2022年11月27日日曜日

 台湾で親中派が勝利を収めた場合、最悪の場合台湾人が北京の支配を完全に受け入れるというのも、今後想定しなくてはならない。
 台湾の無血併合で、まず台湾からの亡命者が日本に殺到する。これも大きな問題だが、それは序の口にすぎない。
 そして、次に中国は沖縄が固有の領土だということを主張してくるだろう。その時沖縄も島が戦場になることを良しとせずに、中国への無血併合を望むなら、日本も残念ながら沖縄を中国に割譲せざるをえなくなるだろう。
 そして日本と中国との間に緩衝地帯はなくなる。中国が日本を併合しようとするなら、日本の国土が戦場になる。まあ、ウクライナと同じ状況になるわけだ。
 しかもウクライナよりもっと悪いことに、北にロシアがいる。そして北朝鮮が動かないという保証もない。韓国もまた北が侵攻してきた場合、抵抗せずに統一朝鮮が誕生する可能性すらある。
 そしてさらにもっと最悪の事態を想定するなら、アメリカが共和党政権になった時にモンロー主義に一気に傾き、アジアに干渉しないという事態も有り得るし、その時はウクライナの武器支援を停止する可能性すらある。こうなったらロシアも中国もやりたい放題だ。
 その最悪の前提の中で日本人はどう戦うかを考えなくてはならない。
 岡潔の言葉が胸に突き刺さる。

 「日本民族の滅亡だけは何としてでも喰い止めたいと思う」

 一足先に首都を離れたのは正解だったかな。

 それでは「情と日本人」の続き。

 「情がどうして生き生きとしているのかということですが、今の自然科学の先端は素粒子論ですね。これも繰り返しいっているんだけど、その素粒子論はどういっているかというと、物質とか質量のない光とか電気とかも、みな素粒子によって構成されている。素粒子には種類が多い。しかし、これを安定な素粒子群と不安定な素粒子群に大別することができる。
 その不安定な素粒子群は寿命が非常に短く、普通は百億分の一秒くらい。こんなに短命だけれど、非常に速く走っているから、生涯の間には一億個の電子を歴訪する。電子は安定な素粒子の代表的なものです。こういっている。
 それで考えてみますに、安定な素粒子だけど、例えば電子の側から見ますと、電子は絶えず不安定な素粒子の訪問を受けている。そうすると安定しているのは位置だけであって、内容は多分絶えず変っている。そう想像される。
 いわば、不安定な素粒子がバケツに水を入れて、それを安定な位置に運ぶ役割のようなことをしているんではなかろうか。そう想像される。バケツの水に相当するものは何であろうか。私はそれが情緒だと思う。」(p.26~27)

 素粒子は今では「量子」という言葉を使った方が良いだろう。
 これはよくわからないが重ね合わせ状態になった量子が時空を構成していて、それが収縮した時に我々に観測される安定した量子になるということだろうか。
 これだと、我々が認識している物理的事象は、無数の観測されてない不安定な量子の中に浮んでいるようなイメージになる。
 これを感情の海に浮かぶ理性の比喩として用いているのだろうか。まあ、案外意識というのはこうした安定しない観測されない量子の場によって生み出されているのかもしれないが。まあ、ここには今は深入りしないでおこう。

 「やはり情緒が情緒として決っているのは、いわばその位置だけであって、内容は絶えず変っているのである。人の本体は情である。その情は水の如くただ溜ったものではなく、湧き上る泉の如く絶えず新しいものと変わっているんだろうと思う。それが自分だろうと思う。これが情緒が生き生きしている理由だと思う。生きているということだろうと思う。」(p27)

 人間の自分自身の脳回路であれ、人間は意識してそれを設計したり組み替えたりできない。それは意識の力を越えた所で形成されている。それを意識は捉えることができない。
 その回路は非常に微細でいて複雑で、人はそれをまだ認識できない。その意味ではそれは水のような捉えどころのないもので、それでありながら、この脳が自分の衝動を突き動かし、それが理性を働かせる原動力にもなっている。
 改めて人間というのは自分自身すら知り得ないものでありながら、その知り得ないものとして生きていると言わねばならない。それはひょっとしたら何らかの量子の場によって生じているのかもしれない。
 これは古い形而上学の動物機械論のような、機械的な必然性によって脳が支配されているわけではない。いわゆる古典物理学の因果律によって支配されているのではなく、量子の不確定な要素によって支配されている。そこで我々は自分自身を見出す。

 「自分がそうであるように、他(ひと)も皆そうである。人類がそうであるように、生物も皆そうである。大宇宙は一つの物ではなく、その本体は情だと思う。情の中には時間も空間もない。だから人の本体も大宇宙の本体にも時間も空間もない。そういうものだと思うんです。」(p27)

 これは仏教の梵我一如の影響だろうか。特に神秘体験をした人が陥りやすい罠でもある。
 神秘体験はただ既存の認識に囚われない自由を与えるもので、宇宙そのものの認識を与えることはない。
 正確にはある特定の量子の場が意識や感情を生み出すことはあっても、それ以上のものではない。それはほんの少しだけ時間を止めたり、時間を逆行させたりできるかもしれないが、時間空間のない世界があるわけではない。

 「ともかく、生きるということは生き生きとすることです。それがどういうことであるか見たければ幼児を見れば良い。情は濁ってはいけない。また情緒は豊かでなければいけない。」(p27)

 幼児は脳回路の発達に様々な可能性を持ってはいるが、我々はそれを導くことはできない。それは幼児の脳そのものの自発性によるもので、それは本人にすら制御できるものではなく、まして他人である親や先生が干渉したところで、それを止めることはできない。
 ただ、過酷な干渉は心に傷を残すだけとなる。

 「教育はそれを第一の目標とすべきです。でなければ知はよく働かない。意志も有得ない。意志というのは知が描いた地図の上に、この道を歩こうと決めるようなものだから。地図がぼんやりしていれば意志もぼんやりしてしまう。だから情、知、意の順にうまく行かないのです。その基は情です。」(p27)

 つまりその人の持つ本来の情をできる限り自由に伸ばすことができれば、その上に知が形成され、理性が働き、意志が生まれて来る。

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