日本ドイツ戦は、前半日本が引き気味で無理しなかったのが良かったのだろう。ロシアの攻撃を一点でしのいで、後半から中ごろの選手交代から一気に攻勢に出ての逆転。良い試合だった。
ジャイアントキリングなんて声もあるが、ドイツは前回ロシア大会から落ち目で、あの時は韓国にも負けている。そんな大げさに考えずなくても、日本は実力通りの結果を出しただけだと思う。
あと、ドイツの選手で一人早いのがいたね。カール・ルイスが走って来たかと思った。
スポーツは情の祭典。横浜FCの応援歌にもあったが「友よ歌え狂え叫べよ」。
それでは「情と日本人」の続き。
「これは二つの点でうまく行かないのです。一つは情が濁っていますから、すぐ自己中心の考えに走る。それで企業が公害を取り除くことに反対します。政府だって、やはり産業優先というようなことを考える。一つはそういう害がある。」(p.20)
情の濁りは本情と私情の違いということで、四端の心と七情とで、七情の方に偏り、四端の心が忘れ去られる、ということで説明できる。
私利私欲というのは、必ずしも肉体的な欲望を意味するのではない。生きてゆくために最低限の食欲を満たすなら、それは肉欲と言えるかもしれないが、美食への願望は文化的なものだし、美食を競うとなると他人に勝ちたいという別の欲求になる。インスタに上げてこんな物食ったぞと自慢するのもまた別の承認欲求だし、こうしたものを一口に肉欲ということはできない。
ファッションへの欲求を「肉体を飾る欲望」だから肉欲だという人がいるが、、肉体を満たすことと肉体を誇ることは同じではない。
なら、経済的な欲求というのは「肉欲」なのだろうか。金儲けのために寝食を惜しむ人は「肉欲に溺れている」のだろうか。少なくとも食欲と睡眠欲には勝っている。
そう考えるなら、私利私欲というのも社会的な関係の中で生じる欲求がほとんどを占めている。単純な生物学的欲求とは無関係に、社会的に生じる様々な感情によって作られている。
生物学的に言うなら生存競争の勝利はいかに子孫をいかに沢山残すかであり、億万長者でも子供がいないならその人は生物学的な意味では生存競争の敗者だ。貧乏でも子沢山なら勝者になる。
ならば我々の社会で「生存競争」と呼ばれているものは一体何なのかということにもなる。
企業が公害を取り除くことに反対するのには、実際には様々な感情が働いている。
誰だって公害を出したくて出したのではない。ただ、公害のリスクを予想する際に、人によってその評価に差が出る。
例えば農薬にヒ素が含まれているものを用いようとした時、ヒ素が猛毒であるという認識はある。ただその農薬の殺虫効果と秤にかける。つまり、それを使用した場合の農作物の生産性の向上による利益とその薬害による健康被害による損失とを秤にかける。
秤にかけた末に使用を決断した時に、予想外に損害の方が大きかった場合、基本的には即座に停止するのが倫理的に正しい。ただ、それができない事情というのも生じる。
基本的には賭けに負けたわけだが、その損失は自分だけではなく自分の家族や大勢の従業員とその家族にまで及ぶ。そこでまた彼らの損失と薬害の損失を秤に掛けなくてはならなくなる。おそらく最初にリスクの判断を誤った経営者であるなら、ここでもまた判断を誤る可能性が高い。
ならば、最初の段階でほんのわずかでもリスクがあるならやめればそれでいいのか。そういう単純なものでもない。
世界には飢餓で苦しむ人がたくさんいる。農産物の生産性向上に役立つ発明は、それを救うことができるかもしれない。飢餓を救うだけでなく、よりよい生産物を安価に流通させることができるなら、それは多くの消費者の利益にもなる。
基本的に新しいことを始めようとしたら何らかのリスクはあり、そのリスクを一切取ることを禁じるなら社会に進歩というものはなくなる。飢餓に苦しむ人たちはそのまま放置され、庶民は高い農産物を買い続けることになるし、その供給がいつ止まるかという不安にさらされる。少なくとも世界の人口が増え続ける限り、農産物を増産しなければいつか世界が飢餓に陥る。
技術革新による生産性の向上は急務であり、新技術は常に賭けではあるが、そこから逃げることはできない。
基本的に「感情の濁り」というのは賭けに負けた時の責任の取り方にあると言って良い。そこに求められるのは「潔さ」だ。それを渋るのは「感情の濁り」だ。
ワクチンにしても同じことが言える。どんなワクチンでも少なからずアレルギー反応によるリスクというのは存在する。リスクがあるから一切使用しないというのであれば、人々は病魔に抗すべくもなくバタバタと死んでゆく。
ワクチンを使用するというのは病魔による不幸とワクチンの副作用による不幸とを秤にかけるということで、ワクチンの副作用による不幸が病魔の不幸に勝るなら使用を停止しなくてはならない。もちろん、アレルギー体質などによる高リスクが予想される人を接種の対象から外すことでそのリスクを軽減することはできる。
正しい判断を行うことで多くの人を救いたいという感情は惻隠の心であり、それを鈍らせるのは私情による濁りである。「濁った感情」というのはそう定義することができるだろう。
企業倫理においても政府の倫理においてもそれは同じだ。
「もう一つは、情が生き生きと働かなかったら、存在というものがない。それで淀川を見ても、これはひどい濁りだなあと思っても、それが見えなくなったらけろりと忘れる。だから公害だって、みんなが絶えず心に留って、気にかかるというふうじゃない。」(p.20)
気を付けなくてはいけないのは「心を痛める」ということ自体は特定の行動を促すのではない。むしろ最善の解決のための思考を働かせるための起爆剤にしなくてはならないということだ。
ただ、大抵は考えるのが面倒だから放置する。考え悩むことを嫌がる。それよりもっと楽しいことをしたいと思う。いわゆる「思考停止」だ。
「これはひどい濁りだなあと思っても、それが見えなくなったらけろりと忘れる」というのはいわゆる思考停止の問題に他ならない。
即座にその場の感情で短絡的に行動することは、かえって結果を悪くする。そのことは誰もが分かっている。感情はそれが強烈であればあるほど、短絡的な行動は大きな災いをもたらす。ただ、それは思考を促すことであって停止することではない。思考停止は感情の濁りに他ならない。
ワクチンの例で言えば、ワクチンで人が死んだからと言って、直情的にワクチンを即座に禁止しろというのは、病気によるはるかに多くの死者に目をつぶることになる。
どちらの死者にも感情を働かせているなら、こういう行動にはならない。つまり短絡的な反ワクは一見感情に正直なようでいて、実は感情の欠如なのである。
様々な異なる立場の者に対してきちんと感情を働かせているなら、必ず思考が促される。思考停止は物事の一方のことにしか感情を働かせてないからだ。それは結局感情の欠落なのである。
感情が正しく働くというのは直情的になることではない。むしろ持続させることが重要だ。理性と感情は一方的に理性が感情を押さえたりコントロールしたりするのではない。むしろ感情が理性を促すことで最適解を発見する。
「この二つからうまく行かない。それで情をきれいにし、よく働かすようにするより仕方がない。」(p.20)
失敗を潔く認める心と感情を持続させて思考停止させない心。公害をなくすのに本当に必要なのはこの二つと言って良いだろう。
「日本歴史を昔からずっと見てみますと、応神天皇以前は多分うまく行っていた。が、応神天皇の時、中国から文化を取り入れた。そうすると、知が人の中心だといっている。その後、印度から仏教を取り入れた。やはり知が中心だといっている。ともかく情が大事だといってない。」(p.20)
これは正しくない。
情は大事だが、知の軽視は情の軽視と同じくらい間違っている。
むしろ日本人は中国やインドの知の文化を取り入れながらも、それを本来の情の文化とうまく融合させたことを誇っていいと思う。それは近代に西洋の知が入ってきた時も一緒だ。
知の文化と知の文化は矛盾するし喧嘩する。しかし日本人はそれに情を与えることで、相矛盾する文化を絶妙に融合してきた。
応神天皇以前は情はあっても無知だったといった方がいい。正しい情を持続させ、それによって思考を促し、知を使いこなすことで情はその持っている最大限の力を発揮できる。
考えてみてもわかることで、いくら病人が可哀想だと思っても、治療法を知らないなら放置したり間違った治療をして却って殺してしまう。漫画「ワンピース」でチョッパーの師匠が言っていたことだ。情熱だけでは何もできない。
応神天皇が中国の知識を取り入れたのは英断だったし、その後の御門が仏教を取り入れたことも英断だった。そして、明治維新で西洋の科学を広く取り入れたのも英断だった。それは誇って良いことだ。
正しい感情は正しい認識があって初めて正しい行動となる。
「それで本居宣長の頃になって、『漢意清く捨てらるべし』、そんな風になって来た。どんな風にいけなかったかというと、ともかく儒教の修行も仏教の修行も、ひどく陰気くさく見えたんだと思う。」(p.20)
私は本居宣長のことは勉強してないので、この引用が正しいかどうかは判断できない。ただ、一般的には漢意を拝して日本の古典を学ぼうとした人だとされている。
古典を理解する際に、後の世の認識を当てはめるのではなく、当時の人の考え方を再現するというのは間違っていない。
芭蕉を研究するにも、当時の人の考え方、特に朱子学などから理解すべきで、安易に西洋の文学理論を当てはめるべきではない。その意味で本居宣長が古典を研究するのに漢意を排するのは理解できる。
ただ、実際に生活に役に立っているものを中国製だから排除するというのなら間違っているのと同様、今の時代に役に立つ知識を安易に捨てるべきではない。それは本居宣長もわかっていたはずだ。
「儒教は形式一点張り。だから裃を着て、しゃちほこ張ったようなものになってしまう。仏教の方は難行、苦行が多い。大体、意志の修行です。だから矢張り暗いものになってしまう。そうして、うまく行かなかった。それだけじゃなく、単に濁りを取るということに留めて、情を積極的にはぐくみ育てるということを全然しない。つまり今でいえば、情操教育ということをしない。」(p.20)
岡潔さんの情は理解するが、儒教についても仏教についてもイメージだけで短絡的に判断すべきではない。まずそのイメージが正しいイメージかどうか疑うべきだろう。
印象操作というのはいつの時代にも存在する。明治以降の西洋学者は当然ながら自分たちの学んだ西洋の学問の価値をアピールするために、それまでの儒教や仏教を貶めて、誤ったイメージを植え付けようとしてきた。それを真に受けるべきではない。
李退渓から林羅山を経て日本で国教として確立された朱子学の精神は、芭蕉によって豊かな情を表現するための不易流行の理論となり、四端と七情を区別しながらもその情の大切さを庶民の間に広めていった。
仏教も難行・苦行が本質的なものでないことは既にお釈迦様が体現してたことで、苦行をやめて着の身着のまま裸足で杖を突いて山から下り、本当の仏法を発見しようと努めた。
儒教がしゃちこばったもので、仏教が難行苦行をするというのは印象操作にすぎない。
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