「情と日本人」の続き。
「戦後、幸福ということをよくいう。世界のはやりに従って、日本はことにアメリカの真似をして、近頃の人は幸福ということをよくいうんですが、戦前は幸福などといわなかったものです。」(p.9)
これは検証する必要があるが、「幸福」という概念は確かに江戸時代にはなくて、西洋の言葉の翻訳として広がったと思われる。「しあわせ」にしても、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「仕合・幸」の解説」には、
「〘名〙 (「しあわす(為合)」の連用形の名詞化)
① めぐり合わせ。運命。なりゆき。機会。よい場合にも、悪い場合にも用いる。
※雑事覚悟事(1489頃か)「もろひざをつきてもくるしからず。当座のしあわせによるべし」
※中華若木詩抄(1520頃)上「わかき時は、学問して、功名を立んと思たれば、何とやらん、しあわせわるうて」
② 幸運であること。また、そのさま。
(イ) (形動) 運がよいこと。また、そのさま。幸福。
※虎明本狂言・末広がり(室町末‐近世初)「『そなたは仕合な人じゃ』〈略〉『それは誠に仕合でござる』」
(ロ) (━する) 幸運にめぐりあうこと。運が向くこと。うまい具合にいくこと。
※咄本・軽口露がはなし(1691)四「されば今年程無仕合なる事はなし。〈略〉来年は仕合して結講申べし」
③ 物事のやり方、または、いきさつ。事の次第。始末。
※浮世草子・好色一代男(1682)四「其科のがれず、終には捕えられて此仕合(シアハセ)とかたる」
④ 人が死ぬこと。不幸、葬式。
※梅津政景日記‐慶長一七年(1612)七月一一日「左衛門殿御袋御仕合に付而、上隠岐同道いたし、湯沢へ罷越」
とある。実際に「幸福」の概念は戦後広まったものなのかもsぢれない。
同じように「夢」という言葉も、「あらまし」の意味で用いられるようになったのは近代になってからで、西洋の言葉の翻訳と思われる。
「自由」も今とは意味が異なっていたし、自由に相当する言葉はむしろ「かまわぬ」ではなかったかと思う。
「人権」も西洋の言葉の翻訳で、それに近いとすれば「人情」であろう。
西洋の哲学だと、幸福は感情というよりは苦痛のない状態として規定されることが多い。「最大多数の最大幸福」という場合は飢餓や圧政や重労働などからの解放をいう。
まあ、ならば「水虫を掻いている時は幸福なのか」ということになるけど、水虫を掻いている状態は苦痛を別の刺激でごまかしているだけで、水虫が完治したなら幸福ではないかと思う。
もう一つの幸福の概念は至福に近いもので、いわば宗教的な忘我の状態を言う。仏教でいえば悟りの境地ということか。
その意味では戦後は西洋の幸福の概念を輸入はしたものの独自な感情の概念として広まった可能性もある。特にこの一九七二年の翌年には落合恵子の「スプーン一杯の幸せ」が大ヒットすることになる。
「幸福とは何が幸福かということですが、これは知、情、意のうち「情」が幸福なんです。知が幸福だの、意が幸福だの、意味をなさない。よし意味をなしたところで、そんな幸福、どうでも良い。自分の情が幸福と思う、それが幸福なんでしょう。」(p.9)
西洋形而上学だとむしろ理性の充足の方に宗教的な幸福か、そうでなければ欲望の充足ということになる。精神の充足か肉体的充足かのどちらか、ということになる。
情という視点はその意味で幸福の日本的解釈と言って良いのだろう。
「人は動物ですが、動物の中で割合信頼できます。なぜ信頼できるかというと、人には人の情というものがあるから信頼できる。みすみすなことは大抵はしない。それは人には人の情というものがあるからです。」(p.9)
信頼できるといえば、犬や猫も人間とよく情が通じるから、「割合」という意味では信頼できる。この「割合」というのは間違いなく動物と人間とを連続的に捉える発想で、日本人には普通に受け入れられるが西洋的ではない。アメリカではいまだに創造説を信じる人が過半数を占めていて、人間と動物との間には厳密な境界があると信じられている。
レイシズムはある種の人種を動物の側に押しやるもので、人間と動物との厳密な境界が前提されている。その意味では日本にはレイシズムはない。
禽獣夷狄という言葉はあるが、それは朱子学の人間は「万物の霊」という考え方から来るもので、縦気か横気かによるもので、感情の根源としての「気」は連続している。
「こんなことをしてはいけないんだがなあと情の思うことを、知や意のすすめによってする。そうするといつまでも心がとがめる。これが情です。漱石の『こころ』もこれを書いている。」(p.9)
漱石の方は置いておくとして、第二次大戦の悲惨な虐殺の中で西洋哲学もまたそれまでの理性中心の考え方に大きな反省を強いられることとなった。
ナチスのユダヤ人虐殺は、日頃隣どうして友達だったユダヤ人の友人をある日アウシュビッツに送らなくてはならなくなる。感情的には憎しみはない。それでも社会正義のために「汝なすべき」の声によってそれを遂行する。ここでカント的な定言命令、「汝なすべし」の声が人間の情に反する残虐な命令を下す事態が生じる。これではいけないと、もっと生身の人間の感情の声を取り戻さなくてはならないということで実存主義の流行となった。
個人的には恨みはないが社会正義の名目でレイシズムが蔓延する。これは日本人は経験していない。南京事件は便衣兵の恐怖から中国人全体に不信感が広まっての感情的な爆発で、レイシズムの要素はなかった。組織的な民族浄化は存在しなかった。
情というのはその意味で、理性の命令による組織的な虐殺には至らないが、不安や恐怖が爆発した場合は虐殺も起こりうることを示している。日本で起きる虐殺は基本的にこのパターンで、関東大震災の時も根底にあったのは恐怖だった。
情は両面的なもので、概ね身内には甘く、敵には残虐になる。
蝶を噛んで仔猫を舐むる心かな 其角
だ。この両面性には十分注意を払わなくてはならない。
「そうすると道徳は人本然の情に従うことである。そういえると思う。また情というものがなかったら、道徳とは何かという前に、道徳というものが存在し得ないでしょう。人は情あるが故に道徳というものが存在し得るのです。」(p.9~10)
この辺りの考え方は基本的に『孟子』のよるものであろう。「本然の情」は正確には「本然の性」であろう。惻隠の心が「情」なのかどうかは儒教内部でも議論のある所ではある。
いわゆる孟子の四端は喜怒哀楽などの感情のより根底にあるもので、それと区別するなら「性」の方がふさわしい。
李退渓については一応簡単にウィキペディアを引用しておこう。
「彼の学問は徹底した内省を出発点としており、この立場から朱熹の学説を整理した。四端七情と理気との関係をめぐる奇大升との長年にわたる朝鮮儒学史上著名な論争でも、論理的整合性を重視する奇大升に対して、人間のあるべき道徳的な姿を求めて、理気の互発説(四端は理の発、七情は気の発)を主張して、さらに理自体の動静(運動性)を明言した。」
この四端を喜怒哀楽の七情から切り離して、より根源的なものとして捉えるのが李退渓から林羅山に引き継がれた朱子学の道で、芭蕉もまたこの考え方に基づいて本情と一時の私情を区別する。おそらく朱子学神道の大家だった吉川惟足の高弟岩波庄右衛門(曾良)を経由してのものであろう。
不易流行説は四端を不易として七情を流行とするところに哲学的基礎を持っている。
道徳の根源にあるのは四端であり、特に仁の根源という意味では惻隠の心を指す。一般的には惻隠の情という言い方もされていて、広義の情に含まれると見てもいい。
「道徳とは人本然の情に従うのが道徳です。背くのが不道徳です。ところが古来そういった人は一人もいない。孔子なんか随分道徳について説いた。それが儒教ですね。ところが儒教はいろんな形式は詳しく説いていますが、内容は説いていない。」(p.10)
これは近代の儒教が孟子や易姓革命を否定する明治の国体思想のもとに「孔子のみ」の儒教になったことによる偏見と言って良いだろう。岡潔さんが学校で習った儒教のイメージは確かにこういうものだったと思われる。
岡潔さんの「道徳とは人本然の情に従うのが道徳です」という考え方は、間接的にであれ孟子から学んだのではないかと思われる。
「儒教の内容は『仁』です。ところが仁とは何かということいってない。だから儒教は形式は分っても、内容は分らない。仁とは何であるかというと、人本然の情、それが仁でしょう。情の中から不純なものを削り去って、良い所だけを残して、これを『真情』ということにすると、真情が仁です。ところがそういってない。」(p.10)
これは用語の多少のずれはあるにしても、朱熹、李退渓、林羅山に受け継がれた儒教の考え方と異なるものではない。
ただ、明治以降のゆがんだ国体儒教からは排除されていた考え方で、本来の儒教を岡潔さんが独力で再発見したのであれば類稀な達観と言っていいだろう。
「真情が仁だといえば人には誰でも分る。だから真情に従って行為するように努めるのが儒教の修行になる。ところが内容が仁であるのが道徳であるというんだから、どうしていいか全く分らない。それで形式ばかり重んじている。それが儒教でしょう。少しも実があがってない。」(p.10)
真情は芭蕉の言う本情と同じに考えていいだろう。
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