2022年11月25日金曜日

 それでは「情と日本人」の続き。

 現代人が情がなくなっているというのは、おそらく事実ではない。人間の脳に発するものがそう簡単に変わることはない。変わったのはその脳の周辺環境の方だ。
 人々がまだ小さな集落に住んでいることには、毎日目にする人は皆顔見知りで、プライベートな細かいことまで熟知していた。だから、その中で困ったことがあった人がいれば、全員で対処することができた。それこそ一人も漏らさずにケアできた。
 たまに旅人が通ると、それは「まれびと」とも呼ばれ、歓待すると同時に事細かいことまで穿鑿して無害かどうか確認したことだろう。
 稀人だけに滅多にそんな人も来ないから、何年何十年たって再開してもちゃんと覚えてる。そして困ったことがあったら助けてあげる。そんな時代があった。
 江戸時代になり大都市が形成されるようになると、毎日すれ違う人の名前を全員覚えることすら不可能になり、怪しげな人がいつもうろうろしているような状態になる。そうなると、人情の及ぶ範囲は大分限られてくる。
 芭蕉が富士川の捨子に、

 「富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の、哀気(あわれげ)に泣くあり。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露ばかりの命待つまにと、捨置きけむ、小萩がもとの秋の風)、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、

 猿を聞く人捨子に秋の風いかに

いかにぞや、汝ちちに悪(にく)まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝の性(さが)のつたなきをなけ。」

と突き放したようなことを書いているのも、当時捨子は珍しいことでなく、都市や街道筋など人の多い所ではもはや対処しきれなかったからだと思われる。
 残念ながら日本に孤児院ができたのは明治のことだ。広い日本に捨子が十人二十人とか、数えられる程度しかいなかったなら、誰かが面倒を見ることができたかもしれない。数が多ければお寺だって抱えきれない。お寺はそうでなくても家督を継げない二男三男以下の吹き溜まりになっていて、いくらお布施を集めても収容人員に限界がある。
 近代化前の社会では常に人口増加圧にさらされている。その人口調節を江戸時代までは「捨子」という手段で調節していたことは想像に難くない。
 小さな村落共同体であっても、飢饉がくれば飢餓に陥り、口減らしが行われたような時代に、街道の捨子を、それも一人二人でない数を養うことはできなかった。それが芭蕉の「唯これ天にして」だった。
 悲しいけど放置するしかない。ただ、その悲しみをいつまでも心に留め、決してあきらめたり思考停止したりすることがなければ、いつか解決できる時代が来るかもしれない。それが「情」の果たす本来の役割だ。
 すべての問題を解決するには人間はあまりにも無力だ。公害だってそうだ。一人いくら悲しんでもそれだけで解決はできない。ただ問題を心にとどめておく、それが精いっぱいなんだ。
 まして今日の情報過多の時代には、世界中の不幸な人の情報が分刻みで入って来る。それに一々対処できるほど人間の脳のキャパシティはない。
 この無力さも傍から見れば、「こんなに困っている人がいるのに何無視してんだ」みたいな非難はいくらでもできる。世界中のニュースを搔き集めてくれば困った人など何十億人もいる。その中の一人を取り上げて「何でこれを放っておくんだ。人間は情を失ったとか思えない」とが言っても、もはや言い掛かり以外の何でもない。
 ただ、こういうプロパガンダがマスメディアの言説の上で溢れかえっている。それをいちいち大問題だと真に受けていれば、確かに「今の人は感情を失った」という神話が出来上がる。
 パラリンピックのときなどもマスコミは二三の選手が障害からいかにして立ち直って選手となったかなんてお涙頂戴のドラマを作っていたが、はっきり言ってパラリンピックに出るような人は全員同じようなドラマを持っていると言って良い。
 マスコミや左翼はプロパガンダのためにごく一部の人に同情を集中させようとする。それは一つのサンプルで留まるなら罪はないが、これに同情しないと途端に感情がないだとかヘイトスピーチを始める。
 人間は怒ると我を忘れるものだ。だから、人間の自然な感情を十全に引き出そうと思ったら、絶対にヘイトを煽ってはいけない。どこそこに可哀想な人がいる。ただ、誰しもそれぞれ事情があってその人ばかりにかまってられないのに、「人間の情がないのか」とひたすら罵倒する。こういうヘイトが社会にあふれかえれば人間関係はぎすぎすして、解決できるものも解決できなくなる。
 感情は大事だがヘイトは感情を殺す感情だとわきまえるべきであろう。まあ、「わきまえない女」というのも流行ってるようだが。
 この糞ったれな社会に少しでも人情を取り戻させようというのなら、「情がない」なんて言ってヘイトをまき散らすより、むしろ押し隠された情を察してやることの方が大事だ。

 「情操教育という言葉ですが、情操教育が大事だっていったら、絵をかかせたり、音楽ひかしたり。そんな馬鹿な。人本然の情がよく働くようにするのが情操教育です。まるで見当外れをやっている。」(p.21)

 まあ、絵を描いたり音楽をやったりするのが自然な感情の表現であるなら、これは間違ったことではない。
 間違っているのは「かかせる」「ひかしたり」の方だ。感情表現は自発的なものであって、強要されるものではない。
 だいたいこういう教育というのは、決して自由に絵を描かせたり音楽を鳴らせたりしない。漫画を描いたら怒られる、ロックやヒップホップも怒られる。ジャズまでがぎりぎりOK。
 七十年代だと小学校の図工では輪郭線を描いただけで「それはマンガだ」なんて言われたものだ。スフマートをやらないと正しい絵とは見なされなかった。音楽だって、ロックは不良の音楽だし、音楽の時間は普通の流行歌でさえ駄目だった。
 結局情操教育も政治が絡むと、自分たちに都合のいいように怒りを爆発させようという意図が働くものだ。
 そんなことをするくらいなら放置する方がよっぽどいい。「かまわぬ」の精神だ。

 「ともかく情を軽んじたんでしょう。だから本居宣長
   しきしまの大和心を人問はば
        朝日に匂ふ山桜花
情緒というものが大事であると思っているんでしょう。はっきりそうと分っていませんが、何となくそれが分ったんでしょうね。それで『漢意清く捨てられるべし』といったり、『しきしまの大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花』といったりしたんでしょう。」(p.21)

 「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という言葉がある。桜は剪定してはいけない。大和心も同じで、いかに自然のままに放置するかが大事だ。放置しつつ、それを捻じ曲げようと屁理屈こねる奴を矯正する。それが正しい情操教育だ。江戸時代の人が言った「かまわぬ」の精神が大事だ。

 「情が自分だから、情を大事にせよとずばりといえなかったんだが、あそこでもっと自分を振り返ってみる暇があったら、それの分る日本人も出て来たかも知れない。あそこでは、ぐずぐずしていたら滅ぼされてしまうというそういう状態にあったから、大急ぎで明治維新をやった。それから外国と戦う為に兵器を準備した。」(p.24)

 黒船がやって来た時にアメリカが日本に押し付けた要求は概ねタイ王国と同等のもので、いきなり日本を植民地にしようというものではなく、かなり友好的なものだった。事実、タイはその後も独立を維持した。インドや中国に対する対応とはかなり違っていた。
 ただ、長州藩士の吉田松陰は、この時の西洋列強の脅威を利用して、西洋の真似をして世界征服に乗り出す野望を抱いていた。事実吉田松陰はアジアはもとよりオーストラリアまで掠め取れと『幽囚録』で言っている。

 「今急に武備を修め、艦略ぼ具はり礮略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加・隩都加を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからしめ、朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・呂宋の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし。」

 「濠斯多辣利の地は神州の南に在り、其の地海を隔てて甚しくは遠からず、其天度正に中帯に在り。宜なり、草木暢茂し人民繁殷し、人の争ひ取る所となるも。而して英夷開墾して拠るも僅かに其の十の一なり。吾れ常に怪しむ、苟も吾れ先ず之を得ば、当に大利あるべしと。」

 明治の軍国主義はこうした思想に煽られたもので、明治に入って正岡子規も明治十八年の『筆まかせ』で、

   「文明の極度
 世界文明の極度といへば世界万国相合して同一国となり、人間万種相和して同一種となるの時にあるべし 併シなほ一層の極点に達すれば国の何たる人種の何たるを知らざるに至るべし。」

と言っている。「一つの世界」というのは一見きれいごとのようだが実質は世界征服だ。正岡氏句は明治三十年正月の『明治二十九年の俳句界』では、

 「日本が世界列國の間に押し出して日本帝國たる者を世界に認められんとするには日清戦争は是非とも必要なりしなり。日清戦争は初めより此目的を以て起りたる者に非れども少くも此大勢は日清戦争の端を開かしむる上に於て暗々裡に之を助けたるや凝ひ無し。」

と言っている。明治以降の日本の軍国主義は、単なる防衛の範囲を越えた「一つの世界」のための戦いだった。
 そして、昭和二十年、敗戦の時、和辻哲郎は日本の世界統一の敗北として捉えた上で、逆に日本は自らの文明を捨てて西洋文明に統一されることを説いた。

 「しかるに、日本の伝統を捨てるといふ努力は、日本人のみのなし得る特殊な体験である。」(和辻哲郎『倫理学』(下)一九四九、岩波書店、p.588)

 「要はヨーロッパ文化の摂取によっておのれを新しくすること、新しい国民的性格の創造、新しい文化の創造に邁進することである。」(和辻哲郎『倫理学』(下)一九四九、岩波書店、p.589)

 これが戦後思想の根底になる。戦後思想はこれに左翼の革命思想が加わって、アメリカ以外による(ロシア、中国、イスラム国でもアメリカ以外なら何でもよく)世界統一を目指すものとなり、それが終始一貫した執拗な反日哲学として今日に至っている。
 先日のワールドカップドイツ戦の日本の勝利も、さぞかしこうした人たちには不快だったに違いない。
 こうした戦後思想が学会を席巻している状態では、「自分は情だ」なんて言って理性信仰の西洋哲学に逆らい、本居宣長を評価する機運が生まれなかったのは当然だ。

 「兵器を準備しようと思ったら、西洋の学問より仕方がない。それで西洋の学問を取り入れた。そのうちにすっかり西洋の学問に溺れてしまった。戦後はそれが極端にまで来ている。」(p.24)

 単に国を守るための軍事力なら、ここまで徹底的に自国の文化を破壊する必要はなかった。世界征服の準備だからこそ、徹底させる必要があった。
 そして、戦後は他国併合を望み、日本の文化をちょっとでも擁護すると軍国主義者だと言われ、そんなことをしたらまた何百万もの人が死ぬなどと言って人殺し呼ばわりされるようになった。

 「こんな風な訳で、日本人はまだ一度も応神天皇以前の日本人がどんな風だったかということを、ゆっくり考え自覚する暇がなかった。それで一人も、日本人は情の人であると、それが人として正しいのである、といった人はいないのです。が、それが非常に大事です。」(p.24)

 実際、応神天皇以前の日本というと文献資料が希薄でその内実を探ることは困難だ。
 ただ、日本の弥生時代から応神以前までは江南系の文化の影響を強く受けていたことは想像できる。高床式の倉庫があり、村の入口には鳥の飾りがあり(これは鳥居の起源と思われる)、鵜飼や養蚕をし、歌垣で結婚相手を選ぶといった風習は、長江文明に起源があると思われる。この地域は桜の文化でもある。
 そして、その長江文明の哲学は楚人であった老子にその片鱗が見られる。無為自然を尊び作為や論理を嫌う。形式ばった道徳や戒律を嫌う。
 応神以前にこうした無為自然の崇拝、真理を言葉にすることを嫌う「神ながら言挙げせぬ国」は、元来長江文明から来たもので、そのため応神以降の日本の国体の形成も儒教よりも道教が重視された。何よりも「天皇」という称号が道教の神天皇大帝から来ているのを見てもわかる。
 いまだに、我々はその自覚を欠いている。
 明治の国家神道でさえ、ついに明確な教義や戒律が作られることはなかった。これは「神ながら言挙げせぬ国」が守られたと言ってもいい。神道には教義も戒律もない。ただ自然を敬い、自然の偉大さを前にしてそれを恐れ身を慎む。これに尽きる。この基本は応神以前のものだと思う。中国やインドの文化にはない要素だ。

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