2018年8月12日日曜日

 昨日は南相馬へ追悼福興花火2018南相馬 with LIGHT UP NIPPONを見に行った。去年は「復興」と書いたが正しくは「福興」だった。
 去年ステージで見た人が、ライブ前から裏方で働いているのを見つけると、それは知らない人が仕事をしているのではなく、この人知っていると思えてくる。
 人は抽象的な「人類」のために生きているのではないし、まして田辺元の言うような抽象的な「種」のために生きているのでもない。家族や友人や仲間のために生きているのだと思う。そして、それが少しづつ広がってゆくことで、いろんな人の立場を感じ取れるようになる。
 その意味で、行かなければ南相馬はいつまでも見知らぬ土地だが、行けば知ってる土地で、知ってる人に逢える場所になる。だから、何ができるかなんてことではなく、まず行ってみるだけでも意味がないわけではないと思う。
 最初の口実は何とでもつけられる。桜がきれいだからだとか、花火を打ち上げるだとか、アジカンのゴッチがステージに立つだとか、ユミリさんの本屋があるだとか。結局人間が行動の動機とするには、何かそういう具体的なものが必要なのだと思う。

 人に限らず、どんな生き物も生存競争の中で生きている。
 男であれ女であれLGBTであれQであれPZNであれ、あるいはどこの民族でも、どんな宗教を信じていても、どんな思想を持っていても、どんな障害や病気がある人であっても、みんな酢を舐めれば酸っぱい顔をするように、泣いたり笑ったり怒ったり、人を愛したり人を憎んだり、美しいものを美しいと感じ、醜いものを醜いと感じる。しかしそれらがみんな一緒なのと同じように、みんな等しく生存競争のプレーヤーでもある。
 なぜ生存競争が起こるかって、それは生きとし行ける者は必ず死ぬ運命にあって、命を繋いでいくには必ず遺伝子の複製を残さなくてはいけないから。それも、どれかが生き残るようにたくさんばら撒かなくてはならない。そこに多様性が生じ、そして選択が生じる。多様性と選択は兄弟であり切っても切れないものだった。
 子の数は親の数より多くなくてはならない。もし同数なら子の方に何らかの事故があるたびに次第に数を減らし、最終的には絶滅する。だから親の数より子供の数が多くなくてはならなかった。少なくともそうでないものはとっくに滅んでいた。
 しかし子の数が親の数より多いと、今度は何事もなければ個体数はどんどん増加してゆく。だが地球は一つ、大地は有限だ。有限な大地に無限な生命は不可能だ。だから、何らかの形で減らさなくてはならない。そこにまた、多様性と選択の原理が働く。
 多くの動物は力の強いものが生き残り、弱いものは淘汰されてきた。だが、人間は集団でかかればどんな強いものでもやっつけられることを知った。力を無意味で、多数派工作に成功したものが勝利する。そこから人間の生存競争は、多数派工作の戦いになった。
 人間の歴史は多数派形成と排除の歴史だった。人間は生まれた時から恐ろしいほどの多様性を持って生まれてくるが、それを多数派に取り込むか、そこから排除するかで、生存競争の勝負が繰り返されてきた。
 それからすると、LGBTの問題も結局は、それを自分を含む多数派に取り込みたい人と排除したい人との戦いだともいえる。ただ、生存競争が終ってない以上、LGBTを取り込むとすると、その代わりに別の人たちが排除されなくてはならなくなる。たとえばネトウヨとかw。
 こうした排除を廻る生存競争は平等ではない。安全圏にいる人はいいが、ボーダーラインに立たされる人もいる。いじめ、差別、迫害、ジェノサイド、それは常にボーダーラインで起こる。つまり自分が排除されないために他人を排除する。
 おそらくネトウヨの多くは、マジョリティーであってもその底辺で何らかの形でいじめられてきたのではないかと思う。だから、自分が排除されないために、誰かを排除しなくてはならない。
 程なく人類は地球規模で広がる少子化によって、人口増加の圧力から開放される日が来るだろう。それは今世紀半ばにも訪れるかもしれない。いわば地球の人口が減少に転じる日が。そうなれば、自然に排除への圧力やそれを廻る戦いは和らぐと思われる。戦後のマイノリティーに対する意識の変化も先進国の少子化と関係しているとみることはできる。
 地球の人口が減少に転じるなら、どの民族も他国の領土を侵略する余裕はなくなり、今ある国に閉じこもろうとする傾向が強まるであろう。今の日本のネトウヨも、日本が再び朝鮮半島を侵略する意思があるかと聞かれれば、とんでもない、もうあんな所に関わりたくはないと言うだろう。タイムマシンがあれば西郷隆盛に非韓三原則を教えたいのではないかと思うw。人口論からすれば正当な答えだ。
 じっさいこれからガチな排除を廻る争いは少なくなるだろう。
 生存競争から開放された時、人はどうなるのか。それは人に飼われて生存競争から開放された動物に近いものになるだろう。ガチな生存競争から開放された時、残るのは遊びとしての擬制としての生存競争だ。猫の児がくんずほぐれつ、ひがなじゃれあっているように、擬制としての生存競争をあくまで遊びとして延々と繰り返す状態になるのではないかと思う。
 スポーツやゲームは一種の擬制だが、ただルールを決めてその範囲ではガチで勝負する。それに対し、日常的な生存競争の擬制は「いじり」というやつだ。
 からかったりあざ笑ったり茶化したり馬鹿にしたり、それは人間の日常のコミュニケーションの中では普通に行われている。ただ、それが決定的な破局にならないように注意深くコントロールしながら、いわば殴りあうのではなくくすぐりあうことでコミュニケーションをとってゆく。このような擬制の生存競争はいつの社会にもどこの社会にも存在する。ガチな生存競争が不要になり、世界に平和が訪れた時にも残るに違いない。
 ただ、ガチな生存競争なのか擬制としてのゆるい生存競争なのかは外見上区別が難しい。だから、今の人権思想ではガチな生存競争と一緒くたにして擬制の生存競争も禁止しようとする。これが人権思想の行き過ぎとして一番頭を痛める点だ。擬制の生存競争まで禁止したら、残るのはただ形式ばったよそよそしい人間関係だけだ。
 実際どこかの国では、学校で親友を作ることを禁止しようという動きがあるという。親友を作れば身びいきが生じ、親友でない人が差別されるというわけだ。それは人間の生まれながらの本来の感情に反する。巨大な権力で親友や恋人を作ることを禁止するのは、いわゆるディストピアだ。
 我々は愛する人と見ず知らずの人を平等に扱うことはできない。我が子と他人の子供が溺れていれば、我が子を先に助けるのは当然のことだ。ただ、人は積極的にいろんな所に行き、いろいろな人と交流することで、身内の範囲を広げて行くことができる。
 人権は人情を基とするもので、非情になってはいけない。先ずは人情を学ぶ。そのためには古人の風流も役に立つと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿