2022年11月23日水曜日

 西洋の理性の形而上学に日本の情の形而上学を対抗させても、実証不能の形而上学対形而上学の戦いは水掛け論にしかならない。最後には手が出ることになる。
 基本的には俳諧や日本文化のための美学を作るのであれば、闇雲に形而上学を振り回すのではなく、科学に基礎づける必要がある。
 科学的美学は急務であり、美学だけでなく人権思想も科学に基づかなくてはならない。もうやめようサピアウォーフに白紙説。
 それでは「情と日本人」の続き。

 「それ、わかるでしょう。これがわかっていないから、知的にいっても今の教育は全然駄目なんです。上滑りしてしまって、形式しかわからない。本当にわかったんじゃない。『悟る』というのは情の目で見極めるのである。情の目で見極めるのが、『悟る』『自覚する』ということです。そうすれば存在して消えない。」(p.18)

 教育もまた、カビの生えた白紙説なんかではなく、科学に基づいた方法が必要とされる。体育の方ではスポーツ医学に基づいた合理的なトレーニングが世界的に広まっているのに、知育の方は古色蒼然の感がある。まして道徳教育は形而上学の大安売りだ。
 「情の目で見極める」というのは情の脳理論を必要とする。

 「芭蕉は『散る花、鳴く鳥、見止め聞き止めざれば留まることなし』といっていますが、見止め聞き止めるのは情の目で見極めるのである。情の目で見極めるのが『悟る』『自覚する』ということです。そうすれば存在して消えない。」(p.18)

 芭蕉の引用は土芳『三冊子』「あかさうし」の、

 「師の曰、乾坤の變は風雅のたね也といへり。静なるものは不變の姿也。動るものは變也。時としてとめざればとゞまらず。止るといふは見とめ聞とむる也。飛花落葉の散亂るも、その中にして見とめ聞とめざれば、おさまることなし。その活たる物だに消て跡なし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.103~104)

のことだろうか。これと『三冊子』「しろさうし」の、

 「詩歌連俳はともに風雅也。上三のものは餘す所もそのその餘す所迄俳はいたらずと云所なし。花に鳴鶯も、餅に糞する縁の先と、まだ正月もおかしきこの比を見とめ、又、水に住む蛙も、古池にとび込む水の音といひはなして、草にあれたる中より蛙のはいる響に、俳諧を聞付たり、見るに有。聞に有。作者感るや句と成る所は、則俳諧の誠也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.87)

の「花に鳴鶯‥‥おかしきこの比を見とめ」がミックスされた感じだ。
 「飛花落葉の散亂るも(花に鳴鶯も)、その中にして見とめ聞とめざれば、おさまることなし。」で、「散る花、鳴く鳥、見止め聞き止めざれば留まることなし」というとこか。まあ、芭蕉の研究者ではないので、不正確な引用は大目に見よう。
 この場合の「止める」は句として書き留める、句に収める、という意味になる。
 そのまま流れ去って行く経験を言葉として記憶にとどめておくことができるということではあっても、存在論ではない。

 「存在を与えているものは情だけです。これも銘々の経験があるでしょう。深い印象とか深い感銘、これは決して消えないでしょう。生涯消えないでしょう。こんな力を持っているのは情以外にありません。」(p.19)

 情を前述のように「個々の先験的及び経験的に形成された固有な脳の回路に由来するもの」と定義するなら、それが我々の存在の体験であるのは言うまでもない。
 ただ、毎時毎時夥しい数の情報にさらされながら、その多くは記憶されないし、意識にすら登らない。意識されたとしても意識されたその瞬間に忘却されるもので、それに名前を付けてインデックスを付けて保存するのは言葉の役割になる。
 言葉は記憶に付けられたインデックスであり、これによって我々は過去の記憶を偶発的なフラッシュバックに頼ることなく、意図的に記憶をたどることを可能にする。
 強い感情を持った記憶は言葉として記載されなくても、様々な場面でフラッシュバックされるが、そうでない記憶は言葉から引き出される。
 記憶はそのまま画像や動画として保存されているのではない。様々な要素に分解されて仕舞われ、思い出す時にはそれを再構成する。そのため要素に分解して整理する段階で記憶はかなり変容している。それはちょうど携帯電話の音声が一度符号化されて、合成音声として再現されるのに似ている。
 我々にとって存在するものを感じ取ったり、そのクオリア(質感)を再現したりしても、それは一度脳の信号に変換されたもので、それが我々にくり返し感動をもたらし、深い情を引き起こしている。脳はこうした感情を伴った体験を保存する装置でもある。
 俳句の持つ力もまた、他人の言葉でありながらも、それが刺激となって自分自身の感情を伴った記憶が引き出される。それが人生にとって大事な記憶であればある程深い感銘を与えることになる。ただ、感銘は句自体に内在するのではなく、それを聞いた人が引き出した記憶の中にある。
 俳句は他人の記憶を引き出すきっかけになればそれで良く、自分の記憶を伝えるにはあまりに言葉足らずな無力なツールにすぎない。

 「人の本体は情であると知ることは、非常に大切なことなんです。大勢の人がそれをわかったら、例えば教育はいっぺんに改められます。そうすれば余程変って来る。そうする以外にやりようがない。」(p.19)

 知識の伝達はわりと容易だが、実際その人間の固有の経験に基づく固有の感情が伝達可能なのかという問題はある。
 情に基づく教育は、いわゆる「教える」のではない。ただその人の大切な記憶を引き出すための教育でなければならない。
 道徳教育は道徳律や格言を教えるのではなく、その人間の四端の記憶を引き出さなくてはならない。

 「公害という問題が欧米から輸入されて、日本で大分やかましくいわれている。日本人は、人が情の動物であるということは、自覚なしにだけどよく知っている。それと共に、もう一つ詰まらないことを思っている。文化は外国から入って来るものだと思っている。外国から入って来ないものは文化にあらずと思っている。」(p.19)

 公害という言葉が一九七二年の時点での流行語だったことは先にも述べた。今だと広く環境問題全般のことをになる。
 当時だと水俣病やイタイイタイ病や四日市ぜんそくなどの公害病が大きな問題になっていて、光化学スモッグなども問題になっていた。そのほかごみ問題、騒音、振動、日照権なども問題になった。
 ここで唐突に外来文化の問題に飛んでいるが、この当時の雰囲気として公害問題が常に「日本は遅れている」といったマスコミや左翼の反日的なトーンとセットになってたのは今と変わらない。
 公害問題は被害者への惻隠の心が働くかどうかが問題なのに、関係ない反日イデオロギーとセットになる。そうなると、その部分に反発して議論がとんでもない方向にそれてしまう。
 今でも「旧統一教会」が問題になるときに、被害者への情ではなく政府攻撃や安倍元首相暗殺を正当化する方向に議論が逸れてしまい、しまいには「統一教会」なるものがいつの間にか日本を陰で牛耳っているかのような陰謀説まで流布されている。これではまともな議論は不可能だ。
 当時の公害問題も似たり寄ったりだった。話が被害者救済ではなく、資本主義は悪だ、革命を起こせなんて方向に行ってしまうと、その過激な革命理論を否定しただけで公害企業に味方しているだの、人殺し呼ばわりされたりする。問題が完全にすり替わっている。
 これは様々な社会問題を政府転覆や革命のために利用しようとする人たちによって生じる問題なのだが、こうした人たちの中に潜んでいるのは「戦後思想」という自虐的な思想で、これが被害者救済よりも「日本は遅れている」というプロパガンダの方ばかりを際立たせてしまう。
 公害問題が起こっている。だから日本は悪い、日本は遅れている、日本人は駄目だ、それでは公害問題は解決しない。
 戦後思想というのは簡単に言えば、根底にあるのは世界史は「一つの世界」を作るための戦いであるという歴史観で、そこから日本は戦争に負けたからどこか他所の国が作る「一つの世界」にやがて併合されなくてはならないというもので、憲法第九条の戦争放棄はそのためのものと位置づけられる。
 なら、どこに併合されてもいいのかというと、彼らは共産主義者である以上、アメリカだけは除外ということになる。アメリカ以外ならロシアでも中国でもイスラム国でもどこでもいいのである。
 簡単に言えば強い国には無抵抗で併合されろ、ということだ。この論理は日本だけでなく香港や台湾やウクライナもそうするべきだ、それが平和への道だと考えている。
 当時の公害問題がこうした勢力の格好のプロパガンダになっていたことは、今の状況からも十分想像できると思う。実際そうだった。
 公害問題に「日本は遅れている」「日本は野蛮国」「日本人は劣等民族」、「早くソ連や中共の属国になった方がいい」、そう左翼やマスコミや「識者・文化人」と称する連中が煽り立てる。それは一九七二年も二〇二二年も一緒だった。
 岡潔さんもそういう雰囲気の中で、心情的には被害者に同情して、惻隠の心を動かしても、そういう何か違う論調に反感を抱いていたのだろう。ただそれを、岡潔さんは「外来文化」の問題として認識してたようだ。

 「それで公害という言葉、これは文化の一種ですね。外国から入って来て日本で大分やかましくいわれている。外国にオリジンがあるから、こんなにジャーナリズムが取り上げたんですよ。しかし公害、さっぱりうまくいかない。何故うまくいかないかというと、情の濁りから取り去らないからです。単に濁りだけじゃありませんが、情からきれいにして行かないからうまく行かない。」(p.19)

 理屈ばかりが先行しているというか、理屈自体がずれてしまっているというのが本当だったのだろう。公害をなくすことよりも政府を追及することばかりに忙しく、資本主義が公害を生んだんだから資本主義を倒さなくては解決しないだとか言い出すと、解決できるものも解決できなくなる。

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