このへんで去来・許六の『俳諧問答』を読んでみようかと思う。テキストは『俳諧問答』(横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫)で、一応旧字は新字に改めておく。
『俳諧問答』はまず、去来が其角に当てた「贈晋氏其角書」に始まる。
「故翁奥羽の行脚より都へ越えたまひける、当門のはい諧すでに一変す。
我ともがら笈を幻住庵にになひ、杖を落柿舎に受て、略そのおもむきを得たり。瓢・さるみの是也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.31)
今は亡き芭蕉翁は『奥の細道』の旅を終え、一度故郷の伊賀へ戻った後、芭蕉は京都に行く。
『去来抄』「修行教」には、「魯町曰いはく、先師も基より不出風侍るにや。去来曰、奥羽行脚の前はまま有り。此行脚の内に工夫し給ふと見へたり。行脚の内にも、あなむざんやな甲の下のきりぎりすと云ふ句あり。後にあなの二字を捨すてられたり。是のみにあらず、異体の句どもはぶき捨給ふ多し。此年の冬はじめて、不易流行の教を説給ときたまへり。」とあり、十二月に芭蕉が京都の去来の落柿舎を尋ねた時、不易流行を説いたと思われる。
この場合の「基(もとゐ)」は五七五の連歌以来受け継がれてきた形式で、和歌の五七五七七からきた古典の伝統を引くものをいう。天和の頃の大きく字余りする句は基を離れたものとなる。
『奥の細道』の旅の途中、小松で詠んだ句も最初は、
あなむざんやな甲の下のきりぎりす 芭蕉
だった。「あなむざんやな」は謡曲『実盛』から取っている。「あな」を取っても意味は変わらないが、謡曲の言葉を使ったというインパクトは薄れる。謡曲の言葉の引用は流行で、五七五に無難に改められた体が「基」ということになる。
ただ、これはあくまで使う言葉の変化にすぎない。
『奥の細道』までの蕉風確立期の俳諧は、当時の現代のあるあるネタと古典ネタが混ざり合って、出典のある本説付けなどが続くと展開が重くなる傾向があった。
蕉風確立期から『ひさご』『猿蓑』の風への変化は、本説付けを出典にべったりにせずに、何となく連想させるだけのような俤(おもかげ)付けへと変り、物付けも、それと言わずに匂わせる「匂い付け」を広めることで、展開を楽にしよういうものだった。
「その後またひとつの新風を起さる。炭俵・続猿蓑なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.31)
これは猿蓑調の延長で、古典趣味を少なくしてより生活に密着したあるあるネタの比率を増やしていったもので、今日では「軽み」の風と呼ばれている。
江戸の『炭俵』に較べると上方の『続猿蓑』は、やや不徹底な猿蓑調を引きずった古典趣味が見られる。
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