2018年8月16日木曜日

 お盆休みも終り、またいつもの日常が始まる。
 一昨日の続きで、「粟」の句をもう少し見てみよう。
 芭蕉が粟を詠んだ句は二句ある。

 よき家や雀よろこぶ背戸の秋    芭蕉
 粟稗にとぼしくもあらず草の庵   芭蕉

 「よき家や」の句は貞享五年七月八日、『笈の小文』の旅の途中に鳴海の知足亭を尋ねた時、知足の弟の知之の新宅祝賀の発句で、真蹟自画賛もあるという。どんな絵なのかと思ったが画像が見つからなかった。
 後に知足が編纂した『千鳥掛』に表六句が記されている。

   賀新宅

 よき家や雀よろこぶ背戸の粟        芭蕉
   蒜(まぐさ)にみゆる野菊苅茅     知足
 投渡す岨の編橋(あみはし)霧こめて    安信
   風呂燒(たき)に行月の明ぼの     芭蕉
 杉垣のあなたにすごき鳩の聲        知足
   はつ霜下りて紙子捫(もみ)つゝ    安信

 知足の家はweblioの「芭蕉関係人名集」によれば、

 「下里<しもさと>知足は、千代倉という屋号の造り酒屋の当主で富豪であった。」

とあるから、その弟の家もさぞかし立派な家だったのだろう。ただ、その家の立派さをそのまま賛美すると自慢めいてしまうので、あえて背戸の裏に広がる粟畑を詠んで、さぞかし雀たちも喜んでいるでしょうと落としている。
 これに対して知足は、

   よき家や雀よろこぶ背戸の粟
 蒜(まぐさ)にみゆる野菊苅茅  知足

と答える。家の屋根を葺くのに使って余った刈茅(かるかや)も、馬に食べさせてあげられそうですね。之では季語がないので、「野菊」は一種の放り込みと見ていいだろう。
 第三は安信が付ける。安信はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 「生家は尾張(おわり)(愛知県)鳴海(なるみ)宿の本陣寺島家の分家。はじめ貞門(ていもん)に属したが,のち松尾芭蕉(ばしょう)にまなぶ。」

とある。

   蒜にみゆる野菊苅茅
 投渡す岨の編橋霧こめて    安信

 前句を馬草が積まれた中に野菊や茅が混じってる情景とし、山奥の険しい所に蔓を編んで吊り橋を作る情景とした。秋が発句の場合、第三が月になることが多いが、四句目の芭蕉に譲ることになる。
 その四句目。

   投渡す岨の編橋霧こめて
 風呂燒に行月の明ぼの     芭蕉

 江戸時代の風呂は蒸し風呂で、焼いた石の上に水を掛けて湯気を出した。この場合山奥だから岩風呂かもしれない。ウィキペディアには、

 「岩風呂(いわぶろ)、もしくは石風呂(いしぶろ)は、主に日本の瀬戸内海など海岸地帯にあった蒸し風呂である。天然の石窟などの密閉された岩穴の中で火を焚いて熱し、水気を与えることで蒸気浴や熱気浴をする。」

とある。また、人工的に岩でドームを作った「釜風呂」というのもあった。ウィキペディアには、

 「釜風呂(かまぶろ)は、主に日本列島の内陸部で広まった蒸し風呂である。特に京都の八瀬の竈風呂が代表的。岩で直径2m程度のドーム型に組んだ下側に小さな入口がある構成。最初にドーム内で火を焚き熱する。加熱後に換気を行い、塩水で濡らした莚を引いて、その上に人が横たわる形で入浴をした。」

とある。八瀬の竈風呂は壬申の乱の時に大海人皇子が傷を癒したという伝説もある。
 五句目。

   風呂燒に行月の明ぼの
 杉垣のあなたにすごき鳩の聲  知足

 杉垣は風呂場を覆う垣根か。その向こうの山からは鳩のデデッポウという声が寂しげに聞こえてくる。
 「すごし」は本来の薄気味悪くて震えが来るようなという意味から、寂しげな場合にも殺風景な場合にも用いられてきたが、こういう言葉は古代の「いみじ」や今の「やばい」と同じように、良い意味に転じて用いられることがしばしばあった。近代に入ると、「すごい」はほとんど良い意味にしか用いられなくなった。
 「すごき鳩の聲」には證歌がある。

 夕されや檜原の峰を越え行けば
     すごく聞こゆる山鳩の声
               西行法師「山家集」

 六句目。

   杉垣のあなたにすごき鳩の聲
 はつ霜下りて紙子捫(もみ)つゝ 安信

 「紙子」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「紙子紙(かみこがみ)で作った衣服。律宗の僧が用いはじめ、のち一般に使用。軽くて保温性にすぐれ、胴着や袖なし羽織を作ることが多い。近世以降、安価なところから貧しい人々の間で用いられた。」

とある。「紙子紙」は同じくコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「紙子を仕立てるのに使う紙。厚手の和紙に柿渋を引き、日に乾かしてよくもみやわらげ、夜露にさらして臭みを抜いたもの。」

とある。
 句の意味は、寒くなってきたのでそろそろ紙子を用意しようと、自分で柿渋を塗って揉んでいると、初霜が降りたというもの。句の感じからしてこれで挙句」というふうではないので、このあとも続きがあったのであろう。
 もう一句の粟の句、

 粟稗にとぼしくもあらず草の庵   芭蕉

の句も、同じ年の七月二十日、名古屋の竹葉軒長虹の家で行われた興行の発句だった。
 これを発句とした歌仙がかなり後の安永元年に曉台が編纂した『秋の日』の巻頭に収められている。
 芭蕉が長虹の家を見て、粟も稗もあって質素だが貧しいとは言えない庵だな、と詠んだようだが、粟の趣向は知之亭の句の遣いまわしの感がなくもない。
 この発句は後に支考編の『笈日記』に、

 粟稗にまづしくもなし草の庵    芭蕉

と改作された形で掲載されている。これを別の句として数えるなら、芭蕉の粟の句は三句ということになる。
 

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