2018年8月29日水曜日

 LGBTQIAでもPZNでも一人一人みんな違うし、障害者と一くくりにしてもその内容や程度はすべて違う。ましてどんな少数民族とはいえども、やはり一人一人みんな顔貌も違えば考え方も違う。マジョリティーだってピンからキリまでいる。
 マジョリティーだのマイノリティーだの言っても、結局人は誰一人同じではない。自分はこの世界でたった一人で、誰しも七十億対一の圧倒的なマイノリティーだ。
 結局人は絶対的な多様性の一人としての自分を生きるしかない。だから人間は皆平等なのである。
 ただ、人は生きるために多数派に就こうとする。本来の自分の半身を捨てて、集団だの組織だのに同化しようとする。でも、誰しも心底そこに埋没することはできなくて、ある時自分の捨ててきた半身のあった部分に風が吹きぬけてゆくのを感じる。その失われたものへの思い、恨み、それが「風」だ。
 風は必ず多様性の一人としての自分に立ち返らせ、すべての者が平等である所に導く。多様でありその多様性に対して寛容だからこそ、人は平等になれる。それは信じていいと思う。

 それでは『俳諧問答』の続き。

 「翁のいはく、なんぢが言しかり。しかれどもおよそ天下に師たるものは、まづおのが形・くらゐをさだめざれば、人おもむく所なし。
 これ角が旧姿をあらためざるゆへにして、予が流行にすすまざるところなり。
 わが老吟にともなへる人々は、雲かすみのかぜに変ずるがごとく、朝々暮々かしこにあらはれ、ここに跡なからん事をたのしめる狂客なりとも、風雅のまことを知らば、しばらく流行のおなじからざるも、又相はげむのたよりなるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.32~33)

 去来さんはかなり自慢げに「予が流行」だとか「雲かすみのかぜに変ずるがごとく」だとか、いかにも流行に乗っているようなそぶりだが、実際にどんな句を詠んでいたか、元禄九年刊の『韻塞』から拾ってみよう。

 行かかり客に成けりゑびす講  去来
 行年に畳の跡や尻の形     同
 芳野山又ちる方に花めぐり   同
 見物の火にはぐれたる歩行鵜(かちう)哉 同

 「ゑびす講」自体は別に新しいものではないし「芳野山」の句も特に物数寄なこともない。「行年に」の句はあるあるネタだがそんな面白いものでもないし、古典の情に通うものでもない。「火にはぐれた歩行鵜」も鵜飼の光景だが、鵜飼自体は新しいテーマではない。
 むしろこうした句は古典的なテーマに古典の情とは無関係なあるあるネタを展開したような感じで、題材が不易、内容が流行みたいな捉え方をしているようだ。
 こういうのを流行だと言われても其角さんも困惑するだけだろう。まだ、

 越後屋に衣さく音や更衣    其角

の方が新しい。

 「去来のいはく、師の言かへすべからず。しかれども、かへつて風は詠にあらはれ、本歌といへども、代々の宗の様おなじからず。いはんや俳諧はあたらしみをもつて命とす。本歌は代をもつて変べくば、この道年をもつて易ふべし。水雪の清きも、とどまりてうごかざれば、かならず汚穢を生じたり。
 今日緒生の為に古格を改めずといふも、なをながくここにとどまりなば、我其角をもつて、剣の菜刀になりたりとせん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.33)

 水も淀めば濁るというのはわからないでもないが、どこか言葉が空回りしているのは、結局去来さん自身が俳諧を引っ張ってゆけるだけの力量もなく、年下だが先輩の其角に芭蕉亡き後のリーダーシップを発揮してくれることを懇願しているようにすら見える。だが、後輩でも年長ということで、ついつい言葉が高飛車になってしまっている。

 「翁のいはく、なんじが言慎むべし。角や今我今日の流行におくるるとも、行すへまたそこばくの風流をなしいだしきたらんも知るべからず。
 去来のいはく、さる事あり。これを待にとし月あるらんを嘆くのみと、つぶやきしりぞきぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.33~34)

 その翁は、

    座右之銘
   人の短をいふ事なかれ
   己が長をとく事なかれ
 物いへば唇寒し穐の風   芭蕉

と詠んだが、去来さんにはどこ吹く風のようだ。
 去来は努力の人だから、其角や支考のような天才肌の人とは反りが合わないのかもしれない。
 「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という諺があるが、去来は梅のほうで、度々芭蕉の三十棒にあったようだ。サッカーで言うとファンタジスタではなくロジスタの方だから、不易流行のような理屈にのめりこむ傾向があったのだろう。
 まあ、「知るべからず」つまり「もう知らん、勝手にしろ」と一方的に絶縁状をたたきつける形で終る。

 「翁なくなり給ひて、むなしく四とせの春秋をつもり、いまだ我東西雲裏のうらみをいたせりといへども、なを松柏霜後のよはひをことぶけり。さいはいにこの書を書して、案下におくる。先生これをいかんとし給ふべきや。
  右      去来稿」
(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.34)

 こうしてこの手紙は終る。
 其角は元禄十年刊の『末若葉(うらわかば)』の跋にこの手紙を掲載する。

 「去来問、師の風雅、見及ぶところ、みなし栗よりこのかたしばしば変じて、門人、其流に浴せんことを願へり。我是を古翁に聞り。句に千歳不易、一時流行の両端あり。不易をしる人は、流行にうつらずといふ事なし。一時に秀でたるものは、口質の時にあへるのみにて、他日の流行にいたりては、一歩もあゆむ事あたはず。翁の吟跡にひとしからざること、諸生のまよひ、同門の恨み少からず。凡天下に師たるものは、先己が形位を定めざれば、人趣くに所なし。晋が句体の予と等からざる故にして、人をすすましめたり。又、我老吟を甘なふ人々は、雲煙の風に変じて跡なからん事を悦べる狂客なり。ともに風雅の神をしらば、晋が風興をとる事可也。」(『其角の不易流行観』牧藍子より)

 別に反論するわけでもなく、むしろそれを要約して自分の言葉にしてしまう所はさすがに大人だ。
 「ともに風雅の神をしらば、晋が風興をとる事可也。」という最後の言葉には、大事なのは形だけの不易ではなく「風雅の神」で、それを共有するならば我々は仲間だ、というメッセージを込めている。

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