2022年11月18日金曜日

  秦野市俳句協会の入門講座で貰った岡潔さんの「情と日本人」という冊子を、今回は読んでみようと思う。有名な数学者らしいけど、その方面のことはよく知らない。

 「今日初めて聞かれる方もあるかも知れませんが、その方にとっては関係ないことだけど、そうじゃない方もおられる。で、そうでない方に対して、今日また同じことを繰り返そうと思う。」(p.8)

 これはまあ導入部で、これまで何度も同じ話をしていたということで、大事なことなので何回でも繰り返しますという意味が込められていると思う。

 「どういうことかというと、日本人は『情』の人である。人としてそれが正しいんです。そうであるということが非常に大事だのに、少しもそれを自覚していない。」(p.8)

 これはひとえに西洋崇拝の弊害と言えよう。西洋哲学は長いこと霊肉二元論によって、一方には盲目的な欲望を持つ肉体があり、もう一方にはそれを制御する理性がある。
 これは例えば男女の仲で言えば、闇雲で無差別な性欲があって、それを制御するのが理性であるということで、そこには恋愛感情を差し挟む隙間がない。
 もちろん西洋の小説や様々な物語に恋愛は描かれている。ただ、哲学者の中にそれは存在しなかったと言って良い。
 正確には肉体から切り離された観念の上での愛はあっても、それは肉体的欲求とは区別される。いわゆるプラトニックラブと呼ばれるものしかない。そして欲望はただ見境のない、誰かれ構わないものとみなされる。
 西洋の哲学は一貫して人間のメンタルな部分やエモーショナルな部分を取りこぼしてきた。そして、明治以降の日本の学者もそれに右に倣えしてきたと言って良い。
 もちろん西洋でもニーチェのようにディオニソス的なものを取り戻そうという動きもあった。ただ、日本の本来の文化が本来人情を基礎としてきたことは自覚してないというよりも、西洋化の名のもとに否定され、抑圧されてきたと言って良い。
 日本人が本当に人情を忘れたのではないことは近代の大衆文化を見れば一目瞭然で、それは西洋的な学問の支配によってただ抑圧されてきたにすぎない。ただそういったものを卑俗だとか低俗だとか言ってきただけのことだった。

 「日本人は情の人であるということと自覚するということが、今非常にしなければならないことであると本当に分って、本当にそう思うようになってもらいたいと思うんです。つまり、言葉でいえば『日本人は情の人である』だけなんです。そういえば成程と思う。これは日本人だからだと思いますが、しかし、それから先が進まないんですね。」(p.8)

 「日本人は情の人である」という、こうした命題として規定する言い方自体が理性的な文脈に置かれていて、「情」が日本語では「こころ」だったり「まこと」だったり「なさけ」だったり多様な側面を持っていることを、西洋的な形而上学の理論ではうまく説明できない。
 ハイデッガーのいうSolgeはそれに近いかもしれないし、それが個人のものではなくVolkとしての社会的のものとして規定されるなら、日本語の「人情」に近いものにはなるが、西洋哲学の言葉はそれ以上の豊かさを持っていない。
 ロシアのドゥーギンのナロッドもまた、正教会とプラトニズムの支配下にあり、霊肉二元論を逃れるものではなく、いかにディオニソス的な「闇」を解放したとしても、ロシアが西ヨーロッパに比べてこの闇に精通しているとしても、その豊かさはまだ限定的と言える。
 その困難な闇を日本人は易々と日常的平均的に理解している。それゆえハイデッガーのいうDas Manへの頽落は知識人は別としても大衆レベルでは生じていない。和辻哲郎がハイデッガーのいう現存在の本来性と非本来性が逆だと指摘したのも、日本人にとっての日常的平均的なものは決して利益共同体(ゲゼルシャフト)でもなければ、「~のための」の連関によって生活が道具化しているという事実もなく、「死への存在」すら仏教の伝統によって日常の中に取り込まれ、現存在の有限性なども当然のこととして認識されている。日本人はコノハナサクヤヒメの神話以来、永遠の生を放棄したからだ。
 問題はこの日常的平均的なものの中で実現されているメンタルでエモーショナルな社会が西洋の言葉を使うや否や自覚できなくなる、というその一点ではないかと思う。
 これは西洋哲学の欠陥ではあっても日本人の欠点ではない。

 「大阪へ行って淀川を見る。これはひどい、これではいけないと直ぐ公害を思うんだけど、川が見えなくなるとけろりと忘れてしまう。そんな風な分り方ではさっぱりことは進展しない。で、そうじゃないようにしようと思う。」(p.8)

 この文章は一九七二年の公演を筆記したもので、「公害」という言葉が当時の流行語だった。やがて「環境汚染」「環境破壊」だとかいう言葉が多く使われるようになって、「公害」は今では死語に近いものになっている。「公害」は示す内容がかなり漠然としているため、どうでもいい些細なことに「何々公害」だとか矮小化されていくうちに、次第に用いられなくなっていった。
 公害と向き合うにはまず「公害」の内容そのものが漠然としたものではなく、客観的に議論できる明確な対象となる必要がある。ただ漠然として川が汚れているというのではなく、川にどういう有害物質があり、それはどのように流れ込むかまで踏み込めば、その対策も可能になる。ただ漠然と汚れているというだけなら、雨で増水して泥水になっているのと変わらない。
 同じように「日本人は情の人である」ということを常に意識に留めるには、それを明確に規定する言葉が必要になる。ただ、西洋哲学はそれを欠いている。そこが問題になる。

 「そうすると、結局同じことを繰り返し繰り返しいうことになってしまう。そうする他はない。それで今日も同じことを繰り返していおうと思うんです。」(p.8~9)

 ここで冒頭の言葉に帰ってくる。このことは前にも言ったし、今まで何度となく同じことを繰り返し言い続けてきた、と。
 岡潔さんは数学者ではあっても哲学者ではないし、日本の哲学者のほとんどは、はっきり言って西洋哲学を理解できてないし、ただ細かな語句を整理して目録を作る位の作業しかしていない。理解できてないものを発展させ、日本人の情を哲学の言葉にするなどと言う作業は求むべくもなかった。

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