2018年8月31日金曜日

 不易はもちろん単なる基だとか本意本情だとかいう伝統に限定されるものではなく、人間の心の奥深くに潜む言い表しがたいもので、説明のつかないもの、「陰陽不測」を『易教』では「神」と呼んでいた。
 其角にとって不易は「俳諧の神」だった。
 一方、芭蕉は許六に教える時には、これを「血脈」と呼んでいたようだ。「血脈」だとやはりまだ「伝統」というニュアンスが濃い。
 その許六が其角に代わって「贈晋氏其角書」に反論し、「贈落柿舎去来書」をしたためることになる。

 「千歳不易・一時流行のふたつをもつて、晋子が本性を論ぜらるるは、かねて其角が器をくわしく知りたまはざる故なり。生得物にくるしめる志なく、人の辱しめをしらず。故に返答の詞なく、かへつてことば色どり、若葉集の序とす。是、はぢしめをしらぬゆへなり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.35)

 天才肌というのはえてしてこういう天真爛漫なものなのかもしれない。人のことを悪く言ったりもしない代わりに、自分がディスられているのにも気付かない。
 ひょっとしたら、去来の手紙を本当に『末若葉』のための序文を提供してくれたと思ってたのかもしれない。それで、ちょっと自分の考えに合わない部分を訂正しただけだったのかもしれない。

 「しかりといへども、予三神をかけて、相撲を晋子がかたに立ず。また諸案の中、目だつ句有れば、大かた晋子也。かれにおよぶ門弟も見へず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.35)

 「三神」というのは和歌三神(住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂)のことか。とにかく其角と相撲を取るつもりはないという。それだけリスペクトしている。

 「なんぞや、亡師の句にたいして、ひとしからんと論ぜらるるは、かへつて高弟のあやまりといはん。予不審あり、師遷化の後、諸門弟の句に秀逸いでざることはいかん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.35)

 何で亡き師芭蕉の句と違うからといってそれを高弟の誤りと言うのか。芭蕉が遷化してから他の門弟にだって秀逸の句はないではないか。

2018年8月30日木曜日

 芭蕉が元禄二年から三年頃、どのような不易流行を説いたのかは定かでないが、去来が理解した範囲で不易は「基(もとゐ)」だけでなくもう一つあったと思われる。それは『去来抄』「同門評」の「夕ぐれハ」の句の所で登場する「本意本情」ではないかと思う。
 同じ『去来抄』「修行教」にも「去来曰、俳諧は新意を専(もっぱら)とするといへども、物の本情を違(たがふ)べからず。」とある。新意と対比して書かれている。
 『猿蓑』の風の時に、おそらく本意本情の要件がかなり緩和されたのではないかと思う。つまり明確に古典に典拠を示すことができなくても、いわゆる證歌を引いてこなくても、大体の感覚でOKになったのではないかと思う。それは本説が俤になったのと同じに考えればいい。
 芭蕉が不易流行を説き始めた頃と思われる元禄二年の暮れ、芭蕉は膳所の木曽塚から去来宛に手紙を書いている。
 そこで、

   手握蘭口含鶏舌
 ゆづり葉や口に含みて筆始    其角

の句をとりあげ、

 「江戸より五つ物到来珍重、ゆづり葉感心に存候。乍去当年は此もの方のみおそろしく存候處、しゐて肝はつぶし不申候へ共、其躰新敷候。前書之事不同心にて候。彼義(儀)は只今天地俳諧にして萬代不易に候。」

と評している。
 まず「其躰新敷(そのていあたらしく)」と新味を認め、前書きは不要とし、「萬代不易」と新味にして不易だとする。つまり不易流行の見本として去来に説いたと見ていいだろう。
 「ゆづり葉を口にふくむといふ萬歳の言葉、犬打童子も知りたる事なれば」と、この言葉は当時子供でも知ってるような有名なフレーズで、それをそのまま使ったことが「閑素にして面白覚候」と言う。
 誰もが「ああ、あの言葉ね」とわかるものをメインにした、今日でいうあるあるネタの句で、そこに新味があるとともに、万代不易だという。
 これに対し、「手握蘭口含鶏舌」という前書きは、岩波文庫の『芭蕉書簡集』の萩原恭男の注によれば、「漢の尚書郎が口に鶏舌香を含んで奏上し、蘭を握って朝廷に出仕した故事」だという。
 これは證歌を取るのと同じようなもので、ゆずり葉を口に含んで筆始めをするという趣向が古典の心にかなうものである事を証明しているのだと思う。芭蕉が不易流行を見出した時、こうした古典に密着した重さを嫌い、古典を匂わすだけで十分だと考えたからではないかと思う。
 ただ、それは古典から離れてもいいということではない。
 たとえば二〇一六年十一月十四日の日記で触れた『猿蓑』巻頭三句目以下の時雨あるあるにしても、

 時雨きや並びかねたる魦(いざさ)ぶね 千那
 幾人かしぐれかけぬく勢田の橋     丈草
 鑓持(やりもち)の猶振たつるしぐれ哉 正秀
 広沢やひとり時雨(しぐる)る沼太郎  史邦
 舟人にぬかれて乗し時雨かな      尚白

にしても、別に時雨といざさぶね、時雨に勢田の橋、時雨に槍持ち、時雨に沼太郎、時雨に船人といったところに何かしら證歌を取るわけではない。
 それでも、時雨に並びかねた舟は、

 龍田河紅葉はながる神なびの
    みむろの山に時雨ふるらし
              文武天皇

の川に流れる紅葉の葉の連想を誘う。これは単に形が似ているということではなく、時雨の「定めなし」という情を含んでいる。
 これがまったく違う情を喚起してしまうと、『去来抄』「同門評」で正秀に「句くず」と評された、

 時雨るるや紅粉の小袖を吹かへし    去来

と、

 龍田川錦織おりかく神無月
    しぐれの雨をたてぬきにして
                  詠み人知らず

の関係になってしまうことになる。

 じだらくに寝れば涼しき夕哉    宗次
 夕涼み疝気おこしてかへりけり   去来

の差もそこにある。宗次の句はじだらくに寝ることを許してくれる主人への感謝とも取れなくはない。それに対し「疝気」の句は、もし夕涼みに誘ってくれた人がいたなら喧嘩を売ってるようなものだ。
 この明示されなくても古典に通じる本意本情を維持するというのが、猿蓑調の重要な部分だった。去来は次第に形式的な類似に終始してこれを忘れて行ったのではないかと思われる。
 これに対し、其角はあくまで古典に密着した句の作り方を続ける。

   閑見月 更る夜の人をしづめてみる月に
        おもふくまなる松風のこゑ
 名月や畳の上に松の影      其角

 この前書きの和歌は細川幽斎の『耳底記』にあるという。

   笠重呉天雪
 我雪とおもへばかろし笠の上   其角

 前書きは『詩人玉屑(ぎょくせつ)』の詩から取っているが、これも芭蕉なら不要だと言うだろう。

 声かれて猿の歯白し峯の月    其角

 この句も「猿の歯」を詠むところに新味はあるが、月に叫ぶ猿は漢詩や画題などでお馴染みのものだった。芭蕉はこれに対し、

 塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店    芭蕉

と、同じような悲痛な叫びの情を卑近な魚屋の情景で表してみせる。

2018年8月29日水曜日

 LGBTQIAでもPZNでも一人一人みんな違うし、障害者と一くくりにしてもその内容や程度はすべて違う。ましてどんな少数民族とはいえども、やはり一人一人みんな顔貌も違えば考え方も違う。マジョリティーだってピンからキリまでいる。
 マジョリティーだのマイノリティーだの言っても、結局人は誰一人同じではない。自分はこの世界でたった一人で、誰しも七十億対一の圧倒的なマイノリティーだ。
 結局人は絶対的な多様性の一人としての自分を生きるしかない。だから人間は皆平等なのである。
 ただ、人は生きるために多数派に就こうとする。本来の自分の半身を捨てて、集団だの組織だのに同化しようとする。でも、誰しも心底そこに埋没することはできなくて、ある時自分の捨ててきた半身のあった部分に風が吹きぬけてゆくのを感じる。その失われたものへの思い、恨み、それが「風」だ。
 風は必ず多様性の一人としての自分に立ち返らせ、すべての者が平等である所に導く。多様でありその多様性に対して寛容だからこそ、人は平等になれる。それは信じていいと思う。

 それでは『俳諧問答』の続き。

 「翁のいはく、なんぢが言しかり。しかれどもおよそ天下に師たるものは、まづおのが形・くらゐをさだめざれば、人おもむく所なし。
 これ角が旧姿をあらためざるゆへにして、予が流行にすすまざるところなり。
 わが老吟にともなへる人々は、雲かすみのかぜに変ずるがごとく、朝々暮々かしこにあらはれ、ここに跡なからん事をたのしめる狂客なりとも、風雅のまことを知らば、しばらく流行のおなじからざるも、又相はげむのたよりなるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.32~33)

 去来さんはかなり自慢げに「予が流行」だとか「雲かすみのかぜに変ずるがごとく」だとか、いかにも流行に乗っているようなそぶりだが、実際にどんな句を詠んでいたか、元禄九年刊の『韻塞』から拾ってみよう。

 行かかり客に成けりゑびす講  去来
 行年に畳の跡や尻の形     同
 芳野山又ちる方に花めぐり   同
 見物の火にはぐれたる歩行鵜(かちう)哉 同

 「ゑびす講」自体は別に新しいものではないし「芳野山」の句も特に物数寄なこともない。「行年に」の句はあるあるネタだがそんな面白いものでもないし、古典の情に通うものでもない。「火にはぐれた歩行鵜」も鵜飼の光景だが、鵜飼自体は新しいテーマではない。
 むしろこうした句は古典的なテーマに古典の情とは無関係なあるあるネタを展開したような感じで、題材が不易、内容が流行みたいな捉え方をしているようだ。
 こういうのを流行だと言われても其角さんも困惑するだけだろう。まだ、

 越後屋に衣さく音や更衣    其角

の方が新しい。

 「去来のいはく、師の言かへすべからず。しかれども、かへつて風は詠にあらはれ、本歌といへども、代々の宗の様おなじからず。いはんや俳諧はあたらしみをもつて命とす。本歌は代をもつて変べくば、この道年をもつて易ふべし。水雪の清きも、とどまりてうごかざれば、かならず汚穢を生じたり。
 今日緒生の為に古格を改めずといふも、なをながくここにとどまりなば、我其角をもつて、剣の菜刀になりたりとせん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.33)

 水も淀めば濁るというのはわからないでもないが、どこか言葉が空回りしているのは、結局去来さん自身が俳諧を引っ張ってゆけるだけの力量もなく、年下だが先輩の其角に芭蕉亡き後のリーダーシップを発揮してくれることを懇願しているようにすら見える。だが、後輩でも年長ということで、ついつい言葉が高飛車になってしまっている。

 「翁のいはく、なんじが言慎むべし。角や今我今日の流行におくるるとも、行すへまたそこばくの風流をなしいだしきたらんも知るべからず。
 去来のいはく、さる事あり。これを待にとし月あるらんを嘆くのみと、つぶやきしりぞきぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.33~34)

 その翁は、

    座右之銘
   人の短をいふ事なかれ
   己が長をとく事なかれ
 物いへば唇寒し穐の風   芭蕉

と詠んだが、去来さんにはどこ吹く風のようだ。
 去来は努力の人だから、其角や支考のような天才肌の人とは反りが合わないのかもしれない。
 「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という諺があるが、去来は梅のほうで、度々芭蕉の三十棒にあったようだ。サッカーで言うとファンタジスタではなくロジスタの方だから、不易流行のような理屈にのめりこむ傾向があったのだろう。
 まあ、「知るべからず」つまり「もう知らん、勝手にしろ」と一方的に絶縁状をたたきつける形で終る。

 「翁なくなり給ひて、むなしく四とせの春秋をつもり、いまだ我東西雲裏のうらみをいたせりといへども、なを松柏霜後のよはひをことぶけり。さいはいにこの書を書して、案下におくる。先生これをいかんとし給ふべきや。
  右      去来稿」
(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.34)

 こうしてこの手紙は終る。
 其角は元禄十年刊の『末若葉(うらわかば)』の跋にこの手紙を掲載する。

 「去来問、師の風雅、見及ぶところ、みなし栗よりこのかたしばしば変じて、門人、其流に浴せんことを願へり。我是を古翁に聞り。句に千歳不易、一時流行の両端あり。不易をしる人は、流行にうつらずといふ事なし。一時に秀でたるものは、口質の時にあへるのみにて、他日の流行にいたりては、一歩もあゆむ事あたはず。翁の吟跡にひとしからざること、諸生のまよひ、同門の恨み少からず。凡天下に師たるものは、先己が形位を定めざれば、人趣くに所なし。晋が句体の予と等からざる故にして、人をすすましめたり。又、我老吟を甘なふ人々は、雲煙の風に変じて跡なからん事を悦べる狂客なり。ともに風雅の神をしらば、晋が風興をとる事可也。」(『其角の不易流行観』牧藍子より)

 別に反論するわけでもなく、むしろそれを要約して自分の言葉にしてしまう所はさすがに大人だ。
 「ともに風雅の神をしらば、晋が風興をとる事可也。」という最後の言葉には、大事なのは形だけの不易ではなく「風雅の神」で、それを共有するならば我々は仲間だ、というメッセージを込めている。

2018年8月28日火曜日

 ヤノベケンジさんの「サン・チャイルド」は、本人も明らかに政治的な意図で作成したのだろうし、単なるSFのキャラクターで済ませるわけには行かない。
 特にそれが福島の一つの象徴になってしまうと、防護服はいかにも危険地帯であるかのような錯覚を生むし、それこそここは危険なところだということを世界に宣伝することになる。とにかくあまりあちこちに建てて欲しくはない。
 こんなことを言うとわざとやりたくなる人もいるだろうけど。

 それでは『俳諧問答』の続き。

 「みずからおよぶべからざることは、書に筆し、くちに言へり。
 しかれどもその詠草をかへり見れば、不易の句におゐては、すこぶる奇妙をふるへり。流行の句にいたりては、近来そのおもむきをうしなへり。
 ことに角子は世上の宗匠、蕉門の高弟なり。かへつて吟跡の師とひとしからざる、諸生のまよひ、同門のうらみすくなからず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.32)

 本来芭蕉の不易流行の不易はあらゆる芸術の根底にあるような人を人たらしめているような普遍性の高いものだったが、去来にとって不易はむしろ「伝統」と言った方がいいのだろう。
 これに対して流行は今まさに創造しようとしているものではなく、今の時代を詠んだものくらいの意味しかないように思える。
 『去来抄』「修行教」には、不易の句は、

 「魯町曰、不易の句はいかに。去来曰、不易の句は俳諧の体にして、いまだ一の物数寄なき句也。一時の物数寄なきゆへに古今に叶へり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,62)

とある。
 そして、流行の句に関しては、

 「魯町曰、流行の句はいかに。去来曰、流行の句は己に一ツの物数寄有て時行也(はやるなり)。形容衣裳器物に至る迄まで、時々のはやりあるがごとし。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,62)

 「物数寄」という言葉は中世には連歌や茶道に入れ込むことを言っていたようだが、江戸時代になると趣味も多様化し、形容衣裳器物もその時その時の流行があり、それを追いかけるのを物数寄と呼んでいるようだ。
 その「物数寄」がないのが不易の句で、「物数寄」があるのが流行の句だという。
 まあ、要するに昔からあるものを昔ながらのスタイルで詠んだものを不易の句といい、最近はやる物を最近の流行の仕方で詠んだものが流行の句ということか。
 この基準だと、「不易の句におゐては、すこぶる奇妙をふるへり」というのは、

 饅頭で人を尋ねよ山ざくら   其角(「韻塞」)
 楠の鎧ぬがれしぼたんかな   同 (「韻塞」)
 なよ竹の末葉残して紙のぼり  同 (「韻塞」)
 月影やここ住よしの佃島    同 (「韻塞」)

といった句か。
 「流行の句にいたりては、近来そのおもむきをうしなへり」というのは、

 いつとろに袷になるや黒木売  其角(「韻塞」)
 越後屋に衣さく音や更衣    其角(「浮世の北」)
 竹と見て鶯来たり竹虎落    其角(「菊の香」)
 扇的花火たてたる扈従かな   其角(「皮籠摺」)

といったような句か。
 別にそんな悪い句とは思わないが、むしろ去来の側に芭蕉の古くからの高弟で去来自身も師と崇めてきた其角だけに、期待するものが大きすぎたのかもしれない。

2018年8月27日月曜日

 『俳諧問答』の続き。

 「たまたま一時の流行に秀たるものは、ただおのれが口質のときに逢ふのみにて、他日流行の場にいたりて一歩もあゆむことあたはずと。
 しりぞいておもふに、其角子は力のおこのふことあたはざるものにあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.32)

 「口質」は「くちぐせ」と読む。『三冊子』「あかさうし」に「是に押移らずと云は、一端の流行に口質時を得たる計にて、その誠をせめざる故也」とあり、『去来抄』「修行教」には「一句にしほりの有様に作すべしと也。是は作者の気性と口質とによりて也」とある。
 今日でいう口癖というよりは、むしろ「言語感覚」に近いかもしれない。その時その時のはやりの言語感覚というのは、コピーライティングでも作詞でもあったほうがいいに違いない。
 言葉は時代によって変わるとはいえ、たくさんの流行語が次々に作られても定着するものは少ない。「チョベリバ」は九十年代後半の若者の言語感覚にはアピールするものがあっただろうけど、あっという間に使われなくなった。
 俳諧でも、その時は受けた言葉遣いも、何年か経ってすっかり古くなってしまうことがあったのかもしれない。
 言語が時とともに変化してゆくように、ある時代にもてはやされた言語感覚も、若い世代が台頭してくると次第に親父臭くなる。だから言語感覚だけで売っていると、やがて古くなる。作詞家やコピーライターでも年取ってなお流行の最前線にいられる人はほとんどいない。
 芭蕉もまた元禄六年の歳旦で自嘲気味に、

 年々や猿に着せたる猿の面    芭蕉

の句を詠んでいる。芭蕉も必死に流行についていこうとしてたけど、自分でも無理していると思ってたようだ。
 去来も其角より十も年上だから、自分はまだ流行に乗ってるようなふりをしているけど、かなり無理をしてるのではないか。自分が無理をしているだけに、無理をしない其角がどうにも気になってしょうがないのだろう。
 流行には二つの側面があると思う。
 一つは進化の過程としての流行。もう一つは世の中の移り変わりに伴う外見上の流行。
 たとえばロックがロカビリーの流行から始まり、プレスリーが一世を風靡し、そしてビートルズが世界的な現象となり、ついで、プログレ、グラム、ハードロックなど次々と流行し、パンクは一度プリミティブな所に回帰し、ニューウェーブ、テクノ、アバンギャルド、オルタナ、グランジ、ポストロックといった流れを生んでいった。パンクと同時期にハードロックの延長線上に登場したヘビーメタルは、やがてブラックメタル、デスメタル、スラッシュメタル、ドゥームメタル、フォークメタルなどいろいろなものを生み出していった。
 ロックは一方で黒人文化にも影響を与え、ソウルからヒップホップへのもう一つの流れを作った。それはしばしば白人文化と融合して、クロスオーバー、フュージョン、ミクスチャーを生んだ。
 これは進化と適応放散であり、一つの芸術のジャンルが驚くべき多様性へと発展を遂げた例で、「ナウな」が「ナウい」になって「今い」だとか「トレンディ」だとか「トレンドな」だとか言葉だけ変わってくような流行とは異なる。
 芭蕉が流行の最前線にいたのは、俳諧の進化の過程での流行で、表面的な言葉の流行ではない。そういう意味でも去来が其角に対して言おうとしていることは、的外れとしかいいようがない。
 俳諧の進化も直線的なものではない。様々な方向に枝分かれし、適応放散してゆくのが進化の自然なあり方だ。

 「且つ才麿・一晶のともがらのごとく、おのれが管見に息づきて、道をかぎり、師を損ずるたぐひにあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.32)

 蕉門の側から見れば才麿・一晶は「師を損ずる」かもしれないが、俳諧の発展の方向は一つではない。一晶はともかく、才麿は大阪談林を牽引し、その自由でやや通俗的な作風は蕪村にも受け継がれたと思う。長い目で見るなら、今日の関西の笑いに基礎を作ったといってもいいかもしれない。
 適応放散という点では其角が切り開いた点取り俳諧もまた、川柳点へのもう一つの流れを作っているし、ある意味近代の「ホトトギス」以降の俳句誌の手法も点取り俳諧の流れを引いている。

2018年8月26日日曜日

 今日は「カメラを止めるな!」という映画を観た。さすがに話題になっているだけのことはあった。そのうちハリウッドが似たような映画を作ったりしてね。「木更津キャッツ」が「オーシャンズイレブン」になったみたいに。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「句に千歳不易のすがたあり。一時流行のすがたあり。これを両端におしへたまへども、その本一なり。一なるはともに風雅のまことをとれば也。
 不易の句をしらざれば本たちがたく、流行の句をまなびざれば風あらたまらず。よく不易を知る人は、往々にしてうつらずと云ふことなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.31~32)

 不易流行説は芭蕉が元禄二年に『奥の細道』の旅を終え、その後京都落柿舎に立ち寄った時に説いたという。その教えは今日では『去来抄』「修行教」と土芳の『三冊子』「あかさうし」で知ることができるが、それ以降の門人には積極的に説いたようには思えない。そこがこの『俳諧問答』の許六との論点の違いになって現れるし、支考との確執にもつながっていく。もちろん、古くからの門人に浸透してないのも、芭蕉が再び江戸に戻る頃には、それほど不易流行説に固執してなかったからではないかと思われる。
 不易流行説は朱子学の影響が濃く、元々そんなに芭蕉的ではない。おそらく『奥の細道』の長旅を伴にした、朱子学系神道の大家である吉川惟足に学んだ岩波庄右衛門(曾良)の影響と思われる。
 芭蕉自身はこまごまとした理屈にはこだわらず、その時その時で教え方が変わっていったと思われる。
 不易流行に関して、『去来抄』「修行教」と土芳の『三冊子』「あかさうし」の記述はよく似ていて、同時期に説いたものと思われる。
 『去来抄』「修行教」の冒頭にはこうある。

 「去来曰、蕉門に千歳不易の句、一時流行の句と云有。これを二ッに分つて教へ給へども、其基は一ッ也なり、不易を知らざれば基(もとゐ)立がたく、流行を辧(わきま)へざれば風あらたならず。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,61)

 そして『三冊子』「あかさうし」の冒頭にはこうある。

 「師の風雅に万代不易有。一時の変化あり。この二ツに究り、其本一也。その一といふは風雅の誠也。不易をしらざれば実に知れるにあらず。」

 芭蕉自身はこれに類する言葉を書き残していないが、近いものとしては、『笈の小文』の次の文章であろう。

 「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一(いつ)なり。しかも風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。」

 この文章がいつごろ書かれたのかははっきりしない。おそらく『奥の細道』が書かれたとされる元禄五年の夏までには書かれていたのではないかと思われる。
 おそらくは実際の貞享四年から五年にかけての旅の途中から断片的に書き溜めていたものを、少しづつ改稿を繰り返しながらまとめていったものと思われる。
 芭蕉のこの『笈の小文』の文章からすると、不易と流行の本の一なるものは俳諧に限らず、すべての文化芸術の根底にある一であり、「風雅の誠」もまたそういう性質のものと思われる。風雅に限定されるものではなく、ごく一般的に朱子学でいう「誠」と同一と見てもいいのかもしれない。それは人間を人間たらしめているものと言ってもいいのだろう。
 簡単に言えば、それは生物界の一般的な生存競争に対する「目覚めた意識」なのかもしれない。
 それに較べると、『去来抄』「修行教」の「基(もとゐ)」の解釈は、和歌連歌の五七五の形式や雅語を基礎とした文章といったかなり狭い解釈ではないかと思われる。
 基(もとゐ)のこうした形式的な解釈は、去来の不易流行論を限界付けている。
 たとえば、『去来抄』「同門評」の、

 応々といへどたたくや雪のかど   去来

の句にしても、丈草は「此句不易にして流行のただ中を得たり」と不易流行の句として評価しているが、そのほかの門人の評価は一定しない。
 この句は、

 嘆きつつひとりぬる夜のあくる間は
    いかにひさしきものとかは知る
               右大将道綱母

の歌を踏まえているというが、元歌の恋の情と、単に雪の外で待たされている日常の光景とは情の深さが違いすぎる。去来にとって不易はいつの時代でもどこの国でも変わらないような、恋するときのあの切ない気持ちではなく、あくまで待たされているという外見的な一致にすぎなかった。
 同じ「同門評」の、

 時雨るるや紅粉(もみ)の小袖を吹かへし 去来

の句にしても、これが、

 ほのぼのと有明の月の月影に
    紅葉吹きおろす山おろしの風
               源信明

の歌によるとしても、風に紅葉と、風に「紅粉の小袖」ではまったく情が違う。去来が不易をあくまで形式的にしか理解していず、情として捉えてなかった所に決定的な間違いがあったのではないかと思う。
 おそらく単純な日常的なあるあるネタの句をどう不易に結びつけてよいのか、そこが理解できなかったのではないかと思う。
 あるあるネタは芭蕉が古くから得意としていた笑いのパターンだが、蕉風確立期から付け句の方で重視されてきたものの、発句に取り入れられるようになったのは芭蕉が不易流行を説き出した後の『猿蓑』の頃からで、特に凡兆がその方面で才能を発揮した。
 元禄三年の九月に堅田で詠んだ、

 病鴈のよさむに落て旅ね哉      はせを
 あまのやハ小海老にまじるいとど哉  同

の二句についての、『去来抄』「先師評」の、

 「さるミの撰の時、此内一句入集すべしト也。凡兆曰、病鴈ハさる事なれど、小海老に雑(まじ)るいとどハ、句のかけり事あたらしさ、誠に秀逸也と乞。去来ハ小海老の句ハ珍しいといへど、其その物を案じたる時ハ、予が口にもいでん。病鴈は格高く趣(おもむき)かすかにして、いかでか爰(ここ)を案じつけんと論じ、終に両句ともに乞て入集す。其後先師曰、病鴈を小海老などと同じごとくに論じけりと、笑ひ給ひけり。」

はそれをよく表している。
 芭蕉の古池の句もあるあるネタであることには変りないが、そこに在原業平の「月やあらぬ」の情を潜ませることで、流行と不易を両立させた。
 しかし、『猿蓑』の新風の時には、この不易の情の要件はかなり緩くなっていて、その分発句が身近で作りやすいものになった。
 実際に発句の数も増え、趣向も多様になった。夏といえばそれまでは主人のもてなしに感謝する意味で涼しさを詠むのが普通だったが、『猿蓑』からは暑さの苦しさもテーマとなった。確かに夏の暑さの苦しさは昔も今も変わるまい。
 そうなると一体何が不易なのか、門人達の間でも解釈が分かれ、かなり混乱が生じたのではないかと思う。
 なぜ、

 じだらくに寝れば涼しき夕哉   宗次

は良くて、

 夕涼み疝気おこしてかへりけり   去来

は駄目なのか、説明するとなると難しい。
 根底にあるのが「誠」であるのは間違いないにしても、これだけではやはり漠然としている。
 芭蕉よりも早い貞享二年に、伊丹の上島鬼貫も「まことのほかに俳諧なし」と言っている。
 芭蕉が次第に不易流行を言わなくなっていったのも、そうした混乱によるものなのかもしれない。許六に教える時は不易流行ではなく血脈の重要性を説き、支考には虚実の論で説明した。血脈は風雅の誠を言い換えたものだろうし、虚実の論は流行を虚、不易を実として説明したものだとすれば、結局は同じことを言っている。
 朱子学で言う「理」は西洋の理性とは異なり、メンタルな部分も含んでいる。そのメンタルな側面を「性」と呼び、朱子学を性理の学ともいう。「性理」と「理性」は単に字がひっくり返っただけのものではない。西洋の理性が肉体的な欲望をより効率よく実現するための科学であるのに対し、東アジアの性理は常に人間同士の感情の調整を伴う術策であり、そこには理論だけでは成り立たない機知が必要とされる。
 「誠」という言葉も明確に定義したり説明したりはできなくても、ほとんどの日本人は暗黙のうちにそれがどういうものかはわかっている。新撰組の衣装にも背中に誠のもじがあるし、今日の会社のユニホームなどでも背中に大きく「誠」の文字を入れてる会社があったりする。
 西洋的な真理とは違い、メンタルな部分を含んだ普遍性を風雅の誠と呼んでいるため、その理解においても人によってかなり差があるのは避けられない。
 しかし、こうした普遍性は基本的には生物学的な解明は可能であろう。恋する心の普遍、失恋の悲しみの普遍、花に喜びを見出し、散ったり枯れたりするのを惜しむ感情など、少なからず生物学的な基礎を持っていると考えられる。たとえば、花が快楽なのは、かつて果実食だった頃の名残で、花のある所には必ず実りがあるという経験の積み重ねから、花を見ると脳内物質による快楽報酬が得られるような進化が起こった可能性はある。
 理屈で説明できないが人間として普遍的な感情があるとして、一体それはどうすれば証明できるかとなれば、結局それを作品として表現し、多くの人に末永く共感を得られたなら、それは不易だということになる。
 芸術の進歩も一種のダーウィニズムで、それぞれの作者が様々な実験を繰り返しながら、その中で多くの人の胸を打ち、記憶に残ることによってその普遍性が証明され、それを次ぎの作者が模倣してゆく。こうして面白いものは残り、複製を生み出し、つまらなかったものは忘却される。これを繰り返すことで芸術は進化する。
 流行とは人間のあくなき創造意欲と記憶の限界から来る自然現象で、たくさんの新しい作品が生み出されても、我々はそれをいちいち全部記憶することはできない。その結果新たに作られた作品の大半は作るそばから忘却され、記憶に残ったものだけが生き残る。それを繰り返すことで結果的に時代を超えた普遍的なものが残ってゆくことになる。
 ただ、生物の進化でもある時期に大量の絶滅が生じる時がある。恐竜の時代が終って哺乳類の時代が来たように。文化もまた戦争や社会構造の変化によって、それまで発展してきたものが途絶え、また一から別のものが作り直されるときもある。
 勅撰集を中心とした和歌の発展は王朝時代が終り文化の中心が武家や地下に移ったときに終わりを告げ、代わりに連歌が台頭することになる。それも戦国時代を経て江戸時代になるとそれまでの社会構造が一変し、急速に大衆文化が広がることで俳諧が盛んになった。
 流行とは未来へ向けての様々な新しい実験の繰り返しであり、不易とは同じような過程を経て生き残った過去の作品によって既に証明されているものをいう。
 ここで『俳諧問答』の去来の言葉に戻ってみよう。

 「不易の句をしらざれば本たちがたく、流行の句をまなびざれば風あらたまらず。よく不易を知る人は、往々にしてうつらずと云ふことなし。」

 基本的に新しい作品は実験だから、必ずしも最初に不易を学ぶ必要はない。実験して大衆の支持を得、多くの人の記憶にと留まり、模倣を生めばこの実験は成功したことになる。失敗なら、ただ無視され忘れ去られるのみだ。
 だから流行の句を学ぶことには確かに意味がある。学ぶは「まねぶ」であり、成功した作品の模倣をすることで、それが不易である事をあらためて検証することができる。こうして成功した者を真似し失敗したものを捨てて行けば、その芸術は急速な進化を遂げることができる。
 不易は試行錯誤を繰り返して勝ち取ってゆくもので、必ずしも最初に学ぶ必要はない。芭蕉も貞門、談林、次韻、虚栗の試行錯誤を繰り返し、やがて古池の句の成功を得、なおかつ新しい実験を繰り返してきた。不易流行に行き着くのはそのあとのことだった。

2018年8月25日土曜日

 『俳諧問答』の続き。

 「去来問云、師の風雅見およぶ処、次韻にあらたまり、実なし栗にうつりてより以来、しばしば変じて、門人その流行に浴せん事をおもへり。吾これを聞けり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.31)

 ここからが其角への質問状になる。
 去来は慶安四年(一六五一)の生まれ、其角は寛文元年(一六六一) の生まれで、意外にも去来のほうが十歳も年上になる。
 其角は自選の発句集『五元集』の序文に「延宝のはじめ桃青門に入しより」と書いているように、大体数えで十五前後の元服の頃に既に桃青(芭蕉)に入門していたと思われる。
 ただ、其角の作品が世に出るのは、『元禄の奇才 宝井其角』(田中善信著、二〇〇〇、新典社)によれば、延宝七年刊の才丸編『坂東太郎』で、

 雁鹿虫とばかり思ふて暮けり暮   其角
 朝鮮の妹や摘むらん葉人参     同

の句がある。
 「雁鹿虫」の句は雁と鹿と虫とばかり思って暮れた(秋の)暮れで、暮秋の句だが「秋」が抜けている。
 葉人参はよくわからないが、人参は十六世紀に日本に伝来し、今の金時人参に近く、昔は葉も食べていたという。これに対しいわゆる朝鮮人参(オタネニンジン)が栽培されるようになったのは将軍吉宗の頃からだった。
 漢方薬としての朝鮮人参は古くから知られていたので、普通の人参の葉を見て、朝鮮でも食べるのだろうか、と詠んだのだろう。
 延宝八年には『桃青門弟独吟二十歌仙』が刊行され、ここで、

 月花ヲ医ス閑素幽栖の野巫の子有 螺舎

を発句とした独吟歌仙が発表されている。号は其角でなく螺舎の名義になっている。巻頭が杉風で其角(螺舎)は十四番目だった。
 その其角の名を一躍有名にしたのは、翌延宝九年刊の桃青編『俳諧次韻』だった。桃青(芭蕉)、其角、才丸、揚水の四人による、これまでの談林調を抜け出した、シュールで様々な文字表記上の実験が為された二百五十句は、桃青(芭蕉)の新風を広く世にアピールするものだった。
 そしてこの風は更に其角編の『虚栗(みなしぐり)』へと発展し、いわゆる天和調を確立した。
 去来が「師の風雅見およぶ処、次韻にあらたまり、実なし栗にうつりてより以来」という時、其角は間違いなくその最前線にいた。
 そして、「門人その流行に浴(あび)せん事をおもへり。」と、その流行の最前線に立って、当時の俳諧に水を浴びせていったのは他ならぬ其角だった。「吾これを聞けり。」と、去来は俳諧に関心は持っていたが、まだ武士を辞め、堂上家で陰陽道などを習っていた頃だった。やがて貞享の頃、其角を介して芭蕉に入門し、貞享三年の『蛙合』に参加している。そのときの句は、

 一畦はしばし鳴やむ蛙哉    去来

 芭蕉は貞享三年閏三月十日付去来宛書簡で、

 「御秀作度々相聞、千里隔といへども、心一に叶時は符節と合候而、毫髪可入處無之、近世只俳諧之悟心明に相きこへ候而、爰元連衆、別而は文鱗・李下よろこぶ事大に御坐候。此度蛙之御作意、爰元に而云盡したる様に存候處、又々珍敷御さがし、是又人々驚入申し候。当秋冬晩夏之内上京、さが野の御草庵に而親話盡し可申とたのもしく存罷有候。さがへ、キ丈御方へ参候事は其元に而もさたなきがよく候。」

と賛辞を送り、近々京都嵯峨野の落柿舎に合いに行くと言っている。
 貞享四年の冬、芭蕉は『笈の小文』の旅に出、翌貞享五年四月二十三日に京に入っている。このとき芭蕉は落柿舎をたずねたものと思われる。

2018年8月24日金曜日

 このへんで去来・許六の『俳諧問答』を読んでみようかと思う。テキストは『俳諧問答』(横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫)で、一応旧字は新字に改めておく。
 『俳諧問答』はまず、去来が其角に当てた「贈晋氏其角書」に始まる。

 「故翁奥羽の行脚より都へ越えたまひける、当門のはい諧すでに一変す。
 我ともがら笈を幻住庵にになひ、杖を落柿舎に受て、略そのおもむきを得たり。瓢・さるみの是也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.31)

 今は亡き芭蕉翁は『奥の細道』の旅を終え、一度故郷の伊賀へ戻った後、芭蕉は京都に行く。
 『去来抄』「修行教」には、「魯町曰いはく、先師も基より不出風侍るにや。去来曰、奥羽行脚の前はまま有り。此行脚の内に工夫し給ふと見へたり。行脚の内にも、あなむざんやな甲の下のきりぎりすと云ふ句あり。後にあなの二字を捨すてられたり。是のみにあらず、異体の句どもはぶき捨給ふ多し。此年の冬はじめて、不易流行の教を説給ときたまへり。」とあり、十二月に芭蕉が京都の去来の落柿舎を尋ねた時、不易流行を説いたと思われる。
 この場合の「基(もとゐ)」は五七五の連歌以来受け継がれてきた形式で、和歌の五七五七七からきた古典の伝統を引くものをいう。天和の頃の大きく字余りする句は基を離れたものとなる。
 『奥の細道』の旅の途中、小松で詠んだ句も最初は、

 あなむざんやな甲の下のきりぎりす 芭蕉

だった。「あなむざんやな」は謡曲『実盛』から取っている。「あな」を取っても意味は変わらないが、謡曲の言葉を使ったというインパクトは薄れる。謡曲の言葉の引用は流行で、五七五に無難に改められた体が「基」ということになる。
 ただ、これはあくまで使う言葉の変化にすぎない。
 『奥の細道』までの蕉風確立期の俳諧は、当時の現代のあるあるネタと古典ネタが混ざり合って、出典のある本説付けなどが続くと展開が重くなる傾向があった。
 蕉風確立期から『ひさご』『猿蓑』の風への変化は、本説付けを出典にべったりにせずに、何となく連想させるだけのような俤(おもかげ)付けへと変り、物付けも、それと言わずに匂わせる「匂い付け」を広めることで、展開を楽にしよういうものだった。

 「その後またひとつの新風を起さる。炭俵・続猿蓑なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.31)

 これは猿蓑調の延長で、古典趣味を少なくしてより生活に密着したあるあるネタの比率を増やしていったもので、今日では「軽み」の風と呼ばれている。
 江戸の『炭俵』に較べると上方の『続猿蓑』は、やや不徹底な猿蓑調を引きずった古典趣味が見られる。

2018年8月22日水曜日

 月も大分丸くなってきた。もうすぐ本当の意味での旧盆だが、また満月の大潮に台風が。心配だ。
 それでは「文月や」の巻の続き。
 十三句目。

   鏡に移す我がわらひがほ
 あけはなれあさ気は月の色薄く   左栗

 月への展開だが、「あけはなれ」は夜が白むことで、それに「朝気の月の色薄く」と、「朝の月」といえばそれで済むところを十七文字にまで引っ張っている。
 発句なら「言ひおほせて何かある」という所だろうが、付け句ではあまり余計な景物を付けてしまうと却って次が付けにくくなるので、特に定座の時はこれでいいのだろう。
 明智光秀はあの「時は今」の興行(『天正十年愛宕百韻』)の時に、

   ただよふ雲はいづちなるらん
 つきは秋秋はもなかの夜はの月       光秀

と詠んでいる。
 十四句目。

   あけはなれあさ気は月の色薄く
 鹿引て来る犬のにくさよ      右雪

 鹿といってもさすがに大きな鹿を犬が引きずってくるわけではあるまい。小鹿だろうか。田舎ならこういうこともあるのだろう。
 十五句目。

   鹿引て来る犬のにくさよ
 きぬたうつすべさへ知らぬ墨衣   眠鴎

 砧を打つすべをしらないというのは、山寺に隠棲してはいても元は高貴な女性ということか。そりゃ、犬が鹿を咥えてきたらびっくりするわな。
 十六句目。

   きぬたうつすべさへ知らぬ墨衣
 たつた二人リの山本の庵      左栗

 『校本芭蕉全集第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の注釈に、「嵯峨の祇王・祇女姉妹の庵室などの俤とも見られよう。」とある。
 ウィキペディアには、

 「平家の家人・江部九郎時久の娘。近江国祇王村(現・滋賀県野洲市)に生まれる。生誕の地には妓王の菩提を弔うために建てられた妓王寺が現存する。
 母の刀自、妹の妓女とともに、京都で有名な白拍子となり、平清盛に寵愛された。『平家物語』(第一巻 6「祗王」)に登場する。」

とある、しかし、その後、

 「支給も止められた冷遇の末、仏御前の慰め役までやらされるという屈辱を味わわされ、自殺を考えるまでに至る。しかし、母の説得で思い止まり、母の刀自、妹の妓女とともに嵯峨往生院(現・祇王寺)へ仏門に入る。当時21歳だったとされる。」

とある。実際はお寺に入ったのだから二人だけで暮らしたわけではないだろうけど、そこは本説を取る場合は必ず少し変えなくてはパクリになるからだ。
 十七句目。

   たつた二人リの山本の庵
 華の吟其まま暮て星かぞふ     義年

 芭蕉さんに気に入られたか、花の定座を持たされた義年さん。期待に応えてくれます。
 『校本芭蕉全集第四巻』の宮本三郎さんの注では、謡曲『関寺小町』だという。ただ、小町は二人で住んでたわけではないし、花の吟は比喩で老いた花の吟ということはできるが、ラストは明け方で、七夕祭ではあっても星を数えるわけではない。相違点が多いから本説とは言えない。
 この場合は打越の尼のイメージは捨てて、寒山拾得のような二人暮らしの隠者とし、花を愛でては一日を終らせ、一番星、二番星を数えるそんな生活を描いたと見た方がいいのではないかと思う。
 寒山詩に、

 拍手摧花舞 支頤聽鳥哥
 誰當來歎賞 樵客屢經過

 舞い散る花に拍手を催し
 鳥の歌は頬杖をついて聞く
 誰が来て褒め称えるか
 樵は度々通り過ぎる

とある。
 十八句目。

   華の吟其まま暮て星かぞふ
 蝶の羽おしむ蝋燭の影       右雪

 胡蝶の夢と邯鄲の夢が合わさったような趣向か。夢から醒めれば星が出ていて蝋燭がゆれている。
 二の懐紙の表に入る。
 十九句目。

   蝶の羽おしむ蝋燭の影
 春雨は髪剃児(ちご)の泪にて   芭蕉

 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅のときに杜国と別れる際に送った句に、

 白げしにはねもぐ蝶の形見哉    芭蕉

の句がある。その時のことを思い出したか。
 ここでは稚児の美しかった髪を蝶の羽に喩え、出家による別れを惜しんでいる。稚児の姿に杜国が重なるとなれば、やはり芭蕉さんは‥‥。
 『校本芭蕉全集第四巻』の宮本三郎注に、古今集の、

 春雨のふるは涙か桜花
     ちるを惜しまぬ人しなければ
                大伴黒主

を引いている。春雨の泪はこの歌による。
 二十句目。

   春雨は髪剃児の泪にて
 香は色々に人々の文        曾良

 昔の宮廷では手紙に香を焚き込めたりした。『源氏物語』の「帚木」の雨夜の品定めの発端になる、手紙がごそっと見つかる場面が思い浮かぶ。春雨から「雨夜の品定め」の連想であろう。
 この句も挙句という感じがしないから、ここから先まだ興行は続いたのであろう。曾良が書き残してくれなかったのが残念だ。あるいは芭蕉の病気のため、あとは主筆に任せて芭蕉と曾良は途中退席したか。

2018年8月20日月曜日

 「文月や」の巻の続き。
 初裏に入る。
 七句目。

   松の木間より続く供やり
 夕嵐庭吹払ふ石の塵        右雪

 右雪は曾良の『俳諧書留』に佐藤元仙とある。いずれにしてもどういう人かはよくわからない。
 曾良の『旅日記』の七月七日のところに、「其夜、佐藤元仙へ招テ俳有テ、宿。」とあり、『俳諧書留』には、

   「同所
 星今宵師に駒ひいてとどめたし   右雪
   色香ばしき初苅の米      曾良
 瀑水躍に急ぐ布つぎて       翁」

とある。同所は、その前の「文月や」の巻に「直江津にて」とあるので、同じ直江津でという意味で、六日の興行が佐藤元仙で行われたという意味ではないだろう。文化三年刊の『金蘭集』には表三句の後に「此間十句キレテシレス」とあり、十四句目から三十六句目の挙句までが記されている。
 句の方は松に松風の縁から嵐を付け、夕暮れの嵐の景色に展開する。
 八句目。

   夕嵐庭吹払ふ石の塵
 たらい取巻賤が行水        筆

 「筆」は主筆。誰かはわからない。
 ウィキペディアで「賤民」の所を見ると、

 「穢多(えた・かわた)は、死牛馬(「屠殺」は禁止されていた)の皮革加工、履物職人、非人の管理などを主な生業とした。最下層ではないが、脱出の機会がなかった。職業は時代によって差があり、井戸掘りや造園業、湯屋、能役者(主役級)、歌舞伎役者、野鍛冶のように早期に脱賤化に成功した職業もある。」

という一文がある。ここで言う「賤(しづ)」は前句とのつながりで造園業者と見ることもできる。
 仕事が終って、体についた泥を洗い流すために、大勢で盥を囲んで行水の順番を待っているのだろう。おそらくあるあるネタで、なかなかいい展開だ。この主筆は只者ではないと見た。
 九句目。

   たらい取巻賤が行水
 思ひかけぬ筧をつたふ鳥一ツ    左栗

 盥に水を引いている樋に鳥が一羽歩いてゆく。行水に筧という展開。
 十句目。

   思ひかけぬ筧をつたふ鳥一ツ
 きぬぎぬの場に起もなをらず    曾良

 十句目くらいに恋を仕掛けるのは蕉風確立期では定石か。男が帰って行くというのに起きられず、去っていった後庭を見ると筧に鳥が、となる。
 十一句目。

   きぬぎぬの場に起もなをらず
 数々に恨の品の指つぎて      義年

 この人のこともよくわからない。主筆が詠んだので一巡したかと思ったが、思わぬ伏兵がいたか。
 「指つぎ」はすぐ次にということ。句は倒置で「恨の品の数々に指つぎて」となる。
 前句の「起もなをらず」を「置きもなおらず」と取り成して、中のうまく行かない男の恨みの品を次々と並べたは片付ける気も起きない。急に出てきたわりにはなかなか上手く展開している。
 この人は花の定座も詠むので、隠れた主役か。主筆も実はこの人だったりして。
 十二句目。

   数々に恨の品の指つぎて
 鏡に移す我がわらひがほ      芭蕉

 「移す」は「映す」であろう。恨みの品を眺めながら、何か吹っ切れたのだろう。「何これ、もう笑っちゃうね。」という感じか。
 ここで泣いたりすると、それこそベタ(付き過ぎ)だ。

2018年8月19日日曜日

 今日は近所の早野にヒマワリを見に行った。
 七夕といえば芭蕉は『奥の細道』の旅で、

 文月や六日も常の夜には似ず
 荒海や佐渡によこたふ天河

の二句を詠んでいる。この二句については、既に鈴呂屋書庫にある『奥の細道─道祖神の旅』の第五章、一、七夕の二句でも触れているが、「荒海や」の句に関して、これを二物衝突の写生句とするのは近代的解釈で、本来は「荒海は佐渡によこたふ天河(なる)や」の倒置で、流刑の地である佐渡島の前に冷酷に横たわっているこの荒海を、織姫彦星の仲を引き裂いている天の川に喩えたものだ。
 こう考えることで、この時期の天の川が佐渡の方に懸からないことも説明できる。
 この文章で拉致被害者のことにも思いをはせて、「荒海は今も横たう天の川なのか」と書いたが、未だに歴史は動いてない。二つの異なる体制の間で、多くの人が行き来を許されないままになっている。
 さて、もう一句の、

 文月や六日も常の夜には似ず  芭蕉

だが、この句は直江津で七月六日に行われた興行の発句だった。
 この句も「文月の六日も常の夜には似ずや」の倒置で、これは興行の行われた特別な日であり七夕の前日でもある。織姫彦星も明日の逢瀬の前にきっと特別な気分でいることであろう、ということも含まれている。
 この日の曾良の『旅日記』には、

 「聴信寺ヘ弥三状届。忌中ノ由ニテ強テ不止、出。石井善次良聞テ人ヲ走ス。不帰。及再三、折節雨降出ル故、幸ト帰ル。宿、古川市左衛門方ヲ云付ル。夜ニ至テ、各来ル。発句有。」

とある。当初は聴信寺を予定していたが忌中のため変更になったようだ。持病で身動き取れない芭蕉のために曾良も大変だったようだ。
 この日は古川市左衛門方での興行だったのだろう。この宿は「上越タウンジャーナル」によれば、「古川屋」(有限会社古川屋旅館)として二〇一二年一月末まで営業してたという。
 脇は左栗が付ける。曾良の『俳諧書留』には石塚喜衛門と記している。どういう人なのかは浴わからない。

   文月や六日も常の夜には似ず
 露をのせたる桐の一葉(ひとつば) 左栗

 桐の葉に夜露が降りて、六日の月の光にきらめいてます。露は客人である芭蕉さんの比喩でもある。
 第三は曾良が付ける。

   露をのせたる桐の一葉
 朝霧に食焼(めしたく)烟立分て  曾良

 朝の景色に転じる。「烟立分(けぶりたちわけ)て」は万葉集の国見の歌を髣髴させる。
 四句目。

   朝霧に食焼烟立分て
 蜑(あま)の小舟をはせ上る磯   眠鴎

 眠鴎は曾良の『俳諧書留』に聴信寺とあるところから、そこのお坊さんであろう。
 句の方は、やはり万葉時代のイメージで漁から帰って来た海人の小舟を海から担ぎ上げて陸に持ってゆく姿が描写されている。
 五句目。

   蜑の小舟をはせ上る磯
 烏啼むかふに山を見ざりけり    此竹

 此竹は石塚善四郎とある。石塚喜衛門の一族であろう。
 カラスは啼いても帰って行くような山は見えない。比喩として須磨明石に流された流人が帰る所を失ったのを嘆く趣向になる。
 このあたりは、ある意味では近代の文士が付けそうな句でもある。古代の風雅に憧れて、特にひねりもなくそのまま景物で繋いでゆき、ある意味写生のようでもある。ネタに走る都会の俳諧に対し、田舎の俳諧はこういう調子のものが多かったのかもしれない。ただ、貞門や談林のような古い体ではなく、やはり蕉風確立期の体ではある。
 六句目。

   烏啼むかふに山を見ざりけり
 松の木間(こま)より続く供やり  布嚢

 布嚢も「同源助」とある。石塚家の一族であろう。
 「供やり」は「供槍」で、槍を担いだ従者で、大名行列の時には大勢の供槍が続く。「下にー、下にー」と言って飾りのついた長い槍を、時雨にも負けず振り立てる槍持ちとはまた別物のようだ。

2018年8月18日土曜日

 さて昨日は旧暦の七夕ということで、七夕の句を見て行こうかと思ったが、七夕の句はさすがに多い。とりあえず目についたのを拾っていこうと思う。
 先ずは芭蕉七部集の一つ、『阿羅野』から。

 男くさき羽織を星の手向哉    杏雨

 七夕は中国の乞巧奠から来たもので、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 「陰暦7月7日の行事。女子が手芸・裁縫などの上達を祈ったもの。もと中国の行事で、日本でも奈良時代、宮中の節会(せちえ)としてとり入れられ、在来の棚機女(たなばたつめ)の伝説や祓(はら)えの行事と結びつき、民間にも普及して現在の七夕行事となった。」

とある。
 たいていは女が機織の上達を願って小袖を祭壇に手向けたりしたが、時折男も願掛けることがあったのだろう。
 等躬撰の『伊達衣』に、

   福島にて
 たなばたは休め絹織男共     鋤立

の句があるから、機織は必ずしも女の仕事とは限らなかったようだ。
 新暦の七夕だと梅雨時で雨に降られることも多いが、月遅れ七夕は雨に降られにくい。だから、本来七夕はこの時期というのは現代人の感覚で、旧暦だと月遅れよりも大分遅くなる年もあり、秋の村雨に降られることもあった。
 『伊達衣』に、

   名月はいかならん、はかりがたし
 七夕は降と思ふが浮世哉     嵐雪

の句がある。同じく『伊達衣』に、

   田舎にはかかるまねびを造りて、
   七夕の祭りとなしけるに、彼陀阿上
   人の、けふしもそそぐ秋のむら雨
   と、ありし句の上を思ひて
 七夕の麦藁馬や空ただのめ    等躬

の句もある。陀阿上人は他阿上人のことで、時宗を開いた宗祖一遍上人、の跡を継いだ二祖になる。和歌・連歌に秀でていた。「けふしもそそぐ秋のむら雨」は当時は知られていた伝承歌だったのかもしれない。これの上句ということで、

   けふしもそそぐ秋のむら雨
 七夕の麦藁馬や空ただのめ    等躬

ということになる。付け句だけど一応切れ字も入り、発句になっている。「麦藁馬」は牽牛の乗り物になる麦藁を編んだ馬で、天の川を渡る交通手段にはカササギだけでなく、いろいろ異なった伝承があったようだ。
 雨ではないが、乙孝撰の『一幅半』には、

 ほし合の空泣くやうに曇けり   涼菟

の句がある。
 『猿蓑』の句に、

 七夕やあまりいそがばころぶべし 杜若

という句がある。作者の所に「伊賀少年」とある。「俳諧は三尺の童にさせよ、初心の句こそたのもしけれ」(『三冊子』)というところか。優雅に乗り物で移動するのではなく走ってゆく所が面白い。これが青春だ。
 一方大人はというと、生々しい現実の密会のイメージと重ねようとする。涼菟撰『皮籠摺』より、

 五百機の窓に草鞋や二つほし   沾徳
 堀梢かけてかよへやあまの川   其角

 惟然撰の『二葉集』の超軽みの体となると、

 こちとらもひょんな気になる星祭 且流
 七夕や娘子達をなぶりけん    重就

 ビートきよしじゃないが「よしなさい」。
 まあ、他にも七夕の句はいろいろあるが、ここは一つ締めは涼菟撰『皮籠摺』から、

 にっこりと宵の日和や天の川   涼菟

 御後がよろしいようで。

2018年8月17日金曜日

 今日は風が変り、それまでのじとっとした湿った空気でなく、乾いた涼しい風が吹き、久しぶりに富士山がよく見えた。
 秋は「目にはさやかに見えねども」というが、こういう日はいつもと光が違って見える。特に夕暮れの明かりが灯り出す頃、その光の鮮やかさに秋が感じられる。
 そして夜空には半月が。
 そう、今日は旧暦七月七日。ただ、今の日本に旧七夕というのはない。新暦の七夕と月遅れ七夕(八月七日)があるだけだ。
 来週は旧暦のお盆だが、正確な意味での旧盆というのはない。一般に旧盆と呼ばれているのは月遅れ盆(八月十五日)だ。
 明治5年11月9日太政官布告第337号の「改暦ノ詔書並太陽暦頒布」には、「諸祭典等旧暦月日ヲ新暦月日ニ相当シ施行可致事」とある。これを根拠として、旧暦の行事は禁止され、旧弊として弾圧されるようになった。旧暦と新暦とで季節感が一ヶ月ほどずれるため、新暦で一ヶ月遅らせる「月遅れ」は容認された。
 2014年2月に亡くなった親父も、確かその直前の正月にたずねて行ったときだったか、この話をしていた。あたかも遺言のように、この問題は自分に託された形になった。
 今日は七夕の句をと思ったが、粟の句の続きがあったので、まずそちらから。

 芭蕉の粟の句二句はいずれも七月だったが、この場合は粟の収穫ではなく粟の穂の実る様子なので、今の粟とそれほど変わらない晩(おくて)の粟だったと思われる。

 七月やまづ粟の穂に秋の風   許六

 575筆まか勢というサイトにあった句なので、出典となる俳書は不明。

 秋風に折るちからや粟と稈   土芳
 風の名のあるべき物よ粟のうへ 惟然
 粟稗に此世の風や玉祭     千川

の句も秋風に粟の穂を詠んでいる。。
 八月の初めには既に収穫されていたか。

 粟稗と目出度なりぬはつ月よ  半残 「猿蓑」
 粟かりて庵のまはりや初月夜  一道 「皮籠摺」
 粟稗の粥喰尽す月見かな    諷竹
 粟畠の跡にのこるやをみなへし 諷竹

 「諷竹」は之道のことで、芭蕉の死後少し後に改名している。
 粟と女郎花の縁は、粟飯の黄色い粒が女郎花に似ているところから来ている。

 粟の穂の實は數ならぬ女郎花  すて

は蕪村編の『俳諧玉藻集』にあるが、『捨女句集』にはない。
 粟に鶉は画題として知られていたからか、粟に鶉を詠んだ句も多い。

 粟の穂を見あぐる時や啼鶉   支考 「続猿蓑」
 粟の穂のびくに入たるうづら哉 惟然 「有磯海」
 粟の穂をこぼしてここら啼鶉  惟然 「ばせをだらひ」
 粟切や鶉と成てこつそこそ   専吟 「皮籠摺」
 寐所に日のさす粟の鶉哉    浪化
 粟刈れば野菊が下に啼鶉    許六

2018年8月16日木曜日

 お盆休みも終り、またいつもの日常が始まる。
 一昨日の続きで、「粟」の句をもう少し見てみよう。
 芭蕉が粟を詠んだ句は二句ある。

 よき家や雀よろこぶ背戸の秋    芭蕉
 粟稗にとぼしくもあらず草の庵   芭蕉

 「よき家や」の句は貞享五年七月八日、『笈の小文』の旅の途中に鳴海の知足亭を尋ねた時、知足の弟の知之の新宅祝賀の発句で、真蹟自画賛もあるという。どんな絵なのかと思ったが画像が見つからなかった。
 後に知足が編纂した『千鳥掛』に表六句が記されている。

   賀新宅

 よき家や雀よろこぶ背戸の粟        芭蕉
   蒜(まぐさ)にみゆる野菊苅茅     知足
 投渡す岨の編橋(あみはし)霧こめて    安信
   風呂燒(たき)に行月の明ぼの     芭蕉
 杉垣のあなたにすごき鳩の聲        知足
   はつ霜下りて紙子捫(もみ)つゝ    安信

 知足の家はweblioの「芭蕉関係人名集」によれば、

 「下里<しもさと>知足は、千代倉という屋号の造り酒屋の当主で富豪であった。」

とあるから、その弟の家もさぞかし立派な家だったのだろう。ただ、その家の立派さをそのまま賛美すると自慢めいてしまうので、あえて背戸の裏に広がる粟畑を詠んで、さぞかし雀たちも喜んでいるでしょうと落としている。
 これに対して知足は、

   よき家や雀よろこぶ背戸の粟
 蒜(まぐさ)にみゆる野菊苅茅  知足

と答える。家の屋根を葺くのに使って余った刈茅(かるかや)も、馬に食べさせてあげられそうですね。之では季語がないので、「野菊」は一種の放り込みと見ていいだろう。
 第三は安信が付ける。安信はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 「生家は尾張(おわり)(愛知県)鳴海(なるみ)宿の本陣寺島家の分家。はじめ貞門(ていもん)に属したが,のち松尾芭蕉(ばしょう)にまなぶ。」

とある。

   蒜にみゆる野菊苅茅
 投渡す岨の編橋霧こめて    安信

 前句を馬草が積まれた中に野菊や茅が混じってる情景とし、山奥の険しい所に蔓を編んで吊り橋を作る情景とした。秋が発句の場合、第三が月になることが多いが、四句目の芭蕉に譲ることになる。
 その四句目。

   投渡す岨の編橋霧こめて
 風呂燒に行月の明ぼの     芭蕉

 江戸時代の風呂は蒸し風呂で、焼いた石の上に水を掛けて湯気を出した。この場合山奥だから岩風呂かもしれない。ウィキペディアには、

 「岩風呂(いわぶろ)、もしくは石風呂(いしぶろ)は、主に日本の瀬戸内海など海岸地帯にあった蒸し風呂である。天然の石窟などの密閉された岩穴の中で火を焚いて熱し、水気を与えることで蒸気浴や熱気浴をする。」

とある。また、人工的に岩でドームを作った「釜風呂」というのもあった。ウィキペディアには、

 「釜風呂(かまぶろ)は、主に日本列島の内陸部で広まった蒸し風呂である。特に京都の八瀬の竈風呂が代表的。岩で直径2m程度のドーム型に組んだ下側に小さな入口がある構成。最初にドーム内で火を焚き熱する。加熱後に換気を行い、塩水で濡らした莚を引いて、その上に人が横たわる形で入浴をした。」

とある。八瀬の竈風呂は壬申の乱の時に大海人皇子が傷を癒したという伝説もある。
 五句目。

   風呂燒に行月の明ぼの
 杉垣のあなたにすごき鳩の聲  知足

 杉垣は風呂場を覆う垣根か。その向こうの山からは鳩のデデッポウという声が寂しげに聞こえてくる。
 「すごし」は本来の薄気味悪くて震えが来るようなという意味から、寂しげな場合にも殺風景な場合にも用いられてきたが、こういう言葉は古代の「いみじ」や今の「やばい」と同じように、良い意味に転じて用いられることがしばしばあった。近代に入ると、「すごい」はほとんど良い意味にしか用いられなくなった。
 「すごき鳩の聲」には證歌がある。

 夕されや檜原の峰を越え行けば
     すごく聞こゆる山鳩の声
               西行法師「山家集」

 六句目。

   杉垣のあなたにすごき鳩の聲
 はつ霜下りて紙子捫(もみ)つゝ 安信

 「紙子」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「紙子紙(かみこがみ)で作った衣服。律宗の僧が用いはじめ、のち一般に使用。軽くて保温性にすぐれ、胴着や袖なし羽織を作ることが多い。近世以降、安価なところから貧しい人々の間で用いられた。」

とある。「紙子紙」は同じくコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「紙子を仕立てるのに使う紙。厚手の和紙に柿渋を引き、日に乾かしてよくもみやわらげ、夜露にさらして臭みを抜いたもの。」

とある。
 句の意味は、寒くなってきたのでそろそろ紙子を用意しようと、自分で柿渋を塗って揉んでいると、初霜が降りたというもの。句の感じからしてこれで挙句」というふうではないので、このあとも続きがあったのであろう。
 もう一句の粟の句、

 粟稗にとぼしくもあらず草の庵   芭蕉

の句も、同じ年の七月二十日、名古屋の竹葉軒長虹の家で行われた興行の発句だった。
 これを発句とした歌仙がかなり後の安永元年に曉台が編纂した『秋の日』の巻頭に収められている。
 芭蕉が長虹の家を見て、粟も稗もあって質素だが貧しいとは言えない庵だな、と詠んだようだが、粟の趣向は知之亭の句の遣いまわしの感がなくもない。
 この発句は後に支考編の『笈日記』に、

 粟稗にまづしくもなし草の庵    芭蕉

と改作された形で掲載されている。これを別の句として数えるなら、芭蕉の粟の句は三句ということになる。
 

2018年8月15日水曜日

 今日は終戦記念日。日本では一般的にそう呼ばれてきた。
 戦争に負けたのに「記念日」というお目出度い名前がついているが、多くの人の心情としては、戦争が終って良かったという気持ちが普通だったのだろう。
 軍部の支配に対して、結局日本人の多くは仕方なく従っていて、五月雨の長雨の明けるのを待つように、災厄の過ぎ去るのをじっと待ってたのだろう。それが今でも日本の国民性だ。
 他所の国なら、戦って一気にひっくり返そうとするかもしれない。それは輝かしい革命となるかもしれないが、終わりの見えない内戦に突入してゆく例も多々ある。暴力は報復を生み、報復の連鎖が終ることのない戦乱に陥ってゆくことを、日本人は好まなかった。謡曲『摂待』もそういうテーマだった。
 日本は明治維新によって、一部の西洋崇拝者達によって自己植民地化された。支配者は常に日本の文化伝統風習を弾圧して、西洋式に作り変えることを要求してきた。
 彼等は繰り返し西洋列強の恐怖を煽ってきた。やがて日本は西洋列強によって植民地化され、その果てにあるのは民族の消滅だと。あたかも西洋人がみんなレイシストであるかのように、やつらにとって黄色人種を滅亡させることなどなんとも思ってないと言い聞かせてきた。そして日本が生き残るためには、西洋の文明をかったっぱしから取り入れ、西洋に負けないだけの強い軍隊を作り、西洋列強と同等の国力を得るにはアジアの侵略と植民地支配が不可欠だと宣伝してきた。
 正岡子規も、明治三十年正月の『明治二十九年の俳句界』で、

 「日本が世界列國の間に押し出して日本帝國たる者を世界に認められんとするには日清戦争は是非とも必要なりしなり。日清戦争は初めより此目的を以て起りたる者に非れども少くも此大勢は日清戦争の端を開かしむる上に於て暗々裡に之を助けたるや凝ひ無し。」

と書いている。
 彼等は地球規模での天下統一の戦い、一つの世界のための戦いが始まっていると考えたが、ひとたびこういう考えに取り付かれると、最後は日本が世界を支配するところまで突っ走らなくてはならなくなる。
 ほとんどの日本人にとって、それは上のほうの連中が言うことで、本気で世界征服なんて考えてはいないし、今の生活が第一でそのためには隣人とも仲良くしていかなくてはというのは、自然な考え方だった。
 こうして先走ろうとする上の方の人間に対して、一見賛同するふりをしながら建前と本音を使い分けて、多くの人は五月雨の雲の下でじっと耐えるように、今まで通りの生活を続けようとしてきた。そして西洋の要素を取り入れながらも、伝統と上手く融合させた大衆文化を作り上げてきた。
 この耐えて待つというのが日本人の特性で、今でも日本人は耐えている。いくら豊かになったとはいえ長時間労働とパワハラ体質の組織、学校ではほとんど放置されているいじめ、それはしばしばビジュアル系のバンドによって「生き地獄」と唄われる。
 戦争に負けて、一瞬青い空を拝んだ日本人。やれやれやっと終った。でも次に来たのは腹ペコだった。
 今は腹は満たされている。でも軍国主義は終っていない。それは会社という軍隊に引き継がれただけだった。教育も未だに軍隊をモデルにしている。高校野球だってみんな兵隊頭だ。
 世界はグローバル経済を維持し続ける限り、これからも同じ経済を共有する国同士の戦争は起こらないであろう。ただ、日本は中国・北朝鮮という違う経済の国に囲まれている。この二つに較べればロシアがまともに見えるくらいだ。
 そして国内にもそれに同調する人間がたくさんいる。彼等はあたかも日本が再び侵略戦争を起こすかのようなデマを周辺国に広めている。外圧によって日本をそちら側に引き込もうという作戦だ。
 日本の周辺ではまだ冷戦は終っていない。その恐怖を世界の人は理解してほしい。
 いつか本当に戦争の終る日を、今日も日本人は待ち続けている。

2018年8月14日火曜日

 前の日記に書いたことを時々すっかり忘れていることがあるが、立秋の句も去年の八月二十五日にも書いていた。
 そのときは「粟ぬか」の句にところで、

 「粟は夏に種を蒔いて二ヶ月くらいで収穫できる。秋風に頃には脱穀した後の粟の殻が風に吹かれていたのだろう。」

と書いていた。
 多分こちらの方が正しかったと思う。
 芭蕉の時代の粟の栽培は今とは随分と違っていたから、旧暦七月に収穫することは珍しくもなかったようだ。
 芭蕉よりは一世紀後だが曲亭馬琴の『増補 俳諧歳時記栞草』の夏之部の「粟蒔」のところにこうある。

 「早(わせ)、中、晩(おくて)あり。三月種(うう)るものを上時とす、五月熟す。四月種るものを中時とす、七月熟す。五月種るものを下時とす、八月熟す。」

とある。
 去年の五月二十三日の日記の蕪村・几董の「牡丹散り」の巻、二十二句目に、

   粟負し馬倒れぬと鳥啼て
 樗(あふち)咲散る畷八町     几董

と、粟を運ぶ馬に夏の季語である「樗(あふち)」を付けている。
 また、『炭俵』の「雪の松」の巻の六句目には、

   身にあたる風もふハふハ薄月夜
 粟をかられてひろき畠地   利牛

の句がある。これは月の句につけているので旧暦八月頃になる。
 曲亭馬琴の『増補 俳諧歳時記栞草』では、「粟穂」は秋之部の七月、「粟引」(=粟刈る・粟干す・粟打つ)は八月になっている。
 粟の収穫期は旧暦五月から八月とかなり幅があった。
 現代はというと、「みんなの農業広場」というサイトによれば、

「●日本のアワは、栽培上から春アワと夏アワに分けられます。
 ●春アワは春に播種するアワのことで、北海道・東北地方に主に分布し、一方夏アワは夏に播種するアワで、7月下旬頃の夏に播種するものを指し、九州地方に分布しています。」

とあり、昔と較べるとかなり時期が限定されている。これは常食する穀物としての粟の需要がほとんどなくなったため、早・中・晩に時期をずらして出荷するメリットがなくなったからであろう。
 そういうわけで訂正する。

 粟ぬかや庭に片よる今朝の秋     露川

 粟はイネ科エノコログサ属で猫じゃらし(エノコログサ)に近い。痩せ地に強く、昔は広く栽培されていた。
 粟糠はweblio日中・中日に、「脱穀した粟のもみがら」とある。
 ただ昔は粟を早(わせ)・中・晩(おくて)と時期をずらして栽培していたために、中の収穫は立秋に前後になる。今では新暦で十月頃で、晩(おくて)のみが残ったといえよう。
 収穫した粟は棒で打って脱穀する。このときの籾殻が庭で秋風に吹かれて一方の隅に吹きだまっている様子を見て、今年も立秋となり、秋風が吹いたんだと、秋風と言わずして秋風を詠んでいる。
 「こよみのページ」によれば、元禄七年の七月六日は新暦の八月二十六日になっている。前年の元禄六年だと七月六日は新暦の八月七日なので、この日が立秋だったと思われる。
 岩波文庫の『芭蕉書簡集』には、表題には「素覧書簡(元禄七年七月六日)」とあり、

 「定本─真蹟(『俳人真蹟全集』第四巻)
 名古屋住で露川の門人である素覧が、京都滞在中の芭蕉に宛てたもの。前半を失った断簡である。」

という解説があり、

 「被成可被下候。
  砂畑に秋立風や粟のから    露川
  秋立や竹の中にも蝉の声    素覧
  秋たつや中に吹るる雲の峯   左次
   七月六日      素覧
 芭蕉雅翁
    玉几下」

が書簡の本文になる。『続猿蓑』の立秋の二句はこのときのもので、「砂畑に」の句が大幅に直されて採用されたと見ていいだろう。
 元禄六年なら芭蕉は江戸にいる。江戸で受け取った書簡が誤って翌年の元禄七年の書簡と伝えられたのか、それとも素覧は一年前の句を送ったのか、また謎が深まった。

2018年8月13日月曜日

 南相馬で花火を見た日がちょうど新月で旧暦七月一日、そして今日が七月三日、俳諧の方も秋になった。七夕も近い。
 芭蕉の時代では二十四節気にあまり関心がなかったのか、立秋の句も少ない。秋の最初はたいてい「秋風」で始まる。そのなかで『続猿蓑』には立秋の句が二句ある。

 粟ぬかや庭に片よる今朝の秋     露川
 秋たつや中に吹るゝ雲の峯      左次

 粟はイネ科エノコログサ属で猫じゃらし(エノコログサ)に近い。痩せ地に強く、昔は広く栽培されていた。
 粟糠はweblio日中・中日に、「脱穀した粟のもみがら」とある。
 ただ収穫時期は新暦で10月頃なので、立春の頃ではない。どちらかといえば播種の終る頃だ。種蒔きの時に落ちた籾殻だろうか。
 いずれにせよ、「庭に片よる」で秋風が吹いたことを現している。秋風と言わずして秋風を詠んだといってもいいだろう。
 「秋たつや」の句の「中」は空中のこと。もくもくとした入道雲が空に浮かんで見た目は夏だが、そこを吹く風は秋風だというところで、

 秋来ぬと目にはさやかに見えねども
     風の音にぞおどろかれぬる
             藤原敏行朝臣

の心となる。
 どちらも秋風と言わずして秋風を詠んだという点では共通している。
 『続猿蓑』では「立秋」は「七夕」の後になっている。七夕は旧暦七月七日に固定されているのに対し、立秋はその年によって変動したので、旧暦六月になることもあれば、七夕よりあとになることもあった。実際に立秋が七夕の後になった年は元禄九年と元禄十二年。『続猿蓑』が出版されたのは元禄十一年だった。

2018年8月12日日曜日

 昨日は南相馬へ追悼福興花火2018南相馬 with LIGHT UP NIPPONを見に行った。去年は「復興」と書いたが正しくは「福興」だった。
 去年ステージで見た人が、ライブ前から裏方で働いているのを見つけると、それは知らない人が仕事をしているのではなく、この人知っていると思えてくる。
 人は抽象的な「人類」のために生きているのではないし、まして田辺元の言うような抽象的な「種」のために生きているのでもない。家族や友人や仲間のために生きているのだと思う。そして、それが少しづつ広がってゆくことで、いろんな人の立場を感じ取れるようになる。
 その意味で、行かなければ南相馬はいつまでも見知らぬ土地だが、行けば知ってる土地で、知ってる人に逢える場所になる。だから、何ができるかなんてことではなく、まず行ってみるだけでも意味がないわけではないと思う。
 最初の口実は何とでもつけられる。桜がきれいだからだとか、花火を打ち上げるだとか、アジカンのゴッチがステージに立つだとか、ユミリさんの本屋があるだとか。結局人間が行動の動機とするには、何かそういう具体的なものが必要なのだと思う。

 人に限らず、どんな生き物も生存競争の中で生きている。
 男であれ女であれLGBTであれQであれPZNであれ、あるいはどこの民族でも、どんな宗教を信じていても、どんな思想を持っていても、どんな障害や病気がある人であっても、みんな酢を舐めれば酸っぱい顔をするように、泣いたり笑ったり怒ったり、人を愛したり人を憎んだり、美しいものを美しいと感じ、醜いものを醜いと感じる。しかしそれらがみんな一緒なのと同じように、みんな等しく生存競争のプレーヤーでもある。
 なぜ生存競争が起こるかって、それは生きとし行ける者は必ず死ぬ運命にあって、命を繋いでいくには必ず遺伝子の複製を残さなくてはいけないから。それも、どれかが生き残るようにたくさんばら撒かなくてはならない。そこに多様性が生じ、そして選択が生じる。多様性と選択は兄弟であり切っても切れないものだった。
 子の数は親の数より多くなくてはならない。もし同数なら子の方に何らかの事故があるたびに次第に数を減らし、最終的には絶滅する。だから親の数より子供の数が多くなくてはならなかった。少なくともそうでないものはとっくに滅んでいた。
 しかし子の数が親の数より多いと、今度は何事もなければ個体数はどんどん増加してゆく。だが地球は一つ、大地は有限だ。有限な大地に無限な生命は不可能だ。だから、何らかの形で減らさなくてはならない。そこにまた、多様性と選択の原理が働く。
 多くの動物は力の強いものが生き残り、弱いものは淘汰されてきた。だが、人間は集団でかかればどんな強いものでもやっつけられることを知った。力を無意味で、多数派工作に成功したものが勝利する。そこから人間の生存競争は、多数派工作の戦いになった。
 人間の歴史は多数派形成と排除の歴史だった。人間は生まれた時から恐ろしいほどの多様性を持って生まれてくるが、それを多数派に取り込むか、そこから排除するかで、生存競争の勝負が繰り返されてきた。
 それからすると、LGBTの問題も結局は、それを自分を含む多数派に取り込みたい人と排除したい人との戦いだともいえる。ただ、生存競争が終ってない以上、LGBTを取り込むとすると、その代わりに別の人たちが排除されなくてはならなくなる。たとえばネトウヨとかw。
 こうした排除を廻る生存競争は平等ではない。安全圏にいる人はいいが、ボーダーラインに立たされる人もいる。いじめ、差別、迫害、ジェノサイド、それは常にボーダーラインで起こる。つまり自分が排除されないために他人を排除する。
 おそらくネトウヨの多くは、マジョリティーであってもその底辺で何らかの形でいじめられてきたのではないかと思う。だから、自分が排除されないために、誰かを排除しなくてはならない。
 程なく人類は地球規模で広がる少子化によって、人口増加の圧力から開放される日が来るだろう。それは今世紀半ばにも訪れるかもしれない。いわば地球の人口が減少に転じる日が。そうなれば、自然に排除への圧力やそれを廻る戦いは和らぐと思われる。戦後のマイノリティーに対する意識の変化も先進国の少子化と関係しているとみることはできる。
 地球の人口が減少に転じるなら、どの民族も他国の領土を侵略する余裕はなくなり、今ある国に閉じこもろうとする傾向が強まるであろう。今の日本のネトウヨも、日本が再び朝鮮半島を侵略する意思があるかと聞かれれば、とんでもない、もうあんな所に関わりたくはないと言うだろう。タイムマシンがあれば西郷隆盛に非韓三原則を教えたいのではないかと思うw。人口論からすれば正当な答えだ。
 じっさいこれからガチな排除を廻る争いは少なくなるだろう。
 生存競争から開放された時、人はどうなるのか。それは人に飼われて生存競争から開放された動物に近いものになるだろう。ガチな生存競争から開放された時、残るのは遊びとしての擬制としての生存競争だ。猫の児がくんずほぐれつ、ひがなじゃれあっているように、擬制としての生存競争をあくまで遊びとして延々と繰り返す状態になるのではないかと思う。
 スポーツやゲームは一種の擬制だが、ただルールを決めてその範囲ではガチで勝負する。それに対し、日常的な生存競争の擬制は「いじり」というやつだ。
 からかったりあざ笑ったり茶化したり馬鹿にしたり、それは人間の日常のコミュニケーションの中では普通に行われている。ただ、それが決定的な破局にならないように注意深くコントロールしながら、いわば殴りあうのではなくくすぐりあうことでコミュニケーションをとってゆく。このような擬制の生存競争はいつの社会にもどこの社会にも存在する。ガチな生存競争が不要になり、世界に平和が訪れた時にも残るに違いない。
 ただ、ガチな生存競争なのか擬制としてのゆるい生存競争なのかは外見上区別が難しい。だから、今の人権思想ではガチな生存競争と一緒くたにして擬制の生存競争も禁止しようとする。これが人権思想の行き過ぎとして一番頭を痛める点だ。擬制の生存競争まで禁止したら、残るのはただ形式ばったよそよそしい人間関係だけだ。
 実際どこかの国では、学校で親友を作ることを禁止しようという動きがあるという。親友を作れば身びいきが生じ、親友でない人が差別されるというわけだ。それは人間の生まれながらの本来の感情に反する。巨大な権力で親友や恋人を作ることを禁止するのは、いわゆるディストピアだ。
 我々は愛する人と見ず知らずの人を平等に扱うことはできない。我が子と他人の子供が溺れていれば、我が子を先に助けるのは当然のことだ。ただ、人は積極的にいろんな所に行き、いろいろな人と交流することで、身内の範囲を広げて行くことができる。
 人権は人情を基とするもので、非情になってはいけない。先ずは人情を学ぶ。そのためには古人の風流も役に立つと思う。

2018年8月9日木曜日

 朝起きたら雨も止み風もなく、台風はまだ銚子沖にいるとはいえほとんど通り過ぎたような感じだった。去年の日記を見ていたら、8月7日に「台風が近づいていて、時折強い雨が降る。」と書いてあった。去年も同じ頃に台風が来ていた。
 それでは「秋ちかき」の巻、一気に挙句まで。

 二十九句目。

   置わすれたるものさがすなり
 髪結て番に出る日の朝月夜    惟然

 「番」は今でいうシフトに近い。早番なので朝早く髪を結って仕事に出ると朝の月が見える。「朝月夜」はほぼ有明に同じ。
 昔は髪を結うのは女とは限らない。男も髷を結う。

 三十句目。

   髪結て番に出る日の朝月夜
 木に十ばかり柿をたしなむ    芭蕉

 「たしなむ」は元は「たしなし(確かなし)」の動詞形で、困窮するという意味だった。おそらく同音異義語の「他事無し」と混同されてしまったのだろう。困窮してもたいしたことないと頑張ることを「たしなむ」と言うようになり、そこから物事を苦とせずに心がけるという意味になって言ったようだ。
 今では趣味や何かをほんの少しばかりかじることを「たしなみ程度」とかいうが、そういう風に近代的に解釈すると、「木に十個程度ほんの少し柿の実を楽しんでます」になるが、この時代はそうではないだろう。むしろ木に十ばかりしか柿がなってないから、食べたいけど我慢する、という意味だろう。
 朝早くから仕事に出て苦労している人だから、柿も我慢するという位付けであろう。

 二裏
 三十一句目。

   木に十ばかり柿をたしなむ
 満作に中稲仕あげて喰祭     支考

 「中稲(なかて)」は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、「[和漢三才図会]凡(およそ)八九月苅取るを中稲とす。」とだけある。早稲(わせ)と晩稲(おくて)の中間。
 満作は豊年満作の満作。今年も豊作で祭も盛り上がり、みんな思いっきり喰ったせいか、柿は木に十ばかりしか残っていない。まあ、これも我慢だ。

 三十二句目。

   満作に中稲仕あげて喰祭
 桶もたらいもあたらしき竹輪   惟然

 豊作ということで桶も盥も長く使って緩んでいたたがを締めなおす。竹輪は今では「ちくわ」だが、「たが」という読み方もあった。

 三十三句目。

   桶もたらいもあたらしき竹輪
 投うちをはづれて猫の逃あるき  木節

 これは去年の八月七日に紹介した句だ。去年の反復になるが、

 「桶や盥の修理をやっているのか。直ったばかりの桶や盥には早速猫が入りたがる。お客さんから預った大事な商品だからと物を投げつけて猫を追っ払うものの、猫も素早くそれをかわす。」

 そういえば八月八日は世界ネコの日だった。

 三十四句目。

   投うちをはづれて猫の迯あるき
 首にものをかぶる掃除日     支考

 「首」は「つぶり」と読む。手抜きだが、これも去年の文章で、

 「表向きはほっかぶりをして掃除をしていると猫がやってきたので、それを追っ払ってという光景だが、これは幻術で、言外に首にものをかぶった猫、つまり手拭をかぶって踊る猫又を連想させる。芭蕉が「小蓑をほしげ也」という言葉から蓑笠着た猿を連想させたのと同じ手法だ。さすが支考さん。」

 三十五句目。

   首にものをかぶる掃除日
 花咲て茶摘初まる裏の山     芭蕉

 茶摘というと今では「夏も近づく八十八夜」なんて唱歌が思い浮かぶかもしれないが、新暦だと五月の初め、旧暦だと三月の終わりから四月の中頃あたりになる。いずれにしても桜の季節は終っている。
 『日本茶の歴史』(橋本素子、二〇一六、淡交社)によれば、

 「十八世紀の『京都御役所向大概覚書』で初摘みが立春から八十日目頃とされていることから」

とあるので、芭蕉の時代もそれほど変わらなかったと思われる。
 ただ、同書に、鎌倉時代は新茶が重視され、

 「『金沢文庫古文書』に見る最も早い時期は、二月である。鎌倉時代後期二月二十九日付「金沢貞顕書状」には、「新茶定めて出来候か、御随身あるべく候」とあり、称名寺茶園で二月二十九日までには新茶が生産されていたことになる。」

とある。
 宇治のような名産地を別とすれば、茶摘の時期は芭蕉の時代でも多少のばらつきがあって、鎌倉時代のような旧暦二月、桜の咲く頃に茶摘をするところもあったのかもしれない。
 前句の「掃除日」を農作業の準備のための掃除として、強引に花に持っていったという感がなくもない。

 挙句。

   花咲て茶摘初まる裏の山
 つつじの肥る赤土の岸      惟然

 当時のツツジはまだ品種改良のなされる前のヤマツツジが主流だったと思われる。また、イワツツジは「言わぬ」と掛けて和歌でよく用いられている。当時ツツジといえば山や川岸などを連想させたのではないかと思われる。
 ヤマツツジは概ね赤いがイワツツジは紫がかっている。ここでは赤土の岸が紫に染まって痩せ地が肥えたように見えるということか。
 桜にお茶にツツジと豊かに彩られ、この一巻は終了する。
 ヤマツツジの方は『猿蓑』に、

 やまつゝじ海に見よとや夕日影    智月

の句もある。夕日に映える真っ赤なツツジに覆われた山は、さながら海のようだ。智月は大津膳所の人だから、この海は琵琶湖か。

2018年8月7日火曜日

 オリンピックの時にサマータイムなんて冗談でしょ。競技も暑さを避けて早い時間にやるなら観戦と通勤の人が重なって大混乱になる。システムエンジニアも大変だ。デスマーチから始まる東京オリンピック。でも、今の野党では止められないだろうな。
 それでは「秋ちかき」の巻の続き。

 二十五句目。

   竹の根をゆく水のさらさら
 したしたと京への枇杷を荷つれ  木節

 「さらさら」に「したした」と擬音を付ける。一種の掛けてにはか。ただ、「鶯に」の巻の、

    につと朝日に迎ふよこ雲
 すっぺりと花見の客をしまいけり  去来

の句は却下され、

    につと朝日に迎ふよこ雲
 青みたる松より花の咲こぼれ   去来

の句に作り直したことが『去来抄』に記されている。こういう擬音の遊びも時と場合による。花呼び出しにはひねらずに素直に応じたほうがいいようだ。
 「したした」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 [副]足音を立てないように歩くときのわずかな音を表す。ひたひた。
 「跫音(あしおと)を密(ひそ)めて、―と入ると」〈鏡花・日本橋〉

とある。京へと枇杷を荷う人も、竹の根に水が流れているところに差し掛かれば、そろりそろりと注意しながら渡る。

 二十六句目。

   したしたと京への枇杷を荷つれ
 嫁とむすめにわる口をこく    支考

 枇杷を荷うのは行商のおばちゃんか。売りに来た時の世間話に嫁や娘の悪口というのはありそうなことだ。

 二十七句目。

   嫁とむすめにわる口をこく
 客は皆さむくてこをる火燵の間  芭蕉

 人の悪口も度が過ぎれば、周りにいる人間もどう反応していいかわからず氷りつく。下手に賛同もできないし、かといって咎めるのも角が立つ。聞き流すのが一番いい。

   座右之銘
   人の短をいふ事なかれ
   己が長をとく事なかれ
 物言えば唇寒し秋の風      芭蕉

の句もある。
 「こく」は今でも「嘘こく」だとか「調子こく」だとか、良いことには用いない。

 二十八句目。

   客は皆さむくてこをる火燵の間
 置わすれたるものさがすなり   木節

 みんな寒くて火燵から動かない中、部屋をうろうろするのは置き忘れたものを探しに来た亭主のみか。

2018年8月6日月曜日

 昨日の入試の話だが、正確には二浪までの男子に大きな加点をし、三浪以上の男子には少し加点し、女性は加点なしで差をつけてたようで、減点ではなかったようだ。まあそれにしても三浪男子より女子が下とは困ったもんだ。しかも昔からの習慣ではなく2011年くらいから始まったというから、伝統でも何でもない。
 台風が近づいていて今日も曇りがちでぱらぱらと雨が降ったりもした。インドネシアでは地震もあったし、いろいろなことが起こる。
 今日広島原爆の日だが、北朝鮮の核廃絶はどんどん遠のいてゆく。核廃絶は万人が一致しても、どこから廃絶するかとなるといろいろ政治が絡んで結局分けのわからないことになる。
 それでは「秋ちかき」の巻の続き。

 二表
 十九句目。

   足袋ぬいで干す昼のかげろふ
 年頭にちいさきやつら共させて  芭蕉

 正月に転じる。おそらく僧侶とお稚児さんだろう。芭蕉の得意のネタだ。「足袋」からそれと言わずして匂わす匂い付けになる。

 二十句目。

   年頭にちいさきやつら共させて
 隠すたよりを立ながらきく    木節

 「たより」は消息のこと。みんな隠していてなかなか喋ってくれない愛しい人の消息も、子供なら喋っちゃったりする。

 二十一句目。

   隠すたよりを立ながらきく
 行燈の上より白き額つき     惟然

 よく肝試しのときに幽霊役の人は懐中電灯で顔をしたから照らしたりするが、行燈の上の白い額はまさにそれだ。「み~た~な~~」とか言いそうだ。
 最近だと、夜スマホを見ながら歩いてる女の人が恐い。

 二十二句目。

   行燈の上より白き額つき
 畳に琵琶をどつかりと置     芭蕉

 前句を一転して琵琶法師の額にする。夜に物語しに呼ばれてきた時の情景なのだろう。

 二十三句目。

   畳に琵琶をどつかりと置
 半蔀は四面に雨を見るやうに   支考

 「半蔀(はじとみ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「上半分を外側へ吊(つ)り上げるようにし、下半分をはめ込みとした蔀戸(しとみど)。」

とある。謡曲の『半蔀』もあるように、この言葉は『源氏物語』の夕顔巻の最初の部分を連想させる。

 「御車(みくるま)いるべき門はさしたりければ、人してこれみつ(惟光)めさせて、またせ給(たま)ひけるほど、むつかしげなるおほぢのさまをみわたし給(たま)へるに、この家のかたはらに、ひがきといふ物(もの)あらたしうして、かみははじとみ四五けん斗(ばかり)あげわたして、すだれなどもいとしろうすずしげなるに、をかしきひたひつきのすきかげ、あまたみえてのぞく。」
 (車を入れようとすると門は錠が鎖されていて、人に惟光を呼んで来させて、来るのを待ちながら、ごちゃごちゃとした大通りの様子を眺めていると、乳母の家の隣に真新しい檜を編んで作った檜垣があり、その上半分は半蔀(はじとみ)という外開きの窓になっていて、それが四五軒ほど開いた状態になり、そこに掛けてある白い簾がとても涼しげで、女の可愛らしい額が透けて見えて、みんなで外を覗いているようでした。)

 普通の家屋の半蔀は一方しか見えない。「四面に雨を見る」というのはひょっとしたら能の舞台で用いられる人一人入れるようなボックスのことだろうか。前面が半蔀になっているが、役者がちゃんと見えるように四面は柱だけで何も覆われていない。
 そうなると、前句の琵琶は謡曲『絃上』だろうか。ここではシテの老翁が雨の降る須磨の塩屋で琵琶を弾く。
 この句はわかりにくいが、畳の上に置かれた琵琶から、これで謡曲の『絃上』を真似て、雨に琵琶を弾く雰囲気を出すとしたら、謡曲『半蔀』にあるような小さな小屋の作り物があるといいな、というそういう句だったのかもしれない。

 二十四句目。

   半蔀は四面に雨を見るやうに
 竹の根をゆく水のさらさら    惟然

 「さらさら」という擬音の使い方は、惟然の後の作風を連想させる。
 半蔀から窓の外に植えられた竹を出し、「雨を見る」を四面から流れてきた雨水としてそれが竹の根元をさらさらと流れるとする。四つ手付けで単純な景色に転じて遣り句する技術はなかなかだ。

2018年8月5日日曜日

 東京医科大の裏口入試と、女子や三浪以上の男子の点数を勝手に減点して入学者を調整していた事件は、日本の入試制度の根幹を脅かすおそれがある。
 日本の高度成長を支えてきたのは、良いにつけ悪いにつけ、入試で良い点さえ取れば誰でも平等に良い大学に入れ、良い就職ができる希望を与えてきたことだった。
 もちろん昔から裏口入学はあったし、私大の学費の高さは貧乏人には厳しいものだった。だけど、今度の事件は入試だけは平等だという幻想を打ち砕くものだ。
 おそらくこれで、実際にやっているかどうかはわからないが、どこでもみんなやっているんじゃないかという疑惑は止められなくなる。そうなると真面目に勉強しても無駄だという意識が広がってくる。
 もちろん、受験勉強はいろいろなゆがみももたらしてきた。自分で考えて自分の手で真理をつかもうとするのではなく、出題者の意図を察知して傾向と対策を練るばかりが重要となり、社会に出てからも、真実はもうとっくに誰かが決めているものだからと、自分から探そうとしなくなる。この世の多くのことに正解なんてないんだということに気付かない。
 特に受験英語は細かな文法に囚われて、実際の会話能力を低下させるもととなっている。
 これを機に社会全体が受験の優等生よりも、しっかりと自分で考え行動する能力を求めるようになれば、それはそれでいいのだが、全体としての学習意欲の低下になれば、日本の将来に決して良い影響を与えない。
 さて、それでは「秋ちかき」の巻の続き。

 十一句目。

   うぢうぢ蚤のせせるひとりね
 仏壇の障子に月のさしかかり   惟然

 仏壇は元禄の頃から今のような豪華なものが作られるようになったという。ただ、こうした仏殿に障子はないので、仏壇の置かれている仏間の障子ではないかと思う。
 大きな屋敷であれば仏間は家の奥にあるが、蚤に刺されながら一人寝するような小さな家では、仏間の障子にまで月の光が差し込んでくる。
 当時の仏壇や位牌の庶民への普及を詠んだ釈教の句といえよう。それ以前は持仏を厨子に入れて安置していた。

 十二句目。

   仏壇の障子に月のさしかかり
 梁から弓のおつる秋風      支考

 昔は神仏習合だったので、仏間の梁には破魔弓が飾られてたりしたのだろう。仏壇に月、破魔弓に風の相対付けで神祇に転じる。

 十三句目。

   梁から弓のおつる秋風
 八朔の礼はそこそこ仕廻けり   木節

 「八朔」はウィキペディアによれば、

 「八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことである。
 新暦では8月25日ごろから9月23日ごろまでを移動する(秋分が旧暦8月中なので、早ければその29日前、遅ければ秋分当日となる)。
 この頃、早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからあった。このことから、田の実の節句ともいう。この「たのみ」を「頼み」にかけ、武家や公家の間でも、日頃お世話になっている(頼み合っている)人に、その恩を感謝する意味で贈り物をするようになった。」

という。
 前句の弓を破魔弓ではなく武家の梁に置かれた和弓のことにする。それが落ちるほどの激しい秋風は台風の影響だろう。八朔の礼もそこそこに仕廻(しまい)にする。
 コトバンクの「大辞林 第三版の解説」の八朔の項に、

 ②  陰暦八月一日前後に吹く強い風。

とある。

 十四句目。

   八朔の礼はそこそこ仕廻けり
 舟荷の鯖の時分はづるる     芭蕉

 鯖は秋が旬。「秋サバは嫁に食わすな」という諺もある。本来は八朔の頃から取れ始めるのだろうけど、この年はまだ鯖が上がってこなくて、八朔の礼もメインの鯖がなければとそこそこにすませる。

 十五句目。

   舟荷の鯖の時分はづるる
 西美濃は地卑に水の出る所    支考

 西美濃は、「大垣地方ポータルサイト西美濃」によると、

 「「西美濃」は、日本列島のほぼ中央、岐阜県の西部に位置しています。揖斐川・長良川・木曽川の3つの川によってつくらえた濃尾平野が広がっており、一方は揖斐川源流部の山々に囲まれているなど、変化と起伏に富んだ自然が特徴です。」

とある。大垣市を中心とする岐阜県の西部で、西濃運輸の本部も大垣にある。
 「地卑(ちひく)」は『易経』繋辞傳の言葉で、「天尊地卑、乾坤定矣。(天はたかく地はひくく、乾坤定まる)」から来ている。
 このあたりは支考にも馴染みのある土地だろう。平野だが北と西は1500メートル前後の山で囲まれ、豊かな水源となっている。有名な養老の滝もある。
 よい所ではあるが、海からやや離れているため、新鮮な鯖は食べられなかったようだ。この頃はまだバッテラはなく、なれ寿司にしていた。当然それだけ時間が経っている。

 十六句目。

   西美濃は地卑に水の出る所
 持寄にする医者の草庵      惟然

 西美濃は良い所だから病気になる人もなく、医者が儲からないということか。医者の草庵を尋ねるときは、みんな各々食料を持ち寄っていかねばならない。

 十七句目。

   持寄にする医者の草庵
 結かけて細縄たらぬ花の垣    木節

 「花の垣」は桜でできた垣根ではなく、垣根の上に桜が咲いているという意味だろう。やや放り込み気味の「花」だ。
 垣は竹垣だと思われるが、縄が足らずに途中までで未完成になっている。貧しい医者の草庵から言い興したと思われる。

 十八句目。

   結かけて細縄たらぬ花の垣
 足袋ぬいで干す昼のかげろふ   支考

 縄が足りなくなったので作業は一時中断。足袋を脱いで作りかけの垣に干しておく。昼の日差しの強さから陽炎を添える。

2018年8月3日金曜日

 今日は夕立で、バケツをひっくり返したような雨が降った。
 それでは「秋ちかき」の巻の続き。

 五句目。

   起ると沢に下るしらさぎ
 降まじる丸雪みぞれ一しきり   木節

 「しらさぎ」は無季なので冬に転じる。明け方の時雨が寒さで丸雪(あられ)やみぞれ交じりになったか、ばらばらと音を立てて、目が覚めれば沢に白鷺の姿がある。霰で薄っすら白くなった中に白鷺の姿が映え、絵画のような趣向だ。雪舟の「花鳥図屏風」の左隻には雪の白鷺が描かれているが、それに近い。

 六句目。

   降まじる丸雪みぞれ一しきり
 手のひらふいて糊ざいくする   芭蕉

 「糊ざいく」は紙に糊をつけて固めてゆく張子細工のことだろうか。冬の農閑期の副業と思われる。

初裏
 七句目。

   手のひらふいて糊ざいくする
 夕食をくはで隣の膳を待     支考

 前句の「糊ざいく」を衣類に糊を利かせることとしたか。隣の家で法要ががあり、そこの膳をあてにして夕食を抜き、失礼のないように着物はきちんと糊を利かしておく。

 八句目。

   夕食をくはで隣の膳を待
 なにの箱ともしれぬ大きさ    惟然

 棺おけのことか。それとは言わずあくまで匂わす。

 九句目。

   なにの箱ともしれぬ大きさ
 宿々で咄のかはる喧嘩沙汰    芭蕉

 ちょっとした喧嘩でも噂で伝わってゆくうちに次第に話が盛られてゆき、本当は小さな箱が発端だったのに、いつの間にかとてつもなく大きな箱になっている。旅体にする。

 十句目。

   宿々で咄のかはる喧嘩沙汰
 うぢうぢ蚤のせせるひとりね   木節

 喧嘩沙汰は単に宿で聞いた話しとして、旅のあるあるにもってゆく。
 「せせる」は今日でも「せせら笑う」に痕跡を残している。元の意味は狭いところをほじくることで、虫が刺すことも言う。人の弱点をちくちくほじくるところから、「牛流す」の巻に、

   蓬生におもしろげつく伏見脇
 かげんをせせる浅づけの桶   惟然

という用例がある。
 夏の旅に蚤虱は付き物で、『奥の細道』の、

 蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと  芭蕉

の句は有名だ。

2018年8月1日水曜日

 また暑さが戻ってきて、行暑いと何もかも面倒になるし、多分水無月の俳諧興行が少なかったのもそういう理由なのだろう。

 水無月も鼻つきあはす數奇屋哉   凡兆

の句は茶席だったが、『奥の細道』でも初夏の頃は盛んに興行が行われていたが、出羽三山の頃から何日も掛けて一巻を仕上げることが多く、出雲崎の七月六日の興行も途中で終っている。暑さで芭蕉の体調が悪化したことも原因だったようだが、暑さで一般的に興行が盛り上がらない時期なのかもしれない。
 「破風口に」の巻も、そういうわけか、かなり日数を費やしている。
 そういう中で、元禄七年は閏五月が入り水無月が遅かったせいか、水無月の半ばから盛んに興行が行われている。
 そういうわけで、そろそろまた俳諧を読んで行こうと思う。今日は旧暦の六月二十日。元禄七年の六月二十一日には大津の木節庵で、

 秋ちかき心の寄や四畳半     芭蕉

を発句とした興行が行われている。連衆は芭蕉、木節、惟然、支考の四人。木節はこのあと芭蕉を看取ることになる医者だ。
 秋も近くようやく涼しくなると、何となくこうして部屋で身を寄せ合ってという気分にもなる。そういうわけでみんなよろしくと、挨拶の一句となる。
 主人である木節はこう答える。

   秋ちかき心の寄や四畳半
 しどろにふせる撫子の露     木節

 「しどろ」は現在では「しどろもどろ」という言葉に名残をとどめているが、秩序なく乱れたさまを言う。「しどけなし」も同じで、否定の言葉があっても同じ意味になるのは、「はしたに」「はしたなし」の例もある。今日でも「なにげに」「なにげなく」の例がある。
 秋が近いとはいえ撫子も暑さで元気がなく、そこに露が降りるところに秋が近いのが感じられる。
 秋が近いとはいい、集まった連衆のばてた様子がおかしくて「しどろにふせる」という言葉が出てきたのだろう。
 発句の「心の寄や」をうけて、そんなことないです。「しどろもどろです」という謙遜の意味もあったと思われる。
 そして惟然が第三を付ける。

   しどろにふせる撫子の露
 月残る夜ぶりの火影打消て    惟然

 前句の露を朝露として、明け方の景色に月を添える。
 「夜ぶり」はgoo辞書の「デジタル大辞泉(小学館)」に、

 「夏の夜、カンテラやたいまつをともし、寄ってくる魚をとること。火振り。《季 夏》「雨後の月誰 (た) そや―の脛 (はぎ) 白き/蕪村」

とある。漁火と違うのは、漁火が船で灯すのに対し、夜ぶりは地上で灯す。蕪村の句は夜ぶりの火に照らし出された白い脛が、日に焼けた漁師や農夫のものではないな、ということか。蕪村のことだから若い娘でも見つけたか。蕪村のいい所はこういう性的マジョリティーの好みを的確に捉えているところだ。
 夜ぶりの火影(ほかげ)も消えて月残る朝に撫子の露がきらきらしている。
 四句目。

   月残る夜ぶりの火影打消て
 起ると沢に下るしらさぎ     支考

 魚を取る村人が去っていった後、目を覚ました白鷺が沢に下りてきて、魚を取り始める。「夜ぶり」に「しらさぎ」とどちらも魚取りというところでまとめるのは、支考一流の響き付けといっていいだろう。