芭蕉が元禄二年から三年頃、どのような不易流行を説いたのかは定かでないが、去来が理解した範囲で不易は「基(もとゐ)」だけでなくもう一つあったと思われる。それは『去来抄』「同門評」の「夕ぐれハ」の句の所で登場する「本意本情」ではないかと思う。
同じ『去来抄』「修行教」にも「去来曰、俳諧は新意を専(もっぱら)とするといへども、物の本情を違(たがふ)べからず。」とある。新意と対比して書かれている。
『猿蓑』の風の時に、おそらく本意本情の要件がかなり緩和されたのではないかと思う。つまり明確に古典に典拠を示すことができなくても、いわゆる證歌を引いてこなくても、大体の感覚でOKになったのではないかと思う。それは本説が俤になったのと同じに考えればいい。
芭蕉が不易流行を説き始めた頃と思われる元禄二年の暮れ、芭蕉は膳所の木曽塚から去来宛に手紙を書いている。
そこで、
手握蘭口含鶏舌
ゆづり葉や口に含みて筆始 其角
の句をとりあげ、
「江戸より五つ物到来珍重、ゆづり葉感心に存候。乍去当年は此もの方のみおそろしく存候處、しゐて肝はつぶし不申候へ共、其躰新敷候。前書之事不同心にて候。彼義(儀)は只今天地俳諧にして萬代不易に候。」
と評している。
まず「其躰新敷(そのていあたらしく)」と新味を認め、前書きは不要とし、「萬代不易」と新味にして不易だとする。つまり不易流行の見本として去来に説いたと見ていいだろう。
「ゆづり葉を口にふくむといふ萬歳の言葉、犬打童子も知りたる事なれば」と、この言葉は当時子供でも知ってるような有名なフレーズで、それをそのまま使ったことが「閑素にして面白覚候」と言う。
誰もが「ああ、あの言葉ね」とわかるものをメインにした、今日でいうあるあるネタの句で、そこに新味があるとともに、万代不易だという。
これに対し、「手握蘭口含鶏舌」という前書きは、岩波文庫の『芭蕉書簡集』の萩原恭男の注によれば、「漢の尚書郎が口に鶏舌香を含んで奏上し、蘭を握って朝廷に出仕した故事」だという。
これは證歌を取るのと同じようなもので、ゆずり葉を口に含んで筆始めをするという趣向が古典の心にかなうものである事を証明しているのだと思う。芭蕉が不易流行を見出した時、こうした古典に密着した重さを嫌い、古典を匂わすだけで十分だと考えたからではないかと思う。
ただ、それは古典から離れてもいいということではない。
たとえば二〇一六年十一月十四日の日記で触れた『猿蓑』巻頭三句目以下の時雨あるあるにしても、
時雨きや並びかねたる魦(いざさ)ぶね 千那
幾人かしぐれかけぬく勢田の橋 丈草
鑓持(やりもち)の猶振たつるしぐれ哉 正秀
広沢やひとり時雨(しぐる)る沼太郎 史邦
舟人にぬかれて乗し時雨かな 尚白
にしても、別に時雨といざさぶね、時雨に勢田の橋、時雨に槍持ち、時雨に沼太郎、時雨に船人といったところに何かしら證歌を取るわけではない。
それでも、時雨に並びかねた舟は、
龍田河紅葉はながる神なびの
みむろの山に時雨ふるらし
文武天皇
の川に流れる紅葉の葉の連想を誘う。これは単に形が似ているということではなく、時雨の「定めなし」という情を含んでいる。
これがまったく違う情を喚起してしまうと、『去来抄』「同門評」で正秀に「句くず」と評された、
時雨るるや紅粉の小袖を吹かへし 去来
と、
龍田川錦織おりかく神無月
しぐれの雨をたてぬきにして
詠み人知らず
の関係になってしまうことになる。
じだらくに寝れば涼しき夕哉 宗次
夕涼み疝気おこしてかへりけり 去来
の差もそこにある。宗次の句はじだらくに寝ることを許してくれる主人への感謝とも取れなくはない。それに対し「疝気」の句は、もし夕涼みに誘ってくれた人がいたなら喧嘩を売ってるようなものだ。
この明示されなくても古典に通じる本意本情を維持するというのが、猿蓑調の重要な部分だった。去来は次第に形式的な類似に終始してこれを忘れて行ったのではないかと思われる。
これに対し、其角はあくまで古典に密着した句の作り方を続ける。
閑見月 更る夜の人をしづめてみる月に
おもふくまなる松風のこゑ
名月や畳の上に松の影 其角
この前書きの和歌は細川幽斎の『耳底記』にあるという。
笠重呉天雪
我雪とおもへばかろし笠の上 其角
前書きは『詩人玉屑(ぎょくせつ)』の詩から取っているが、これも芭蕉なら不要だと言うだろう。
声かれて猿の歯白し峯の月 其角
この句も「猿の歯」を詠むところに新味はあるが、月に叫ぶ猿は漢詩や画題などでお馴染みのものだった。芭蕉はこれに対し、
塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店 芭蕉
と、同じような悲痛な叫びの情を卑近な魚屋の情景で表してみせる。
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