月も大分丸くなってきた。もうすぐ本当の意味での旧盆だが、また満月の大潮に台風が。心配だ。
それでは「文月や」の巻の続き。
十三句目。
鏡に移す我がわらひがほ
あけはなれあさ気は月の色薄く 左栗
月への展開だが、「あけはなれ」は夜が白むことで、それに「朝気の月の色薄く」と、「朝の月」といえばそれで済むところを十七文字にまで引っ張っている。
発句なら「言ひおほせて何かある」という所だろうが、付け句ではあまり余計な景物を付けてしまうと却って次が付けにくくなるので、特に定座の時はこれでいいのだろう。
明智光秀はあの「時は今」の興行(『天正十年愛宕百韻』)の時に、
ただよふ雲はいづちなるらん
つきは秋秋はもなかの夜はの月 光秀
と詠んでいる。
十四句目。
あけはなれあさ気は月の色薄く
鹿引て来る犬のにくさよ 右雪
鹿といってもさすがに大きな鹿を犬が引きずってくるわけではあるまい。小鹿だろうか。田舎ならこういうこともあるのだろう。
十五句目。
鹿引て来る犬のにくさよ
きぬたうつすべさへ知らぬ墨衣 眠鴎
砧を打つすべをしらないというのは、山寺に隠棲してはいても元は高貴な女性ということか。そりゃ、犬が鹿を咥えてきたらびっくりするわな。
十六句目。
きぬたうつすべさへ知らぬ墨衣
たつた二人リの山本の庵 左栗
『校本芭蕉全集第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の注釈に、「嵯峨の祇王・祇女姉妹の庵室などの俤とも見られよう。」とある。
ウィキペディアには、
「平家の家人・江部九郎時久の娘。近江国祇王村(現・滋賀県野洲市)に生まれる。生誕の地には妓王の菩提を弔うために建てられた妓王寺が現存する。
母の刀自、妹の妓女とともに、京都で有名な白拍子となり、平清盛に寵愛された。『平家物語』(第一巻 6「祗王」)に登場する。」
とある、しかし、その後、
「支給も止められた冷遇の末、仏御前の慰め役までやらされるという屈辱を味わわされ、自殺を考えるまでに至る。しかし、母の説得で思い止まり、母の刀自、妹の妓女とともに嵯峨往生院(現・祇王寺)へ仏門に入る。当時21歳だったとされる。」
とある。実際はお寺に入ったのだから二人だけで暮らしたわけではないだろうけど、そこは本説を取る場合は必ず少し変えなくてはパクリになるからだ。
十七句目。
たつた二人リの山本の庵
華の吟其まま暮て星かぞふ 義年
芭蕉さんに気に入られたか、花の定座を持たされた義年さん。期待に応えてくれます。
『校本芭蕉全集第四巻』の宮本三郎さんの注では、謡曲『関寺小町』だという。ただ、小町は二人で住んでたわけではないし、花の吟は比喩で老いた花の吟ということはできるが、ラストは明け方で、七夕祭ではあっても星を数えるわけではない。相違点が多いから本説とは言えない。
この場合は打越の尼のイメージは捨てて、寒山拾得のような二人暮らしの隠者とし、花を愛でては一日を終らせ、一番星、二番星を数えるそんな生活を描いたと見た方がいいのではないかと思う。
寒山詩に、
拍手摧花舞 支頤聽鳥哥
誰當來歎賞 樵客屢經過
舞い散る花に拍手を催し
鳥の歌は頬杖をついて聞く
誰が来て褒め称えるか
樵は度々通り過ぎる
とある。
十八句目。
華の吟其まま暮て星かぞふ
蝶の羽おしむ蝋燭の影 右雪
胡蝶の夢と邯鄲の夢が合わさったような趣向か。夢から醒めれば星が出ていて蝋燭がゆれている。
二の懐紙の表に入る。
十九句目。
蝶の羽おしむ蝋燭の影
春雨は髪剃児(ちご)の泪にて 芭蕉
芭蕉が『野ざらし紀行』の旅のときに杜国と別れる際に送った句に、
白げしにはねもぐ蝶の形見哉 芭蕉
の句がある。その時のことを思い出したか。
ここでは稚児の美しかった髪を蝶の羽に喩え、出家による別れを惜しんでいる。稚児の姿に杜国が重なるとなれば、やはり芭蕉さんは‥‥。
『校本芭蕉全集第四巻』の宮本三郎注に、古今集の、
春雨のふるは涙か桜花
ちるを惜しまぬ人しなければ
大伴黒主
を引いている。春雨の泪はこの歌による。
二十句目。
春雨は髪剃児の泪にて
香は色々に人々の文 曾良
昔の宮廷では手紙に香を焚き込めたりした。『源氏物語』の「帚木」の雨夜の品定めの発端になる、手紙がごそっと見つかる場面が思い浮かぶ。春雨から「雨夜の品定め」の連想であろう。
この句も挙句という感じがしないから、ここから先まだ興行は続いたのであろう。曾良が書き残してくれなかったのが残念だ。あるいは芭蕉の病気のため、あとは主筆に任せて芭蕉と曾良は途中退席したか。
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