合成の誤謬ということで、あまりみんな勤勉だと労働力の供給が過剰になり、かえって給料が下がるのかもしれない。働かないことも重要だ。
まだ働けるのに遊んでばかりいて、とか言われたら、「俺が働いたらその分若者が一人失業する」とでも言おうかな。若くて本当に今お金が欲しい人に働いてほしい。
それでは「情と日本人」の続き。
「情と知と意を比べてみますと、情は自分の体だけど、知や意はなんか着物のような、そうい感じがするでしょう。知的や意的に分ったって、本当に膚で分ってないという、そういう気がするでしょう。」(p.10~11)
情は全部先天的に決まっているのでもなければ、すべて後天的に獲得されたのでもない。情の骨格は先天的に決まっていても、実際の感情の形成は生後の様々な経験の中で偶発的に回路が形成されてゆく。
こうした脳の発達は個別のもので、誰一人として同じだはない。ただ、笑ったり泣いたり怒ったり悲しんだりという大枠は一致しているし、互いに共感できるが、笑いのツボは人それぞれ違う。同じように同じ物語を見て泣ける人と泣けない人がいたり、同じ事件のニュースを聞いても怒る人と怒らない人はいる。これが人それぞれの個性(キャラ)を形成する。
知もまた数学や論理能力は先天的(哲学では先験的ともいう)だが、人それぞれ考え方は違う。これは諸概念の形成が後天的な言語体験によって変わるためで、言葉や概念の意味は耳にした用例を基に形成されるため、同じ言葉でもイメージするもの人それぞれ違う。静岡や山梨で育てば、山というと富士山を思い浮かべ、青森で育てば岩木山を思い描くようなものだ。
遠山に日の辺りたる枯野かな 虚子
の句を聞いても、人それぞれ「遠山」のイメージは違う。アメリカのユタ州で育てば、あの未知との遭遇に出てきたようなモニュメントバレーに日が当たってる様子が浮かんでくるかもしれない。
同じように言葉が意味するものは、それぞれの過去の体験と言語体験に依存する。そのため、同じ日本語を使っていても、実際にイメージしているものはまったく違っていて、違うものを考えている以上、考え方が違ってくるのも当然だ。
そのたも、物の考え方は人それぞれで、論理としては理解できても感覚として理解できないことがしばしばある。確かに理屈は通ってるんだけど何か違う、そういう感覚は別に珍しいことでものでもなく、普通のことだ。そういう者同士がいくら議論しても水掛け論になるだけだ。
この人それぞれの感じ方、そこから引き起こされる感情はその人の「身体」であり、それは後天的であっても脳の偶発的な形成はやり直しのきかないものなので、その人の肉体と言ってもいい。
余談だが、性的嗜好というのもそういうものだと思う。LGBTは先天的ではないにしても、脳の発達の偶発性によるもので、それはきわめて多様で一人一人みな違うと言って良い。人それぞれの多様な性癖は異常なものでもないし、まして病気なんかではない。それを日本語では「趣味」と呼ぶ。
同性愛やバイセクシャルは異性の好みが多様であるのの延長線上のもので、たまたまその境界を越えていると理解すべきであろう。
人それぞれの偶発的に形成された脳回路はその人の身体であり肉体である。
これに対して人から学んだ知識はあくまで身につけた情報であって、それは着物にすぎない。
意思もまた一人一人のそれぞれの思いとは別に集団の一員として与えられる使命は必ずしも自分のものではない。ここでいう「意的」というのは、自分の心から発する意思ではなく、同調している集団の意思のことではないかと思う。
人から説得され、ある思想を信じ、ある行動に使命を感じたとしても、それはその人の生身の心ではなく、あくまで衣をまとっているにすぎない。
この考え方は西洋的に考えるなら逆になる。西洋のキリスト教やギリシャ哲学の伝統ではむしろ、人間とは知(ロゴス)であり、それが肉体の衣をまとっていると考える。
「知的「意的」をこうした思想的な知識や行動と解することで、次の文章にスムーズにつながる。
「今度、赤軍派の学生が無茶をやった。そうすると皆それを非難している。それで日本は赤軍派の学生のようなものを出したという短所よりも、ああいうものが出たら皆非難するという長所を現したわけです。つまり赤軍派には情がない、残酷であるということをひどく非難している。」(p.11)
一九七二年の時点で赤軍派の起こした事件というと、一九七二年二月の連合赤軍によるあさま山荘事件、一九七二年五月三十日のテルアビブ空港乱射事件であろう。
つい最近重信房子が出所したが、今でも彼らを山上徹也容疑者と並べて英雄視している人たちがいるのも確かだ。
ただ、それは一部の思想にかぶれた人たちで、大半の日本人はテロを支持しない。ただ、日本にも思想がその人の人間の証であり、それが肉体の衣をまとっていると考える人たちがそれなりの数いるのも確かだ。
「ああいうものが出たら直ぐそれを非難する。これが日本人の長所です。短所を恥じるよりも長所を誇った方が良い。しかし、そうであるという自覚がない。だからそれから先、話が少しも進展しない。」(p.11)
これは今でも日本の「サイレント・マジョリティ」の弱点と言って良いかもしれない。
西洋の思想にかぶれた人間は赤軍派を賛美して山上容疑者を山神様と崇めて、テロや殺戮を賛美し、それを残虐だと思う感覚が欠落している。ロシアがウクライナ人に対して行っている虐殺に対しても一緒だ。
これに対して多くの日本の国民はそれを非難しているのに、それを日本人の長所として誇ろうとしない。
いや、誇りにしているのだけど、それを伝える手段がないといった方が良いのかもしれないが。日本のマス・メディアやSNSの運営がすっかり特定思想に染まって情報を管理している中で、どうやってそれを表現しろと言うのか。
イーロン・マスクがいなかったら、日本のツイッターの実態が暴露されることもなかっただろう。
「こういうものが出るのは、人の本態は情であるから、教育は何よりも情をつくるべきである、教育は全く間違えていると、そういう意見は新聞にはひとつもなかった。情が非常に大事だということ、分るでしょう。」(p.11)
日本の教育も、当然そうした特定思想の人達の圧力を受けている。元文科省の前川喜平を見ればわかることだ。文科省も新聞も共犯なんだからこれは当然だ。日本の新聞は一九七二年の頃から変わってないし、むしろ悪くなっている。新聞の発行部数がそれを物語っている。
「情が自分であるという自覚があったら、それを踏み台にして知や意を働かすことができるんだけど、その自覚がなかったら、何が何だか分らないのですね。」(p.11)
先ず始めなくてはならないのは、自分の今感じている感情の正しさを、思想やメディアにひるんで卑屈になる習慣をやめることからではないかと思う。自分は正しいんだと胸を張る所から始めなくてはならない。
「日本人は誰でも、情が自分だといえば成程そうだと分りますね。そうすると、情が自分だという自覚がなかったら、どんなにものがうまく運ばないのかということの方を知れば良いでしょうが、ともかく情が自分だということは、日本人ならいわれたら直ぐ分る。」(p.11~12)
まずは自分たちの当たり前を、西洋の思想に対して卑屈になることなく、これが正しいんだと胸を張ることから始めよう。
「だが、本当の自分とは情であると、はっきり思った日本人は一人もいないらしい。何故かといったら、そんなこと誰も書いていない。誠に不思議なことだけど、情がじぶんだといった人はありません。日本人にないんだから、世界にそんな人はありません。そういう人類は一人もいないということになる。」(p.12)
なぜそうなのかで予想がつくのは、情の概念が通常は朱子学でいう七情、つまりその時その時の喜怒哀楽の情を指すことが多く、この意味では情は自分だというには限定され過ぎている。
「本当の自分とは情である」と言うには情の概念を四端を含めた全人格の根底を形作る概念に拡大する必要があったからだ。これは岡潔さんの唯一無二の発想であり、独自の哲学と言って良い。
「東洋は情を自分だとは思わないらしい。心は情、知、意に働きますが、その情、知、意と連ねた心というものを自分だと思っているらしい。これは日本人である私には想像のつかないことです。どうすればそんなことが思えるのかわからないが、そう思っているに違いない。」(p.5)
注意して読むと、ここでは日本人を東洋から除外している節がある。そしてここで東洋と名指しているのは陽明学ではないかと思う。「心即理」の説明としてはこれで良いと思う。朱子学はおそらく理解の範囲を越えていたのだろう。
「その証拠には、中国では知が基だといいますが、仏教も知が基だといっている。それだったら心が自分だと思っているんでしょう。そうでなければ、そんなこといえる訳がない。」(p.12)
これはおそらく中国の「理」の優位と仏教の「法」の優位のことを言っているのだと思う。儒教の性理は陽明学では心と同一視され、仏教の法(dharma)も三界唯心の中に存在する。
孟子もまた四端については「情」ではなく「心」を用いている。
ただ、性理や三界唯心は宇宙全体まで拡大されるため、自分は何かというと心の概念としては広すぎることになる。その意味で一人一人の「私」が生じるのは確かに「情」だと見ても納得できる。
情は宇宙と一体化した大なる心ではなく、個々の人間の個別性の根源だというなら「情」で差し支えない。
「西洋人に至っては、情の中で大脳前頭葉で分る部分、これが感情ですね。これは極く浅い情です。もっと深い情を西洋ではどういっているかというと、ソール(魂)といっている。これが情です。」(p.12)
大脳前頭葉はこの当時の脳科学の知識では感情、意思、理性、人格などの人間らしさを全般的につかさどるような認識ではなかったかと思う。いわば情、知、意を含めたものと思われていたと思う。
感情の中心という意味ではむしろ偏桃体ではなかったかと思う。
ただ、今日ではそういう単純なものではなく、脳全体の連関が重視されるようになっている。
ソールは英語のsoul、ドイツ語のSeeleで、一般的に感情を意味するemotion、Emotionenを用いないのは、岡潔の言う「情」がそれより広い全人格的な意味を求めているからと思われる。
岡潔の言う「情」は一般的な意味での感情よりは広い意味を持つことは前にも言ったが、ここからすると、ほぼ人格と同義で用いられていると言って良いかもしれない。ただ、理性の優位な西洋的人格に対して、情の優位にある日本的人格を提示したと見なして良いかもしれない。
今日的に言うなら欲望、感情、理性などをすべて含めた個別の脳組織の全体を現すと言ってもいいかもしれない。
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