の際の同等性が交換価値の起源と言って良いと思う。
 一人の狩人が弓矢や衣類や狩りに必要なさまざまなものを村の多くの人からそれぞれ受け取り、仕留めた獲物をお世話になった人全員に分配するとき、受けた恩と返済する獲物は等価と見なすことができる。ただ、それは一対一の取引ではなく、個と全体との取引になる。

 「たとえば、狩猟に従事する人々の間で、ビーヴァーを仕留めるのに要する労働が、鹿を仕留める労働の二倍手間がかかるのが普通だとすれば、当然の帰結として、ビーヴァー一匹は鹿二頭と交換される、つまり、それと等価値でなければなるまい。」

といった取引は、ある程度商業の発達した段階で生じるもので、商業の未発達な時代はこのような等価交換は行われなかった。
 ビーヴァーを仕留めようが鹿一頭仕留めようが、それと等価になるのは、その狩猟に要した村全体の労働に他ならない。
 誰が何を仕留めようが、それらはすべて村全体の労働と等しい。誰かがビーヴァーを持って帰り、他の人が鹿を持って帰って来たとしても、それは等価として扱われなくてはならない。なぜならビーヴァーの特別な価値を認めてしまうと、そのハンターが特別な存在になってしまい、完全平等の原則が崩壊するからだ。
 こうした不平等の萌芽を防ぐには、ビーヴァーが村にとってもし特に価値のあるものだとしたら、一度獲ったらしばらくは価値の低いものを獲るようにして調整するか、あるいは狩りを休むかということになるだろう。
 こうした平等社会では、能力のあるものもないものも絶対的に等価として扱わなくてはならない。腕のいい狩人は狩りの労働時間を減らすことで調整され、腕の良い弓の造り手や腕の良い矢の造り手も同様、村への貢献度が等価になるように労働時間を減らさなくてはならない。
 こうして狩猟社会は一日二時間程度の労働という所に落ち着いていたようだ。常に生産性の低い人に合わせて、労働時間を減らして行くわけだが、それでも生存に問題はなかった。
 したがって、

 「通例二日または二時間の労働で生産されるものが、通例一日または一時間の労働で生産されるものの二倍価値があるということ、これは自然に生じることである。」

とはならない。全員が等価の物を生産するために、各自それぞれ労働時間の方を調整するのが未開式のやり方だ。
 ならばその場合の等価とは何だろうか。それは羨望や嫉妬のない状態と定義した方が良い。

2022年12月26日月曜日

 アダム・スミスの『国富論』の労働価値説の説明を読んでいると、穀物を作る農民の労働に相当する価値に準じて職人の労働の価値を定めて、そこから工業生産物の価値を導き出している。
 ただ、穀物の価値は必ずしも一定してはいない。そこで予防線を引いて、

 「だが、時と所が異なる場合、ある程度正確にそれぞれの労働の一般的な価格を知ることは、まず不可能である。系統的に記録されているわけではないが、穀物の一般的な価格は歴史家や他の著述家に広く知られており、かなりの頻度で注目を集めてきている。したがって我々は、穀物の一般的な価格でおおむね満足せざるをえないのだが、その理由は、これがつねに労働の一般的な価格と同じ比率を保つからではなく、一般的に得られる近似値としてもっともその比率に近いという点にある。」

と言っている。
 今のように様々な生産物やその価格の統計が揃ってなかった時代にあって、穀物価格が一番資料が揃っていたというのが一番の原因だったのかもしれない。
 穀物価格は労働価値を反映するもので、新たな鉱山の発見などで変動する金銀の価格よりは経済の指標として相応しい、というのが労働価値説の最初の動機だったのかもしれない。
 日本で言えば石高を経済の指標とするようなものであろう。石高は新田開発によって増えはするが、その分農民の数も増えるので、一人当たりの米の生産高は一定と見なすこともできただろう。
 機械や農薬などの農業革命以前であれば、どこの国でも穀物の一人当たりの生産高は一定で、石高がその国の豊かさを反映すると見て良く、その石高を商品作物や反物やその他の生産物で代替することも日本では行われていた。その代替の際には、それらの生産に必要な労働が穀物生産に匹敵すると見做すというわけだ。
 穀物の価格を基礎にすれば、金銀の価格もそれを産出する労働に換算でき、他の生産物もそれを製造する労働に換算できる。
 ただ、それは理想状態であり、実際には相場はどれも常に変動する。多分そこで長期的に見れば「見えざる手」により均衡へと導かれるということになるのだろう。
 近代経済学は「長期的に見ればみんな死んでる」というところで、不均衡を常態として、その変動を需要と供給の関係で説明するようになった。
 その一方で古典経済学で起きたのは労働価値説のドグマ化ではなかったか。
 いつの間にか労働価値が独り歩きしてしまって、リカードにおいては穀物や生活必需品の価値は労働者の最低限の生活以上の価値を持たないということになり、マルクスはそれ以上の富は搾取によるものと断罪することになった。
 ただ、拡大再生産によって社会は明らかに豊かになって行った。そして労働者もまたいつしか生活必需品以上の様々な価値を求めるようになっていった。そうなると社会主義革命はそれを破壊して元のぎりぎりの生活に戻すための革命になる。「自然に変えれ」という美名のもとに。
 ただ、マルクスが意図したものが、本当にそこだったのかどうか、やはり『資本論』をきちんと検討する必要があるだろう。マルクスが意図したのか、それとも後のマルクス主義者がドグマ化したものなのかを。

2022年12月22日木曜日

    パソコンは起動するがディスプレイに何も映らない状態になり、とりあえず新しいディスプレイを注文した。今日はタブレットで書いている。
 リカードの「経済学及び課税の諸原理」が青空文庫にあった。まだ最初の方しか読んでない。
 マルクスの失敗は結局古典経済学の労働価値説が足枷になったのかもしれない。
 労働価値説は国民の大半が食うのがやっとという状況下では、経済の分析の無駄を省くのに都合が良かったのだろう。
 労働価値説の例外となる希少価値や芸術などの精神的価値はごく一握りの貴族やブルジョワだけのもので、国民の大半にとって縁のない物である以上、それを除外して議論しても誤差の範囲内で済んだ。
 資本主義の拡大再生産がやがて庶民全体の経済レベルを引き上げるという予想がつかなかったのかもしれない。
 マルクスもその予想がついてなかったとしたら、拡大再生産の持つ可能性に気づかず、それを搾取と見做し、剰余価値をすべて労働者に配分して単純再生産への回帰するのが正しいと信じた可能性もある。
 労働価値説では、生産性の向上は意味をなさない。なぜならいくら生産性が上がったとしても、その生産の総量は労働者のギリギリの生活に必要な物資の価値と等価にしかならないからだ。リカードが短期的には利潤を上げても、長期的には商品価格の暴落を生むと考えていたようだ。
 労働者の欲望は肉体的な欲望であり、空腹を満たして子孫を残すだけの人生であり、それに必要な物量だけが全ての経済的価値を決定するなら、労働者はそれ以上の物を永遠に得ることはないだろう。
 そこでは労働者がいつかはブルジョワのような生活をという望みは断たれる。労働者のみならずブルジョワをその次元の生活に没落させることが社会主義の正義になる。
 マルクスの唯物論は文字通り全ての価値は肉体的欲望から生まれるもので、精神的価値の否定となるなら、なるほど最近の環境テロが芸術を標的にするのもそういうことなのか。
 それは古典経済学の本来意図したものではなかった。希少価値や精神的価値の排除は便宜的なものだったはずだ。だがそれをマルクスが原理主義的に解釈し、生存と繁殖以外の価値を全て否定してしまったとしたら、これほど絶望的な哲学はない。

2022年12月18日日曜日

 今朝、丹沢には雲がかかっていたが、それが晴れると雪が積もっているのが見えた。

 もうすぐ一年も終わりということで、振り返ってみると、今年はまず転居ということで、去年の退職に続いて人生の一つの節目の年だったか。
 先のことはまだわからないけど、まあいろんな意味でこれが限界なのかなと思う一年だった。
 左翼の巣窟だと思って近寄らなかったTwitterとやらを恐る恐る「慢屋小屋」という名前で初めてみたら、そのTwitterのオーナーがマスクさんに変わって、タイミングが良かったというか、まだまだ天も味方しているのか。
 今まで俳句の方の人達との交流は全くなかったが、転居をきっかけに秦野市俳句協会の門を叩いてみたが、これもこれからゆっくりとという所だろう。
 世界の方はロシアのウクライナ侵攻で、これまでの常識が一気にひっくり返った感じがした。
 経済という観点からすれば、戦争は明らかにマイナスで、マクドナルドのある国同士は戦争しないと思ってたら、ロシアが戦争を起こしてマクドナルドが撤退した。
 要するに経済などぶっ壊れてもいいと思う指導者なら、いくらでも戦争を起こせるということだった。
 イスラム圏の国も、かつては共産勢力がいたが、それがやがてイスラム原理主義に傾いて行った。それと似たようなことがロシアにも起きたのだろう。
 社会主義に失敗したが、なおかつ社会主義を捨てきれず、アメリカや西側諸国への恨みに凝り固まった連中は、正教会を中心とするナロッドというドゥーギンの思想に容易に傾いて行った。
 中世回帰のこの哲学は経済なんて物をはなから無視している。
 別に珍しいことではない。日本にだって「貧しくても幸せならいいではないか」なんて言ってる連中はいくらでもいる。昔から新左翼の連中は自然に変えれとばかりに文明否定の主張を繰り返してきた。安藤昌益なんかを担ぎ出して直耕の自然世を作ろうだなんて、間違いなく飢餓を生む。
 社会主義者は人口論の視点を欠いているし、マルサスの人口論をブルジョワ的と批判し続けた人たちだから、奴らに人口論を説明したって無駄なことだ。だが、人口が増えているにもかかわらず生産力が低下すれば飢える。これは火を見るよりも明らかだ。
 マルクスは本来は資本主義の生産力を平等に配分できれば、万人が豊かで争う必要のない理想の社会が作れると思ってたのかもしれない。
 だが何よりも「資本論」はそれを裏切った。資本主義の生産性向上の原動力が拡大再生産にあるにもかかわらず、資本論は剰余価値を労働者に配分しないのは搾取だと言って、剰余価値を拡大再生産に回すのを否定してしまったため、前近代の単純再生産に戻す思想になってしまった。
 人口が増えているのに拡大再生産による生産性の向上を拒むなら、生産力は停滞して飢える。
 大地は有限で無限に人口を増やすことはできない。その時点での生産性から自ずと定員は限られる。これも単純な事実だ。ならば人口を減らせばいいかと、そこへ行き着くとオウム真理教のハルマゲドンと何ら変わらなくなる。
 文明が壊滅し、生き残った僅かな人たちで作り上げるユートピアというイメージは、オウム真理教が出てくる前から新左翼の人達が思い描いてたことだった。そして、イスラム原理主義もロシアの正教会ナロッドも基本的にそういう発想だ。文明を破滅させるのが目的だから、その破壊は徹底的だ。
 日本人の危機感の薄さの一つの原因に、日本はこれだけ豊かで高度な技術を持っているから、日本が侵略を受けてもそれを残そうとして、そんなに手荒なことはしないはずだというのがあると思う。
 だが、今のロシアにそれは通用しない。イスラム国と一緒だ。やつらは豊かさも高度な技術も求めてはいない。生産力が落ちれば人口を減らすまでだ。ウクライナを見ればそれが分る。
 中国もかつての開放政策の時代の幻想をいつまでも見ない方がいい。シージンピンになってから中国共産党は既に経済的な豊かさに興味を失っている。経済が停滞しても周辺の少数民族から人口を削って行けばいいくらいにしか考えてない。ウイグルだけだなく、南モンゴルや朝鮮族にもそれは拡大されている。
 コロナ対策に経済を犠牲にすることを躊躇しなかったことを見ても、シーは既に経済に興味を失っている。
 ちょっと前のマクドナルドのある国同士は戦争をしないという常識なら、日本がたとえ中国に編入されたとしても、今の経済は保証されるという期待はできたかもしれない。でも今は違う。
 資本主義の拡大再生産のメカニズムはいろいろ問題は抱えていても、最も効率的に生産性を高めることができた。これに地球規模での少子化によって人口増加の圧力から世界が解放されれば、そこには素晴らしい未来が約束されているはずだった。
 でも多分どこか根本的な所で間違ってしまった。高度な生産性と人口増加からの解放が世界に広まる前に、そこから取り残された世界の人々が生産性の破壊と虐殺に踏み切ってしまった。
 人類にとってこれが最後の試練かもしれない。これを乗り切れば必ず世界全体が今の先進諸国同様の豊かさと平和を手にする時がくる。それを信じたい。
 そして、ロシヤや中国やイスラム原理主義や、それに同調する世界中の左翼の人達も、いつかその過ちに気付いて、数々の矛盾を克服した新しい本当の資本主義にいきつくことを願わずにいられない。
 まあ、こんな大きなことを言っても、今の俺にはただ誰も読まないブログやTwitterでぶつぶつ独り言を言う以外に何もできないけどね。

2022年12月17日土曜日

 昨日は箱根に行った。午前中は箱根ターンパイクで大観山に行き、芦ノ湖と富士山の眺望を楽しみ、午後から芦ノ湖の西側を少し散歩してから星の王子さまミュージアムのイルミネーションを見た。平和な一日だった。
 写真は大観山からの眺め。

 あと鈴呂屋書庫に「雪おれや」の巻をアップしたのでよろしく。これで談林十百韻が全部そろった。

 そういえばツイッターの方では芭蕉の句を一日八句呟くボットに合わせて、芭蕉になり切ったコメントをするというのをやっているが、その中に、

 七株の萩の千本や星の秋  芭蕉

の句があった。
 千句くらいある芭蕉の発句をランダムに呟くわけだから、確率的に何度も重複する句が出て来るもので、この句はこれが三回目だった。
 一回目は、

「素堂の母の喜寿の祝いを七十七にちなんで七夕にやった。
7人に秋の七草を振り分けて、回って来たのが萩だった。
七株の萩もやがて株を分けて、いつしか千本、八千本となれば、その花はさながら天の川のようだ。
 七株の萩の千本や星の秋  芭蕉」

で、賀歌としての普通の解釈をして、二回目は、

「素堂の母の喜寿のお祝いを七十七にちなんで七夕にやった。
萩の露はさながら地上の星のようで、七株でも満天の星のようになり、拾遺集の、
 空の海に雲の波立ち月の舟
   星の林に漕ぎかくる見ゆ
       柿本人丸
の歌の心だ。
 七株の萩の千本や星の秋  芭蕉」

と別解をしてみたが、三回目は思いつかなくて、山梨のサイトを頼った。
 「山梨県歴史文学館山口素堂資料室」からの引用になるが、

 「いつはむかし、素翁が母七十七歳の秋七月七日に、万葉の秋のなゝ草の小集あり、七もとの草花を誰かれと風狂せし俳の七叟なり。その敬莚は

 七かぶの萩の千もとや星の縁   芭蕉
 けふ星の賀にあふ花や女郎花   杉風
 星の夜よ花び紐とく藤ばかま   其角
 布に煮てあまりぞさかふ葛の花  沾徳
 松江の鱸薄の露の星を釣     嵐蘭
 動きなき岩撫子やほしの床    曾良
 蕣は朝なくの御製哉       素堂  
             《註》…元禄五年の作
 またいつの秋か、其人さへ半ばなくなりにけりとて、星やあふ秋の七草四人なし、と口ずさまれしが、今はためしも其なき数に入ぬ。つらくそのことをおもふに、含飯両頬  ひもいと情厚くもの教へられしに付て其徳百にして一つをも報せず、ひとひ古き皮籠の内をみるに、かひやり捨たる艸紙の一まるけあり。半は往年成し序の草案也。二たび舅氏にあふ心地して、嬉しさも猶哀先だちぬ。さることのさし置がたく、かの手向のはしの一つにもやと、いやしきを忘れ犬馬の労を費し、其まちくの名を拾ひこゝに呈。」

とあった。この素堂の句の「朝なくの」は字足らずで変だが、ひょっとして「朝な/\(朝な朝な)」の反復記号の入力ミスだろうか。
 あと気になるのは、

 朝がほは後水尾様の御製かな   素堂

の句との関係だ。
 このツイットは推測で書いているものが多く、実際同時代の資料がなくて謎の句は推測で物を言うしかないのも確かだ。

「よく覚えてないが、木曾義仲の塚を最初に見た時だったかな。
 三尺の山も嵐の木の葉哉  芭蕉」

というのも、三尺の山で思い浮かぶのが墳墓しかなかったし、季節が冬だから元禄二年に膳所を訪れた時の木曽塚の最初の印象かもしれない、と思った。
 ウィキペディアに、

 「江戸時代になり再び荒廃していたところ、貞享年間(1684年 - 1688年)に浄土宗の僧・松寿により、皆に呼び掛けて義仲の塚の上に新たに宝篋印塔の義仲の墓を建立し、小庵も建立して義仲庵と名付けて再建が行われ、園城寺の子院・光浄院に属するようになった。元禄5年(1692年)には寺名を義仲寺に改めている。」

とあり、元禄二年には既に塚の上に宝篋印塔が立ち、それを守るための庵が建てられていて、芭蕉は幻住庵に入る前にそこに滞在している。
 幻住庵を出た所で木曽塚に無名庵が出来上がっている所から、曲水が芭蕉を住まわせるために仮の庵を本格的な庵に立て直して提供したのではないかと考えられる。
 そこから、

「元禄2年の暮は木曾義仲殿の墓を守るために庵に住まわせて貰った。
菅沼外記はいろいろ便宜を図ってくれるし、大津の智月という尼さんもいろんな物を持ってきてくれる。
貰った琵琶湖名産の氷魚を醤油で煮ておいたので、こんな霰の降る日はどうぞ召し上がれ。
 あられせば網代の氷魚を煮て出さん  芭蕉」

「元禄2年の暮は膳所の木曾義仲の墓を守る庵で過ごした。
東海道がすぐ近くで、膳所と松本と大津宿はほとんどくっついていて人口も多い。
東西の東海道はもとより、琵琶湖から運ばれて来る北国のものや瀬田川を上って来るものなど、市場は見てて飽きない。
用はなくても黒い僧衣のまま出かけてゆく。
 何に此師走の市にゆくからす  芭蕉」

という展開にして、

「菅沼外記から木曾義仲さんのお墓の隣に新しい庵を建設する話が持ち上がった。
それまで外記の伯父の修理定知が建てたという幻住庵にしばらく滞在することになった。
石山寺の裏の国分山にある琵琶湖が見渡せる眺望の良い所で、これから夏の間、椎の木立が日を遮って涼しい風を運んでくれる。
 先たのむ椎の木も有夏木立  芭蕉」

で幻住庵入りとした。
 ただ、

「貞享2年の春に大津に来た時は、木曾義仲の塚は荒れ果てていた。平家打倒の立役者なのに。
貞享5年に再訪したら、そこに新しい墓が建てられ、管理人の庵があった。嬉しかった。
みちのくの旅を終えて来てみると、膳所藩家老の菅沼外記にここに住んじゃえよと言われた。まさか墓の隣に住むことになるとは
 木曾の情雪や生ぬく春の草  芭蕉」

は失敗した。最初の「三尺の山も嵐の木の葉哉」が春に詠んだ冬の句にしないと辻褄が合わなくなる。小説だとプロットのミスということになる。
 もっとも元禄二年の暮に膳所に行く前に、奥の細道の旅の途中で、

「越前から敦賀へ向かう途中の北陸道今庄宿の辺りに燧山があった。木曾義仲の燧ヶ城のあった所だった。
 義仲の寝覚の山か月かなし  芭蕉」

と木曾義仲のことに気を止めているから、その前から木曾義仲のことを気に掛けていたのは確かだろう。落葉の季節ではなくても、荒れ果てた木曾義仲の墓を見たことがあった可能性はある。
 その芭蕉の木曾義仲推しの理由だが、

「平家打倒の功労者は第一に木曾義仲、その次に九郎義経。これは動かしがたい。
頼朝は権謀術作でそれを横取りしただけ。
 義仲の寝覚の山か月かなし  芭蕉」

というふうに推測してみた。上に立つ人間よりも現場で汗水のみならず血を流して頑張った人間をたたえるのは、庶民感情としては普通のことだし、合戦は鎌倉で起きているのではない、現場で起きているんだと言いたいところだ。

「毎年毎年雪が降って雪に埋もれていても、その下で草は生え続けている。
それが木曽で育った木曾義仲の心だ。
 木曾の情雪や生ぬく春の草  芭蕉」

「雪の中でじっと耐えながら春に花咲かせる木曾義仲の木曾魂。
古今集にも、
 雪降れば冬籠りせる草も木も
   春に知られぬ花ぞ咲きける
       紀貫之
の歌がある。
 木曾の情雪や生ぬく春の草  芭蕉」

の句でも木曾義仲へ寄せる思いは確かなものだ。

2022年12月15日木曜日

 昨日は足柄峠に流れ星を見に行った。
 普通の流れ星だけでも二十個以上見たし、大きな長く飛ぶ火球や花火の枝垂れ柳のような火球が見えた。
 2021年1月27日に書いたことだが、『新しい世界 世界の賢人16人が語る未来』(講談社現代新書)のジャレド・ダイアモンドのところで、インタビュアーの方の説に、「トランプに投票した人」と「地元にとどまった人」との相関関係や、同じようなことがブレクジットにもあったという話のことを書いた。
 今のウクライナ戦争の受け止め方も、地元に根を下ろして生活している人からすれば、ロシアが攻めてきても逃げられないという気持ちがあるんではないかと思う。実際自分もそうだ。海外に逃げようにも逃げるあてもないし、難民キャンプに行っても苦労するのは目に見えている。
 外国に一度も行ったことがないから、外国語も喋れないし、外国の習慣も分らない。
 仕事が見つかるかどうかも分らない。条件の悪い奴隷同然の仕事が待っているかもしれない。
 日本に留まる以外に手がないなら、日本を守るしかない。
 これに対して降伏論を唱える連中というのは、どこか俺は世界のどこへ行ってもやってけるんだというのがあるんじゃないかと思う。
 自分はさっさと逃げる気でいるから、国に残された大半の人達がどうなろうと知ったことじゃない。こういう連中に日本の国防が邪魔されていると思うと、いい加減もうやめてほしい。

 それでは「隨縁紀行」の続き。最終回。

  「あまの子共の魚ぬすむを
 ふところに小鯛つめたし網子の声 亀翁
 網よせて鱧に落葉をはませけり  松翁
 網形にふけゐのうらや磯しぐれ  横几
 かたかるも寒しふけゐの鷺の声  岩翁
 網を見て僧何とたついそ衛    尺草

   住吉奉納
 昆布うりの手を拭松の落葉かな  岩翁
 乙女子の火鉢をまはる神楽かな  亀翁
 木枯しや絵馬にみゆる帆かけ舟  横几
 桐殿や水すむ影を冬木形     尺草
 芦の葉を手より流すや冬の海   晋子

   十月十一日芭蕉翁難波に逗留のよし聞えければ、
   人々にもれて彼旅宅に尋まいるゆへ吟半ばに止む。」

   あまの子共の魚ぬすむを
 ふところに小鯛つめたし網子の声 亀翁

 吹飯は漁村で、地引網漁をしてたのだろう。子供が雑魚を盗んでいったりしても、ある程度は容認されてたんではないかと思う。
 それを見て小鯛でも持ってきたいな、酒の肴に、というところか。小鯛はここではチダイのことではなく、鯛の小さいのという意味だろう。

 網よせて鱧に落葉をはませけり  松翁

 ハモの名前は食(は)むに由来するという説もある。ただ、網にかかって打ち上げられたハモは落葉を食んでいるようで哀れだ。

 網形にふけゐのうらや磯しぐれ  横几

 吹飯の浦に時雨が降ると、雨の網をかぶせられたみたいだ。

 かたかるも寒しふけゐの鷺の声  岩翁

 「かたかる」は「潟離る」か。水に足を付けているのも寒そうだが、飛び上がっても寒そうな声を上げる。

 網を見て僧何とたついそ衛    尺草

 網を見ると僧なら殺生の罪のことを思うのだろうか。磯千鳥の声も悲しげだ。
 日程は定かでないが和歌の浦から吹飯を経て紀州街道で大阪に出たのだろう。そこでさっそく住吉大社に参拝することになるが、神無月ではある。
 芭蕉の門人たちも十月八日に芭蕉の病気平癒祈願に訪れている。

   住吉奉納
 昆布うりの手を拭松の落葉かな  岩翁

 夏に散るという松の落葉ではなく、普通に冬に散る落葉で、手水の上にたくさん落ちていたのだろう。昆布売は松葉昆布を売っていたか。

 乙女子の火鉢をまはる神楽かな  亀翁

 寒いので神楽を舞う神楽女(八乙女)も火鉢の周りをまわっている。住吉大社では巫女さんが神楽を舞うので神楽女と呼ばれている。

 木枯しや絵馬にみゆる帆かけ舟  横几

 絵馬はこの場合は「ゑうま」か。「ゑむま」「ゑんま」ともいう。
 木枯らしに絵馬が風をはらんで帆掛け船みたいだ。

 桐殿や水すむ影を冬木形     尺草

 桐殿は切妻屋根の切殿か。住吉大社の本殿は住吉造りで切妻屋根を特徴としている。
 冬木はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「冬木」の解説」に、

 「① 冬の木。また、冬枯れの木。《季・冬》
  ※古事記(712)中・歌謡「本つるき 末振ゆ 布由紀(フユキ)のす 幹が下木の さやさや」
  ※曼珠沙華(1950)〈野見山朱鳥〉「逢ふ人のかくれ待ちゐし冬木かな」
  ② 常磐木(ときわぎ)。
  ※日葡辞書(1603‐04)「Fuyugui(フユギ)」 

とある。今日ではほとんど①の意味で用いられるが、ここでは②の意味で、切妻屋根が針葉樹に似ているということではないかと思う。針葉樹は冬でも葉が落ちないので水が澄んでいる。

 芦の葉を手より流すや冬の海   晋子

 大阪と言えば難波の葦だが、芦の葉を手より流すというのはよくわからない。
 
   堀川院御時、艶書のうたをうへのをのこともによませ給うて、
   歌よむ女房のもとともにつかはしけるを、
   大納言公実は康資王の母につかはしけるを、
   又周防内侍にもつかはしけりとききて、
   そねみたる歌をおくりて侍りけれは、つかはしける
 みつ潮にすゑ葉を洗ふ流れ芦の
     君をぞ思ふ浮きみ沈みみ
             大納言公実(千載集)

の歌に関係があるのか。

   十月十一日芭蕉翁難波に逗留のよし聞えければ、
   人々にもれて彼旅宅に尋まいるゆへ吟半ばに止む。

 十月十一日、芭蕉の亡くなる前日に其角が芭蕉のいる宿にやってきたのは、支考の「禅語日記」にも記されている。芭蕉の古くからの弟子であった其角が偶然にも芭蕉の臨終に間に合ったというのは奇跡と言えよう。

2022年12月14日水曜日

 今日はふたご座流星群がピークだというので、これから見に行こうと思う。

 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「和歌のうら 吹上
 座敷まで千鳥の雫磯かな     岩翁
 伽羅岩にしめりを添て幾霽    横几
 浦のなみ紀三井寺より時雨けり  尺草
 かいつぶりつれてすげなし片男波 キ翁

   玉津島にまいりて
 御留守居に申置なりわかのうら  晋子

   帰望
 和歌はみつふけゐの月を夜道哉  同

   粟島奉納
 拝殿の雛をあらすなはまちどり  キ翁
 一対の鷺ぞより来る浦の波    横几

   ふけゐのうらに出たれば
   大網引馬夫駕籠のもの従者ましりに走りつきて力を添てとよみけるに
 魨ひとつとらへかねたる網引哉  晋子」

 三日に紀ノ川を下り、四日には和歌の浦や紀三井寺などを回ったと思われる。このあと十一日まで日付の記述はない。

   和歌のうら 吹上
 座敷まで千鳥の雫磯かな     岩翁

 磯は三文字でないと字足らずだが「ありそ」か。千鳥が濡れたまま部屋の中まで入って来る。
 吹上浜の千鳥は、

 浦風に吹き上げ浜の浜千鳥
     波立くらし夜半に鳴くなり
              祐子内親王家紀伊(新古今集)

の歌に詠まれている。紀ノ川の河口の南側の浜だが、和歌山城の南側辺りで今は埋め立てられている。

 伽羅岩にしめりを添て幾霽    横几

 伽羅岩は玉津嶋神社の南側で今は県道151号線のあしべ通りが前を通っている。昔は海だったか。沈香の伽羅に似ている所からこの名前がある。
 霽は時雨で、乾燥させたものを燃やして用いる伽羅も、長年の時雨にすっかり湿ってしまっている。

 浦のなみ紀三井寺より時雨けり  尺草

 玉津嶋神社の前は片男波という突き出た砂州があり、その内側は干潟になっていて、その片男波の対岸に紀三井寺がある。後ろが山になっているので雲ができやすいのだろう。紀三井寺から時雨てくる。

 かいつぶりつれてすげなし片男波 キ翁

 カイツブリは鳰鳥とも呼ばれる。
 カイツブリが片男波に寄り添おうとしてもつれなくされる。片男だから。

   玉津島にまいりて
 御留守居に申置なりわかのうら  晋子

 神無月だから玉津嶋神社の神様もお留守。

   帰望
 和歌はみつふけゐの月を夜道哉  晋子

 ふけゐは和泉国の吹飯の浦で、今も深日(ふけ)という地名が残っている。和歌の浦の一山越えた北側になる。
 「和歌はみつ」は、

 若の浦に潮満ち来れば潟をなみ
     葦辺をさして田鶴鳴き渡る
             山部赤人(続古今集)

の「満つ」であろう。加太淡島神社に寄っているので、海沿いのルートの大川峠越えルートで吹飯に入ったと思われる。和歌の浦に潮が満ちるのを「見つ」に掛けて、前を見れば吹飯の浦に月が見える。

   粟島奉納
 拝殿の雛をあらすなはまちどり  キ翁

 加太淡島神社であろう。雛流し神事が行われ、今でも沢山の雛人形が並べられていることでも知られている。当時もやはり雛人形が並べられていたか。当時は紙や布で作られた立雛が主流だった。軽いから簡単に千鳥に荒らされてしまったのだろう。

 一対の鷺ぞより来る浦の波    横几

 雛人形が男雛女雛一対であるように海から来る鷺もペアを組んでいる。

   ふけゐのうらに出たれば
   大網引馬夫駕籠のもの従者ましりに走りつきて力を添てとよみけるに
 魨ひとつとらへかねたる網引哉  晋子

 魨はフグで、吹飯の浦でも取れたのだろう。

2022年12月13日火曜日

 日本が中国やロシアの脅威に本気で防衛に取り組むなら、増税は避けて通れないはずなんだ。だから、保守の間でもここは本気度が試されると言って良い。
 あれほど防衛の大切さを説いてきて、憲法改正の必要を論じてきたんだから、増税だと言われて躊躇するようだと、何だポーズだったのかということになる。高市さんがちょっと残念だ。あんたは鉄の女にはなれない。
 逆に左翼の側からすれば、保守のこの仲間割れは願ってもない事だろう。
 中国の脅威の前で、台湾が折れるかもしれない。沖縄が折れるかもしれない。そうなったとき本気で日本は自分の国を戦場にして血を流して、自由と国家を守る覚悟があるのか。
 防衛費増税はそれが試されている。俺は今回は岸田さんを応援したいし、自民党も一丸になってほしかった。
 国民が自由のために死ぬよりも奴隷になっても生きることを選択するなら、それも良いだろう。奴隷になったことがないからそれがどういうものかもわからないし、ロシア人も中国人も鬼じゃあるまい、同じ人間なんだくらいに思ってるかもしれない。
 それは日本人が本当のレイシズムを知らないからだ。本当のレイシズムは自分たち以外は人間ではないと思っているし、人間として扱うはずがないんだと知るべきだろう。ウクライナで起きている虐殺も偶発的なものではない。
 南京虐殺は便衣兵の恐怖にさらされて偶発的に起きた事件だったが、西洋のレイシズムは理性の名において「汝為すべき」の定言命令によって虐殺を決断する。その恐ろしさを知るべきだ。

 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「十月二日高野山上世を忘たる閑也
 小六月高野の池やうす氷     岩翁
 あきんどのひとりね寒し高野山  尺草
 院々を着たりぬいだり旅頭巾   亀翁

   つねにもまいりうとき所なり
 冬ぞなほ楽書うすき女人堂    亀翁
 二十年この山ふみや紙子うり   横几
 卵塔の鳥居やげにも神無月    晋子

   学文路の宿にて
 戸をたてて楮うつ声霜夜かな   尺草

   糺の川 いく瀬もあり三か月のながるるを
 たつか弓矢をつく船やみかの月  晋子
 船頭の顔もさだめぬ時雨かな   キ翁」

 十月一日に吉野から高野山へ移動したと見た方がいいか。徒歩や馬だと移動に丸一日かかりそうだが、川を船で下ったなら、西河を見てから夕暮れに高野山までたどり着くこともできただろう。
 二日は高野山を見て回り、三日には和歌の浦へ向かうが、糺の川は紀の川の間違いであろう。ここははっきりと船に乗ったとわかる。

   十月二日高野山上世を忘たる閑也
 小六月高野の池やうす氷     岩翁

 小六月はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「小六月」の解説」に、

 「〘名〙 陰暦一〇月の異称。春を思わせるようなうららかな日和のあるところからいう。小春。《季・冬》
  ※俳諧・東西夜話(1702)中「時雨れねば松は隙なり小六月〈支考〉」

とある。
 日差しは春のようでも明け方は寒く、氷も張っていた。それが小六月の日差しで薄くなり溶けて行く。

 あきんどのひとりね寒し高野山  尺草

 高野山の巡礼者は宿坊で大勢で雑魚寝していたのだろう。順礼でない商人は別の所に泊まっていたのか。逆説的に宿坊の賑わいを表すマイナー・イメージであろう。

 院々を着たりぬいだり旅頭巾   亀翁

 外の移動の時は頭巾をかぶるが、お堂に入るたびに頭巾を脱ぐ。

   つねにもまいりうとき所なり
 冬ぞなほ楽書うすき女人堂    亀翁

 女人堂は普通は男の入る所ではないが、その日は誰もいないかなんかで見ることができたのだろう。落書きはこの時代は普通で、旅人や巡礼者の伝言板になっていたのではないかと思う。ただ、女人堂の落書きは細い線で仮名の多い女手で書かれている。

 二十年この山ふみや紙子うり   横几

 二十年高野山で紙子を売っている商人がいたのだろう。

 卵塔の鳥居やげにも神無月    晋子

 卵塔は無縫塔ともいう卵型の墓で僧の墓に多い。
 お墓の入口に鳥居があるにもかかわらず、その先は卵塔ばかりだと、なるほど神無月だ、ということになる。

   学文路の宿にて
 戸をたてて楮うつ声霜夜かな   尺草

 学文路は「かむろ」と読む。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「学文路」の解説」に、

 「和歌山県北東部、橋本市の一地区。旧学文路村。古くは禿(かむろ)と書いた。紀ノ川南岸に臨み、また高野山参詣(こうやさんさんけい)路の不動坂道の上り口にあたり、説教、浄瑠璃(じょうるり)で知られる石童丸(いしどうまる)にちなむ苅萱堂(かるかやどう)や、謡曲『高野物狂(ものぐるい)』にちなむ石がある。国道370号が通じ、南海電鉄高野線の学文路駅がある。この駅の入場券は受験のお守りとして人気になっている。[小池洋一]」

とある。
 「楮うつ」は紙を作るための楮を煮たものを臼で搗く作業をいう。この辺りでは紙漉きが盛んで、高野紙と呼ばれていた。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「高野紙」の解説」に、

 「紀伊国(和歌山県)の高野山周辺で漉(す)かれる和紙。高野山へ登るには七口(ななくち)と称して7本の道が開かれ、そのいずれにも清流があるために平安時代末期から付近のコウゾ(楮)やガンピ(雁皮)を原料とする紙が漉かれ、おもに寺院で使用された。ことに上古沢(かみこさわ)、下(しも)古沢、河根(かね)(九度山(くどやま)町)、細川(高野町)などの村落が有名で、鎌倉時代の高野版(高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)で印刷・発行した仏典類)の用紙に利用された。現在細川でただ1軒だけが伝統を守って漉いている。[町田誠之]」

とある。

   糺の川 いく瀬もあり三か月のながるるを
 たつか弓矢をつく船やみかの月  晋子

 翌三日、高野山を出て紀ノ川を下り、和歌の浦に向かう。西へ向かうので、夕暮れには行き先に三日月が見えて、その光が川に映し出される。
 「たつか弓」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「手束弓」の解説」に、

 「〘名〙 手に握り持つ弓。たつかの弓。
  ※万葉(8C後)一九・四二五七「手束弓(たつかゆみ)手に取り持ちて朝狩に君は立たしぬたなくらの野に」
  ※散木奇歌集(1128頃)恋下「つくつくと思ひたむればたつかゆみかへる恨みをつるはへてする」

とある。軍事用の長弓ではなく、狩猟用の座って射れるような小さな弓ではないかと思う。
 三日月が弓のようで、その下の光る浪が沢山の矢のように見える。

 船頭の顔もさだめぬ時雨かな   キ翁 

 急に時雨てくると船頭の顔色もさっと変わる。

2022年12月12日月曜日

 今年は流行語大賞のオワコン感が半端なかったが、今年の漢字一時は「戦」で何とか面目を保ったか。
 流行語大賞の何が駄目って、ウクライナ戦争から完全に目を背けて、ノミネートされたのが「キーウ」だけだったことだ。
 まあ、いずれ世界は一つになるんだから、日本もウクライナも早く併合されちまえ、一切抵抗するな、何て思ってる連中が審査しているというのがわかるからね。
 こういうのは日本人虐殺が始まったら、「俺はロシア人、味方味方」なんて言って媚び売ってロシア軍に近づいて行って、まっ先に嬲られそうだが。
 戦国時代とかで嬉々として主君の首を持って敵軍の陣地に馳せ参じるようなもんだ。こういう軽々しく主君を裏切るような奴を信用する者なんていない。俺がロシアの将校だったら、こうやって投降してきたやつはモシンナガンを持たせて即前線に送るな。で、生粋のロシア兵には「退却する時は後ろから撃て」と言うよ。
 2チャンネルじゃなぜか「ターボ癌」のことで延々とスレを伸ばしているけど、これも情報操作なのは間違いない。ツイッターをこの夏から始めたからわかるけど、「ターボ癌」のトレンド入りはごく短い間だけで、すぐに別の話題に埋もれていった。
 まあオルグされた人たちが一時的に集中的にツイットすれば、トレンド入りはそんなに難しいことではない。
 一度でもトレンド入りしてしまえば、「ターボ癌がツイッターでトレンド入り」というニュースを流しても確かに嘘ではないが、トレンド入りする言葉なんて無数にある。
 組織的なやらせでも「ターボ癌」をトレンド入りさせることができれば、ツイッターはデマをばら撒いていると言って攻撃して、それをマスクさんのせいであるかのように印象操作できるわけだ。
 ただ、日本はツイッター人口が多いから、こういうツイッターをやってない人を信じさせることができたとしても、その数は知れている。
 ツイッターの買収前は逆のことをやってた。反政府的なメッセージを組織的に一度でもトレンド入りさせれば、これが国民の声だみたいに誇張してニュースにする。
 買収前だとだいたいこういうツイットは判で押したように五万前後だったが、最近は一万二万かそれくらいしかいかない。複数アカウントに厳しくなれば、あの数はやはり嘘だったとバレる。
 今年の漢字「戦」をマスゴミはいかにウクライナから引き離すかにやっきだな。そんなところでワールドカップを利用するな。

 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「廿九日よしのの山ふみす。
   白雲峯に重り煙雨谷をうつんて山賤の家所々にちひさく、
   西に木を伐ル音東にひびき院々のかねの声心の底にことふ
   寒雲繍盤石といふ句におもひよせて
 高取の城の寒さよよしの山    晋子
 日さかりやせめても冬の芳野山  キ翁
 冬かれや梢々を日ぐれまで    横几
 太山路や苔さへ白き冬桜     岩翁
 分水はよし野の奥に時雨かな   尺草

   世尊寺こよひだれすずふく風とよまれたる所といふに、
   月ならばなどおもひやられ
 頼政の月見所や九月尽      晋子

   西河のたきにて
 三尺の身をにじかうのしぐれ哉  同
 多かれや何を目当に瀧まはり   キ翁」

 九月二十八日に奈良を出て、多武峰から細峠を越えて吉野に到着する。そして、二十九日に吉野の名所を回ることになる。

   廿九日よしのの山ふみす。
   白雲峯に重り煙雨谷をうつんて山賤の家所々にちひさく、
   西に木を伐ル音東にひびき院々のかねの声心の底にことふ
   寒雲繍盤石といふ句におもひよせて
 高取の城の寒さよよしの山    晋子

 高取城は日本三大山城の一つとも言われ、標高583メートルの山の上に天守閣が築かれている。芭蕉も元禄三年の「月見する」の巻二十九句目に、

   随分ほそき小の三日月
 たかとりの城にのぼれば一里半  芭蕉

の句を付けている。天守まで辿り着く頃には日が暮れてしまう。
 其角のこの句は許六の『俳諧問答』にも、

 「高取の城の寒さやよしの山
といふも、『ふる里寒し』の下心也。ふる里よりハ、めの前の高取寒しといへる事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.187)

とある。この「寒さ」は、

 みよし野の山の秋風さ夜ふけて
     ふるさと寒く衣うつなり
              参議雅経(新古今集)

の歌による、というわけだ。
 まだ九月だけど「寒さ」で冬の句としているが、この歌を思い浮かべるならまだ秋の情になる。

 日さかりやせめても冬の芳野山  キ翁

これは完全に冬の句となる。十月二日には高野山に入るから、九月二十九日と十月一日の二日間の吉野滞在だったのであろう。
 日盛りはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「日盛」の解説」に、

 「〘名〙 日中の日の盛んに照りつける頃。多く夏の午後にいう。《季・夏》
  ※宇津保(970‐999頃)祭の使「あつき日ざかりには人々すずみなどし給ふに」

とあるが、この頃はまだ夏の季語ではなかったのだろう。冬でも日中はぽかぽか暖かいくらいの意味で用いている。

 冬かれや梢々を日ぐれまで    横几

 吉野というと千本桜だが、この季節には葉も落ちて梢だけを日暮れまで眺めることになる。

 太山路や苔さへ白き冬桜     岩翁

 太山路はよく分らない。吉野山を泰山に見立てているのかもしれないし、あるいは近世の林業技術の研究資料の「太山(とやま)の左知」の用法で、「とやま」と読ませて太い木の茂る山を意味していたのかもしれない。
 桜の幹の苔の白さを冬桜に喩える。今の分類では地衣類でウメノキゴケという。

 分水はよし野の奥に時雨かな   尺草

 紀伊半島の分水嶺は大峰より先の大台ヶ原の辺りになる。ここでは単に吉野の千本桜が金峰山寺から西行庵に至る尾根道にあり、降った時雨は東西に分かれて流れるという意味で、上千本の上に吉野水分神社がある。東は宮瀧に、西は下市に流れる。

   世尊寺こよひだれすずふく風とよまれたる所といふに、
   月ならばなどおもひやられ
 頼政の月見所や九月尽      晋子

 世尊寺は吉野の北側、吉野川の対岸で、高取城の麓になる。
 源頼政は、

 今宵たれすずふく風を身にしめて
     吉野の嶽たけに月を見るらむ
              源頼政(新古今集)

の歌がある。

   西河のたきにて
 三尺の身をにじかうのしぐれ哉  晋子

 西河は吉野の東側の音無川の流れる谷で、蜻蛉(せいれい)の滝があり、芭蕉も貞享五年の『笈の小文』の旅で訪れて、

 ほろほろと山吹散るか滝の音   芭蕉

の句を詠んでいる。
 「三尺の身」は、いくら何でも其角が身長僅か一メートルってことはない。三尺は三尺頭巾のことか。落差五十メートルの滝が巻き上げる水しぶきが時雨のようだ。

 多かれや何を目当に瀧まはり   キ翁

 目当はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「目当」の解説」に、

 「① 目標とする物や場所。目をつけて見るところ。目じるし。ねらい。まと。
  ※桜井基佐集(1509頃)雑「雁かへる嶺のつづきをめあてにて行手もはやく跡消えにけり」
  ② 心の中でめざしていること。心づもり。あてど。目的。
  ※ぎやどぺかどる(1599)下「御教の束ねとして、此御辞を示し給へば、是を修善の目宛と用ひ」
  ③ 物事を行なう場合などの基準、手本など。見当。
  ※日葡辞書(1603‐04)「アノ ヒトヲ meateni(メアテニ) シテ マウシタ」
  ※開化のはなし(1879)〈辻弘想〉二編「君を標準(メアテ)にして、万事相場を極るゆゑ」
  ④ 近世の貸借契約の一つである書入(かきいれ)③の抵当。引当(ひきあて)。
  ※証文案書‐文政六年(1823)江戸板「同目当一札事。一、金百両也〈略〉万一払滞候はば、別紙引当之家屋舗不レ残、貴殿方に相渡可申候。〈略〉依而引当一札如レ件」
  ⑤ 鳥銃のねらいを定めるための突起物。照星(しょうせい)。」

とある。
 この場合は①で、滝の水があまりに多いので、どうやって滝の太さを測ればいいのか、という意味であろう。

2022年12月11日日曜日

 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「春日四所の宮人達夜毎にとのゐして
   戌の刻を限りとし侍る也
 今幾日秋の夜詰を春日山     晋子
 日はやまに数千の灯籠秋の色   岩翁
 御供所に猿も菓を運びけり    キ翁
 こころして陰ふむみちや御縄棟  横几

   伊勢大神宮へ向ふところと申すを
 拝み石道やおのれとしの薄    キ翁
 木の根巻竹や小鹿のつののよけ  松翁

   二月堂に七日断食の行者あり。
   屏風引廻して無人聲
 日の目見ぬ紙帳もてらす櫨かな  晋子

   増賀聖の古跡にて
 づぶぬれに捨ぬ身をさへ時雨哉  横几」

 これも奈良滞在中の句になり、時間が前後する。

   春日四所の宮人達夜毎にとのゐして
   戌の刻を限りとし侍る也
 今幾日秋の夜詰を春日山     晋子

 春日四所はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「四所明神」の解説」に、

 「春日神社の四柱の祭神。武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)・天児屋根命(あまのこやねのみこと)・比売命(ひめのみこと)の総称。
  ※光悦本謡曲・采女(1435頃)「四所明神の宝前に、耿々たる灯も」

とある。
 四所に宿直している神社の人は是で何日目なのだろうか。

 日はやまに数千の灯籠秋の色   岩翁

 前のコトバンクの用例にもあるが、謡曲『采女』に、

 「更闌け夜静かにして、四所明神の宝前に、耿耿たる燈火も、世を背けたる影かとて、共に憐む深夜の月、おぼろおぼろと杉の木の間を洩りくれば、神の御心にも若くものなくや思すらん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.1111). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。四所明神に灯籠は縁がある。
 とはいえ、この場合は夕日を浴びる山の紅葉が幾千の灯籠に見えるという意味になる。

 御供所に猿も菓を運びけり    キ翁

 御供所(ごくうしょ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御供所」の解説」に、

 「〘名〙 神社などに付属して、供物を調える所。神厨。小供御所屋(こくごしょや)。小御供所。呉呉所(ごごしょ)。ごくしょ。
  ※吾妻鏡‐文治二年(1186)六月一五日「安能寺務後始置仏神事〈略〉建二立六間四面御供所屋一宇一」

とある。
 「菓」は字余りになるが「くだもの」か。元はナッツ類のことだが、後に今の意味の果物になった。
 「けり」と強く断定しているから、これは御供所で果物を持った猿が目撃されたのだろう。実際は持ち去ろうとしたのだろうけど。

 こころして陰ふむみちや御縄棟  横几

 御縄棟は十月一日の縄棟祭(なわむねさい)で、春日大社のホームページに、

 「縄棟祭は、お旅所の行宮(あんぐう)(仮御殿)の起工式で代々「春日縄棟座(かすがなわむねざ)」として大柳生の片岡家が奉仕する。早朝より雌松52本と縄52尋(ひろ)を用いて屋形を組みあげ、その前へお供えを献じて御幣を奉る事などがある。
 昔は大円鏡や小円鏡という鏡餅が百余面も供えられ、祭事の後で振舞われたという。」

とある。「こころして陰ふむみち」はこの大量の鏡餅があったからか。

   伊勢大神宮へ向ふところと申すを
 拝み石道やおのれとしの薄    キ翁

 「拝み石」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「拝石」の解説」に、

 「① 歴史上著名な人物が、そこから遙拝したという伝承をもつ石。また、その伝説。
  ② 氏神の境内などにあり、大昔、その石の上に神を勧請(かんじょう)したという伝承をもつ石。
  ③ 造園工法で、庭園の中の浄地に置く平石。」

とある。
 この場合は②で、春日大社奥の院の方に伊勢神宮遥拝所があり、そこには大きな石が二つと小さな石がいくつか置かれている。
 ただ、周囲に篠薄が茂っていたか、ここへ来る道は己で切り開かなくてはならない。

 木の根巻竹や小鹿のつののよけ  松翁

 春日大社の辺りは鹿が多いので、木の下の方には竹が巻き付けてあって鹿が角で突いて木が痛むのを防いでいる。

   二月堂に七日断食の行者あり。
   屏風引廻して無人聲
 日の目見ぬ紙帳もてらす櫨かな  晋子

 二月堂では春のお水取りのための行者が籠って七日断食する。ただ、今は九月なので屏風で入口を塞いであって、誰もいない。
 前に「時にふれて興多し」という前書きの句で掲載された句と重複している。この紙帳が二月堂のものであったことがわかる。

   増賀聖の古跡にて
 づぶぬれに捨ぬ身をさへ時雨哉  横几

 増賀上人の墓は多武峯の談山神社にある。
 増賀上人というと『撰集抄』に伊勢神宮で夢のお告げがあって着てた物を皆乞食にやって裸で帰ったことで知られていて、芭蕉も貞享五年に、

 裸にはまだ衣更着の嵐哉     芭蕉

の句を詠んでいる。その増賀上人がその後暮したのが多武峰だった。昔は神仏習合で、ウィキペディアには、

 「天武天皇9年(680年)に講堂(現・神廟拝殿)が創建され、十三重塔を神廟として妙楽寺と号した。大宝元年(701年)、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現・本殿)が建立され、聖霊院と号した。談山の名の由来は、中臣鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。後に本尊として講堂に阿弥陀三尊像(現・安倍文殊院釈迦三尊像)が安置された。」

とある。
 別に世を捨てて裸になるつもりはないが、時雨でずぶ濡れになって服を脱ぐことになった。

2022年12月10日土曜日

 ドイツでクーデター未遂事件があったが、ドイツでもロシアと同様の中世回帰の闇があるのかもしれない。おそらくロシアの情報工作も関連しているのだろう。
 西洋哲学は死んだ。そこから社会主義も人権思想も拠って立つ哲学的根拠を失った。かといって脳科学などによって合理的に再編される動きもない。その隙に入り込むのは中世神秘主義への回帰だ。
 一方で社会主義や人権思想が原理主義化して、環境テロやビーガンテロなどもその方面の一部といえよう。その対極におそらく極端なキリスト教原理主義に基づいた反ユダヤ主義や反同性愛などの動きが生じているのだろう。
 西洋哲学の死は哲学が厳密な学として存在することを不可能にし、任意な極端な形而上学が乱立する危険を含んでいた。これは西洋社会そのものの崩壊の兆しかもしれない。
 ロシアのドゥーギンの思想、アメリカのQアノン、そして今回のドイツのクーデター未遂はこうした根っこで繋がっている可能性がある。
 日本の右翼は日本の伝統的社会に拠って立つ場所がある。それは江戸時代の朱子学によって確立された四端七情の人情の世界がある。西洋には感情を論じる形而上学を根本的に描いている。そのため哲学の死は中世帰りの神秘主義に陥りかねない。
 こういう事件があるとまたパヨチンどもが勝手に壺ウヨ=Jアノンの図式でもって、統一境涯に汚染された自民公明政権がクーデターを画策しているなんて妄想を抱きそうだが、それは絶対ないので念のため。
 第一長期安定政権を維持しているのだから、クーデターを起こされる側であって起こす必然性はない。日本は形而上学が死んでも義理人情の政治が残るので、中世帰りをする必然性がまるでない。

 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「多武峰
 下り坂もあきを峠の木の葉かな  キ翁
 長月や楔とめたる水車      尺草
 案内は女なりけり三輪の月    岩翁
 むらしぐれ三輪の近道尋けり   晋子
 下馬札をみわの印や杉の月    松翁
 秋の日の残るも深しみわの栄   尺草
 神ふかき鳥居のそでや苔のいろ  キ翁
 かたはかり月や井筒の松丸太   横几
 僧ワキのしづかに向ふすすき哉  晋子」

 この一連の多武峰や三輪の句は季語は秋に戻っているので、十五日から奈良の中心地を出る二十八日までの間の句と思われる。
 このあとに「廿九日よしのの山ふみす」とあるから二十八日に奈良を出てその日に多武峰から細峠を経て吉野へ向かったか。そうなると、多武峰の句やその少し手前の三輪の句は二十八日の句になる。
 そうなると当麻寺の二句は二十八日に奈良を出る前日の二十七日か。時雨は秋に詠むこともある。

   多武峰
 下り坂もあきを峠の木の葉かな  キ翁

 多武峰は尾根の道で上ったり下ったりを繰り返す。山の上の方は既に落葉している。

 長月や楔とめたる水車      尺草

 稲の収穫が終わると田んぼに水を引き込む必要がないので、水車は楔を打って動かなくする。大和川の辺りの水車か。

 案内は女なりけり三輪の月    岩翁

 三輪山は大和川の北側にある。南側が多武峰になる。多武峰に登る前に三輪の大神神社へ行ったのだろう。女と言っても若いかどうかは分らない。
 「三輪の月」が二十八日の朝の月だとすると、明け方の末の三日月ということになる。元禄七年九月は小の月で二十九日までしかなかった。

 むらしぐれ三輪の近道尋けり   晋子

 三輪山で時雨にあって、近道がないかどうか尋ねた。これは前日の二十七日のことで、三輪で一泊したか。

 下馬札をみわの印や杉の月    松翁

 下馬札はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「下馬札」の解説」に、

 「〘名〙 「下馬」「下乗」などと記して、それより内へは馬で乗り入れることを禁止する旨を示した立札。下馬牌(げばはい)。下馬板。
  ※三礼口訣(1699)書礼口訣「下馬札(げバフタ)の事。もろこしにも廟前に下馬碑を立る事有レ之」

とある。

 我が庵は三輪の山もとこひしくば
     とぶらひきませ杉たてるかど
             よみ人しらず(古今集)

の歌があり、杉立てる角を訪ねてきたが、実際に泊まった宿屋は杉の木がなく、下馬札を見て杉立てる角の代りとする。

 秋の日の残るも深しみわの栄   尺草

 秋の日はまだ二十八日、二十九日と二日残っている。

 神ふかき鳥居のそでや苔のいろ  キ翁

 大神神社に参拝した時の句であろう。

 かたばかり月や井筒の松丸太   横几

 大神神社よりかなり北になるが、在原寺跡に筒井筒の井戸があるという。そうなると、これは三輪に到着する前のことか。「かたばかり」が肩の丈と片ばかりに掛けているとすれば、下弦の月の頃であろう。

 僧ワキのしづかに向ふすすき哉  晋子

 謡曲「井筒」のワキは「これハ諸國一見の僧にて候」と言って登場する。在原寺は天理市のホームページによると、

 「天文23年(1554)三条西公条の『吉野詣記』には在原寺の記事が見え、延宝9年(1681)刊の『和州旧跡幽考』にも記され、江戸時代は寺領わずかに五石であったが、明治維新ごろまで本堂、庫裡、楼門などがあり、昔は、在原千軒と称せられたほど人家が建ち並んでいたという。」

とある。寺はかなり荒れていて、薄が茂ってたのだろう。

2022年12月9日金曜日

  それでは「隨縁紀行」の続き。

  「時にふれて興多し
 日の目みぬ紙帳もてらす櫨かな  晋子

   光明皇后の大ゆや釜
 虫の音や茅だにからず風呂の釜  キ翁
 大仏の御肌の霜や日のめぐり   尺草

   廿八日南都を出るに
 ゆく秋を十三鐘にわかれけり   岩翁

   当摩寺奥院にとまりて
 小夜しぐれ人を身にする山居哉  晋子

   当院に霊寶什物さまざま有中にも
   小松殿法然上人へまいらせられし松陰の硯あり。
   箱の上に馬蹄と書て野馬を画けり。
   硯の形かひつめに似たるゆへ成べし。
 松陰の硯に息をしぐれかな    晋子
 二上やしきみからけし薦の露   キ翁」

 ここから先は十五日から奈良の中心地を出る二十八日までと、そのあとの句になる。

   時にふれて興多し
 日の目みぬ紙帳もてらす櫨かな  晋子

 紙帳はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「紙帳・紙張」の解説」に、

 「① 白い紙を張り合わせて作った蚊屋。上からつるものと、頭からかぶるものとがあった。また、冬には防寒用にも用いられた。《季・夏》
  ※経覚私要鈔‐文安四年(1447)四月二日「為レ蚊紙帳用二意之一。〈略〉為二養性一第一事也」
  ※浮世草子・好色一代男(1682)三「米櫃(こめひつ)は物淋しく、紙帳(シチャウ)もやぶれに近き進退」 〔蘇軾‐贈月長老詩〕

とある。ここではやはり櫨は「もみぢ」で良いように思える。
 防寒用の紙帳は服の下に着るから日の目は見ないが、寒い季節に紅葉の美しさを見るには欠かせない。

   光明皇后の大ゆや釜
 虫の音や茅だにからず風呂の釜  キ翁

 光明皇后の大湯屋は法華寺にあり、千人の垢を流したと言われている。
 ウィキペディアには「現存の建物は江戸時代の明和3年(1766年)再建のものである。」とあり、其角が訪れた元禄七年の時点では野ざらしになっていたか。薄に埋もれていたようだ。

 大仏の御肌の霜や日のめぐり   尺草

 奈良東大寺の大仏はウィキペディアに、「現存する大仏の頭部は元禄3年(1690年)に鋳造されたもので、元禄5年(1692年)に開眼供養が行われている。」とある。
 永禄十年(一五六七年)の東大寺大仏殿の戦いで焼け落ちた首は修復されて、頭だけが新しいという状態だったのだろう。その肌の色の差に日の廻りを感じたということか。

   廿八日南都を出るに
 ゆく秋を十三鐘にわかれけり   岩翁

 ここでいう南都は興福寺・東大寺などのある奈良の中心地を出るという意味で、このあと二上山や多武峰などをまわるが、ここは南都には含まれないようだ。
 十三鐘はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「十三鐘」の解説」に、

 「〘名〙 奈良の法相宗菩提院で、明け七つ時(午前四時)と暮れ六つ時(午後六時)についた鐘の音。また、その鐘。合計一三ついたので、この名がある。また、鹿を殺した一三歳の子どもがこの寺で石子詰の刑に処せられたので、その菩提をとむらうために鐘を鋳てこのように名づけたという俗説がある。
  ※俳諧・六日飛脚(1679)「誰か子のためのたのもの節句〈友雪〉 けさ奉行十三かねを持せきて〈遠舟〉」

とある。法相宗菩提院は興福寺の子院の一つで、ここの鐘は南都にいる間は常に聞こえてたのであろう。

   当摩寺奥院にとまりて
 小夜しぐれ人を身にする山居哉  晋子

 季語が「小夜しぐれ」で冬になり、十月に入ったのがわかる。「人を身にする」は「人を思うは身を思う」を縮めた形か。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「人を思うは身を思う」の解説」に、

 「他人に情をかければ、やがては自分のためになるという意。情は人のためならず。
  ※北条氏直時代諺留(1599頃)「人を思ふは身を思ふ。人を憎むは身を憎む」

とある。時雨が来た時には人を雨宿りさせる人情が、廻り廻って自分が時雨にあった時にも帰って来る。

 世にふるもさらに時雨の宿り哉  宗祇

の句を踏まえたものであろう。

   当院に霊寶什物さまざま有中にも
   小松殿法然上人へまいらせられし松陰の硯あり。
   箱の上に馬蹄と書て野馬を画けり。
   硯の形がひづめに似たるゆへ成べし。
 松陰の硯に息をしぐれかな    晋子

 二上山当麻寺奥院には今も平家物語に由来が登場するという松蔭硯が残されている。楕円形の硯なので、それを馬の蹄に見立てて箱が作られたようだ。当麻寺のホームページの画像では、箱の外側はよく分らなかった。
 硯は息を吹きかけてみて湿ると良い硯だという。松陰硯は良い硯だから、さぞかし息を吹き替えたなら時雨のようになるだろう。

 二上やしきみからけし薦の露   キ翁

 樒は常緑なので冬でも仏事に用いられるので樒を薦で束ねて売っていたということか。これはよくわからない。

2022年12月8日木曜日

 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「莫嗔野店無肴核薄酒堪沽豆莢肥と周南峯が句を感す
 足あぶる亭主にきけば新酒かな  晋子
 馬夫の手に火を抓みけり秋の霜  尺草
 山つづき日の出の虹や引板の綱  亀翁

   初瀬 三輪 在原寺
 櫨みる公家の子達ぞはつせやま  晋子
 二もとの杉や根ばかり葛の色   キ翁
 はせこもり夜の錦やわかし酒   横几
 此紅葉かき残しけり長谷の絵図  尺草

   大和柿とて主よりもてなす
 泊瀬めに柿のしふさを忍びけり  晋子
 紅葉から初瀬の下モやそばの花  松翁」

  莫嗔野店無肴核薄酒堪沽豆莢肥と周南峯が句を感す
 足あぶる亭主にきけば新酒かな  晋子

 前書きは『聯珠詩格』巻五「用莫嗔字格」の、

   宿禾村      周南峰
 山雨初収涼思微 樹林陰翳逗斜暉
 莫嗔野店無肴核 薄酒堪沽豆莢肥

による。
 返り点と送り仮名がふってあるので、

 山雨初テ収テ涼思微ナリ 樹林陰翳シテ斜暉ヲ逗ス(逗字老)
 嗔莫コト野店肴核無ヲ 薄酒沽ニ堪テ豆莢肥タリ(客途即景之真味)

となる。(早稲田大学図書館による)
 『聯珠詩格』はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「聯珠詩格」の解説に、

 「中国,元の作詩法の書。于済の著。蔡正孫が増補。 20巻。大徳4 (1300) 年成立。初学者のために七言絶句の作り方を実際的に示したもの。中国で失われ,朝鮮,日本に伝わって読まれた。」

とある。
 おそらく奥津宿で一泊した時の句であろう。そこでは薄い酒に豆のような簡単な肴しかなく、寒くて足をあっためていた亭主に聞いてみると、新酒だというのでとりあえずは満足した。周南峯の詩を思い起こせば、これもまた風流。
 
 馬夫の手に火を抓みけり秋の霜  尺草

 次の日の九月十四日の朝はかなり冷えて霜が降りていたのだろう。
 馬に乗って出発するが、その馬夫の手には松明が握られていた。それで少し手を温めさせてもらったのだろう。

 山つづき日の出の虹や引板の綱  亀翁

 奥津は山の中で、これからまた山を越えて行く旅になる。
 引板はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「引板」の解説」に、

 「〘名〙 (「ひきいた(引板)」の変化した語) 田や畑に張りわたして鳥などを追うためのしかけ。細い竹の管を板にぶらさげ、引けば鳴るようにしかけたもの。鳴子(なるこ)。おどろかし。また、流れ落ちる水に板をあてて、音を鳴りひびかせる装置もいう。《季・秋》
  ※源氏(1001‐14頃)夕霧「鹿は〈略〉山田のひたにも驚かず」

とある。
 日の出には明け方の雨が上がったのか虹が出ていて、あちこちに引板の綱が張り巡らされているのが見える。それだけ猪や鹿が多いのだろう。

   初瀬 三輪 在原寺
 櫨みる公家の子達ぞはつせやま  晋子

 櫨はハゼだが、それだと字足らずになる。箱根の所では「もみぢ」かと思ったが「はにし」というハゼの古い呼び方もある。楓と並んで紅葉が美しい。王朝時代の公家の子息が訪ねて来るなら、ここ初瀬山しかないだろう。

 二もとの杉や根ばかり葛の色   キ翁

 長谷寺には二本杉がある。根の所で繋がっている。『源氏物語』玉鬘巻にも、

 二本の杉のたちどを尋ねずは
     古川野辺に君を見ましや

の歌がある。
 その二本の根を更に、絡みつく葛の黄色く色づいた葉が覆っている。

 はせこもり夜の錦やわかし酒   横几

 長谷寺の宿坊に泊まったのだろう。昼は櫨や楓の紅葉を見て、夜は熱燗で顔が紅葉色。

 此紅葉かき残しけり長谷の絵図  尺草

 長谷寺は絵にもよく描かれるが、桜や牡丹は有名だが紅葉はあまり描かれていない。

   大和柿とて主よりもてなす
 泊瀬めに柿のしぶさを忍びけり  晋子

 大和柿は御所柿とも言い、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御所柿・五所柿」の解説」に、

 「〘名〙 カキの一品種。甘柿で果実はやや扁平な球形で、種子はほとんどない。奈良県御所(ごせ)市の原産といわれ、古くから栽植されている。近畿地方や岐阜・山梨県に多い。大和柿。紅柿。
  ※寒川入道筆記(1613頃)愚痴文盲者口状之事「しぶがきなどをきりてつげば、御所柿にもなる」 〔和漢三才図会(1712)〕」

とある。木練(こねり)とも言い、木になっている時から甘い。
 こんなに大和柿が甘いなら、初瀬女ももっと甘い顔をしてくれれが良いのに。
 これより五日後、芭蕉の大阪での九月十九日の興行「秋もはや」の巻十一句目にも、

   住ゐに過る湯どの雪隠
 木の下で直に木練を振まはれ   其柳

の句がある。

 紅葉から初瀬の下モやそばの花  松翁

 翌朝、十五日の朝だろう。初瀬の山を下りると蕎麦畑が広がっている。

2022年12月7日水曜日

 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「廿三日伊勢ヨリ長谷路へ出候
   田丸ヨリ檜ノ牧迄重山嶮岨ヲ越ス
   風景時としてうつりかはる尤奇絶の地也
 山畑の芋ほるあとに伏猪かな   晋子
 しぶ柿のいつまで枝の住ゐかな  キ翁
 焼栗や灰ふきたつる山おろし   尺草
 こなし屋に子共等寒し稲むしろ  横几
 かけわたす小屋別なり新たばこ  キ翁
 霧はれて糠やく畑のけぶりかな  岩翁
 川芎の香に流るるや谷の水    晋子
 一ツをばあくらかかするかかし哉 キ翁」

 九月二十三日に、伊勢から長谷へ向かう。
 田丸は今の玉城町で、伊勢から宮川を渡り、西へ行った所にJR参宮線の田丸駅がある。伊勢本街道になる。
 檜ノ牧は榛原檜牧であろう。今の宇陀市になる。
 伊勢本街道は今の国道368号線422号線369号線に受け継がれている道で、飼坂峠を越えて伊勢奥津(奥津宿)へ出て、石割峠を越えて榛原へ抜ける。この間は終始深い山の中を通る。

 山畑の芋ほるあとに伏猪かな   晋子

 山の中では猪の姿を見ることもあっただろう。収穫した後の里芋畑何かにも、我が物顔で猪が寝てたりする。

 しぶ柿のいつまで枝の住ゐかな  キ翁

 渋柿が収穫されないままいつまでも枝に残っている。

 焼栗や灰ふきたつる山おろし   尺草

 宿場の茶屋で焼栗を売っていたが、山から吹き下ろす風がひどくて、近づくと灰まみれになりそうだ。

 こなし屋に子共等寒し稲むしろ  横几

 こなし屋はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「熟部屋」の解説」に、

 「〘名〙 穀物を脱穀、精製したりする作業所。こなし屋。こなし小屋。秋小屋。
  ※開化の入口(1873‐74)〈横河秋濤〉上「茅葺の門長屋、広庭の植ごみ、こなし部屋から牛部屋の景況」

とある。大きな唐臼が何台も並ぶ大規模なものもあるが、粉塵が飛ぶため火気厳禁になっている。粉塵爆発の危険があるからだ。
 そのため子供たちは寒くて稲筵を体に巻いている。

 かけわたす小屋別なり新たばこ  キ翁

 煙草は夏に収穫して乾燥させ、秋に新たばこになる。他の収穫物とは分けて特別な小屋が作られていたか。

 霧はれて糠やく畑のけぶりかな  岩翁

 山の中の霧は晴れても煙が残っていると思ったら、畑で糠を燃やしていた。ここでは籾殻のことか。

 川芎の香に流るるや谷の水    晋子

 川芎(せんきゅう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「川芎」の解説」に、

 「〘名〙 セリ科の多年草。中国原産で、薬用植物として栽培される。高さ三〇~六〇センチメートル。葉は二回三出の羽状複葉で各小葉には鋭い鋸歯(きょし)がある。茎葉は根生葉と同様に有柄で、葉柄の基部は幅広い鞘となってゆるく茎を抱く。秋、茎の先端に複散形花序をつけ、それぞれの枝の先に白い小さな五弁花を球状に密生する。根茎を頭痛、鎮静薬に用いる。中国四川省産の品が優れていたため四川芎藭を略して呼んだもの。漢名、芎藭。おんなかずら。女草。《季・秋》
  ※桂川地蔵記(1416頃)上「薬種〈略〉陳皮、川芎」

とある。秋の季語になる。

 一ツをばあぐらかかするかかし哉 キ翁

 案山子というと一本足で立っているイメージだが、一つだけ胡坐をかいている案山子がある、と思ったら作業をしている人だった。

2022年12月6日火曜日

 ワールドカップはPKまで行って負けてしまった。でも強豪クロアチア相手に互角の勝負ができたのは大きな収穫だった。こうなったらクロアチアに優勝してほしいね。
 PKで決めるのは残酷だから、何か別の方法がないかと思って、フェアプレーポイントで決めたらどうかと思ったが、そうなると審判の命がいくつあっても足りないので没。
 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「廿一日 二見朝熊
 いく秋をへん汐垢離は歯の薬  岩翁
 ひややかに汐こすみちや石と岩 キ翁
 岩のうへに神風寒し花薄    晋子
 汐こりや蜑の身を干す芋畠   横几
 あき風や波を浴たる一拝み   松翁
 蜑の子に游まけたりきりの海  尺草

   御師の家子あないにつく
 浜荻に足ふみこまん酔こころ  岩翁
 もみぢして朝熊の柘と云れけり 晋子
 奥しれぬ坂の便や落葉の色   キ翁
 風切に紅葉つむ也あさまやま  横几

   宮河の上に酒送りせらる
 色かへぬ松に柳のわたしかな  岩翁

   此花を肴にめでてと云れて
 根を石にこれは河原の野菊かな 亀翁
 重箱に花なき時の野菊かな   晋子
 角ト石をひろひのこせし野菊哉 尺草」

 九月二十一日は二見ヶ浦に行って、朝熊山に登った。

 いく秋をへん汐垢離は歯の薬  岩翁

 五十鈴川の垢離とはまた違い、二見ヶ浦では海水で潮垢離をする。
 塩で歯を磨くと虫歯予防になるとされていた。

 ひややかに汐こすみちや石と岩 キ翁

これはほぼ見たまんまと言って良いだろう。

 岩のうへに神風寒し花薄    晋子

 海岸の岩の上の風に靡く薄は、伊勢だから神風に靡く薄になる。海から吹く風は冷たい。

 汐こりや蜑の身を干す芋畠   横几

 潮垢離で塩水を浴びると海士になったような気分で、芋畑で体を乾かす。

 あき風や波を浴たる一拝み   松翁

 秋風といっても其角の句にあるように、晩秋ということもあってかなり冷たい風だったのだろう。波を浴びて体もすっかり冷えて、二見ヶ浦も一拝みして早々に引き上げたのだろう。

 蜑の子に游まけたりきりの海  尺草

 二見ヶ浦は冬の空気の澄み切った時だったら富士山が見えるが、この日は霧で何も見えなかったか。付近では海士の子が遊んでたが、余所の者大人としては寒くて遊ぶどころではなかった。

   御師の家子あないにつく
 浜荻に足ふみこまん酔こころ  岩翁

 二見ヶ浦があまり寒かったのか、一杯やって暖まって朝熊山に向かったのだろう。御師の子供に案内されながら、酔っ払って浜荻の中に迷い込んだりしながら朝熊山に登って行く。
 伊勢の浜荻は難波の葦。

 もみぢして朝熊の柘と云れけり 晋子

 朝熊黄楊(あさまつげ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「朝熊黄楊」の解説」に、

 「〘名〙 (三重県朝熊(あさま)山のものが有名なところから) 植物「つげ(黄楊)」の異名。〔重訂本草綱目啓蒙(1847)〕」

とある。ツゲは若葉の頃は黄色くなるが常緑樹なので紅葉はしない。
 ただよく知らないと、紅葉で黄色くなったのがツゲだと言われてしまいそうだ。

 奥しれぬ坂の便や落葉の色   キ翁

 朝熊山金剛證寺までは稜線の道が延々と続く。九月の中旬ともなると落葉道になる。

 風切に紅葉つむ也あさまやま  横几

 風切(かざきり)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「風切」の解説」に、

 「① =かざきりばね(風切羽)
  ※大智度論天安二年点(858)六二「六つの翮(カサキリ)成就しぬるときに、則ち能く遠く飛ぶべし」
  ② 船の上に立てて、風の方向を見る旗。風見(かざみ)。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ③ 桟瓦(さんがわら)葺きの切妻屋根で、螻羽(けらば)に近く、棟から軒まで葺き下ろした丸瓦。風切瓦。風切丸。〔日本建築辞彙(1906)〕」

とある。
 この日はやはり風が強かったか、風で落葉は掃き寄せられてうず高くなっているので風向きがわかる。

   宮河の上に酒送りせらる
 色かへぬ松に柳のわたしかな  岩翁

 宮川は伊勢神宮外宮の西側を流れる川で、この河原でまた酒を飲んだのだろうか。
 伊勢を出る日が二十三日になっているから、二十二日はここで宴会をやったのかもしれない。
 常緑の松の木に対して河原の柳の木は葉が散って川に落ちて、宮川の渡し舟のようだ。

   此花を肴にめでてと云れて
 根を石にこれは河原の野菊かな 亀翁

 これも宮川の河原だろう。野菊の花が咲いていて、これを肴に酒を飲めと言われた。河原の菊だから石の上に生えている。

 重箱に花なき時の野菊かな   晋子

 重陽の節句の重箱には、このころから食用菊が用いられるようになったのだろう。さすがに野菊は食べられない。

 角ト石をひろひのこせし野菊哉 尺草

 野菊は丸い石の上には生えるが角ばった石には生えないということか、よくわからない。

2022年12月5日月曜日

 談林十百韻の第九百韻「革足袋の巻」を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 それと訂正だが、八十五句目、

   乗物出しあとの追風
 腹切やきのふはけふの峰の雪   在色

としてたのは「峰の雲」の間違いだった。
 雲は魂に通じるもので、古代の中国語では音が似ていた。しばしば雲は死者の霊の喩えとして用いられる。

 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「津の泊を出
 伊勢道や往来の恩賤が秋    松翁
 世の秋や女の旅も伊勢こころ  キ翁
 いせ路かな秋の日しらぬ気を童 尺草

   雲津川にて
 はなすすき祭主の輿を送りけり 晋子

   外宮 近く拝まれ給へば
 日は晴て古殿はきりの鏡哉   同
 新藁の畚清めたり御白石    岩翁
 わたらへの秋や穂をつむ子等館 尺草
 唇のいろうそ寒し宮からす   亀翁
 能キ時や御供いただくことし米 松翁

   内宮 浮屠の属にたぐへて心へだちたる五十鈴川より遥かに拝す
 身のあきや赤子もまいる神路山 晋子
 また参る露の枝折や杉の札   横几

   廿日 於福井藤兵衛大夫御師家
    御神楽 謹上再拝
 神の秋七十わかしいもと神子  岩翁
 四手のつゆ油気はなしみこの髪 亀翁
 秋ふかしみこの足とり鶴のこゑ 尺草
 さかき葉の露にかかるや山廻り 横几
 烏帽子ふる秋の調や小手つづみ 松翁
 太々や小判ならべて菊の花   晋子」

 十七日の朝未明に桑名を発つと、三里ほどで四日市宿に付き、その少し先の日永の追分で伊勢街道に入ることになる。津宿までがほぼ十里で一日の行程になる。それからすると「津の泊を出」は十八日ということになる。
 ここから先は上方方面から来る人達が加わり、伊勢街道は賑わいを増す。津から伊勢神宮までは一日の行程になる。

   津の泊を出
 伊勢道や往来の恩賤が秋    松翁

 伊勢の賑わいに貧しい人たちも恩恵を受けている。

 世の秋や女の旅も伊勢こころ  キ翁

 女性の伊勢参りというと『奥の細道』の市振の遊女も思い起こされるが、当時は珍しくなかったのだろう。元禄九年の支考の『梟日記』の旅でも周防国と長門国との境に近い山中で、

 「次の日此山中を通るに、めの童共の伊勢詣するに逢ふ。首途も此あたりちかきほどならん。髪かたちもいまだつやつやしきが、みな月の土さへわるゝ、といへるあつき日には、我だにたふまじきたびねの頃なるを、いかに道芝のかりそめにはおもひたちぬらん。百里のあなたははるけき我いせのくにぞよ。道のほとりなる家によび入て何がしがかたに文つかはす。その奥に此童ア共もに茶漬喰せ給へ、柹本のひじりもあはれと見たまへるものをとかきて、
 姬百合の情は露の一字かな」

と記している。

 いせ路かな秋の日しらぬ気を童 尺草

 これも支考が目撃したような「めの童」であろう。箸が転げてもおかしい年ごろの娘たちの集団はかしましく、この世の春という感じで今が秋とは思えない。

   雲津川にて
 はなすすき祭主の輿を送りけり 晋子

 雲津川は雲出川で、松坂の北を流れている。午前中には越える所だろう。
 伊勢の祭主はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「祭主」の解説」に、

 「伊勢(いせ)の神宮に仕える祀職(ししょく)名の一つ。神宮祭主ともよばれ、神宮にだけある職名で、天皇にかわって祭祀に仕える大御手代(おおみてしろ)として、皇族または皇族であった者のなかから選ばれる。現在の神宮祭主は池田厚子である。この起源は、神宮鎮座のとき、大鹿島命(おおかしまのみこと)が祭主に任ぜられたのに始まるという(『倭姫(やまとひめ)命世記』ほか)。初めは伊勢への幣使をいった(「大神宮式」)が、のちに中臣(なかとみ)氏を選んで祭主とし、朝廷と神宮との仲執(なかと)り持ちの役をさせた。後奈良(ごなら)天皇(在位1526~57)以降は、中臣氏のなかでも藤波家が神宮祭主職を世襲し、1871年(明治4)の神宮改正後は、皇族祭主の制が定められ、大御手代とされた。なお、祭主の語は、早く『日本書紀』の「崇神(すじん)紀」7年8月の条にみえ、そこでは祭りの主(かんぬし)(または「つかさ」)と読む。[沼部春友]」

とある。
 この時の祭主は藤波景忠で、ウィキペディアに、

 「正保4年(1647年)、神宮祭主藤波友忠の子として生まれる。万治4年(1661年)2月、15歳で叙爵され、同年3月には祭主となる。順調に昇叙して延宝6年(1678年)には従三位まで昇ったが、天和4年(1684年)2月9日、鷁退して正四位下まで下った。2日後の11日には昇殿を許され、貞享2年(1685年)になって従三位に復し、公卿に列せられた。正徳4年(1714年)に子の徳忠に祭主職を譲った。享保12年(1727年)、81歳で薨去した。」

とある。
 花薄が靡いている姿を敬いひれ伏す姿に見立てて、その中をたまたま祭主の輿が通るのを目にすることができたか。

   外宮 近く拝まれ給へば
 日は晴て古殿はきりの鏡哉   晋子

 伊勢神宮参拝は翌日の九月十九日のことであろう。十八日到着した日に参拝したなら、『野ざらし紀行』のように夜の参拝になって千歳の杉を抱きしめる所だ。ここには「日が晴て」とあるから、着いた翌日の参拝になる。
 朝霧の中に朝日が差し込んで白く輝けば、御神体の鏡のようだ。

 新藁の畚清めたり御白石    岩翁

 畚はここでは字数からして「もつこ」ではなく「ふご」であろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「畚」の解説」に、

 「① 農夫などが物を入れて運ぶのに用いる、縄の紐のついたかごの一種。竹や藁で編んだもの。〔色葉字類抄(1177‐81)〕
  ※広本拾玉集(1346)一「早蕨の折にしなれば賤の女がふこ手にかくる野辺の夕暮」
  ② 魚を入れるかご。びく。
  ※読本・近世説美少年録(1829‐32)一「船なる魚籃(フゴ)を、もて来て」

とある。
 御白石は伊勢神宮の正殿の御敷地に敷き詰められた石で、式年遷宮の時に取り換える。式年遷宮は元禄二年にあり、芭蕉と曾良が訪れている。それから五年たったことになる。
 五年たっても白石は奇麗で、これを運び込んだ新藁の畚までもが清められたことだろう。
 
 わたらへの秋や穂をつむ子等館 尺草

 子等館(こらのたち)は伊勢神宮に仕える巫女さんのいるところで、芭蕉も『笈の小文』の旅で訪れて、

 「神垣のうちに梅一木もなし。いかに故有事にやと神司(かんづかさ)などに尋ね侍れば、只何とはなしおのづから梅一もともなくて、子良(こら)の館(たち)の後に、一もと侍るよしをかたりつたふ。
 御子良子の一もとゆかし梅の花
 神垣やおもひもかけず涅槃像」

と記している。
 これは春の話だが、秋だと自分たちの食べる稲を収穫する姿が見られたのだろう。

 唇のいろうそ寒し宮からす   亀翁

 秋も終わりで唇が乾燥してくると黒ずんでくる。宮からすはweblio辞書の「隠語大辞典」に、

 「1,神社に仕ふる人をいふ。宮雀ともいふ。
  2,神社に仕へて居る神官のことをいふ。宮雀ともいふ。宮には烏や雀が居るから。〔犯罪語〕
  3,神社に仕へて居る神官のことをいふ。宮雀ともいふ。宮には鳥や雀がいるから。
  4,神主のことをいふ。
  5,お宮仕へする神官の事をいふ。
  6,神主。〔一般犯罪〕
  7,神主のこと。」

とある。

 能キ時や御供いただくことし米 松翁

 前に祭主の輿が出て来たが、ちょうど新米の時期なので、御供の者が新米を下賜されたのだろう。

   内宮 浮屠の属にたぐへて心へだちたる五十鈴川より遥かに拝す
 身のあきや赤子もまいる神路山 晋子

 内宮が僧形だと入れないのは芭蕉の『野ざらし紀行』にも、

 「我僧にあらずといへども、浮屠の属にたぐへて、神前に入事をゆるさず。」

とある。其角も僧形で旅をしていたのがわかる。宇治橋を渡ることができなかった。
 「身のあき」は宇津保物語の、

 待つ人の袖かと見れば花すすき
     身のあき風になびくなりけり

か。秋と飽きが掛詞になる。今日の「飽きられた」というだけでなく「厭われた」という意味を含む。
 赤ちゃんでも参拝できるのに、何で僧形というだけでこの身を厭うのか、という意味。

 また参る露の枝折や杉の札   横几

 伊勢神宮の御札は杉でできている。横几は僧形でなかったのか、内宮でお札を貰って、またいつか来れることを祈る。

   廿日 於福井藤兵衛大夫御師家
    御神楽 謹上再拝
 神の秋七十わかしいもと神子  岩翁

 翌九月二十日は御師の福井藤兵衛大夫の家で御神楽を見る。御師はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「御師」の解説」に、

 「御祈祷師(おんきとうし)、御詔刀師(おんのっとし)の略称で、詔刀師や祈師(いのりし)ともいい、師檀関係にある檀那(だんな)の願意を神前に取り次ぎ、その祈願を代表する神職をさす。伊勢(いせ)地方では「おんし」と読む。‥‥略‥‥伊勢の御師のおもな機能は、まず檀家(だんか)・檀那とよばれる施主や願主と師檀関係を結び、諸願成就(じょうじゅ)の祈祷を行うことである。そして年ごとに祈祷の験(しるし)である祓麻(はらえのぬさ)や伊勢土産(みやげ)をもって諸国を巡歴する。土産の品目は熨斗鮑(のしあわび)はじめ伊勢暦、鰹節(かつおぶし)、伊勢白粉(おしろい)など多彩であった。また檀那の参宮には御師の自邸に宿泊せしめ、神楽殿(かぐらでん)において太々(だいだい)神楽を奏行、両宮参詣(さんけい)や志摩の遊覧などに便宜を図った。概してその活動は内宮(ないくう)側の宇治(うじ)より外宮(げくう)側の山田が隆昌(りゅうしょう)を極め、三日市大夫(みっかいちだゆう)、竜大夫(りゅうだゆう)、福島みさき大夫などは、その規模が大きく代表的なものであった。また山田の御師数では寛文(かんぶん)期(1661~73)に391軒、文政(ぶんせい)期(1818~30)に385軒を数えたという。これら御師の活動が師檀関係の強化や新たな檀家の獲得を目ざすことはもとより、全国的にみて伊勢信仰の普及や教化、あるいは伊勢講の組織に大きな役割を果たしたのである。」

とある。「檀那の参宮には御師の自邸に宿泊せしめ、神楽殿(かぐらでん)において太々(だいだい)神楽を奏行」とある、これであろう。
 神子はここでは「みこ」と読むが「しんし」のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「神子」の解説」に、

 「① 神に仕え、神楽を奏して神意を慰めたり、神意をうかがって神の託宣を告げたりする人。かんなぎ。みこ。
  ※和漢三才図会(1712)七「巫(かんなぎ・みこ)神子、和名、加牟奈岐、俗云美古」

とある。七十になる婆さん神子だったのだろう。

 四手のつゆ油気はなしみこの髪 亀翁

 四手(しで)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「四手・垂」の解説」に、

 「① 注連縄(しめなわ)、または玉串(たまぐし)などにつけて垂らす紙。古くは木綿(ゆう)を用いた。」

とある。神楽を舞う婆さん神子の描写になる。

 秋ふかしみこの足とり鶴のこゑ 尺草

 神子の足取りが鶴の歩み(かなりゆったりした歩み)だということで、神子の発する占いも鶴の一声ということになる。
 鶴の歩みは貞享三年正月の、

 日の春をさすがに鶴の歩ミ哉  其角

の発句がある。初日の厳かに登る様子を鶴の歩みとしている。

 さかき葉の露にかかるや山廻り 横几

 山廻りというのは、

 「よし足引の山姥が、山めぐりすると作られたり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.89714-89716). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 「よし足引の山姥が、よし足引の山姥が・山廻りするぞ・苦しき。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.89858-89860). Yamatouta e books. Kindle 版.)榊の葉を持つ姿は山の中を廻り歩く山姥のようだ。

といった謡曲『山姥』のイメージか。

 烏帽子ふる秋の調や小手つづみ 松翁

 手鼓はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「手鼓」の解説」に、

 「① 桴(ばち)を用いないで、手で打ち鳴らすつづみ。腰鼓(ようこ)やタンバリンの類も含まれるが、一般には能楽や長唄囃子の小鼓をいう。小つづみ。また、それを打つこと。
  ※源平盛衰記(14C前)三四「あの知康は、九重第一の手鼓(テツヅミ)と一二との上手ときく」 〔音楽字典(1909)〕
  ② 手を打ち鳴らして拍子を取ること。手拍子。
  ※浄瑠璃・猫魔達(1697頃)一「手つづみうって、一せいをあげ」

とある。この場合どっちなのかはわからない。神楽の様子であろう。

 太々や小判ならべて菊の花   晋子

 太々はこの場合は太太神楽(だいだいかぐら)のことであろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「太太神楽・大大神楽」の解説に、

 「[1] 〘名〙 伊勢神宮へ一般参詣人が奉納する太神楽のうち、最も大がかりな神楽。江戸時代、御師の邸内で催され、奉仕の楽人は一〇〇人を超えた。明治四年(一八七一)神宮の改革以来、神楽殿の規定により、太神楽は太太神楽・大神楽・小神楽の等級に分けて奉納されている。だいだい。
  ※梅津政景日記‐元和八年(1622)正月二八日「大大神楽御祈念幾久敷相極候由、久保倉所より拙者式へも状有」

とある。
 老婆神子の神楽ではなく太太神楽を見るとなると、小判が何枚も必要になる。太太と小判の橙色とを掛け、季節がら菊の花をあしらう。

2022年12月4日日曜日

 

 今日は浅間山、権現山、弘法山、吾妻山という秦野から鶴巻温泉にかけての定番のハイキングコースを歩いた。
 これは権現山展望台から見た富士山、寄付近の山々、そして秦野市街。

 そういうわけで、疲れたので今日は俳諧の方はお休みします。

2022年12月3日土曜日

 中国の方は気になるけど情報が入って来ない。竹のカーテンというよりも、マス護美の方が勝手にカーテンを閉めてるんじゃないかと疑いたくなるね。
 アップルも中国依存で中国政府の言いなりか。ツイッターを締め出そうとか、iPadはもうこれきりにしようかな。今はガラケーだけどスマホにするときもandroidの方にしよう。

 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「熱田奉幣
 芭蕉翁甲子の記行には『社大イニ破れ、築地はたふれ草むらにかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすへくその神と名乗る。よもき、しのふ、心のままに生たるそ、目出たきよりも心とまりて』とかかれたり與廃時あり甲戌の今は造営あらたに俣めでたし
 更々と禰宜の鼾や杉の月    晋子
 鳥のねや熱田にいさむ今朝の月 キ翁
 みやもりか前帯をかし後夜の月 岩翁

   津島牛頭天王
 縁の稲弥五郎どのを守りかな  キ翁

   十六日くはなにて
 此魚はけふの御斎かいせのうみ 横几
 大魚のこしてながるる穂蘆かな 尺草
 身にしむや蛤うりの朝の酒   キ翁」

 浜松から熱田神宮のある宮宿までは二十五里。十四日十五日の二日間で熱田まで熱田まで行ったのならかなりの強行軍になる。ただ、浜松藩の家老の別邸が三方ヶ原にあったのなら、御油までは姫街道を通ったと思われるから、それよりは若干距離が短くなるかもしれない。二十三里くらいか。
 「禰宜の鼾」「今朝の月」「後屋の月」とあるから参拝したのは朝未明で、ここから津島牛頭天王のある今の愛知県津島市の方を経由して桑名に行ったなら、熱田から佐屋街道を使い、佐屋宿から三里の渡しで桑名に出たのだろう。佐屋宿は名鉄尾西線佐屋駅の辺りになる。
 熱田神宮は芭蕉の『野ざらし紀行』に、

 「社頭(しゃとう)大イニ破れ、築地(ついぢ)はたふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすえてその神と名のる。よもぎ、しのぶ、こころのままに生ひたるぞ、中なかにめでたきよりも心とどまりける。
 しのぶさへ枯れて餅かふやどり哉」

とある。其角の引用は、

 「社大イニ破れ、築地はたふれ草むらにかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすへくその神と名乗る。よもき、しのふ、心のままに生たるそ、目出たきよりも心とまりて」

だから、概ね合っている。「石をすへく」は其角全集の方の誤植だろうか。
 『野ざらし紀行』は『甲子吟行画巻』という形で貞享の頃に既に成立していたので、其角も当然ながら読んだことだろう。ただ、一点もので刊本ではないので、閲覧できた人は江戸の門人か江戸に来る機会のあった門人に限られただろう。文章の方は書き写して他の地域に伝わっていたかもしれない。
 このあとすぐに熱田神宮は改修され、三年後の貞享四年冬、ふたたび『笈の小文』の旅で熱田を訪れた芭蕉は、

   そのとしあつ田の御造營ありしを、
 とぎ直す鏡も清し雪の花    芭蕉

の句を詠むことになるが、『笈の小文』は芭蕉の遺稿で、この先芭蕉の死後に知ることとなるだろう。そのあと元禄八年刊支考編の『笈日記』で広く知られることになる。
 『熱田神宮』(篠田康雄著、一九六八、學生社)によると、寛永十五年(一六三八年)から幕府へ造営の陳情がなされていたのだが、貞享二年(一六八五年)正月十六日にようやく「幕府は、熱田神宮の現状を検分するために、奉行二人と大工一人の派遣を決定したことを告げ」、「検分を命ぜられた、梶四郎兵衛、星合七兵衛の両奉行は、同年九月六日に熱田へ到着、十三日まで八日間にわたる調査を終えて江戸に帰」ったという。
 すぐに「大宮司以下の陳情団は、九月十七日熱田を出発して江戸へ向かう。」そしてそのまま江戸で年を越し、翌年正月十三日ついに着工が決定する。そして「早くも七月九日には、すべての建物が竣工。七月二十一日には、新本殿への晴れの遷宮が行われた。」という。
 まるで芭蕉の声が届いたかのような急展開だった。

 更々と禰宜の鼾や杉の月    晋子

 其角も元禄七年にこの新しくなった熱田神宮を目にすることになる。ただ訪れたのは朝未明だったようだ。浜松から二十三里を二日で来た関係で、宮宿への到着も暗くなってからだったのだろう。
 まだ暗い境内を長月の十五夜の月が照らし、禰宜もまだ鼾をかいているのだろうか、杉がさらさらと音を立てる。

 鳥のねや熱田にいさむ今朝の月 キ翁

 「鶏の音や」であろう。ようやく空も白み、鶏の声が勇ましく響き渡る。

 みやもりか前帯をかし後夜の月 岩翁

 後夜は夜半から明け方にかけてをいう。熱田に参拝したのはこの時刻だった。
 夜中の神社にも番人がいて、神職に準じて帯を前で結んでいた
 それから佐屋街道を陸路六里、津島牛頭天王社へ行く。この神社は明治の廃仏毀釈で津島神社になった。

   津島牛頭天王
 縁の稲弥五郎どのを守りかな  キ翁

 境内に弥五郎殿社がある。武内宿祢の子孫の堀田弥五郎正泰が夢のお告げで建てたと言われている。堀田正泰はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「堀田正泰」の解説」に、

 「?-1348 鎌倉-南北朝時代の武将。
  紀行高(きの-ゆきたか)の子。尾張(おわり)(愛知県)の人。父の遺志をついで南朝の後醍醐(ごだいご)天皇につかえる。貞和(じょうわ)4=正平(しょうへい)3年楠木正行(くすのき-まさつら)にしたがって河内(かわち)(大阪府)四条畷(しじょうなわて)で高師直(こうの-もろなお)軍とたたかい,同年1月5日正行とともに戦死した。通称は弥五郎。」

とある。以後津島牛頭天王社は堀田氏によって守られてきた。折から稲が奉納されていたのだろう。
 熱田から六里なら、昼前には津島に着いていたのだろう。佐屋宿から三里の渡しでその日のうちに桑名に到着する。

   十六日くはなにて
 此魚はけふの御斎かいせのうみ 横几

 御斎はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御斎」の解説」に、

 「〘名〙 (「お」は接頭語。「とき(斎)」は「時」で僧家での正午以前の食事の意) 寺または仏事法会(ほうえ)のときの食事。
  ※御湯殿上日記‐文明一一年(1479)九月四日「ひかんの中日にて、御とき御さたあり」
  ※人情本・春色雪の梅(1838‐42頃か)四「ほんの百ケ日だといふ真似方(まねかた)ばかりで〈略〉何卒(どうぞ)お斎(トキ)におつきなすって下さいまし」

とある。この場合は初七日の精進落し御斎か。

 大魚のこしてながるる穂蘆かな 尺草

 地引網であろう。魚と一緒に蘆の穂も網にかかるが、蘆の穂は網の隙間から流れて行き大きな魚だけが残る。

 身にしむや蛤うりの朝の酒   キ翁

 桑間の焼き蛤は名物で、元禄五年九月の「苅かぶや」の巻二十一句目にも、

   池の小隅に芹の水音
 焼付る蛤茶屋の朝の月      史邦

の句があり、朝早くから営業していたようだ。その苦労を思いながら、十七日は朝から酒を飲んで伊勢へと向かう。

2022年12月2日金曜日

 ドイツに勝ったくらいで祝日だなんて言ってたのがいたようだが、日本はもうドイツにでもスペインにでも勝てるレベルになったんだよ。少なくともたまには勝つくらいのレベルには。でも、優勝したら祝日にしてほしいね。
 やっぱ日本が勝つって気分が良いね。このまま勝ち続けたらみんな気分が良くなるから、日本全体が元気になる。だから勝つって大事なんだよ。
 負けた時にぼろ糞にけなすのも、勝ってほしいからなんだよ。わかってね。勝たなきゃいけないという意識を持ってほしいからね。
 俳句も句合というのは勝負だし、結社で何句選ばれるかも勝負といえば勝負だし、それに執着する気持ちもわかるけど、でも勝つことで誰か喜んでくれるのかなって思うと、勝つ意味というのが分からない。まちがっても日本中が歓喜に包まれるなんてことはないからね。

 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「雲名川より天竜へ下るに
 やま風や露うちはらふうんな川 岩翁
 水鏡渦巻かたやむら紅葉    横几

   大イニ切所といふまことに山高鳥不巣水清魚不住
 しかのねや耳にもいらぬ七ッ釜 松翁

   二又川椎河脇の御社は尤切所也
 打櫂に鱸はねたり淵の色    晋子
 淵や瀬やつら打波に凄立    キ翁

   かじま 舟にうつくまりて
 わが笠や膝にきせたる露しぐれ 尺草

   十三夜 浜松にて
 内玄関家老の客や十三夜    キ翁
 のちのつき魚屋尋ねん宿はづれ 松翁
 十三夜出馬の鈴やなみの音   岩翁
 後の月味方か原を人目かな   尺草

   いづれも古郷をかたるに
 後のつき松やさながら江戸の庭 晋子」

 秋葉山の帰りは今の天竜スーパー林道のある方のルートで天竜川の雲名橋の方へ降りたのだろう。浜松に行くにはこっちの方が近道になる。

   雲名川より天竜へ下るに
 やま風や露うちはらふうんな川 岩翁

 山から吹き下ろす風が雲名川の露を打ち払う。「露払い」という言葉があるように、この下りの山道もまた、この山颪の風が露払いをしてくれたのだろう。

 水鏡渦巻かたやむら紅葉    横几

 川の淀んだところは水鏡になって山の紅葉を写すが、やがて岩の間を渦巻き、紅葉の山の映像も乱れて行く。

   大イニ切所といふまことに山高鳥不巣水清魚不住
 しかのねや耳にもいらぬ七ッ釜 松翁

 切所はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「切所・節所・殺所」の解説」に、

 「〘名〙 峠や山道などの要害の地。交通の要所に設けた防御用のとりで。また、難所。
  ※吾妻鏡‐建保元年(1213)五月二日「又於二米町辻大町大路之切処一合戦」
  ※咄本・醒睡笑(1628)一「つづら折りなるつたひ道、人馬の往来たやすからぬ切所(セッショ)あり」

とある。ここでは難所の意味であろう。今は船明ダムの湖になっている辺りは、昔は難所だったのだろう。かつては七ッ釜と呼ばれる洞穴があったか。鹿の声も耳に入らぬ程の難所だったのだろう。山高くして鳥巣まず、水清くして魚住まず。
 山から平野部に出るあたりに今も二俣という地名がある。二俣川が天竜川に合流する。

   二又川椎河脇の御社は尤切所也
 打櫂に鱸はねたり淵の色    晋子

 天竜川は船で下ったのだろう。この辺りでは淵も深くなる。

 淵や瀬やつら打波に凄立    キ翁

 凄立は読み方がわからない。「すさびたち」か。

   かじま 舟にうつくまりて
 わが笠や膝にきせたる露しぐれ 尺草

 二俣の対岸は鹿島という地名になっている。遠州鉄道の西鹿島駅がある。ここで陸に上がって浜松へ向かったのだろう。今も笠井街道という名の道がある。その笠井に掛けて「わが笠や」だったか。
 九月九日の朝、三島で重陽を迎えて其角等御一行は由比まで行き、九月十日に清見潟から宇津の山を越える。そして十一日に小夜の中山を越えて掛川に至り、十二日に秋葉山を詣で、十三日に山を下りて浜松で十三夜を迎える。

   十三夜 浜松にて
 内玄関家老の客や十三夜    キ翁

 十三夜は浜松藩の家老の別邸か何かに呼ばれたのだろうか。内玄関は裏口、勝手口のこと。まあ、俳諧師というのは御用聞きみたいに裏から入るものだったのだろう。
 九月の十三夜は八月十五日の名月に対して「のちの月」と呼ばれる。

 のちのつき魚屋尋ねん宿はづれ 松翁

 別邸だと宿場からは外れた所になる。酒の肴を調達するには不便な所だ。

 十三夜出馬の鈴やなみの音   岩翁

 十三夜のお月見に、馬で浜名湖に行く人もいたのだろう、馬の鈴の音がする。

 後の月味方か原を人目かな   尺草

 浜名湖へ行人は三方ヶ原を通って行く。浜名湖の東になる。

   いづれも古郷をかたるに
 後のつき松やさながら江戸の庭 晋子

 この家老の別邸の松を見ていると、江戸の自分の家を思い出す。其角も親が名医だったから、それなりの家に住んでいたのだろう。

2022年12月1日木曜日

 それでは「隨縁紀行」の続き。

 昨日は沼津から由比が九里強と書いたが、三島から由比までの間違い。
 九月十日、由比から朝未明に薩埵峠を越えて、夕方に宇津の山を越えればその日は岡部宿泊であろう。約十里。
 九月十一日、ここから島田宿までが四里。大井川の川止めがなければ翌日は小夜の中山を越えて掛川まで行ける。

  「小夜中山
 草鞋に椎はさまりて後れけり  尺草
 赤松はことにつれなし山の色  キ翁
 道役にもみぢはくなり小夜の山 晋子」

 椎は椎の実であろう。草鞋の藁の間に挟まると痛そうだ。
 名前は赤松だというのに松は紅葉しない。周りは皆紅葉しているのに赤松はつれない奴だ。キ翁(亀翁)というと老人を想像するが、元禄三年の『俳諧勧進牒』には「十四歳亀翁」とある。元禄七年だと十七歳になる。岩翁の息子。
 道役は道路の管理人で、紅葉を掃いて街道をきれいに保つ。

  「十二日かけ河より秋葉山へ入
    森より三くら 犬居 秋葉
 袖すりや息杖てきる松の蔦   松翁
 あさけしき鹿追ふ小屋に煙かな キ翁
 蛛の巣に呉柿かかる山路かな  尺草
 合羽着て四かにすかるや秋葉道 晋子

   四十八瀬といふは名のみ也わたらはかそへてといふに八十余瀬なり。
 瀬の数やあの谷此谷のつゆ時雨 尺草
 せきれいや垢離場へ下る岩伝  横几

   秋葉禅定下山の時
 木々の露いとへ御影の上包み  キ翁
 かし鳥に杖を投たるふもとかな 晋子」

 掛川から東海道を離れて秋葉山に向かう。
 森は新東名の森掛川インターの方に森町がある。そこから北へ三倉川に沿ってゆくと今の森町三倉がある。県道58号線袋井春野線が昔の秋葉街道を踏襲するものであろう。
 山を越えて気田川の方に出ると春野町に今も犬居城跡がある。この辺りが犬居だったのだろう。秋葉山の下社がある。秋葉山上社はその北側の山の中にある。

 袖すりや息杖できる松の蔦   松翁

 息杖(いきづゑ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「息杖」の解説」に、

 「〘名〙 物をかつぐ者が持つ杖。かごかきなどが一息入れたり、荷物を支えるときなどに使用する。
  ※武家事記(1673)下「旗に用の器。請筒あり、手縄あり、息杖あり」

とある。
 芭蕉の旅は馬に乗ることが多かったが、其角さん御一行は駕籠に乗ることが多かったのだろう。其角はともかくとして、あとのメンバーはあまり旅に慣れてなかったのかもしれない。
 駕籠かきは袖に触れるじゃまっけな蔦を息杖で切りながら進んでゆく。
 松翁は初登場だが、『俳諧勧進牒』に、

 水仙の葉に勢あるこほりかな  松翁

の句がある。名前からすると岩翁、キ翁の一族という感じだが。

 あさけしき鹿追ふ小屋に煙かな キ翁

 秋葉山での朝の景色だろう。山の中なので鹿は多そうだ。

 蛛の巣に呉柿かかる山路かな  尺草

 呉柿はよくわからない。蛛は蜘蛛。

 合羽着て鹿にすかるや秋葉道  晋子

 この場合の合羽は防寒着だろう。山の中で寒くて合羽を着て、鹿の後をついて行くような秋葉街道だった。
 四十八瀬は三倉川の別名で、数えてみたら八十以上の瀬があったという。川を渡った回数のようだ。

 瀬の数やあの谷此谷のつゆ時雨 尺草

 これは時雨にふられたというのではなく、瀬を渡るたびに濡れるという意味。

 せきれいや垢離場へ下る岩伝  横几

 垢離場は垢離をする場所で、垢離はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「垢離」の解説」に、

 「〘名〙 (「垢離」はあて字で「川降(かわお)り」の変化したものともいう) 神仏に祈願する時、冷水を浴びてからだのけがれを除き、身心を清浄にすること。真言宗や修験道(しゅげんどう)からおこった。水ごり。
  ※山家集(12C後)下「あらたなる熊野詣でのしるしをば氷のこりに得べき成けり」

とある。そこにセキレイが降りてきて岩を伝ってゆく。
 秋葉禅定下山の時は、上社参拝を終えて下社へ降りる時の句であろう。

 木々の露いとへ御影の上包み  キ翁

 木々は御神体を包む包み紙のようなものだから、露で濡れるな、ということか。

 かし鳥に杖を投たるふもとかな 晋子

 かし鳥はカケスのこと。しわがれた声で鳴いたり、いろいろな音の真似をしたりするという。杖を投げるというとどんな声で鳴いたのだろうか。意味もなく考えさせるのも其角の句なのかもしれない。

2022年11月30日水曜日

 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「原回頭
 朝霧や空飛ッ夢を富士颪    晋子
 富士は常雪半面や秋の色    キ翁

   富士川渡航
 不盡や笠赤蜻蛉のわたる空   横几

   清見
 あかつきの鹽やき遠し荻の色  岩翁
 ほと鴫の渡るも淋しきよみかた 尺草

   しつはた
 紙子屋に冬はと問し山路哉   尺草

   うつの山
 袖にたく香爐や消ん蔦の道   キ翁
 小手袖の襦袢うつなりつたの道 横几
 御所柿をしらで過けりうつの山 尺草
 うらがれや馬も餅くふうつの山 晋子」

 ずっと発句が並ぶ。

   原回頭
 朝霧や空飛ッ夢を富士颪    晋子

 題の「回頭」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「回頭」の解説」に、

 「① 頭をめぐらすこと。ふりむくこと。
  ※正法眼蔵(1231‐53)仏性「長老見処麽と道取すとも、自己なるべしと回頭すべからず」
  ② 船、飛行機などが進路を変えること。変針。転進。
  ※官報‐明治三七年(1904)六月二七日「我艦隊は一斎に右八点に回頭し」

とある。
 沼津では富士山は愛鷹山に隠れてよく見えないが、原の辺りに来るとよく見えるようになる。その辺りで富士山の方を向いてということか。
 三島から原までは三里くらいで、暗いうちに三島を出たなら、朝霧が晴れる頃だ。
 朝霧の中ではどのみち手前の愛鷹山も見えないが、心の中では空を飛んで富士の姿を思い浮かべる。
 芭蕉の『野ざらし紀行』の、

 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き 芭蕉

の句を思い出させる。

 富士は常雪半面や秋の色    キ翁

 富士山はだいたい上半分だけが雪になっている。夏は雪がないので、半分雪が積もり富士山らしくなり、麓の方が赤く染まると秋の色になる。

   富士川渡航
 不盡や笠赤蜻蛉のわたる空   横几

 赤蜻蛉は「あかとんばう」であろう。富士川の河原には赤蜻蛉が飛び回っていたのだろう。
 富士山に笠雲がかかる時は風が強い。晋子(其角)の句にも富士颪とあるから、下界も風が強かったのだろう。

   清見
 あかつきの鹽やき遠し荻の色  岩翁

 沼津から由比までは九里強で、多分そこで一泊して暁に薩埵峠を越えたのだろう。この時代の清見潟で実際に塩焼きをしてたかどうかは分らないが、家々から煙が昇る時間に峠を越えたのではないかと思う。

 ほと鴫の渡るも淋しきよみかた 尺草

 ほと鴫はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「ぼと鴫」の解説」に、

 「① 鳥「やましぎ(山鴫)」の異名。
  ※俳諧・毛吹草(1638)二「八月〈略〉鴫つき網 〈略〉 ぼとしぎ」
  ② =かやくぐり(茅潜)」

とある。ウィキペディアには、

 「日本では北海道で夏鳥、本州中部以北(中部・東北地方)と伊豆諸島で留鳥、西日本では冬鳥である。」

とあるが、江戸時代の寒冷期には東日本でも冬鳥だったか。秋も終わりになって清見潟に渡ってきている。

   しつはた
 紙子屋に冬はと問し山路哉   尺草

 「しつはた」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「倭文機」の解説」に、

 「〘名〙 (古くは「しつはた」) 倭文を織る織機。また、それで織った織物。しず。
  ※書紀(720)武烈即位前・歌謡「大君の 御帯の之都波(シツハタ) 結び垂れ 誰やし人も 相思はなくに」

とある。ここでは紙子のことか。
 紙子は風を遮るので冬の防寒具として優れている。山路は宇津の山の山路で、丸子宿あたりか。

   うつの山
 袖にたく香爐や消ん蔦の道   キ翁

このあと、宇津の山が四句続く。
 宇津の山越えは蔦の細道とも呼ばれていた。『伊勢物語』九段に、

 「わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦かへでは茂り、もの心ほそく、すずろなるめを見ることと思ふに」

とあることから来ている。
 ここまで来ればさすがの在原業平の香を焚き込んだ袖の香も消えてしまったことだろう。

 小手袖の襦袢うつなりつたの道 横几

 小手袖はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「籠手袖・小手袖」の解説」に、

 「① 当世具足の袖の一種。籠手の、肘(ひじ)から上の部分に取りつけた袖。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ② 武具の籠手袋のように袖口を細く先すぼみに仕立てた袖。
  ※談義本・遊婦多数寄(1771)三「猿若勘三が小手袖の衣にてかるわざがあたった評判」

とある。ここでは②の方か。袖口の細い襦袢を砧で打つのを宇津の地名に掛けたのだろう。

 御所柿をしらで過けりうつの山 尺草

 御所柿は奈良の御所で作られた完全甘柿。木練柿ともいい、枝になった状態で既に甘柿になっている。この時期は宇津の辺りでも作られるようになったか。知ってたら食べたのに。

 うらがれや馬も餅くふうつの山 晋子

 うらがれはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「末枯」の解説」に、

 「〘自ラ下一〙 うらが・る 〘自ラ下二〙 (「うら」は「すえ」の意)
  ① 草木の先の方が色づいて枯れる。《季・秋》
  ※歌仙本人麿集(11C前か)下「我せこを我が恋をれば我宿の草さへ思ひうら枯に鳧(けり)」
  ※太平記(14C後)二「岡辺の真葛裏枯(ウラカレ)て、物かなしき夕暮に」
  ② 声がかれる。かすれる。
  ※浮世草子・西鶴織留(1694)六「こはつきも舌ばやにうらがれ、かくもいやしく成物かな」
  ※夜行巡査(1895)〈泉鏡花〉二「泣出す声も疲労のために裏涸(ウラカ)れたり」
  ③ うらぶれる。うらぶれてわびしいさまである。」

とある。ここでは季語で、①の意味になる。
 草が枯れて馬も食う草がないから茶店の餅を食っている、ということで、本当か?話を作ってないか?と首をひねらせるあたりが其角の持ち味といえよう。

2022年11月29日火曜日

 「夜も明ば」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 其角の『句兄弟』は元禄七年の自序があるが、その中には九月六日に江戸を発って、十月十一日に大阪の芭蕉の所に辿り着くまでの行程が記されている「隨縁紀行」が収録されている。これを読んでみようと思う。テキストはグーグルブックスの「其角全集」、老鼠堂永機、阿心菴雪人校訂『其角全集』東京博文館蔵版(明治三十一年刊、博文堂)を用いる。

  「甲戌仲秋
 木母寺に歌の会ありけふの月  晋子

 三春の花一夜の月風光うつりゆけども友かはらず。ことしは石山寺に詣て湖水を見ん、いや嵯峨の法輪にとまりて広沢をなどと、とりどり心定めかね遠き思ひをつくして出たつ日をいそぎけるに、思の外の風雨に旅行をさえられて今さらに身をやるかたなく人々一夜の逍遥をうらやみ侍るなり。
 九月六日とかくして江戸をたつ俳連だれかれ送り申され綰柳の吟もあり。

 首途をみよ千秋の秋のかぜ   岩翁
 幾人の送りていさむ初紅葉   亀翁

  六郷のわたりにて
 草枕稲干縄のしづくかな    横几

   箱根峠にて
 杉の上に馬ぞみえ来る村櫨   晋子

 秋の空尾上の松をはなれたりといふ吟ここにもかなふべし。

   三嶋にて旅行の重陽を
 門酒や馬屋の脇の菊を折    晋子
 朝影や駕籠で礼するきくの酒  岩翁
 きく酒や畠の中の小家まで   尺草
 間鍋に所のきくや旅屋形    亀翁」

 九月六日に江戸を出て九月九日に三島に泊まるというのは、九月六日に江戸から戸塚まで、九月七日に戸塚から小田原まで、九月八日に三島までという、一日十里平均の標準的な日程で三島へ行き、一泊してから翌日九月九日の重陽を迎えたということだろう。この日芭蕉は奈良にいた。

   甲戌仲秋
 木母寺に歌の会ありけふの月  晋子

 木母寺(もくぼじ)はウィキペディアに、

 「東京都墨田区にある天台宗の寺院。」

で、

 「この寺の寺伝によれば、976年(貞元元年)忠円という僧が、この地で没した梅若丸を弔って塚(梅若塚:現在の墨田区堤通2-6)をつくり、その傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まると伝えられる。梅若丸は「吉田少将惟房」という名の貴族の子であったが、梅若丸5歳の時に父を亡くし、7歳の時に出家して比叡山延暦寺に入ったが、兵乱に遭い逃げる途中、人買いに騙されて、この地まで連れてこられたのであった。」

とあり、

 「1590年(天正18年)に、徳川家康より梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんだ「梅柳山」の山号が与えられ、江戸時代に入った1607年(慶長12年)、近衛信尹によって、梅の字の偏と旁を分けた現在の寺号に改められたと伝えられており、江戸幕府からは朱印状が与えられた。江戸に下向する勅使たちが度々訪れている。」

とある。東向島の白髭神社より北の方の隅田川沿いになる。
 名月の夜にはここで和歌の会があったのだろう。いつも同じメンバーで春は花見して秋は月見する。
 それは楽しいことだけど何か物足らず、今年こそは近江石山寺へ詣でて湖水の名月を見たいなだとか、嵯峨の広沢の池の月も捨てがたいとか思いつつ、天候に恵まれず、結局出発が九月になってしまった。
 綰柳(わんりゅう)は柳の枝を輪にした飾りで、張喬の「寄維揚故人」の詩に、

 離別河邊綰柳條 千山萬水玉人遙

の句があるという。離別の吟ということになる。

 首途をみよ千秋の秋のかぜ   岩翁

 「首途」はは「かどで」と読むと字足らずなので「たびだち」だろうか。千秋(せんしう)は長い月日の意味があり、今吹いているこの秋風は、長年吹き続けて昔と変わらぬ秋の風で、そこの古人の旅を偲ぶという意味であろう。
 岩翁はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「多賀谷巌翁」の解説」に、

 「?-1722 江戸時代前期-中期の俳人。
  江戸の人。幕府の桶(おけ)御用をつとめる。松尾芭蕉(ばしょう)初期の門人のひとりで,のち榎本其角(えのもと-きかく)にまなぶ。狩野昌運について,画もよくした。享保(きょうほう)7年6月8日死去。通称は長左衛門。号は岩翁ともかく。編著に「若葉合」。」

とある。

 菊植て我と水くむ明日かな   岩翁(続虚栗)
 隈篠の廣葉うるはし餅粽    岩翁(猿蓑)

などの句がある。

 幾人の送りていさむ初紅葉   亀翁

 これは見送りが沢山来たというよりも、大勢での旅立ちを見送るかのようにようやく色づき始めた紅葉も勇んでいるようだ、という意味だろう。
 亀翁はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「多賀谷亀翁」の解説」に、

 「?-? 江戸時代前期-中期の俳人。
  多賀谷巌翁の子。父の影響ではやくから俳諧(はいかい)をはじめ,榎本其角(えのもと-きかく)にまなぶ。元禄(げんろく)3年(1690)「一夏百句」をよみ,八十村(やそむら)路通編「俳諧勧進牒(かんじんちょう)」におさめられた。通称は万右衛門。」

とある。

 むめの花しばし置けり卓の上  キ翁
 はる風に脱もさだめぬ羽織哉  同

などの句が『俳諧勧進牒』にある。
 この二人は同行者で、このほかにも横几、尺草、松翁の句が道中の句に記されている所を見ると、最低でも六人のグループで旅をしていたことになる。芭蕉の旅とはやはりちがう。

   六郷のわたりにて
 草枕稲干縄のしづくかな    横几

 六郷橋は貞享五年に流されて、この時は渡し舟になっていた。
 草枕はここに泊まったということではなく、単に旅という意味で用いたのであろう。
 六郷の辺りの田んぼは稲刈りが終わっていて、稲を干す繩が張られている。「しづく」は旅の悲しみという古典の羇旅歌の本意で添えたものであろう。
 横几は、

 星出て明日の花見のきほひ哉  横几
 追ひ落す鮎のよどみや石の音  同

などの句が『雑談集』にある。

   箱根峠にて
 杉の上に馬ぞみえ来る村櫨   晋子

 山は紅葉しているが、街道の関所の辺りの平地は杉並木なので、杉並木を出て山を登って行く馬が紅葉の中を行くのが見える。
 櫨は「はぜ」あるいは和歌では「はじ」と読むが、村櫨で五文字だとどう読むのかよくわからない。ここでは「むらもみぢ」か。紅葉するので、

 山ふかみ窓のつれづれとふものは
     色づきそむるはじの立ち枝
             西行法師
 鶉なく交野にたてるはじ紅葉
     ちりぬばかりに秋風ぞふく
             藤原親隆

といった歌がある。
 「秋の空尾上の松をはなれたり」というのは

 秋の空尾上の杉にはなれたり  其角(炭俵)

の句のことで、まさに箱根峠の秋の空は街道の杉を離れたり、ということになる。
 三島に着くと翌日は重陽で、

   三嶋にて旅行の重陽を
 門酒や馬屋の脇の菊を折    晋子


という句を詠むことになる。宿屋には馬屋があって乗掛馬がいたのだろう。そこの脇の菊を折って、旅の重陽とする。
 重陽は菊の花を折って菊酒にするので、

 心あてに折らばや折らむ初霜の
     おきまどはせる白菊の花
             凡河内躬恒

の歌があるように、菊の花は折ることを本意とする。

 朝影や駕籠で礼するきくの酒  岩翁

 朝三島宿を発つとき、駕籠の前で重陽の挨拶をして菊酒を飲み交わす。

 きく酒や畠の中の小家まで   尺草

 菊酒を籠の中に持ち込んで、宿場を離れて畑の中に出るまでゆっくりと飲む。
 尺草は、

 雨に折れて穂麦にせばき径哉  尺草

の句が『俳諧勧進牒』にある。

 間鍋に所のきくや旅屋形    亀翁

 間鍋(かんなべ)はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「酒の燗をするための鍋。多くは銅製で、つると注ぎ口がある。」

とある。燗鍋という字だとわかりやすい。
 旅の途中の重陽はその場所の菊を使った菊酒を燗にして飲む。

2022年11月28日月曜日

 中南米の強豪にびしっと守られてしまうと手も足も出ないという感じだったね。完全に蛇に睨まれた蛙状態で、すっかり委縮してコスタリカに楽に守らせてしまった。
 ドイツとスペインが引き分けで混戦になった。とにかくあとはスペインに勝つしかない。
 中国がどうなっているかは情報が少ないのでよくわからないが、独裁国家に対しては中国人だって戦っているんだと思うと、我々が降伏してどうするんだという所だ。

 それでは「情と日本人」の続き。最終回。

 「情はエゴイズムで濁ってはいけない。生き生きしていなければいけない。また、宣長が歌に詠んだように、諸情緒が絢爛と華やかでなければいけない。教育はこれを目標とすべきです。」(p28)

 エゴイズムという抽象的で西洋的な概念はもう少し見直す必要があるだろう。基本的に情は利己的なもので、「情けは人の為ならず」というのは自分のためになるからだ。だから、形而上学で理屈をいじくってエゴイズムがどうのこうのと論じるべきではない。本居宣長が現代に生きてたら西洋意と言うところだろう。
 また、情が絢爛と華やいだところで、基本的に限られた生産量で人口が増えれば人は過酷な生存競争にさらされる。そして情というのはその生存競争に勝って進化してきたものだ。
 根本的な所で生産性の向上と人口抑制というものがないなら、豊かな感情の花も過酷な生存競争の夏草に埋もれてゆくことになる。
 自然な情は自然の争いを生む。理性は思想の争いを生む。意志は意志同士ぶつかりあってやはり争いを生む。争いの根底にあるものを解決しなければ、いくら豊かな情を解放しても、哀れと悲しみの涙を解放するだけだ。

 「今の日本は情が濁ってひからびてしまっている。これを早く変えなければ大変なことになってしまう。そう思うのです。充分に膚で分ってほしいですね。なんか私がいっている間だけ、なんとなくそういう気がするが、済んでしまったら忘れてしまうんでしょう。そういうものなんです。」(p28)

 むしろいつの時代でもどこの国でも人間の情は変わらないんだと、それを信じるべきだと思う。ただ、思想の支配がそれを抑圧しているだけで、この「情と日本人」がドグマとして一つの思想や教条として受け継がれるなら、結局それがまた健全な情を抑圧することになりかねない。
 自然な情で物を言っているのに「お前の情は濁ってる」だとか言うことになる危険がある。一つの哲学として情が思想の支配下に置かれると、正しい情と間違った情が教条となって、それによってヘイトと暴力がまかり通ることになる。それだけは防がなくてはいけない。それは岡潔さんの意図に反することなのは言うまでもない。
 大事なのは岡潔さんが残した言葉を理論として受け止めるのではなく、あくまでその情を引き継ぐことだ。言葉は違ってもいい。言ってることが違って、感情を思想的な抑圧から解放することが大事だ。
 「肌でわかってはほしい」というのはそういうことで、「頭で分って」なんて言ってはいない。

 「人類というのは音楽が割合よく分るんですが、情が流れているとそれを感じるんでしょう。流れが止むとそれを覚えていないんでしょうね。見極めないから存在まで行かないのでしょうね。見極めるには自分で情を働かさなければ。人の動かすのをただ情的に感知するに留めておくから、その人の情の動きがなくなると一切がなくなってしまう。」(p28)

 この見極めは情で見極めるのであって、論理や思想で見極めるなら情は抑圧され失われる。情から理性を湧き興すのであって、情と理性を対立させるのではない。だから「見極めるには自分で情を働かさなければ」とある。
 理論を学んでそれで情をコントロールするというのが西洋式の考え方だが、そうではなく情に基づいて理論を絶えず湧き興し、情に基づいて修正し、情に基づいて再構築を繰り返す。
 簡単なことで、どんな理論も最初の仮説は情から沸き起こる。そしてうまく行かなければ絶えずそれを修正する。絶えず修正や再構築を繰り返すうちに理論は真理の近似値を取るようになる。
 ところが人は得てして一つの理論を作ってしまうとそれに縛られる。修正したくてもそれをすると「ぶれた」などと言われる。それを恐れて理論をかたくなに守り、情をそれに合わせようとして情を抑圧し、ゆがめてゆく。
 一つ理論を立てても矛盾を恐れてはいけない。「人生というのは矛盾したものだ」と多くの人が言うとおりだ。そもそも無矛盾の論理体系なんてものは不可能だ。
 他人の指摘に従って情を硬直した理論に封じ込めてゆけば、情の動きがなくなり「非情」になってゆく。大事なのは自分の情だ。

 「自分の情を動かす。自分で見極めなければいけない。それをやってほしい。これが知性の教育なんです。知が大事だっていうなら、学校はこれをやらなければいけないのです。自分で情を動かして、情の目で見極めるということを充分やらなけらばいけないのです。どんなにやらしても、やらし過ぎるということはない。」(p28~29)

 教育においては教条を叩きこむのではなく、自発的な思考を促すのが基本になる。「自分で見極める」ことが大事で、他人が勝手に見極めていいものではない。
 批判は問題点の指摘にとどめるべきもので、徹底的に論破すべきものではない。そもそもどんな大哲学者の思想だって結局はその人個人の感想にすぎないのだから、凡人が自分の感想を述べることは当たり前のことだ。
 思想というのはその人の情に基づいて、その人個人の試行錯誤の上に組み立てられた一つの感想の体系にすぎない。「それはあなたの感想でしょ」というなら、「その『あなたの感想でしょ』はあなたの感想でしょ」ということになり、その「『あなたの感想でしょ』はあなたの感想でしょ」もあなたの感想でしょということになって、きりがない。
 思想はみんなその人の感想にすぎないんだから、そこに思想信条の自由というものが有る。特定の思想が正しくて、あとのは間違ってるというのなら、思想信条の自由は存在しない。独裁あるのみだ。
 教育は特定の思想を吹き込むのではなく、一人一人の感想の体系を育てることだ。自分自身の情に基づいて、自分自身の感想を育てて行く。それが必要だ。

 「何しろ難しい問題です。松とか竹とかが分るのは知だといって放ってあるでしょう。これが世界の人の目です。はなはだここは見えにくい。よく見てみると情が分るからです。松の趣というものが情で分るから、それで松とか竹とかが教えられるんですね。」(p29)

 知の成立はまず情によって引き起こされ、その感想を投げかけ、その繰り返しによって朧げな概念が形成される。この概念は情を伴うもので、情と不可分な知識として成立する。
 知識の成立過程を見ずに知識が最初からあるものと考えてしまうのは、まさに「初めに言葉ありき」の発想だ。言葉によって知識が成立するのではない。個々の非言語的に形成された経験の蓄積に、他人の言った言葉がぴたっと当てはまったとき、初めて知識は言葉になる。
 西洋の文化はこの言葉にもたらされる過程を見ずに「初めに言葉ありき」から始める。そして「言葉が自分」で、肉体の衣を着ていると考える。そこで松や竹でも何かしら松一般、竹一般の普遍的な概念が先験的に存在するかのように考える。
 どうしてそれができたか説明がつかないから、プラトンは想起説(アナムネーシス)などといって前世を持ち出してそれを説明している。なら前世でどうやってそれを獲得したかというと、それも説明できないから前前前世と延々と遡ってゆくしかない。ニーチェはこれを永劫回帰と呼んだ。
 クリスチャンはこれを「言葉は神なりき」の一言で解決する。

 「情が働かなかったら教えようがない。盲に自然を教えようとするようなもの。知の地図の上に描くのが意志であり、情あるが故に言葉も有り得る。そして形式も有り得る。それが知。根本は情だということを充分自覚してもらわなければいけない。」(p29)

 めくらの比喩は正確ではない。知覚にどのような障害があろうとも、それは自然の認識の妨げにはならない。なぜなら知覚は情報処理の道具にすぎないからだ。道具の不備で自然に関するある種の情報が欠落するだけで、その部分は他の情報で補うことで自然を認識している。そのため盲に自然を教えるのは何ら難しいことではない。
 そもそも健常者だってこの宇宙の情報のほんのわずかしか感じることができないんだから、五十歩百歩というものだ。我々は量子を見ることはできないし、多次元時空を感じることもできない。もしそれを感じることができる生命体がいたなら、我々はみんなめくらということになる。
 意思は知の地図の上に描かれ、その地の地図を作るのは情の働きだ。「形式」というのは形式論理学的な意味での論理形式のことだろうか。平たく言えば「理屈」だが、言葉も理屈も情の上に成立する。
 めくらの比喩はむしろ今日ではAIに自然を教える難しさと考えた方がいいかもしれない。AIは情を持たず、あらかじめプログラムされた論理に基づいて論理を「自発的に」学習する。それは自発的に学習せよと命令されているのであって、その自発性に情はないし自由もない。
 AIは言葉も形式もあるが情はない。人間の情を解析してそれに似たものは作れるかもしれないが、情は存在しない。ジョン・サールの中国語の部屋の比喩のようなものだ。

 「人本然の情に従うのが道徳である、といった人が一人もいないというくらい人類は馬鹿なんです。それで世界がうまく治まる訳がない。だけど一人もいませんよ。
 儒教なんか見てますと、仁が基だといっているのに、その仁が情だとはいっていないんだから、余程わからないのですね。仏教の修行を見てご覧なさい。意志で修行しようとする。それで多くは難行。苦行です。大抵そうです。」(p29~30)

 これは前にも述べたように偏見であって、「盲に自然を教えようとするようなもの」と同様に偏見と言わねばならない。
 情から知への過程は試行錯誤であって、だから情は間違ったこともたくさん言う。ただ硬直した教条(ドグマ)と違って、修正が利く。絶えず修正することで知の精度を上げてゆくことができる。だから、岡潔さんがこういったからと言って、それを教条にしてはならない。

 「情が本体であるということを知って、まっ先に教育を変えなければいけない。学校教育もですが、家庭教育を変えなければいけない。赤ん坊の時は情の中に住んでいますが、生まれて三ヶ月は『優しさと喜びの世界』に住んでいる。情の世界は一口にいって『優しさと喜びの世界』ですが、これがずっと続けば良い。青年ぐらいまで続けば良い。」(p30)

 もちろん「優しさと喜びの世界」は理想であって現実ではない。現実の赤ちゃんも様々な周囲の状況から、過酷な状況に置かれることも少なくない。ましてそれが青年くらいまで続いたらどんな温室育ちか。
 わざわざ優しさと喜びを奪うようなことはしてはいけない。これは当然のことだ。ただ、そうでないのが普通だという前提で今の教育は考えなくてはならない。むしろ人は赤ちゃんの頃からヘイトにさらされる、ということも考えなくてはいけない。
 当然ながら、既に大人たちの生活がある所に赤ちゃんは突然投げ込まれるのだ。そして、それまでの大人たちの生活の一部を奪いながら自分の世界を獲得してゆく。それは生存の取引だ。
 「優しさと喜びの世界」は無条件に与えられているのではない。それは大人との間の取引によって獲得される。大人が先にいて、そこを様々な大人の情で埋め尽くしている場所に、赤ちゃんは遅れてやって来る。そこで赤ちゃんは自分の情で塗り替える。それを助けるのが家庭教育だ。
 母親だって人間だ、赤ちゃんの泣き声には悩まされるし、育児放棄したいという情に何度もかられながら赤ちゃんを育てて行く。父親だってそうだ。自分の仕事をしなければ赤ちゃんを食わせてゆけなくなる。そこで親も兄弟も親戚もその周囲の人も、絶えず悩みながら赤ちゃんを育てて行く。それは裸のままの情のぶつけ合いだ。それが生存の取引だ。

 「みんながそうなる為には、一人一人が先ずわかってもらいたい。わかる為には自分の情の目で見ることですが、いちいち見て成程とわかったら、まだわかってない人にいう。そのやり方なら初めは極く少しの人ですが、直ぐ広がる。そうしてもらいたいと思う。」(p30)

 「成程とわかったら」というのは各自がそれぞれの情の目でわかることであって、知識としてわかることではない。だから岡潔さんと見解が違ってたとしてもそれはかまわない。情の所で共感できるものがあるかどうかそれだけが大事だ。言っていることは違っててもいい。
 細かい違いにこだわらないなら広がりやすくなる。一々小さな違いに目くじら立てて批判し合ってたのではいつまでたっても広がらない。
 岡潔さんの文章だけでなく、今のこの私の文章もそのように受け取ってほしい。

 「世界を救う道は日本人ほどやり易くはないだろうけど、結局は情が人であると教えることです。ヒューマニティーが道徳に一番近い。それだのにカントは『実践理性批判』、理性というようなものが道徳に近いという。見当違いです。」(p30~31)

 カントの『実践理性批判』の無力については西洋人も戦後の実存主義の中で散々指摘してきたことだ。二十世紀の虐殺は「汝為すべし」の理性の声で感情を押し殺して行われた。その反省があったからだ。
 ただ、西洋文明はなかなかロゴス中心主義から抜け出せない。今の人権思想も、人権が大切だということは間違ってないが、それを情ではなくロゴスによってやろうとしている所で問題だらけになり、世界中に多くの反人権派を生む元となっている。
 ヒューマニティーは残念ながら人間を「ロゴスを持つもの」と規定する思想から逃れてないので、日本人が考える「情」とは程遠い。ただ、日本人が通常用いている「ヒューマニティー」だとか「ヒューマニズム」だとかいう言葉は、日本独自の意味が付け加わっているため、それが情であるかのように感じられるだけだろう。
 むしろ情に近いものはエモーションの方ではないかと思う。エモいは正義だ。
 また、情だけでは世界を救えないことも学ぶべきだろう。情は世界の様々な問題を考えるきっかけとなりエンジンにはなるが、ゴールは与えていない。
 情に基づいて、情を離れないようにしながらも、とにかく考え抜かなくてはならない。そして何が問題なのかを理解しなくてはならない。そして、何よりも大事なのは憎しみに負けてはいけない。誰かを憎み、誰かを抹殺することで解決できるほど世界の闇は浅いものではない。でもよく考えれば結局単純な事実に行き着くはずだ。
 つまり、地球は有限で無限の生命は不可能という単純な事実だ。そこから必然的に生存競争が生まれる。生きるために必死になる。情の多くはまず自分が生きるためにその多くを割くことになる。
 でも、自分が先ず生きなくてはならないにせよ、沢山のこの世界で生存競争に敗れて死んでゆく人や悲嘆にくれる人の情の声が聞こえるなら、何十億もの人がその情に促されて思考を進めるなら、必ず悪い方向にはゆかない。
 その情の声を抑圧する冷淡な指導者の声に従ってはいけない。
 ごく一部の特定の可哀想な人の物語を作って、情を利用しようとする連中について行ってはいけない。

 「赤ん坊は理性など働かしはしません。心の世界に住んでいる。むしろ、あんなものを働かさないから、こころの世界に住んでいる。真情の命じるままですね。それが道徳であり、それが幸福なんです。」(p31)

 赤ん坊も生まれた時から必死に生きよう泣き叫んでいる。その声をいつまでも心の中に持ち続け、過酷なこの世界で生存の取引を繰り返し、自分の居場所を確保する。まずそれが前提条件になる。
 そして、そのあとなお多くの情の声が聞こえるなら、それは必ず世界を良い方向に導く。
 道徳は自己犠牲ではないし、自分の家族の犠牲の上に成り立つものでもない。宗教や主義主張は犠牲を命じるかもしれないが、聞く必要はない。
 自分を犠牲にすることは、必ずその家族や友人をも犠牲にすることになる。なぜならあなたが犠牲になることを悲しむからだ。そんなところに幸福はない。
 生活を切り詰めて家族の進学の夢も犠牲にして、いくら世界平和のための良かれと思って寄付をしても、そんなことでは周囲の人がみんな不幸になるだけだ。その不幸の連鎖の行き着くところはテロリズムだ。
 そんなのは党の活動のために生活資金をつぎ込んでいる人だって同罪だ。やはり行き着くところはテロリズムだ。
 自分の情を大切にするということは、自分の情を犠牲にしないということだ。そうでなければ世界は救えないのはもちろんのこと、自分自身すらも救えない。
 自分の情に忠実に考え、行動してゆけば、それが道徳となり、そして自ずと幸福もついてくる。自分が幸せになれない道徳が人を幸せにできるはずがない。

2022年11月27日日曜日

 台湾で親中派が勝利を収めた場合、最悪の場合台湾人が北京の支配を完全に受け入れるというのも、今後想定しなくてはならない。
 台湾の無血併合で、まず台湾からの亡命者が日本に殺到する。これも大きな問題だが、それは序の口にすぎない。
 そして、次に中国は沖縄が固有の領土だということを主張してくるだろう。その時沖縄も島が戦場になることを良しとせずに、中国への無血併合を望むなら、日本も残念ながら沖縄を中国に割譲せざるをえなくなるだろう。
 そして日本と中国との間に緩衝地帯はなくなる。中国が日本を併合しようとするなら、日本の国土が戦場になる。まあ、ウクライナと同じ状況になるわけだ。
 しかもウクライナよりもっと悪いことに、北にロシアがいる。そして北朝鮮が動かないという保証もない。韓国もまた北が侵攻してきた場合、抵抗せずに統一朝鮮が誕生する可能性すらある。
 そしてさらにもっと最悪の事態を想定するなら、アメリカが共和党政権になった時にモンロー主義に一気に傾き、アジアに干渉しないという事態も有り得るし、その時はウクライナの武器支援を停止する可能性すらある。こうなったらロシアも中国もやりたい放題だ。
 その最悪の前提の中で日本人はどう戦うかを考えなくてはならない。
 岡潔の言葉が胸に突き刺さる。

 「日本民族の滅亡だけは何としてでも喰い止めたいと思う」

 一足先に首都を離れたのは正解だったかな。

 それでは「情と日本人」の続き。

 「情がどうして生き生きとしているのかということですが、今の自然科学の先端は素粒子論ですね。これも繰り返しいっているんだけど、その素粒子論はどういっているかというと、物質とか質量のない光とか電気とかも、みな素粒子によって構成されている。素粒子には種類が多い。しかし、これを安定な素粒子群と不安定な素粒子群に大別することができる。
 その不安定な素粒子群は寿命が非常に短く、普通は百億分の一秒くらい。こんなに短命だけれど、非常に速く走っているから、生涯の間には一億個の電子を歴訪する。電子は安定な素粒子の代表的なものです。こういっている。
 それで考えてみますに、安定な素粒子だけど、例えば電子の側から見ますと、電子は絶えず不安定な素粒子の訪問を受けている。そうすると安定しているのは位置だけであって、内容は多分絶えず変っている。そう想像される。
 いわば、不安定な素粒子がバケツに水を入れて、それを安定な位置に運ぶ役割のようなことをしているんではなかろうか。そう想像される。バケツの水に相当するものは何であろうか。私はそれが情緒だと思う。」(p.26~27)

 素粒子は今では「量子」という言葉を使った方が良いだろう。
 これはよくわからないが重ね合わせ状態になった量子が時空を構成していて、それが収縮した時に我々に観測される安定した量子になるということだろうか。
 これだと、我々が認識している物理的事象は、無数の観測されてない不安定な量子の中に浮んでいるようなイメージになる。
 これを感情の海に浮かぶ理性の比喩として用いているのだろうか。まあ、案外意識というのはこうした安定しない観測されない量子の場によって生み出されているのかもしれないが。まあ、ここには今は深入りしないでおこう。

 「やはり情緒が情緒として決っているのは、いわばその位置だけであって、内容は絶えず変っているのである。人の本体は情である。その情は水の如くただ溜ったものではなく、湧き上る泉の如く絶えず新しいものと変わっているんだろうと思う。それが自分だろうと思う。これが情緒が生き生きしている理由だと思う。生きているということだろうと思う。」(p27)

 人間の自分自身の脳回路であれ、人間は意識してそれを設計したり組み替えたりできない。それは意識の力を越えた所で形成されている。それを意識は捉えることができない。
 その回路は非常に微細でいて複雑で、人はそれをまだ認識できない。その意味ではそれは水のような捉えどころのないもので、それでありながら、この脳が自分の衝動を突き動かし、それが理性を働かせる原動力にもなっている。
 改めて人間というのは自分自身すら知り得ないものでありながら、その知り得ないものとして生きていると言わねばならない。それはひょっとしたら何らかの量子の場によって生じているのかもしれない。
 これは古い形而上学の動物機械論のような、機械的な必然性によって脳が支配されているわけではない。いわゆる古典物理学の因果律によって支配されているのではなく、量子の不確定な要素によって支配されている。そこで我々は自分自身を見出す。

 「自分がそうであるように、他(ひと)も皆そうである。人類がそうであるように、生物も皆そうである。大宇宙は一つの物ではなく、その本体は情だと思う。情の中には時間も空間もない。だから人の本体も大宇宙の本体にも時間も空間もない。そういうものだと思うんです。」(p27)

 これは仏教の梵我一如の影響だろうか。特に神秘体験をした人が陥りやすい罠でもある。
 神秘体験はただ既存の認識に囚われない自由を与えるもので、宇宙そのものの認識を与えることはない。
 正確にはある特定の量子の場が意識や感情を生み出すことはあっても、それ以上のものではない。それはほんの少しだけ時間を止めたり、時間を逆行させたりできるかもしれないが、時間空間のない世界があるわけではない。

 「ともかく、生きるということは生き生きとすることです。それがどういうことであるか見たければ幼児を見れば良い。情は濁ってはいけない。また情緒は豊かでなければいけない。」(p27)

 幼児は脳回路の発達に様々な可能性を持ってはいるが、我々はそれを導くことはできない。それは幼児の脳そのものの自発性によるもので、それは本人にすら制御できるものではなく、まして他人である親や先生が干渉したところで、それを止めることはできない。
 ただ、過酷な干渉は心に傷を残すだけとなる。

 「教育はそれを第一の目標とすべきです。でなければ知はよく働かない。意志も有得ない。意志というのは知が描いた地図の上に、この道を歩こうと決めるようなものだから。地図がぼんやりしていれば意志もぼんやりしてしまう。だから情、知、意の順にうまく行かないのです。その基は情です。」(p27)

 つまりその人の持つ本来の情をできる限り自由に伸ばすことができれば、その上に知が形成され、理性が働き、意志が生まれて来る。

2022年11月26日土曜日

 それでは情と日本人」の続き。

 「道徳がうまく行かないのは、情を重んじないからです。情のみがこれが道徳か、これが不道徳かを見分けることができる。これは教えなくても分ってる。だから道徳というものが有り得るんです。」(p.24)

 道徳は情による。ただ注意しなくてはいけないのは、不道徳もまた情から発するもので、特に嫌悪や憎悪の情は、情報操作によって容易に植え付けることができる。正しい道徳感情を働かせるにはこうした情報操作に対する耐性を付ける必要がある。
 誰かものすごく可哀想な人の物語を聞かせて、そこで誰が悪い、誰を殺せなどと誘導する。こうしたものを安易に信じないようにすることも大事だ。
 情は道徳のエンジンだが、安全に走るには理性のハンドルが必要なのも確かだ。情だけでは善行を成すことはできない。それゆえに『論語』にも、「學びて思はざれば則ち罔(くら)し。 思ひて學ばざれば則ち殆(あやう)し」とある。思うのは情の作用で道徳のエンジンに当る。それに対してしかるべき運転操作を学ばなければ必ず道徳の車は人を撥ねることになる。
 学ぶというのはその人の自発的な自然に任せれば、本然の情に基づいて必要なものを学んで行く。これに対し外から吹きこまれた誘導された知識は必ず危険なことになる。道徳教育は職人の技と一緒で、学ぶんではなく盗むものと言って良いだろう。
 今の教育が危ないのは、情報ばかりを詰め込んでその情報がきちんとその人本来に結びついてないことで、自分の身につかない情報で行動する習慣をつけたなら、簡単に情報操作に乗せられて間違ったことをしでかす。まあ、権力者にしても革命家にしても、最初からこうした洗脳が狙いなのだろうけど。

 「ところで、日本人は情の人ですが、今だって意識してはいませんが、情の人の如く行為しているんだけれども、その自覚がないから知や意の働かしようがない。だからそれから後、さっぱり進展がない。だから情の人であるというのが正しいのである、それが大事である、という自覚をしてもらうことが非常に大事なんです。」(p.24~25)

 日本の教育では情に基づいて知識を吸収するのではなく、情を否定されたところに外から知識を吹き込まれる。だから知識は暗記科目になって地に足がついていない。かえって学校の成績の悪かった人の方が、社会に出て有能だったりする。
 そのため情と知識が分裂していることが多い。言ってることとやってることが違うというか、理想だけは立派だが、やってることはひどく卑しかったりする。
 立派な理想を掲げているのに、それをどうやって実現するかを考えずに、政府のあら探しやスキャンダル追及ばかりしている国会議員などもそうだ。
 「日本人は二階には世界のあらゆる哲学書が並んでいるが、一階ではそれと全く関係なく生活している」と言ってた日本に来た哲学者もいたが、一階で問題になっていることを二階に上がって解決しようとしない。二階に上がると一階(現場)で起きている問題が途端に見えなくなる。「事件は会議室で起きている」という映画の通りだ。
 情の大切さを自覚するというのは、知性を捨てることではない。知性に情という動力を与えることだ。それが「自覚」だ。

 「その為には一人一人が自分がそうなって隣の人に話し、成程そうだとうなずかして行くのが早いんだけど、そのきっかけが仲々つかめないらしい。で、同じことを繰り返し繰り返しいう外ないだろうと思う。同じ一つのことについてだから、同じ話になってしまうんですが、それを繰り返すのはその効果がないからです。一人になった時、やっぱりそう思っているということもなければ、新たな人にその話をするということもしないから、ひとつも進展がないんですね。」(p.25)

 この一階の情と二階の知識の分離状態の中で議論すると、知識は知識だけで空回りして、情についてはそれを正確に語る学問の言葉がない。
 岡潔さんはそこからどうしても先へ進めなくなってしまったのだろう。
 ここから先に進む方法があるとすれば、伝統文化、それも言葉になったものについて、自分の日常の延長でとらえ直すしかないのではないかと思う。
 儒学や仏典では昔の人の情が伝わらない。だから和歌、連歌、俳諧、あるいは物語などの昔の人の情を学べるものを、西洋の文学理論を排して直に学ぶ必要がある。これは本居宣長がやったことでもある。あの時代は「漢意」を排することだったが、今は西洋意を排して、できる限り今の日常の感覚の延長線上で昔の文学を再現する。それしかないと思うし、結果的にそれはこの私がやってきたことだった。
 今の情をもってして古人の情に直に共感できたなら、その情は日本人の根底にある不易の情といえる。
 ところが日本の国文学は長いこと西洋文学をまず学び、西洋文学の知識を古典に当てはめようとしてきた。これでは国文学はその上っ面を撫でるだけで、その情を理解することができない。
 西洋文学の目で見るのではなく、一日本人の目で古典文学を捉え直した時、我々は初めてそれを語る言葉を見つけることができる。
 俳諧は笑いの文学である。だからその笑いは今日の芸人たちの笑いに受け継がれている。あるあるネタ、自虐ネタ、パロディネタ、シュールネタ、それはすべて芭蕉がやってきたことだった。芭蕉だけではない。今のラノベの笑いを理解するなら『源氏物語』にもそれを発見することができる。
 だが、国文学者はえてして芸人やラノベを軽蔑しがちだ。西洋のコメディや純文学が高尚だと信じていて、日本のものは低俗だと思っている。だから、低俗な感性で古典を読むことを嫌うし、ヘイトすら覚えるようだ。筆者も何度頭ごなしに怒られたことか。
 まあ、岡潔さんが生きていたら、きっとこんなのは駄目だと言って怒られそうだが。
 ただ、いつまでも堂々巡りで同じことを言い続けるのではなく、一歩でも前へ進もうという気持ちがあるなら試してほしい。情について今の大衆の情と昔の大衆の情を同時に学べる方法を見逃す手はないと思う。

 「一通りその自覚が行き渡ってからでなくては、教育一つも変えられはしません。今のままの情を粗末にする教育では、赤軍派の学生のようなものがみすみす出るということが分っていても、変えられない。どう変えればいいかは簡単だけど、大勢の同意がいるんですね。それには一人一人に自覚してもれうより仕方がない。で、根気よく繰り返し繰り返しいっている訳なんです。」(p.25)

 まあ、今でも出所してきた赤軍派の生き残りをマスコミが賛美して、元首相を暗殺したテロリストを英雄として祭り上げているのを見ると、これからもこういう連中が出続けることになるし、それを待望する風潮すらある。
 だからこそ、繰り返すだけではだめだと言いたい。西洋意から日本人の情を開放するには、我々のそのままの情を古典の道に繋がなくてはならない。

 「一つは情がエゴイズムで非常に濁っている。もう一つは、生気が充分生き生きしていないんです。情というものだけど、生きるということは情が生き生きすることだと思う。」(p.26)

 なら、今の日本人がどういうものに生き生きしているか、それを見なくてはいけない。
 大学のキャンパスにいて授業に出て来る学生を見る限りでは、みんな死んだような眼をしているかもしれない。でも今の日本人もいろんなことに熱狂しているし、生き生きとする瞬間もたくさんある。そこに飛び込まなくてはならない。
 そしてまず自分が生き生きとしなくてはいけない。

2022年11月25日金曜日

 それでは「情と日本人」の続き。

 現代人が情がなくなっているというのは、おそらく事実ではない。人間の脳に発するものがそう簡単に変わることはない。変わったのはその脳の周辺環境の方だ。
 人々がまだ小さな集落に住んでいることには、毎日目にする人は皆顔見知りで、プライベートな細かいことまで熟知していた。だから、その中で困ったことがあった人がいれば、全員で対処することができた。それこそ一人も漏らさずにケアできた。
 たまに旅人が通ると、それは「まれびと」とも呼ばれ、歓待すると同時に事細かいことまで穿鑿して無害かどうか確認したことだろう。
 稀人だけに滅多にそんな人も来ないから、何年何十年たって再開してもちゃんと覚えてる。そして困ったことがあったら助けてあげる。そんな時代があった。
 江戸時代になり大都市が形成されるようになると、毎日すれ違う人の名前を全員覚えることすら不可能になり、怪しげな人がいつもうろうろしているような状態になる。そうなると、人情の及ぶ範囲は大分限られてくる。
 芭蕉が富士川の捨子に、

 「富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の、哀気(あわれげ)に泣くあり。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露ばかりの命待つまにと、捨置きけむ、小萩がもとの秋の風)、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、

 猿を聞く人捨子に秋の風いかに

いかにぞや、汝ちちに悪(にく)まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝の性(さが)のつたなきをなけ。」

と突き放したようなことを書いているのも、当時捨子は珍しいことでなく、都市や街道筋など人の多い所ではもはや対処しきれなかったからだと思われる。
 残念ながら日本に孤児院ができたのは明治のことだ。広い日本に捨子が十人二十人とか、数えられる程度しかいなかったなら、誰かが面倒を見ることができたかもしれない。数が多ければお寺だって抱えきれない。お寺はそうでなくても家督を継げない二男三男以下の吹き溜まりになっていて、いくらお布施を集めても収容人員に限界がある。
 近代化前の社会では常に人口増加圧にさらされている。その人口調節を江戸時代までは「捨子」という手段で調節していたことは想像に難くない。
 小さな村落共同体であっても、飢饉がくれば飢餓に陥り、口減らしが行われたような時代に、街道の捨子を、それも一人二人でない数を養うことはできなかった。それが芭蕉の「唯これ天にして」だった。
 悲しいけど放置するしかない。ただ、その悲しみをいつまでも心に留め、決してあきらめたり思考停止したりすることがなければ、いつか解決できる時代が来るかもしれない。それが「情」の果たす本来の役割だ。
 すべての問題を解決するには人間はあまりにも無力だ。公害だってそうだ。一人いくら悲しんでもそれだけで解決はできない。ただ問題を心にとどめておく、それが精いっぱいなんだ。
 まして今日の情報過多の時代には、世界中の不幸な人の情報が分刻みで入って来る。それに一々対処できるほど人間の脳のキャパシティはない。
 この無力さも傍から見れば、「こんなに困っている人がいるのに何無視してんだ」みたいな非難はいくらでもできる。世界中のニュースを搔き集めてくれば困った人など何十億人もいる。その中の一人を取り上げて「何でこれを放っておくんだ。人間は情を失ったとか思えない」とが言っても、もはや言い掛かり以外の何でもない。
 ただ、こういうプロパガンダがマスメディアの言説の上で溢れかえっている。それをいちいち大問題だと真に受けていれば、確かに「今の人は感情を失った」という神話が出来上がる。
 パラリンピックのときなどもマスコミは二三の選手が障害からいかにして立ち直って選手となったかなんてお涙頂戴のドラマを作っていたが、はっきり言ってパラリンピックに出るような人は全員同じようなドラマを持っていると言って良い。
 マスコミや左翼はプロパガンダのためにごく一部の人に同情を集中させようとする。それは一つのサンプルで留まるなら罪はないが、これに同情しないと途端に感情がないだとかヘイトスピーチを始める。
 人間は怒ると我を忘れるものだ。だから、人間の自然な感情を十全に引き出そうと思ったら、絶対にヘイトを煽ってはいけない。どこそこに可哀想な人がいる。ただ、誰しもそれぞれ事情があってその人ばかりにかまってられないのに、「人間の情がないのか」とひたすら罵倒する。こういうヘイトが社会にあふれかえれば人間関係はぎすぎすして、解決できるものも解決できなくなる。
 感情は大事だがヘイトは感情を殺す感情だとわきまえるべきであろう。まあ、「わきまえない女」というのも流行ってるようだが。
 この糞ったれな社会に少しでも人情を取り戻させようというのなら、「情がない」なんて言ってヘイトをまき散らすより、むしろ押し隠された情を察してやることの方が大事だ。

 「情操教育という言葉ですが、情操教育が大事だっていったら、絵をかかせたり、音楽ひかしたり。そんな馬鹿な。人本然の情がよく働くようにするのが情操教育です。まるで見当外れをやっている。」(p.21)

 まあ、絵を描いたり音楽をやったりするのが自然な感情の表現であるなら、これは間違ったことではない。
 間違っているのは「かかせる」「ひかしたり」の方だ。感情表現は自発的なものであって、強要されるものではない。
 だいたいこういう教育というのは、決して自由に絵を描かせたり音楽を鳴らせたりしない。漫画を描いたら怒られる、ロックやヒップホップも怒られる。ジャズまでがぎりぎりOK。
 七十年代だと小学校の図工では輪郭線を描いただけで「それはマンガだ」なんて言われたものだ。スフマートをやらないと正しい絵とは見なされなかった。音楽だって、ロックは不良の音楽だし、音楽の時間は普通の流行歌でさえ駄目だった。
 結局情操教育も政治が絡むと、自分たちに都合のいいように怒りを爆発させようという意図が働くものだ。
 そんなことをするくらいなら放置する方がよっぽどいい。「かまわぬ」の精神だ。

 「ともかく情を軽んじたんでしょう。だから本居宣長
   しきしまの大和心を人問はば
        朝日に匂ふ山桜花
情緒というものが大事であると思っているんでしょう。はっきりそうと分っていませんが、何となくそれが分ったんでしょうね。それで『漢意清く捨てられるべし』といったり、『しきしまの大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花』といったりしたんでしょう。」(p.21)

 「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という言葉がある。桜は剪定してはいけない。大和心も同じで、いかに自然のままに放置するかが大事だ。放置しつつ、それを捻じ曲げようと屁理屈こねる奴を矯正する。それが正しい情操教育だ。江戸時代の人が言った「かまわぬ」の精神が大事だ。

 「情が自分だから、情を大事にせよとずばりといえなかったんだが、あそこでもっと自分を振り返ってみる暇があったら、それの分る日本人も出て来たかも知れない。あそこでは、ぐずぐずしていたら滅ぼされてしまうというそういう状態にあったから、大急ぎで明治維新をやった。それから外国と戦う為に兵器を準備した。」(p.24)

 黒船がやって来た時にアメリカが日本に押し付けた要求は概ねタイ王国と同等のもので、いきなり日本を植民地にしようというものではなく、かなり友好的なものだった。事実、タイはその後も独立を維持した。インドや中国に対する対応とはかなり違っていた。
 ただ、長州藩士の吉田松陰は、この時の西洋列強の脅威を利用して、西洋の真似をして世界征服に乗り出す野望を抱いていた。事実吉田松陰はアジアはもとよりオーストラリアまで掠め取れと『幽囚録』で言っている。

 「今急に武備を修め、艦略ぼ具はり礮略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加・隩都加を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからしめ、朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・呂宋の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし。」

 「濠斯多辣利の地は神州の南に在り、其の地海を隔てて甚しくは遠からず、其天度正に中帯に在り。宜なり、草木暢茂し人民繁殷し、人の争ひ取る所となるも。而して英夷開墾して拠るも僅かに其の十の一なり。吾れ常に怪しむ、苟も吾れ先ず之を得ば、当に大利あるべしと。」

 明治の軍国主義はこうした思想に煽られたもので、明治に入って正岡子規も明治十八年の『筆まかせ』で、

   「文明の極度
 世界文明の極度といへば世界万国相合して同一国となり、人間万種相和して同一種となるの時にあるべし 併シなほ一層の極点に達すれば国の何たる人種の何たるを知らざるに至るべし。」

と言っている。「一つの世界」というのは一見きれいごとのようだが実質は世界征服だ。正岡氏句は明治三十年正月の『明治二十九年の俳句界』では、

 「日本が世界列國の間に押し出して日本帝國たる者を世界に認められんとするには日清戦争は是非とも必要なりしなり。日清戦争は初めより此目的を以て起りたる者に非れども少くも此大勢は日清戦争の端を開かしむる上に於て暗々裡に之を助けたるや凝ひ無し。」

と言っている。明治以降の日本の軍国主義は、単なる防衛の範囲を越えた「一つの世界」のための戦いだった。
 そして、昭和二十年、敗戦の時、和辻哲郎は日本の世界統一の敗北として捉えた上で、逆に日本は自らの文明を捨てて西洋文明に統一されることを説いた。

 「しかるに、日本の伝統を捨てるといふ努力は、日本人のみのなし得る特殊な体験である。」(和辻哲郎『倫理学』(下)一九四九、岩波書店、p.588)

 「要はヨーロッパ文化の摂取によっておのれを新しくすること、新しい国民的性格の創造、新しい文化の創造に邁進することである。」(和辻哲郎『倫理学』(下)一九四九、岩波書店、p.589)

 これが戦後思想の根底になる。戦後思想はこれに左翼の革命思想が加わって、アメリカ以外による(ロシア、中国、イスラム国でもアメリカ以外なら何でもよく)世界統一を目指すものとなり、それが終始一貫した執拗な反日哲学として今日に至っている。
 先日のワールドカップドイツ戦の日本の勝利も、さぞかしこうした人たちには不快だったに違いない。
 こうした戦後思想が学会を席巻している状態では、「自分は情だ」なんて言って理性信仰の西洋哲学に逆らい、本居宣長を評価する機運が生まれなかったのは当然だ。

 「兵器を準備しようと思ったら、西洋の学問より仕方がない。それで西洋の学問を取り入れた。そのうちにすっかり西洋の学問に溺れてしまった。戦後はそれが極端にまで来ている。」(p.24)

 単に国を守るための軍事力なら、ここまで徹底的に自国の文化を破壊する必要はなかった。世界征服の準備だからこそ、徹底させる必要があった。
 そして、戦後は他国併合を望み、日本の文化をちょっとでも擁護すると軍国主義者だと言われ、そんなことをしたらまた何百万もの人が死ぬなどと言って人殺し呼ばわりされるようになった。

 「こんな風な訳で、日本人はまだ一度も応神天皇以前の日本人がどんな風だったかということを、ゆっくり考え自覚する暇がなかった。それで一人も、日本人は情の人であると、それが人として正しいのである、といった人はいないのです。が、それが非常に大事です。」(p.24)

 実際、応神天皇以前の日本というと文献資料が希薄でその内実を探ることは困難だ。
 ただ、日本の弥生時代から応神以前までは江南系の文化の影響を強く受けていたことは想像できる。高床式の倉庫があり、村の入口には鳥の飾りがあり(これは鳥居の起源と思われる)、鵜飼や養蚕をし、歌垣で結婚相手を選ぶといった風習は、長江文明に起源があると思われる。この地域は桜の文化でもある。
 そして、その長江文明の哲学は楚人であった老子にその片鱗が見られる。無為自然を尊び作為や論理を嫌う。形式ばった道徳や戒律を嫌う。
 応神以前にこうした無為自然の崇拝、真理を言葉にすることを嫌う「神ながら言挙げせぬ国」は、元来長江文明から来たもので、そのため応神以降の日本の国体の形成も儒教よりも道教が重視された。何よりも「天皇」という称号が道教の神天皇大帝から来ているのを見てもわかる。
 いまだに、我々はその自覚を欠いている。
 明治の国家神道でさえ、ついに明確な教義や戒律が作られることはなかった。これは「神ながら言挙げせぬ国」が守られたと言ってもいい。神道には教義も戒律もない。ただ自然を敬い、自然の偉大さを前にしてそれを恐れ身を慎む。これに尽きる。この基本は応神以前のものだと思う。中国やインドの文化にはない要素だ。