みんなマスクもなしに大声で声援を上げて、コロナ時代が終わったのを実感した。
暑さを考慮してこの時期に開催知るというのも、IOCは東京オリンピックで認めてほしかったな。1964年の時のような十月開催だったら、あんな反オリにでかい顔されることもなかったろうに。
反オリはスポーツそのものを批判してたから、やはりワールドカップも見ないのかな。まあ、今回のワールドカップも世界中にアンチがいるようだが。多少の濁りはあっても感動のある世界の方がいいな。
あまり潔癖で、理性の命令だけがすべてという感動を否定された世界はディストピアだ。それは「情と日本人」のテーマでもある。
それでは「情と日本人」の続き。
「西洋人は悪魔に魂を取られはしないかと思って、びくびくしている。そうすると情というものは大切なものではあるが、自分ではないと思っているんですね。」(p.12~13)
西洋のキリスト教やギリシャ哲学の伝統では、自分というのはロゴスであり、ロゴスが肉体の衣を纏っていると考える。
ロゴスは非物質的な超越的な存在であり、霊魂や精神のことをいう。それゆえ肉体は滅んでも精神は永遠の命を持つ。
肉体的欲望に溺れて我を失うことは悪魔の誘惑であり、悪魔に魂を奪われて地獄に落ちるとされている。
これに対して情の地位は曖昧で、形而上学の理論の中から抜け落ちる傾向にある。だが、概ね激情は肉体の悪魔であり、情熱(パッシオン)は同時に受難を意味する。
リッキー・マーティンのヒット曲「リヴィン・ラ・ヴィダ・ロカ」の元の歌詞が日本の郷ひろみの歌と全然違うのを見ると面白いが、恋が悪魔の誘惑だという捉え方は西洋では割と普通なのだろう。
大酒飲んで飲めや歌え、酒の神様に乾杯なんていうのも、日本では普通であっても、西洋ではペイガニズムと結びつく。キリスト教は禁酒法を作ったくらいで、酒もまた悪魔の誘惑で罪なものと考えられている。
「東洋人はまだしも、心を自分だと思っているから、その中には情も含まれますが、西洋人に至っては情を自分だとは思っていないらしい。その魂というほどの深みの情、これも今の日本人には分りにくいでしょう。」(p.13)
情は理性や精神やロゴスと対立するもので、そのため情について深く考察する哲学は発達しなかった。ここで東洋人というのが陽明学のことだとしたら心即理の思想であり、心の中には孟子の四端も含まれているから、感情を否定しているわけではない。
「感情などというのは極く浅い情。もっと深い情とは一口にいって、どんな風なものか。これは一例をあげれば良い。日本人は情というものを無意識的によく知っている。それで一例をあげれば足りるんです。
明治になってからの話ですが、お母さんと子供が住んでいた。子供が十三歳になった。そして禅の修行をしたいといい出した。それで修行の為に家を出ることになって、いよいよ別れるという時になって、お母さんはこういった。
お前の修行がうまくいって、人がちやほやしている間は、お前は私のことを忘れていても良い。しかし、お前の修行がうまくいかなくなって、人に後指を指されるようになったら、私を思い出して、私の所へ帰って来ておくれ。そういった。」(p.13)
仏道というのは「出家」という言葉が示す通り、家族を捨てることであり、家族への情を断つことを要求される。
中世の『西行物語』では西行が出家を思い立つ際に、庭で遊んでた我が子を見て、これが出家の障壁になっているんだと蹴飛ばす場面がある。
逆の立場からすれば説経節の『苅萱』のように、突然家の主人が出家してしまい、母と息子がそれを追いかけて高野山まで行くが、女人禁制のため母は会うことがかなわず、息子の石童丸は父と再会して弟子になるが、最後まで父親だということを認めてはくれなかった。
出家したら家族のことは忘れろというのは、その意味では「出家」の本意にかなっている。そして仏道がうまく行かなかったらいつでも帰ってこいと言うのは親としての自然な愛情だ。
「それから三十年程たった。子供は修行がうまくいって、偉い禅師になった。松島の碧厳寺という大きなお寺の住職をしていた。その時、郷里から使いが来て、お母さんは年をとって、この頃では寝たきりである。お母さんは何ともいわないが、私達がお母さんの心を推し量ってお知らせに来た。そういった。
それで禅師はとるものもとりあえず家に帰って、寝ているお母さんの枕辺に座った。そうするとお母さんは子供の顔を見てこういった。
この三十年、私はお前に一度も便りをしなかったが、しかし、お前のことを思わなかった日は一日もなかったのだよ。
私はこの話を最初杉田お上人から聞いた。その時、涙が流れて止まらなかった。これが情の本態です。」(p.13~14)
出家したのだから、親の存在は煩悩にすぎないから、それを忘れてほしい。これは法(のり)だ。
それに対して子供のことを思わぬ日は一日もない。これは情だ。
帰って来てくれたのは嬉しい。しかし、そのことがまた煩悩になる。いわば義理と人情のはざまに立たされる。押さえなくてはいけなかった情だからこそ、その不条理に涙が出て来る。
ただ、今の日本人はこの話では多分涙は出ないだろう。それは今の仏教はこうした厳しさを失い、良いに着け悪いにつけ世俗化しているから、この葛藤は今の時代にはリアリティを持たない。
新興宗教ならこうした厳しさは存在するかもしれない。親が宗教を信じ、それが四のため人のためと信じて、家庭を顧みずに働いて得たお金を子供のためには使わずに教団への寄付につぎ込む。
そしてその親が全く見も知らない他所の子のために命を投げ出したとしらどうだろうか。
すべての人の命の価値は等しい。だから自分の子も他人の子もその価値は同じで、我が子のために命を捨てられるなら、見ず知らずの子のためにも命を捨てられなくてはならない。
それは理屈ではあるが人情ではない。子供からすれば自分よりも他人の子を愛した母を一体どう思うだろうか。
「こういう情というものがあるのだということを西洋人は知らないのでしょう。この情を魂といっている。」(p.14)
西洋の人権の理論にはこういう情は存在しないし、韓国のムン・ソミョンの宗教にも存在しないと思われる。ただ、西洋人も同じ人間であり、情そのものが存在しないのではない。ただ理性の優位を神の言葉(ロゴス)として信じている。
そのため、西洋でもその唯一神の不条理が描き出された時はやはり涙すると思う。カミュの『異邦人』や映画の「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のように。
戦後特にナチスやスターリンや毛沢東やポルポトなど、理性の名において虐殺が繰り返される中で、こうした不条理を学び、それが西洋の「哲学の終わり」をもたらしたといえるかもしれない。
だから、単純に西洋人は情を知らないというべきではない。ただ、理性によって強く抑制されているのは確かだろう。
「人にはこういう情というものがある。それが人の本体です。幸福は情が幸福なのであって、道徳には情があるが故にあるのである。明白なことです。」(p.14)
情は理性の命ずる法に対してその不条理を告発するという意味では、戦後の西洋哲学もその方向に向かっていた。ナチズムにしてもスターリニズムにしても、理性の名において命じられる虐殺の不条理、感情に反したことを要求される極端な人権思想、こうしたものに対して人間らしさを開放するのは感情だった。
岡潔のこの文章も、基本的にはそうした流れの中で日本の伝統文化に目を向けようという方向にあるのは間違いないが、ただ、すっかり西洋化された教育の中で日本の文化を再発見する動きは入口に着いたばかりだ。そのせいで同じことを何度も堂々巡りのように言うことになってしまうのであろう。
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