それでは情と日本人」の続き。
「道徳がうまく行かないのは、情を重んじないからです。情のみがこれが道徳か、これが不道徳かを見分けることができる。これは教えなくても分ってる。だから道徳というものが有り得るんです。」(p.24)
道徳は情による。ただ注意しなくてはいけないのは、不道徳もまた情から発するもので、特に嫌悪や憎悪の情は、情報操作によって容易に植え付けることができる。正しい道徳感情を働かせるにはこうした情報操作に対する耐性を付ける必要がある。
誰かものすごく可哀想な人の物語を聞かせて、そこで誰が悪い、誰を殺せなどと誘導する。こうしたものを安易に信じないようにすることも大事だ。
情は道徳のエンジンだが、安全に走るには理性のハンドルが必要なのも確かだ。情だけでは善行を成すことはできない。それゆえに『論語』にも、「學びて思はざれば則ち罔(くら)し。 思ひて學ばざれば則ち殆(あやう)し」とある。思うのは情の作用で道徳のエンジンに当る。それに対してしかるべき運転操作を学ばなければ必ず道徳の車は人を撥ねることになる。
学ぶというのはその人の自発的な自然に任せれば、本然の情に基づいて必要なものを学んで行く。これに対し外から吹きこまれた誘導された知識は必ず危険なことになる。道徳教育は職人の技と一緒で、学ぶんではなく盗むものと言って良いだろう。
今の教育が危ないのは、情報ばかりを詰め込んでその情報がきちんとその人本来に結びついてないことで、自分の身につかない情報で行動する習慣をつけたなら、簡単に情報操作に乗せられて間違ったことをしでかす。まあ、権力者にしても革命家にしても、最初からこうした洗脳が狙いなのだろうけど。
「ところで、日本人は情の人ですが、今だって意識してはいませんが、情の人の如く行為しているんだけれども、その自覚がないから知や意の働かしようがない。だからそれから後、さっぱり進展がない。だから情の人であるというのが正しいのである、それが大事である、という自覚をしてもらうことが非常に大事なんです。」(p.24~25)
日本の教育では情に基づいて知識を吸収するのではなく、情を否定されたところに外から知識を吹き込まれる。だから知識は暗記科目になって地に足がついていない。かえって学校の成績の悪かった人の方が、社会に出て有能だったりする。
そのため情と知識が分裂していることが多い。言ってることとやってることが違うというか、理想だけは立派だが、やってることはひどく卑しかったりする。
立派な理想を掲げているのに、それをどうやって実現するかを考えずに、政府のあら探しやスキャンダル追及ばかりしている国会議員などもそうだ。
「日本人は二階には世界のあらゆる哲学書が並んでいるが、一階ではそれと全く関係なく生活している」と言ってた日本に来た哲学者もいたが、一階で問題になっていることを二階に上がって解決しようとしない。二階に上がると一階(現場)で起きている問題が途端に見えなくなる。「事件は会議室で起きている」という映画の通りだ。
情の大切さを自覚するというのは、知性を捨てることではない。知性に情という動力を与えることだ。それが「自覚」だ。
「その為には一人一人が自分がそうなって隣の人に話し、成程そうだとうなずかして行くのが早いんだけど、そのきっかけが仲々つかめないらしい。で、同じことを繰り返し繰り返しいう外ないだろうと思う。同じ一つのことについてだから、同じ話になってしまうんですが、それを繰り返すのはその効果がないからです。一人になった時、やっぱりそう思っているということもなければ、新たな人にその話をするということもしないから、ひとつも進展がないんですね。」(p.25)
この一階の情と二階の知識の分離状態の中で議論すると、知識は知識だけで空回りして、情についてはそれを正確に語る学問の言葉がない。
岡潔さんはそこからどうしても先へ進めなくなってしまったのだろう。
ここから先に進む方法があるとすれば、伝統文化、それも言葉になったものについて、自分の日常の延長でとらえ直すしかないのではないかと思う。
儒学や仏典では昔の人の情が伝わらない。だから和歌、連歌、俳諧、あるいは物語などの昔の人の情を学べるものを、西洋の文学理論を排して直に学ぶ必要がある。これは本居宣長がやったことでもある。あの時代は「漢意」を排することだったが、今は西洋意を排して、できる限り今の日常の感覚の延長線上で昔の文学を再現する。それしかないと思うし、結果的にそれはこの私がやってきたことだった。
今の情をもってして古人の情に直に共感できたなら、その情は日本人の根底にある不易の情といえる。
ところが日本の国文学は長いこと西洋文学をまず学び、西洋文学の知識を古典に当てはめようとしてきた。これでは国文学はその上っ面を撫でるだけで、その情を理解することができない。
西洋文学の目で見るのではなく、一日本人の目で古典文学を捉え直した時、我々は初めてそれを語る言葉を見つけることができる。
俳諧は笑いの文学である。だからその笑いは今日の芸人たちの笑いに受け継がれている。あるあるネタ、自虐ネタ、パロディネタ、シュールネタ、それはすべて芭蕉がやってきたことだった。芭蕉だけではない。今のラノベの笑いを理解するなら『源氏物語』にもそれを発見することができる。
だが、国文学者はえてして芸人やラノベを軽蔑しがちだ。西洋のコメディや純文学が高尚だと信じていて、日本のものは低俗だと思っている。だから、低俗な感性で古典を読むことを嫌うし、ヘイトすら覚えるようだ。筆者も何度頭ごなしに怒られたことか。
まあ、岡潔さんが生きていたら、きっとこんなのは駄目だと言って怒られそうだが。
ただ、いつまでも堂々巡りで同じことを言い続けるのではなく、一歩でも前へ進もうという気持ちがあるなら試してほしい。情について今の大衆の情と昔の大衆の情を同時に学べる方法を見逃す手はないと思う。
「一通りその自覚が行き渡ってからでなくては、教育一つも変えられはしません。今のままの情を粗末にする教育では、赤軍派の学生のようなものがみすみす出るということが分っていても、変えられない。どう変えればいいかは簡単だけど、大勢の同意がいるんですね。それには一人一人に自覚してもれうより仕方がない。で、根気よく繰り返し繰り返しいっている訳なんです。」(p.25)
まあ、今でも出所してきた赤軍派の生き残りをマスコミが賛美して、元首相を暗殺したテロリストを英雄として祭り上げているのを見ると、これからもこういう連中が出続けることになるし、それを待望する風潮すらある。
だからこそ、繰り返すだけではだめだと言いたい。西洋意から日本人の情を開放するには、我々のそのままの情を古典の道に繋がなくてはならない。
「一つは情がエゴイズムで非常に濁っている。もう一つは、生気が充分生き生きしていないんです。情というものだけど、生きるということは情が生き生きすることだと思う。」(p.26)
なら、今の日本人がどういうものに生き生きしているか、それを見なくてはいけない。
大学のキャンパスにいて授業に出て来る学生を見る限りでは、みんな死んだような眼をしているかもしれない。でも今の日本人もいろんなことに熱狂しているし、生き生きとする瞬間もたくさんある。そこに飛び込まなくてはならない。
そしてまず自分が生き生きとしなくてはいけない。
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